電気の正体と温度

 僕は昔火遊びをして痛い目に遭ったことがあるので、火とは何かがずっと分かりませんでした。  

 この年になって少しづつ分かってきたのは、燃焼と言う現象はものの電荷を失わせる働きで、煙と言うのは失われた電荷物質の表れで、いわゆる「電気」と言うのはイオンバランスの崩れの表れで、「電気の伝導」とは「イオンバランスの崩れの逃げ道」があることではないか、と言うことです。  

 電気学的に「暑さ寒さ」を考えると、それは「フレアによるイオンの方向状態の変化」の問題ではないかと思われるのです。それはただの状態変化なので、電気の偏在そのものに特に変わったところはないと思います。

 電気は絶対零度でない限りものに温存されていると思います。

 いわゆる「風」と言うものは絶えざるフレアによるイオンの極性の変化を表現しており、たとえば「太陽風」などもこの現れであると考えることができます。

 なので実は、簡単なやり方で寒いときも暑いときもイオンバランスを適正にする技術を開発できれば、我々は電気はおろか暑さ寒さ対策にも困らなくなるのかも知れません。

 それには帯電しすぎて困っている生物か空気中の帯電分子を取り入れる物質に蓄電させるのが適切かと思われます。

 そのように自然界では常に通電現象が起こっており、その力価は太陽光パネルのように特段人為的なものでなくても採取可能かと思われます。

 我々の「物体認知」と言うのは、電気光学的状態認知と言うことなのではないでしょうか。したがって、「物」と「私」に距離があるわけではない、と言うのが真相ではないでしょうか。

発話の機構と言語運用

 我々は常日頃からこのように日本語を話しているわけであるが、筆者の母国語である日本語の習得経験をヒントにタイトルのようなことを考えてみたい。  

 筆者は母国語である日本語を自分の祖母に身につけていただいた経験の持ち主である。  

 まだ3歳にも満たない筆者は、日本語の習得が大変難しかったことをよく覚えている。  

 言語の習得というのは、たぶんステップワイズ(逐次的)に進んでゆくものではなくて、いわば「言語ゲシュタルト」とでも言うべき言語の構図を「丸呑み」することで身に付くものだと言うことが何となく筆者には分かっている。  

 それは、「何を言っているのか」が分かると言うことはおぼろげながらできても、自らその言語を運用できるようになるのには完全な言語、ひいては言語機構そのものの「丸呑み」が必要だと言うことである。  

 この「ことばの丸呑み」ができて初めてたとえば筆者なら日本語をマスターできるように思われる。  

 動機付けと言う側面から見れば、「分からないのがもどかしい」と言う切迫した心理状態がその後押しをしているように思われる。  

 言語の運用は、少しずつできるようになる類のものではなくて、「ある日突然覚わるもの」であることをご理解いただきたい。

僕の心境

 心と言うのはインチキだ。

 誰が何のためにまるでハゲタカのように僕の心を吹聴し、心を押しつけてくるのか。 その理由を見つけることから始めよう。

 そして日本のすべての「国民」はみな誰も口に出さないだけで統合失調症らしい。 統合失調症の本態は何かと言われると、体の角度関係がおかしい心理状態だと言える。

 僕は知っている。「絆」と言うのは心理的なものではなく物理的なもののことを。

 人間、つまり「絆」と言う観点から見れば、心と言うのは身体のオモチャである。言い換えるなら、「身体が好きなように心する」と言えよう。そして心というのは炎のようなものである。炎を物質だというひとはいない。心も同断である。

