僕の「犯された歴」

 僕は幼児の頃、幼稚園に行くのが嫌で嫌で仕方なく、毎日幼稚園の送迎バスに乗せられるたびに泣いていました。  

 なぜ嫌だったかと言うと、僕は幼稚園の組の中で身長が3番目に高い子どもで、僕より身長の高い残り2人にいじめられていたからでした。  

 具体的にどう言ういじめに遭っていたかと言うと、幼稚園の階段下の決して先生には見えない陰で、その2人に「パンツを下ろせ」と言われてなすがままにされ、僕の性器を指ではじかれたりしていたからです。その時以来の僕の彼等への怨念は何歳になっても消えることはなく、もしいつかその2人にどこかで会ったら、必ず包丁で刺し殺すと思います。人間と言うものは幼ければ幼いほどトラウマの影響に苦しみ続けるものだと言うことがそれで分かります。だから、今般問題になっている小中学校でのいじめなんかでも、いじめられっ子は優しすぎるのでそう言う不条理が後を絶たないのだと思います。  

 僕がもし教師だったら、いじめられている子に「僕がいいと言ったからやれと言われたと言え」と言うことを教えて、自分は殺人教唆に問われても構わないので、いじめっ子たちをすべて包丁でめった刺しにするよういじめられっ子を差し向けると思います。ひとつでいいのでそう言う事例がマスコミで大々的に報じられない限りいじめの抑止力はないまま生き損のいじめられっ子が増えるだけだと思います。自分がその捨て石になるのなら、僕は満足です。僕とかかわりなくそう言う事件があったら、マスコミが大々的に宣伝してひとびとの隅々にまで噂が広がることを大前提に、最初にそれをやってのけたいじめられっ子を裁判所は情状酌量で無罪にしてあげてほしいと心から願っています。人間の情念と言うものはそう言うものです。それが嫌ならいじめに対するいじめられっ子の報復は正当防衛として認め、あらゆる社会的場面で周知徹底されて然るべきです。  

 もうひとつそれと同じような嫌な思いをしたことが中学1年生の時にありました。用事で名古屋の中心部に行った帰りの出来事でした。市バスの僕の隣に座ったオジサンが、何食わぬ顔をしながら僕のズボンのチャックに手を伸ばし、チャックを開けられて性器をいじられました。僕は思わず恐怖からすぐに席を立ち、降りる予定もなかった次のバス停でバスを降りました。最近LGBTのひとばかりを擁護する風潮が強いですが、望みもしない同性関係を迫られた僕には、性的な正常者の声はどうなるんだ、と心の底では恐怖におびえています。  

 それから半年もしないうちに次の事件に僕は出くわします。名古屋から春日井に帰る途中の営業を終え消灯した喫茶店「メデリン」の駐車場の前で、自分より年上の非行少年グループに取り囲まれ、「有り金を全部出さないと殺すぞ」と脅され、持っていた現金すべてを盗まれました。僕はまだ子どもだったので、それが立派な強盗だとは当時気付けませんでした。営業を終了した暗い「メデリン」の駐車場の前を歩くひとにはくれぐれもお気をつけて、と言っておきます。  

 そしてその頃、僕は「灰色の中学2年生」を送っていました。同級生に1年間ずっと奴隷にされて、いつも自宅の布団の中で毎日「自分なんか生まれてこなけりゃ良かったんだ!」と人知れず泣いていました。その1年間中。  

 で、大人になったらYahoo!オークションでオレオレ詐欺に遭い、5万円盗まれました。  

 「因果応報」と言う言葉があります。それが真実なら以上に書いた出来事など決して起こらないはずです。神様は信じてはいますが、そう言う不条理では悪魔が勝ることを僕は痛いほど思い知らされています。もし、先の見える超能力者がいたら、凡人の運命を教えて夢を奪うような気違いじみた真似をやめて、どんな手を使ってもきちんとそう言う連中を因果応報の運命に叩き落してほしいと心の底から願っています。  

 ついでに書くと、僕は猫のように水が怖い子どもでした。ですので高校2年生の夏まで人生で一度もプールに入ったことがありません。小学校の頃から何かと水泳の時間になると言い訳をつけて水泳の授業に出ないでいることができました。そこには恐らく、先生たちの僕に対する分かったうえでの配慮があったのだと思います。そうでなければ義務教育9年間一度もプールに入らずにはいられなかったと思います。  

