社会論

 
 社会とは、ひとが複数の人間(ないし個体)にわたる概念的天井を感じるような他者たち同士を認識したときに持つ世界性格のことである。

 そのため、夫婦、親子のことを直接に社会であるとは言わない。近縁であるほどそうなのであり、それらが「社会関係」と呼ばれることがあるのは、そこでそれ以外のひとびとと対照しているためである。

 我が国で言う「社会」は、もともと「お社」と言うものがその源流にある概念である。

 「家族」を社会に含めて考えるのはそのためである。

 したがって社会と言うものはデュルケームが言うような「もの」ではなく、心理的実在である。

正義論

 
 正義とは、慈しみの心に反逆することに対して自覚される意識である。

 ゆえに、正義と迎合は厳に峻別されなくてはならない。戦争に正義などないのである。餓死するとも戦は避けるべし。

 人間というものはそれが心であれ仕事であれ仮面を被るほどに心が浅くて冷酷になってゆく。

 そのことは発達によって明確になってくる。

確実に動作するプチ永久機関「巡りん」

 
 僕の一発芸「巡りん」では、以下のように「たらい」のように横面積の広いものが確実に動作する。理由は、水圧を大きくできるからである。

 また、これを本当に永久機関にしたければ、この周りをトウモロコシ製プラスチックで囲い込む必要がある。そうすれば、水の蒸発なく空気の水への溶融も飽和したところで止まるからである。

’25年5月12日~15日弘前旅行記

 10数年ぶりに学生時代を過ごした弘前を訪れた。

 宿泊したのは紀伊國屋書店の上階にある弘前パークホテルであった。

 そして5月13日に恩師である平岡恭一先生に会い、来来軒と言う中華料理店で志那そばと餃子をご馳走になり、その後あの太宰治も通ったと言う東北最古の喫茶店「万茶ン」にてさまざまなお話を交わした。

 翌14日にはやはり恩師である丹藤進先生に会い、寮生活を送った弘前大学北鷹寮や弘大の喫茶「スコーラム」に行き、昼食をご馳走になった。

 たまたま岩木山が良く見えたので、シャッターを切ってみた。

 学寮にいた頃は毎日見慣れていた岩木山ではあったが、10数年ぶりと言うこともあり、懐かしく思った。

 そんなことを味わった後、名古屋に帰ってきた。

 有意義な弘前旅行であった。

素数の法則(true short ver.)

 
 僕の「真実は短い言葉で表現できる」と言う信念が炸裂した。

 25以上の素数の自乗はみな24x+1と表現できる。逆に言えば、自乗値がそうならない素数はない。すべての自然数は2乗値を持つ。真実はそれだけである。逆は真ではない。

 これで我々は、想像より遙かに軽い素数生成、素数判定プログラムを作る最低の知恵を手にしたことになる(予め直観的に素数ではないと分かる2と5の倍数および各桁の数字の総和が3の倍数になる数値(それは3の倍数である)および自乗から1を引いて24で割り切れない数値、および24までの素数でない数字だけに限っては「先天的(ア・プリオリ)」に、および素数の自乗など(これも24x+1が成立する数かどうかでそれに引っ掛かった数の√が小さい奇数から大きな奇数(√「素数自乗」まで)で試し割りしたときにその「自然数」以下にもう割り切れない(つまり、どの奇数でも割り切れなかった)自然数であるものを素数とする…このとき、24x+1も、24x、24x±2、24x±3、24x±4、24x±6、24x±8、24x±9、24x±10、24x±12、24x±14、24x±15、24x±16、24x±18、24x±20、24x±21、24x±22、24x±24…なども素数ではないことに注意/なお、24x+1問題の網に引っ掛かった数は上記の方法で素数判定ができるが、そうでない数を)、および以上の倍数はすべて「素数ではない」としてデータベースに格納する…。素数の自乗が判明した数については、その数は素数としてデータベースに格納する(※この方法だと1京くらいまでの素数は苦もなく分かるだろう)。

 素数だと(自乗−1)÷24=自然数、それが素数などを証明する篩だったのである。5以上のある値を自乗して、1引いて24で割り切れない数は、少なくとも素数ではない。
 
 なお、この知恵が筆者オリジナルであることに誰も気付いてはいない。

駄知恵博物館

 
 もともと僕は心理士なのに、永久機関とか無燃料永久発電機とか素数の法則とかの余所事ばかりに手を出しているのがたぶん悪くて、昨年末からいままで閲覧者0行進を続けている。いよいよ僕もヤバくておかしなお爺さんとみんなから認知されているようだ。

 トホホ。

            おまけ 【解説】オルフィレウスの永久機関