「主観-客観」問題の本質

   
 昔からよくある哲学論議に「主観-客観」問題がある。

 良くこの問題で筆者が目の当たりにしてきたのは、「それは誰の認識か」とか「どこからものを見るか」の問題だと言う問題の立て方である。

 実はこれらの問題の立て方そのものにそもそもの不毛性があることを指摘したら、読者諸氏はどう思われるであろうか。

 少なくとも筆者に映る「主観-客観」問題の本質は、上述のいかなる観点でも触れられてはいない。

 「主観-客観」問題の本質は、繰り返すが、「それは誰の認識か」とか「どこからものを見るのか」などと言ったところには存在しない。

 本当のところは、「主観-客観」問題の「主-客」と言うのは立場の問題などではない。

 この問題の本質は、「いかなる権利-身分」に即して立てられた命題かに近いと言うと、少しは読者諸氏もホッとするのかも知れない。

 しかし、その発想の延長上でこれから筆者の述べる「主観-客観」問題の本質が見えてくるのか、と言えば、そうではない。

 実直に言おう。「主観-客観」の別は人称や立場の問題などではなく、「その理解は事象不可抗力性の認識を伴ってなされているか否か」の問題だと。

 簡単な言い方をすれば、「それは誰かによってかどうにかなる」と言う意識を伴う認識が「主観的」で、「それを誰にもどうしようもないこと(どんなに力があろうと動かせないこと)と意識して云々している」ことが「客観」的だと言われているに過ぎない。

 要するに、「主観-客観」の問題と言うのは、ひとが自分が自由だと認識しているときに「それについての見識の自由度を感じているか否か」の問題なのである。自由度が大きいと感じられるほど「主観」、小さいと感じられるほど「客観」になってゆくわけである。場合によって「主-客」の感覚が違う、と言うのはその程度のことなのである。つまり、「主観-客観」と言うのは煎じ詰めれば相対的な問題に過ぎない。

 だから、筆者が考えた「巡りん」程度の単純な知恵でも多くのひとには僕の「主観」に過ぎないと言われる。僕にとっては「客観」的事実なのだが…。

 そんなわけなので、「主観-客観」論争は未来永久に明確な答えが出る日など来ない。真実はどこにどれだけ転がっているかなど我々には及びもつかないからである。「道はひとつではない」とも言う。言葉の綾に本質を勘違いさせられるのは馬鹿げている。

 この問題が「偶然-必然」の問題と誤解されやすいのにはそんな事情がある。「偶然とは観察者から見て被観察者の因果認識の及ばぬところで」、「必然とは因果認識を強く伴って」程度の意味であるためである。

 多分に反省的な局面でのこととなるが、いわゆる「存在」の問題も「不可抗力性の認識を伴う」、つまり「認知」と言う点では「主-客」の問題と同断であることを付言して、このお話の結びとする。

名古屋の「ご当地ソング」が流行らない訳

 僭越ながら、筆者生まれも育ちも名古屋市西区の下町である。

 その名古屋の「ご当地ソング」が流行らない訳について簡単に所感を述べておこう。

 まず第1に挙げなければならないのは、「名古屋には旅情がない」と言うことである。神戸にせよ横浜にせよ長崎にせよ、「ご当地ソング」が流行った地域には「旅情」と言うものがある。名古屋にはそれがない。

 では、名古屋の「ご当地ソング」は永遠に無理なのであろうか。

 筆者は一点だけ名古屋の「ご当地ソング」が流行りうる可能性を感じている。それは名古屋以外の他のどの地域にもない名古屋独特の雰囲気である「賑々(にぎにぎ)しさ」をうまく表現したならば、名古屋の「ご当地ソング」としてヒットしうるのではないかと言うことである。

 いまは廃れてきているが、名古屋には「菓子蒔き」とか「ええじゃないか」と言うような、同じ地域のひとびとが皆面識があるような錯覚を感じさせるような文化がある。殿様が庶民的だった時代に栄えた歴史もある。そのイメージをジャストミートで強烈に放ったのは「きんさんぎんさん」ではなかったか。