 人間の醜い面と優しい面のどちらも見ながら僕はなんとかいままで育つことができました。  

 だから僕は人間は頭なんかじゃなくて心の動物だと強く感じているわけです。そしてそんな僕は心のどこかで今は平和な世と言われてはいますが未だに戦乱の世を生きている気持ちが抜け切れずにいます。

精神疾患に通底する本質的な問題性

 ひとくちに「精神疾患」と言っても、うつ病、統合失調症、PTSD、パーソナリティ障害、自閉症…と枚挙にいとまがない。

 これらを俯瞰しうる精神疾患の本質についての筆者の見解は、「精神疾患とは、“追い詰められシンドローム”である」というものである。

 そのような認識ができるのだとするならば、精神疾患に通底する大脳生理学的所見もいつか見つけられるのかも知れない。

 つまり、「精神が追い詰められる」と言うゲートウェイのところで何らかの根本的な予防措置が取り得るのではないか、と思うのである。

うんこ大王

 認定心理士(心理調査)資格取得のため、1年半前に僕は中京大学の心理学部で「心理調査法」と言う講義を受けました。  

 その第1時間目に事は起こりました。  

 うかつにも、授業前にファストフード店を2店ハシゴして、僕は下痢の状態でお昼の「心理調査法」の授業に臨もうとしたのですが、授業前にうんこをしたくてしたくて我慢できなくなりました。  

 いま振り返れば、1階下のトイレに駆け込めばそれで済んだ話なのですが、アホな僕は授業前の5階のトイレで用を足そうとしたところ、みんな大のトイレに籠もりっきりでどこにも空きの大便器がありませんでした。  

 どんどん時間だけが過ぎてゆき、必死で大便を我慢してもんどり打っていた僕はとうとう我慢の限界に達してしまいました。  

 トイレの大便所を前にして、僕はパンツとジーンズを履いたままブチュブチュと下痢便をパンツとジーンズの中にしてしまいました。  

 それはそれは我ながら臭かったです。たぶん周りのみんなは「おかしい」と気付いていたと思いますが、取り敢えず「出席」と言う事実を残したかったので、そのまま講義を受け始めました。  

 講義が始まって5分くらいしたら、「もうトイレに入っている奴はいないだろう」と思い、大の便所に行って自分のブチュブチュの下痢便をトイレットペーパーで拭き取ってみても、もうパンツは完全にうんこまみれで、ジーンズもかなりうんこまみれだったのですが、フリチンで講義に出るわけにはいかないので、パンツは便所に捨て、臭いジーンズだけ履いて講義を気が気でなく聴きました。  

 当然かなり僕はうんこ臭かったので、みんなそれに気付いていたと思います。それが証拠に帰りの地下鉄の車内であからさまに不快そうな顔をして僕を見ている中学生たちがいました。  

 みんながひとりでも少なく不快な思いをしないで欲しいの一念でとにかく帰宅し、次の週からは決して授業前に飲食しなくなりました。  

 そんな風に、この人生で何度も僕はうんこトラブルに見舞われましたが、いまもなんとかどっこい生きています。僕は言ってみれば「うんこ大王」です。  

 なのでみなさんは、うんこをちびったくらいのことでくよくよしないで欲しい、と思います。

子どものウ○コの心理学

 我が国の小学校などでは子どもが学校のトイレでウ○コをすると、からかわれたり馬鹿にされたりしますよね。それがなぜかについての僕なりの見解を示しておきたいと思います。  

 柳田国男は、人間の生活には「ハレとケ」があると指摘しました。  

 子どもと言うのは大人以上に「ハレとケ」に敏感なので、「ハレ」の場である学校で「ケ」であるウ○コをすることは恥ずべき行為だと認識されるために、学校でウ○コをした子どもがからかわれたり馬鹿にされたりするのだと考えます。  

 これは大人からの影響ではなく、子どもに自生的な規範だと考えます。子どもと言うのは、我々大人の子ども観に反して、かなり幼くても公私の別が強いと考えるべきでしょう。

 なので保育所や小規模校でマンツーマンのような学校ではこのような現象は見られないと予測されます。

 また、子ども同士だと、こう言うことばを喜んで使うのは、それが子ども同士の親しみを表す符牒のようなものであるとともに、大人に構われる格好の話題だからだと考えます。

 最近ではこの問題に対処すべく、トイレから小便器を撤去するなどの対策が講じられています。その成否は、トイレの防音・防臭施工にかかっていると言えましょう。

「枯れ木にうんこを咲かせましょう」新ジャケット版できました!!