 なので我々がいつも人間に見るものは「そのひとの性格」ではなくて「そのひとの体質」なのである。

「ダメノミクス」の穴埋め

 民草の財布を肥やすことに失敗した「アベノミクス」は、今となっては「ダメノミクス」と呼ぶべきだろう。  

 日銀の超低金利財政政策のために、経済の浮揚はもはや不可能のようにさえ見える。  

 これは我が国に限ったことではなく、先進国のほとんどが同じような経済状況にある。  

 本当に打つ手は何もないのだろうか。  

 僕はひとつだけ経済浮揚のための提言をしておきたい。  

 金利を昔のように5パーセントぐらいに上げて、世界中の注目を集めて日本が「世界の財布」になるように仕向けたうえで、集まった預金をさまざまな保険商品の運用資金にし、運用益で金利を賄えば、余剰金が出た場合は税収にすればよいので、財政再建は可能だと僕は思っている。  

 もともと僕は公共性と収益性の高い保険事業は国営でやるべきだと言う持論を持っていて、現在の保険会社の社員はすべて公務員にすべきだと考えてきた。  

 リスクが全くないとは言わない。だがそれはそれほど高いと僕は思わない。  

 そしてもうひとつ、僕が長年考えてきた政府の省庁再編案がある。  

 それは「国土保全省」と言う省庁に現在のいくつかの省庁(たとえば外務省・農林水産省・防衛省・国土交通省・環境省・資源エネルギー庁etc.…)を再編すれば、また、「生活文化省」に現在の文部科学省・経済産業省・厚生労働省・郵政省・法務省etc.…を再編すれば、行政手続きが一元化でき、簡素化できるであろう。  

 これら2つの私案は、無論コスト削減、すなわち財政再建を狙ったものである。  

 政治の形態として僕が望むものは、現状を見ているとあと5000年くらいの間は無理であろうが、コミュニティ重層的代表制が理想である。そこから決められた政治のトップは5~6人の「陪審員」が務め、ひとりが乱心しても他が代わるようにしておかないと政治的に危険である。  

 「アベノミクス」に失敗した総理は、自棄にでもなって「サケノミツクス」でもすれば良い。

「動物関係」

 僕のすでに鬼籍に入った2匹の雑種の雌の三毛猫「ボーちゃん」と「サイちゃん」の相関の在り方についての思い出を記しておきたいと思います。  

 「ボーちゃん」はとても神経質で臆病な猫でした。育てた僕は別として、見知らぬひとを見るとすぐに押し入れの中に逃げ込んで息をひそめているような猫でした。なので、僕のようにそんな性格の人間以外からはそんなに好かれると言うタイプの猫ではありませんでした。  

 「サイちゃん」はそれとは対照的に社交的で好奇心が旺盛で、誰からも愛されるタイプの猫でした。  

 しかし、彼女らの日常を見ていると、よく「ボーちゃん」が「サイちゃん」にちょっかいを出して「サイちゃん」を怒らせ、喧嘩が絶えませんでした。それに対して、「サイちゃん」が「ボーちゃん」にちょっかいをかけることはありませんでした。  

 どうしてかなぁ、と自分の人生経験に照らして考えると、僕の中学3年生のときのひとりの同級生のことを思い出すのです。  

 その同級生は、どういうわけか僕にだけイタズラをして喜んでいるように見えました。僕は彼のイタズラに付き合うだけの精神的な余裕はあったので、「あぁ、また来たか」と彼が僕にイタズラするたびに思う程度ではあったのですが、中学校の卒業文集のクラスのみんなからのよくある寄せ書きにこう書いてありました。「君くらいしか構ってくれるひとがいなくて、どうやったら構ってくれるかがわからなくてあぁ言うことしかできなかった」と。  

 それを読んだ僕は目頭が熱くなりました。  

 たぶん、「ボーちゃん」は彼と同じで孤独で寂しかったのだと思います。だから、猫であれひとであれ、心と言うものを考えて接していないと大きな後悔を残すものだと言うことが僕には学べたような気がしています。と同時に、心理学のように猫に何ができるかを実験によって確かめるより、ただそっとそばで見ている方が人間にとってどれだけ豊かな発見をさせてくれるのかも痛感しています。