 そのような文化の本質をひと言で表現せよと言われれば、僕はそれは「賑々しさ」だと思うのである。

多義図形の規定因

 以下の絵をご覧頂きたい。

 

 BugelskiとAlampay(1962)は、上の多義図形を「人」刺激図版を先行して提示する群と、「動物」刺激図版を先行して提示する群で図の見え方が7割5分方同じカテゴリーの図として見えることを実験的に検証した。

 さらに興味深いことに、一度そのように見えた図は、その後に逆(つまり、先行刺激が「人」である場合には「動物」を、「動物」である場合には「人」)のカテゴリーに属する図版を提示しても、9割方の被験者は先行刺激が何であったかが決まっていたら、その解釈(見え方)を変えないことも分かった。

 この実験が我々に教えるところは、「ファーストインプレッション(第一印象)」がイメージレベルばかりではなく、概念レベルでも重要な役割を果たすことであった。いまで言う「プライミング効果」研究の先駆けとなる研究だったと言えよう。

 なお、原題中にある「the role of frequency(頻度の役割)」は確認されなかった。

 【原著論文】
 Bugelski,B.R.& Alampay,D.A. The role of frequency in developping perceptual sets
Canadian Journal of Psychology Vol.15, Pp.205-211, 1962

国民が道化師になる時

 ファシズムとは国民全員が道化師になった状態の事である。国民の道化師度は国民のファシズム度だと言うことができる。なぜか?…それは国民の意思が政治にギブアップした証拠だからだ。だから世間でお笑いが流行る時と言うのはあまりいい時だとは言い難いと言わざるを得ないのだ。

永久機関はいかに簡単か

 

 ※この知恵は苦節7年目にしてYahoo!公認になりました(「やじろべえ」や「竹とんぼ」のように日本の民間の知恵として作者不詳のままどんどん広げてください/もちろん著作権フリーです/理由はその方が夢があり僕の性分にも合うからです)

 以下に示す「とあるU字管」をご覧頂きたい。

 絞りにはゴム等を活用すれば良い。

 ご想像の通り、これが湖とその底から引いた導管の関係であれば、相当な小水力発電ができる(賢明な方はお気づきでしょうが、何も導管からの水が湖面に着水するより遙かに低い位置であってもこれはできる)。

 これまでの皆さんの頭は固すぎだだけなことはご理解いただけようかと思う。

 多くのひとたちがこの手のことに悉く失敗してきた原因は、「○○の原理や○○現象だけで永久機関を作ろうとしてきた」からである。「熱力学法則」など何の関係もない。

 ついでに最初(2015年6月30日早朝)に思い付いた「巡りん」も載せておきます。

 これを家庭で実現するには、以下のようにすれば良い。

 気泡が出にくければ、ストローの装置内水面への角度を小さくすれば良い。あるいは、ストロー出口は風呂桶の中心よりフリンジ(辺縁)の方へ近い方が良い。

 ※なお、これを本当の永久機関にしたければ、キャビネットで囲って蒸発を防ぎ、水の腐敗を抑えるために10%ほどエチルアルコールを入れれば良い。いずれでも、水や気泡でプロペラを回せば、外部に所作を仕事として取り出すことができる。

 我が国の民間の知恵である「やじろべえ」や「竹とんぼ」が作者不詳であるように、「巡りん」もまた作者不詳の「どこかで聞いた知恵」として普及することを心から願う次第である。もし、その「どこで」を問い詰められて困ったときには、「作者がそう希望しているから」とお答えいただきたい。

 ※しかし、僕の課題関心は永久機関を考えることではなく、このようなことを考えることにあります。僕は仮面心理士なので、心理学を学びたい方はこれ(PDFファイル)でもお読みください。僕のホームページはこちら

時給2円の「生活」

 筆者はスマホを持っていて、ポイントを毎日貯めてはいるのだが、労多くして功少なしで、ポイントを時給換算で2円しか貯めることができない。

 もし自分がパラサイトシングルでなかったら、餓死するかホームレスになるかしかない。

 同じことをやっていても、高等教育機関にいるといないでは、王様と奴隷ほどの差ができる。いや、もっとだ。

 嫌な世の中になってしまったものだ。