 僕の企画曲「枯れ木にうんこを咲かせましょう」に遂に新ジャケット版が登場しました。  

 いままでのジャケットだと「うんこ」と言うNGワードがあまりにもリスナーの鼻につき過ぎるだろう、と言う配慮から僕のジャケットイメージを漫画家の大東優也先生に描いていただきました。   

 ご購入は「ミララのお腹」まで。

 もしくは、iTunesなど国内主要音楽配信サービスまで。 

YouTubeでのご視聴は、こちら

心理学に「認識心理学」がないわけ

 現在、心理学では「認知心理学」が盛んで、「認知行動療法」などが心理治療に使われている。   

 いったい、心理学からもともとの母胎の哲学における「認識」概念が消えてしまったのはどのような理由によるのであろうか。  

 それにはまず、「認識とは何ぞや」と言う哲学的な問題に一応の答えを出しておく必要がある。  

 筆者の考えでは、「認識」とは「知を思いにフィットさせる自己説得過程」のことを言うのだと言うことを表明しておきたい。  

 「認知」は「それが何かを知ること」と言う意味で一意な理解がたやすいが、「認識」をそう考えると認知以上に広くて深い活動だと考えざるを得ない。 そこにはこう言う事情がある。「感情」も含む「認識」と言う概念から、理解のしやすさを担保するために「感情」を排除したら「認知」と言う概念に行き着いた。 

 そうすると、どこから研究を始めれば良いのかも、それを研究して何がプラスなのかと言うことも良く分からなくなってくる。  

 加えて最近の人工知能(AI)に見るようなコンピューターサイエンスを心理学がリードしてゆきたい、と言う心理学者たちの気負いもあるのではないだろうか。  

 結局、筆者が大事にしたい「認識」と言うものも、心理学では置き去りにされたままである。

人情で100%お金が動く社会だったら

 人情はひとの痛みや苦しみ、不条理にとても敏感である。    

 もし人情で100%お金が動く社会だったら、この国には餓死者などひとりも出なくて済む話だろう。  

 僕のように不器用なので生きていたくなくなる人間もひとりもいなくなるだろう。  

 そもそも神様が人間にお金を発見させたのには、そう言う目論見があったからなのでした。  

 なので、現代日本社会を見て神様はこう言うであろう、「達者なことは達者なことそれ自体で報われているではないか。達者でないと金儲けができないところに現代日本の悲劇がある」と。

 制度が「お金に名前を書く社会」だったらばなお可。違法な経済活動は根絶できる。

 あるいは、「減らないお金」が発明されればそれは家計にとっても財政にとっても革命なのであろう。

「行動経済学」とは無縁の「心理経済学」の提唱

 サイモン、カーネマン、トヴェルスキーらによって形成された「行動経済学」では「選択行動の心理学」と言うべき、「損得決断の函数法則の追求」が行われてきた。  

 ひとはそれぞれの場面で個別具体的な認識状況は大きく異なる。そのうえ、多数の選択を知った人間が自分の状況だけを考えて経済的選択をするとも限らないし、有名人や政府要人や権威者の選択の影響はそうでない人間の選択の影響よりも大きいであろう。また背負っている個々人の境遇や貯蓄状況はすべて異なり、よしんば純粋に「リスクテイキングの函数法則」ですべてを説明できるとしても、すべてのひとのそれを考慮しなくてはならず、考えただけでも気が狂いそうである。  

 これでマクロ経済が説明できるであろうか。  

 なぜヒット商品が売れ、スマホゲームや「メルカリ」が流行り、アマゾンが儲かるのかさえ我々には事後分析的にしか分からない現状で、このようなミクロな選択現象の理論が経済全体を説明できるというのは強弁であろう。  

 のちのち詳しく書くが、これらの現象を説明できるキー・ワードとして我々は「民草の境遇ごとのライフ・エージェント・テイキング」と言うことと「民草の財務状況」および「財やサービスの心理生活節約性」、そして「民草の社会的布置の概要」、「国の自然維持的恩恵享受機構の運営」、「貨幣経済のカバーする財やサービスのフィールド」、最後に「商品情報の民草における知悉状況」の7つを挙げておきたい。  