↓記事中には触れていなかった雑種犬「クロ」

↓雌の雑種の三毛猫「ボーちゃん」

↓雌の雑種の三毛猫「サイちゃん」

僕の「犯された歴」

 僕は幼児の頃、幼稚園に行くのが嫌で嫌で仕方なく、毎日幼稚園の送迎バスに乗せられるたびに泣いていました。  

 なぜ嫌だったかと言うと、僕は幼稚園の組の中で身長が3番目に高い子どもで、僕より身長の高い残り2人にいじめられていたからでした。  

 具体的にどう言ういじめに遭っていたかと言うと、幼稚園の階段下の決して先生には見えない陰で、その2人に「パンツを下ろせ」と言われてなすがままにされ、僕の性器を指ではじかれたりしていたからです。その時以来の僕の彼等への怨念は何歳になっても消えることはなく、もしいつかその2人にどこかで会ったら、必ず包丁で刺し殺すと思います。人間と言うものは幼ければ幼いほどトラウマの影響に苦しみ続けるものだと言うことがそれで分かります。だから、今般問題になっている小中学校でのいじめなんかでも、いじめられっ子は優しすぎるのでそう言う不条理が後を絶たないのだと思います。  

 僕がもし教師だったら、いじめられている子に「僕がいいと言ったからやれと言われたと言え」と言うことを教えて、自分は殺人教唆に問われても構わないので、いじめっ子たちをすべて包丁でめった刺しにするよういじめられっ子を差し向けると思います。ひとつでいいのでそう言う事例がマスコミで大々的に報じられない限りいじめの抑止力はないまま生き損のいじめられっ子が増えるだけだと思います。自分がその捨て石になるのなら、僕は満足です。僕とかかわりなくそう言う事件があったら、マスコミが大々的に宣伝してひとびとの隅々にまで噂が広がることを大前提に、最初にそれをやってのけたいじめられっ子を裁判所は情状酌量で無罪にしてあげてほしいと心から願っています。人間の情念と言うものはそう言うものです。それが嫌ならいじめに対するいじめられっ子の報復は正当防衛として認め、あらゆる社会的場面で周知徹底されて然るべきです。  

 もうひとつそれと同じような嫌な思いをしたことが中学1年生の時にありました。用事で名古屋の中心部に行った帰りの出来事でした。市バスの僕の隣に座ったオジサンが、何食わぬ顔をしながら僕のズボンのチャックに手を伸ばし、チャックを開けられて性器をいじられました。僕は思わず恐怖からすぐに席を立ち、降りる予定もなかった次のバス停でバスを降りました。最近LGBTのひとばかりを擁護する風潮が強いですが、望みもしない同性関係を迫られた僕には、性的な正常者の声はどうなるんだ、と心の底では恐怖におびえています。  

 それから半年もしないうちに次の事件に僕は出くわします。名古屋から春日井に帰る途中の営業を終え消灯した喫茶店「メデリン」の駐車場の前で、自分より年上の非行少年グループに取り囲まれ、「有り金を全部出さないと殺すぞ」と脅され、持っていた現金すべてを盗まれました。僕はまだ子どもだったので、それが立派な強盗だとは当時気付けませんでした。営業を終了した暗い「メデリン」の駐車場の前を歩くひとにはくれぐれもお気をつけて、と言っておきます。  

 そしてその頃、僕は「灰色の中学2年生」を送っていました。同級生に1年間ずっと奴隷にされて、いつも自宅の布団の中で毎日「自分なんか生まれてこなけりゃ良かったんだ!」と人知れず泣いていました。その1年間中。  

 で、大人になったらYahoo!オークションでオレオレ詐欺に遭い、5万円盗まれました。  

 「因果応報」と言う言葉があります。それが真実なら以上に書いた出来事など決して起こらないはずです。神様は信じてはいますが、そう言う不条理では悪魔が勝ることを僕は痛いほど思い知らされています。もし、先の見える超能力者がいたら、凡人の運命を教えて夢を奪うような気違いじみた真似をやめて、どんな手を使ってもきちんとそう言う連中を因果応報の運命に叩き落してほしいと心の底から願っています。  