 いつぞやどこかで筆者は「財が財たるゆえんはいわゆる希少性によるのではなく恩恵の社会的限定感にある」と言った。それが何故かと言えば、この世に2つとして全く形状の異なる石は存在せず、かといってこの世の個々の石がすべて高値で売れるわけはないからである。なぜ「限定性」ではなく「限定感」かと言えば、A国とB国では同じものでも値が付くか否かは異なるからである。これにきわめて心理的な要素としての「遠慮」がはたらくとき、「貨幣」は成立する。したがって、ある国の民草がすべて親族や「ムラ志向」だったとしたら「貨幣」は要らない。だから「貨幣」や「礼儀・礼節」と言うのは「都市化と恐れの産物」なのである。だから西洋ではいざ知らず、民草は神社に「お賽銭」を投げ入れるのである。それが無意味だとは言わないが、ただ経済活動を見ていて皮相に現象を概念化しても、たとえば「神の見えざる手」だの何だの訳の分からない概念に社会を放棄してしまうに過ぎなくて、全体をその保証元の国であるゆえ「カネ」で考える政治家などの妄言ぐらいしか見えては来ない。  

 ただ、「社会的限定感を伴う恩恵の遠慮の一律の形」が「お金」になるとは言っても、人間的なモラルの問題として、自然の恩恵のようにもともと限定的に存在しないものを限定的にすると言うことは、犯罪だと心得ていなければいずれ地球は破滅すると言うことは深く心の中に刻んでおくべきことである。例えば筆者の居住地の近くに四日市と言う市があって、「四日市喘息」患者が多数出た悪しき先例がある。もしこの国が「空気を金で買う国」になったら高値の防塵マスク業者と強欲な富豪と自然破壊を省みない悪魔の星に変わり、いずれその者たちもその強欲さのゆえ滅亡するのが自然の道理であろうことなど火を見るよりも明らかであろう。「悪」は観察主観としての政府から見て「困りごとを与えること」しかもたらさないし、逆に言って「困りごとを与えること」しかもたらさないものが「悪」であり、「善」と言うのは生きながらにして「困りごと」をなくしていく行いのことである。「悪」には際限がないが、「善」には「自然」と言う際限がある。たとい「悪」だけが生き残っても、お互い消し合うだけである。無論個別具体的には大いに迷う余地のある問題であり、苦しみを経験することや迷いの深さだけ答えは先細っていくであろう難しい問題であるので、その中で皆さんご自身の判断に委ねたい(しかしこう言うことで皆さんそれぞれなりにぼんやりとはイメージできるであろう:例 「牧草と牛の問題 牛が増えすぎると個体間の距離に牛は嫌悪を抱き殺し合いを始める そのおかげで牛が生きていくのを阻むほど牧草が枯渇することはない だがそこには損もあり悪もある 人間には五感と意識がある 何が善で何が悪なのであろうか?」)けれども、こんなことさえ何も弁えないことなどは人間としての最低のモラルと常識の欠如の問題である。  

 しかし、政府たるものは、歴史という経験値をくまなく背負い、検証した上で立たない限りいかなる意味においても進歩しないと考えねばならない。それはどの国においても言えることであろう。  

 そして財やサービスの最も簡素な水路として「貨幣経済市場」が成立しているわけである。「貨幣」とはそこにおける一種の「共通言語」なのであるが、これにレゾンデートルを与えているのが「社会的信用の母体としての政府・国」である。それゆえ対外的に信用されていない政府・国の為替レートは極めて低くなる。それは現在の北朝鮮で輸入物の自国産のない製品を購入しようとするときには極めて法外な値が付く現状を見れば明らかである。  

 もし政府・国が自国民に信用されていれば、逆に貨幣の価値は上昇する。現在の我が国のデフレ(供給過剰)の根底には、市場の多過ぎと貨幣の一人歩き、所得や貯蓄に見合わない支出への直面からくるいびつなフォーシング・サンクスギビング(孤立を逆手に取るありがた迷惑的)な経済構造による貨幣の信用力上昇(ディフェンスとしての貯蓄志向)が根底にある。  

 なので迷惑なセールストークは後を絶たないし、健康商品や通信関係の押し売り的な電話が後を絶たないわけである。読者の皆さんも、何らかの飽くなき利潤の追求に追われる一方でやれ食費だ学費だ光熱費だ通信費だ交際費だ自宅のローンだ保険料だの医療費だのと頭が痛いのではなかろうか。ところが読者諸氏が勤める企業は必ず企業の利益がその当の企業の読者諸氏への利益の配当より高くないと潰れる運命にある。  

 そのまま考えれば当然支払いが収入を越える道理であろう。これをマルクスは「搾取」の一言で片付けようとし、筆者の見るところ彼は「共産主義社会」と言う巨大な「ムラ社会」を作ることにその答えを求めたようであり、また「ひとり屋台」と言う言葉があるように見方によっては消費者もある種の「資本家ないし資産家」と見ることができる場合もあるように非常に社会を大数的・観念的に捉えるものであったように思うが、ことはそんなに簡単ではなくて展望もあると筆者は思う(無論究極的には筆者は共産主義者でも資本主義者でもないただの一原始人であるが、当座の知恵は出さないと無責任の謗りを免れないので考えているだけである)。  

 ではどうしたら収入が支払いを越えられるのであろうか。  

 7つその道しるべを例示したい。  

 まず、企業の活動実績の還元価値を上げることを考えるべきである。たとえば1度しか与らないサービスを2度利用したら、3度目からは無料にする、あるいはたとえば大手信用保証会社によって見積もりが以前よりも上がるようにちょっとした細工を加える(たとえば建物の保温保冷性や専門家やファンの付きそうな外観の良さ・独特性、アミューズメント性を高める)ことにより企業活動の結果で同じものの価値が上昇するようにする、使用されるほど価値の上がる(たとえば、使い込まないと良いしなやかさの出てこない筆のような)商品を開発する、企業間の労働を融通し合い企業双方における保有資産に変動のない「オフセット取引」を盛んにする、と言ったような努力により、任意の資産を未来に見込める見積もりが高まるけれどもその増分ほどの費用を企業は求めないことが重要である。無論そう言う企業は社会から「良識ある企業」として歓迎されるであろう。また、あらゆるシーンで視点のあり方によってどんなことにも使える汎用性の高い商品の開発も考えるべきであろう。「大きな財をなして小さな収入を得る」と言う活動の社会全体での掛け合いが活発に行われていれば、すべての民草は富みその生活は守られるであろう。なぜならそう言う企業の「リーチ(収益活動対象範囲)」は相互に必然的に広くなるはずだからである。それはそれぞれの企業がその存立を防衛しようとするはずだから企業利益が十分出る(つまり、資本が大きくなる)であろうことも意味する。  

 2つ目に、未来への展望を明るくする、つまり未来になるほど価値が上がるもの(たとえば都会化するほどの自然や人口が増加する地域の公共財)を増やし、その活動で見込める価値の増分ほど管理者は利益を取らないことが挙げられる。ただここで注意したいことは、基本的に「お金は現在的」だと言う点である。財政投資がさらなる財政投資を呼ぶとか、確実にヒットしそうな商品を目下開発中の企業の株式をと言ったように、先行情報が後続事態を確実に喚起しそうでもない限り、投資は控えるべきであり、ほとんどの「悪徳商法」はこの手口で実行される。ひとが貯蓄する動機のほとんどは貯蓄そのものではなくて消費を念頭に置くからである。もし消費に相応のキックバックがあるのであれば、貯蓄は一定は守られる。そうした人間心理を考慮した経済への優しい眼差しが必要である。そのためには「経済活動」を「消費のブレーキ分」だけ行えば良いと考えるのは現下の多様消費時代には大切な考えではなかろうか。  

 3つ目に、価値への感受性を下げる、つまり何事も有り難がりすぎないことにより出費を抑制することである。そして、それがクールだという心理的土壌を作ることである(ただ、自然への感謝や申し訳なさは忘れたら人間おしまいである)。(どのみち薄利多売になる)生活必需品の社会的限定感を緩めるとともに、もう一方で誰にでも見つけられるがそう多くはないそれ以外のものの社会的限定感を強めれば良い。このような財の社会的錯綜はいくらでもあるので、企業・政府・国はそれらを条理な仕組みへと落とし込んでいくことも大切である。  