 ついでに書くと、僕は猫のように水が怖い子どもでした。ですので高校2年生の夏まで人生で一度もプールに入ったことがありません。小学校の頃から何かと水泳の時間になると言い訳をつけて水泳の授業に出ないでいることができました。そこには恐らく、先生たちの僕に対する分かったうえでの配慮があったのだと思います。そうでなければ義務教育9年間一度もプールに入らずにはいられなかったと思います。  

 人間の醜い面と優しい面のどちらも見ながら僕はなんとかいままで育つことができました。  

 だから僕は人間は頭なんかじゃなくて心の動物だと強く感じているわけです。そしてそんな僕は心のどこかで今は平和な世と言われてはいますが未だに戦乱の世を生きている気持ちが抜け切れずにいます。

精神疾患に通底する本質的な問題性

 ひとくちに「精神疾患」と言っても、うつ病、統合失調症、PTSD、パーソナリティ障害、自閉症…と枚挙にいとまがない。

 これらを俯瞰しうる精神疾患の本質についての筆者の見解は、「精神疾患とは、“追い詰められシンドローム”である」というものである。

 そのような認識ができるのだとするならば、精神疾患に通底する大脳生理学的所見もいつか見つけられるのかも知れない。

 つまり、「精神が追い詰められる」と言うゲートウェイのところで何らかの根本的な予防措置が取り得るのではないか、と思うのである。

うんこ大王

 認定心理士(心理調査)資格取得のため、1年半前に僕は中京大学の心理学部で「心理調査法」と言う講義を受けました。  

 その第1時間目に事は起こりました。  

 うかつにも、授業前にファストフード店を2店ハシゴして、僕は下痢の状態でお昼の「心理調査法」の授業に臨もうとしたのですが、授業前にうんこをしたくてしたくて我慢できなくなりました。  

 いま振り返れば、1階下のトイレに駆け込めばそれで済んだ話なのですが、アホな僕は授業前の5階のトイレで用を足そうとしたところ、みんな大のトイレに籠もりっきりでどこにも空きの大便器がありませんでした。  

 どんどん時間だけが過ぎてゆき、必死で大便を我慢してもんどり打っていた僕はとうとう我慢の限界に達してしまいました。  

 トイレの大便所を前にして、僕はパンツとジーンズを履いたままブチュブチュと下痢便をパンツとジーンズの中にしてしまいました。  

 それはそれは我ながら臭かったです。たぶん周りのみんなは「おかしい」と気付いていたと思いますが、取り敢えず「出席」と言う事実を残したかったので、そのまま講義を受け始めました。  

 講義が始まって5分くらいしたら、「もうトイレに入っている奴はいないだろう」と思い、大の便所に行って自分のブチュブチュの下痢便をトイレットペーパーで拭き取ってみても、もうパンツは完全にうんこまみれで、ジーンズもかなりうんこまみれだったのですが、フリチンで講義に出るわけにはいかないので、パンツは便所に捨て、臭いジーンズだけ履いて講義を気が気でなく聴きました。  

 当然かなり僕はうんこ臭かったので、みんなそれに気付いていたと思います。それが証拠に帰りの地下鉄の車内であからさまに不快そうな顔をして僕を見ている中学生たちがいました。  

 みんながひとりでも少なく不快な思いをしないで欲しいの一念でとにかく帰宅し、次の週からは決して授業前に飲食しなくなりました。  

 そんな風に、この人生で何度も僕はうんこトラブルに見舞われましたが、いまもなんとかどっこい生きています。僕は言ってみれば「うんこ大王」です。  

 なのでみなさんは、うんこをちびったくらいのことでくよくよしないで欲しい、と思います。