 4つ目に、永劫としなくてはならない価値床(田畑・山林・河川・海洋)を必要以上に消耗しないで維持することも非常に大事であるし、これ(=エコ)こそ国の要と言わねばならない。たとえば白神山地にはこれまでマタギ以外の人間は入らなかった歴史によりお金では買えないほどの国の宝になったと考えるべきである。我が国の民草であれば、休耕田にレンゲを生やすと、あるいは畑のミミズを放っておくと土壌は維持されることは誰でも知っていることであろう。他でも述べたが、赤潮や青潮で死んだプランクトンや土壌中で死んだ菌類を叢にして食べられるものならば、悩み深い坊さん1人くらいの食生活も罪なく成り立つであろう。さらに山羊ではないけれども朽ち木を食料に変える知恵でもあれば良いかもしれないし、不衛生な国ならば様々な生き物の脱皮後の皮も食べるなり、寄生虫や害虫を集めて煮るなり焼くなりして食べれば良いかもしれない。  

 5つ目に、「譲り合い(シェアを含む)・もったいない精神(リサイクル)」を大事にする、またその延長上で超有名人や為政者の作品や遺品の半分ほど、また、彼らのあまり多くないサインなどを無償で社会に投下することが考えられる。交通インフラの耐用年数を安価な新技術の導入によって下げ、保守点検の必要を最低限に抑え、かつ安全も担保できるようなものにして行くことなども重要である。  

 6つ目に、誰にでもできる仕事にそこそこのサラリーを出し、法定範囲を下回る範囲で兼職を認める。利潤の追求と支出・貯蓄のバランスが適正に保てるようにする。ひいては利潤とものの価値の将来の増分への貢献を同時に追求する社会に変革していく。最低でも財の送り手と受取手の取引がイーブンでないと、どちらかのロスが出ることは目に見えている。そのことを「格差」と言うのであろう。もしイーブンで何らかの理由で両者に一定の貯蓄があれば、生活の均衡は守られるであろう。財の送り手と受取手の取引において「格差」があるときには、収入や貯蓄の低い方への支出をまけてあげるなどの配慮があったときにもイーブンにすることは可能であろう。  

 7つ目に、政府・国もその輪の中に加わる。たとえば政府は一定の収入のない者の賭博や娯楽場への出入りを禁ずる。また、民草(たとえば家族単位)の財務状況を把握し、必要なアドバイスを個別具体的に与える。差別に対して税金をかける、悪事で得られた資産を没収し税収とするなどである。世の中、「こんなものに価値があるの?」と思って、また逆に「そこまでしているのに収益がないの?」とハッとさせられることも多い。たとえば「(悪行はさておくとしても)自由や社会疫学上の貢献」である。功労者に賞与を与えるのも一手であろう。  

 このように、自然も民草も社会もウィンウィンの国を作らないと、将来にわたる国の存立は難しいと認識しなければならない。  

 先に述べた7つのキー・ワードから、政府・国が政策上視野に入れて留意すべき諸点について指摘したい。  

 「民草の境遇ごとのライフ・エージェント・テーキング」と言うのは、例えばいわゆる「格差」の解消に向けて、単に企業に所属するだけではなく、自分の国を想ってボランティアででも公務員の仕事を補佐するとかコミュニティの庶務を請け負うなどさまざまな貢献をすることなどにより、名誉職的な民草の活動を増やすなどの諸エージェントにひとりひとりの民草がかかわることの意味や意義を社会が再考することなどを含意している。ひとりひとりの利益はたとい小さくても、「手分けして頑張る」ことの人間的意義は大きいはずである。  

 「民草の財務状況」であるがすでに国などから把握されていてアドバイスを受けられるようでなければならないことはもちろんとして、たといホームレスでも餓死しないように食品ロス・商品ロスなどを目の行き届きづらい彼らに振り向けるなどの活動も重要である。個別に考えるときには、生活費・養育費・人間関係維持費・医療費・資産維持費(税金含む)の5カテゴリーくらいに分けて考えると分かりやすいであろう。  

 「民草の社会的布置の概要」と言うのは、どのようなことが可能で信念的にも許容している民草の活動状況に交通あるいは通信アクセス可能な「掘り起こされていない需要と供給」を喚起して経済活動の幅を広げるとか、職種間の連携を深めることでよりスマートな価値の創造をするなどの「民草の社会的布置」の把握により、たとえば「苦労人」は社会で考えられることに常に配慮して言動するのでヘッドハンティングされるなどの「ジャパニーズドリーム」を作り、経済活動をクロスオーバーしてより良い社会の実現を図るために非常に重要な情報のことである。  

 「財やサービスの心理生活節約性」と言うのは、生活が豊かになる商品を開発することを意味する。無論それは「便利で長持ち」な「安い買い物ができた」と実感できる商品の開発を含んでいる。また、いわゆる「志」とか「施し」のように民草自身の収入・貯蓄に見合った支出をできるような「支出額の任意性」を担保できるような経済活動も望まれる。檀家のない神社が現在に至るまで持ちこたえられているのには、そう言う部分の貢献が大きい。  

 「国の自然維持的恩恵享受機構の運営」と言うのは、自然を値の付けられない財産としてそこから「おこぼれ」としての収穫物を未来永劫にわたって一定程度享受し、あるものが不足しているときにはあるもので代替できるように常に人工的自然的を問わず保全に余念のないようにすることを世代を超えて受け継いでいくことである。放っておいても価値が不変なのは自然だけ、と弁えておくべきである。  

 「貨幣経済のカバーする財やサービスのフィールド」と言うのは、何でもカネではなくて自由意志による施しやお返しの余地を民草ひとりひとりが自分で意思決定できる国にしておくべきだと言うことである。そうしないと国がどんどん世知辛くなって行ってしまい、この国で生きたい、この国に生まれて良かったという民草のモチベーションを下げてしまう。「カネは困窮者や豊かな人間性の持ち主に対して施すもの」と考える富豪が存在しても悪くはないだろう。  

 「商品情報の民草における知悉状況」と言うのは、民草同士での商品についての会話を活発化させることで当該商品の浸透と社会的限定性の緩和、つまり低価格化なり売り上げの拡大を図ると言うこともあれば、逆に「言わないこと」や「夢と思うこと」などによって生活必需品以外の商品の社会的限定性を高めることによって高価格化を図ることが社会の各層で定着し、各層は各層で例えば「品格」が生まれたり、大勢の「常識」が生まれることによってお互いを傷つけ合わない社会の営為を守ることなどを含意している。   

 以上のようなことごとを考えると、残念ながら現状では「余所様のなすことないし商品の貴重さ」が大方の人間の「価値なるもの」を構成し、大局的に経済事象を考える場合には、労働者に取ってみても経営者に取ってみても「仕事の口数」と「消費の口数」のバランスの適正さが健全な社会の財政の鍵であることが分かるであろう。この役割は、無論政府が担うべきものである。  

 取り敢えず筆者の貧脳で考えられる経済活動における知恵としての「心理経済学」の概要を以上にまとめてみたが、読者の皆さんの持っている知恵の限りを駆使すると、この1万倍くらいの知恵が出てきて、社会はより良くなると筆者は信じる。ひとを見る豊かな心とよい夢がその原動力だと思うので、それを第一としてカネだけではない良い国に我が国がなることを望んでこの記事の結びとしたいと思う。

デカルトの問題提起の読み直し

 デカルトの「心身二元論」は原始人の僕から見ると、「心」と「身体」と言う非常に曖昧で漠然とした観念間の問題だと思われる。  

 東洋人の僕から見ると、命題の立て方そのものに明確でないものがあるように思われる。  

 デカルトの命題を僕なりに再解釈すると、「事なのか観なのか」と言う立式にした方がこの問題の本質を捉えているように思うためである。  

 「事」は動かしがたく、「観」は変化する。  この「対象の可変性の無有」がいわゆる「心身二元論」を動かしがたく、また解きがたい問題にしているのではないであろうか。  

 「事」は我々の主観がないと仮定しても存在する世界であるのに対して、「観」は我々の主観であり、物的世界に比して灯のようなものであり、ゆらゆらと揺らめく身体随伴的な有限かつ一定の観点の変化がある。  

 話は少し算術的になるが、「事」にも「観」にも共通しているのは、「距離(点)」の存在である。だが「事」には「点間距離」が正確な数値として測れるが、「観」のそれは「ひとりにつき多様に変化する一点だけ」しかなく、一意で正確な数値と言うものは存在しない。ひとは正確に他人の「観」そのものを体験できるわけではなく、推測で擬似的に近づけるに過ぎない。  

 この「点間距離の確実な存立の有無の問題」こそ「心身問題」の本質だと考える。  

 そのためひとびとは「心の物差し」探しに躍起になってきた。しかし未だ普遍的な「心の物差し」は存在せず、ただ各人多様に存在するだけである。あるひとのハートを射止めたかと思えば実はすれ違いだったりする。  

 そんなわけなので、僕なりの「心身問題」の本質は、「距離の一意で確実な実在」たる「事」にいかにしてただの「多様な変化する一点」でしかない「観」が宿るのか、と言う立式になる。  

 もう少し仔細に見ると、「事(身体)」は常に生化学的変化を生存している限り続け、それとともに「観(心の揺らぎ)」が起こっていることは文明社会で暮らす我々にとって間違いのない経験則であるように思われる。  

 たぶん不可能だし、可能であっても人間の自由、モラルと尊厳の問題として福祉医療的以外にこれ以上追求すべきではないが、「事」と「観」は事観随伴的に「(生化学的-心理的な)一時二重の揺らぎ」が起こるような構制になっていて、そのような関係にあると了解すべきではないだろうか。  

 なので、どちらが先とは言えないように思われる。  

 事観には不思議なくらい同一の概念で理解できる事象があまたあり、神様の存在を考えさせられないわけにはいかない。  

 そう考えると、いわゆる「心霊現象」の説明には、必ずしも「脳が場所のエピソードを覚えている」のではなくて「場所がエピソード(観)を覚えている」と考えるべきなのかも知れない。  

 医術にかんしては、前者の考え方で、超常現象にかんしては後者の考えで理解するのが良いかも知れない。  

 賢明な読者の方にはお気づきだと思われるが、前者であるにせよ後者であるにせよ、「観(心)は事(環境)に包み込まれている」と言うことになる。そうすると、心と環境は例えばウグイスが鳴いた、それが「ホーホケキョと聞こえる」、それで我々は季節を感じると言ったように不可分のワンセットで理解すべきもので、結局「心身二元論とは一体何だったのか、人間としての物事の見方における概念間の距離感の喪失の問題ではなかったか」と言う話になる。  

 たとえばそう言う心身観の理解の仕方の例として、「水(心)は動かない限り認識されず、波紋(感覚)が起こったときだけ動く」と言うような理解とか「ものは円筒で心は空洞」と言うような理解が自然なのではないだろうか。  

 このとき、森羅万象すべてを「象」と捉えることでこの問題は乗り切れるように思っている。「主観」と「客観」の問題は1次的な「外部からのアクセス可能性」の問題として提起されているのだと思う。しかし、我々が一次的には「象在」であると考えると、「心」と「身体」と言う2分法はその鳥かごの中のお話のようにも思えるし、もし「心」を何らかの「響き」や「透過性」と捉えると、それがどれだけ「物質」と違うものなのかにも疑義を生じてくるだろう。  

 別の言い方をすると、心と言うものはある種の「波」で、それを水面上から解する(=もの)か水面下から解する(=心)かが「心身問題」の本質なのではないだろうか。

 それをひとことで表現すると「身体が好きなように心する」と言えよう。人間を本質づけているもの、すなわち「絆」と言うものは心理ではなく物理である。我々がいつも人間を認識するとき、我々が人間に見ているものは「そのひとの性格」ではなくて「そのひとの体質」なのである。  

 人間、売れる方売れる方へと考えていくと、どんどん常識外れになっていく、と言うことをこの一事例から神様から学んだ気がする。

ナウでヤングな「学習概念」

 心理学には大きく分けて2つの学習についての考え方がある。  

 ひとつは、ゲシュタルト心理学の「学習とは認識の変容である」と言う考え方であり、もうひとつは現在の心理学界で主流の「学習とは比較的永続的な経験による行動の変容である」と言う考え方である。  

 ところで最近僕は、ものごとを見つけると言うことにおいて、「事象のほころび」と言うものが非常に大事であると痛感している。  

 そのような見地に立つと、「学習」が「事象や心のほころびを結ぶこと」に見えてくるわけである。  

 皆さんはいかがとお思いになるであろうか。