近代国際外交の克服のために

 
 誰でも近代の国際外交関係を支配してきたものは、インタレスト(利害)であることは容易に察しがつくであろう。

 しかし、これは国際外交関係の本質と言うものを省みるとき、はなはだ危うく、また不安定なものだと感じられるのもまた一理ではなかろうか。

 それは、インタレストと言うものが、その国の国状や需要に左右されることによるものであることを痛感せざるを得ないゆえである。要するに、それらが変われば世界地図が変わってしまうと言う歴史をいままでなしてきたのである。

 インタレストによる外交と言うもののこの限界を克服して真の安定した国際外交関係を成立させるためには、やはり利害打算から離れた何かを重視する他にはないのではなかろうか。

 それにつきひとびとは、「真の心のふれあい」だと言いもすれば、「安定した外交こそ真の財産」だとも言うし、「二心ないこと」だとも言い、「思い遣り」だとも言い、「歴史に学ぶこと」だとも言い、「国状情報の共有」だとも言い、「ひとびとの地力」だとも言い、「民草レベルでの交流」だとも言い、「純粋な心による親善の努力の積み重ね」だとも言う。いずれであるにしても、「インタレストを超えた外交努力」であると言う一点でだけは一致している。

 加えて、ここで短く「善」と「悪」について考察をしておく。日常感覚で言う(つまり大袈裟ではない)真の平和に資する思念のことを「善」と言い、それに反する思念のことを「悪」と言うのである。

 近代国際外交の問題点を克服し、不安定な国際外交関係から脱却し、真の国際和平を実現するためには、これから何が理念となるべきかについて、この拙い筆者の文章の読者にはいかなる「答え」が浮かんでくるのであろうか。

 その「答え」は、筆者にではなく、読者の皆さんに委ねられる。

戦争をさせない一番大きな砦

 
 戦争をさせない一番大きな砦は、軍備を増強することでも応戦することでもない。

 答えは簡単である。

 「国際戦争損害賠償法」を定め、侵略国に被侵略国の人命および自然、動産および不動産の原状回復義務を負わせれば良いだけである。

 そうすれば、侵略国の国力は大打撃を受けるので、アホらしくて戦争を仕掛ける気にはなれないはずである。

 無論、現在の安保理では成立しようもないので、地道に批准国を増やして行くのが現実的である。

 我々のような下の民で戦争をしたい人間など一人もいない。

最高裁はLGBTに屈した

 
 はじめに断っておく。僕は倫理的に微妙な「人工培養肉」とか「脳死」とか「尊厳死」などに代表される問題を百も二百も扱い、判断してきた。どんな問題が出てきても気付いても、問題から逃げたことは一度もない。

 反論が予想されるので、多くは語らない。僕は政治的には右でも左でもなく、いわんや中間でもない。自分の祖先である江戸期の名もなき百姓衆に学んだ収入ゼロのただの相互扶助による重層的(全年代型)コミュニティイストに過ぎない。

 いわゆる「LGBT問題」は、突き詰めるほどアルタナティヴ(二者択一)な問題であることをこの国の国民は忘れてしまったかのように感じる。そんなにLGBTが正義なら、まず皇室と最高裁裁判官にすべてのLGBTを結集させてみるべき。皇族については、天皇の継承を「直系の男子」としているが、そう言うなら法の整合性の観点から最高裁はこれも違憲と判断すべき。

 これまで膨大な判例の蓄積のある日本国憲法には、「婚姻は両性の合意のもと」に行われると書いてある。言うまでもなくここで言う「両性」とは「男と女」のことである。憲法の保障する基本的人権の法理は、「思想・信条の自由」を保証するものであり、この点で言えば、LGBT賛成の者も反対の者もいずれも侵害されてはならないはずである。ところがこの国では僕のようにLGBTに否定的な人間は非国民だとか売国奴だとかの謂われのない精神的苦痛を与え続けられているのが実情である。

 このことを敷衍すると、それではなぜ「両性の合意」規定があるのかと言う点で、それは男性性や女性性の権利の濫用を抑制する趣旨だと解すれば、法理として得心が行く。要するに、「ヤリマン」や「ヤリチン」を抑制する趣旨だと解すれば良いのである。つまり、暗黙に婚姻(前提)以外の性的関係を厳しく制限する趣旨だと解すれば、広く社会疫学として有効である。現実問題として、我が国のHIV感染者の大方はGで占められている。Gには次のように語りかけたい…「そうするとHIVの感染リスクが100倍高まりますよ」と。

 なぜ僕がこの問題に大きな懸念をもっているのかと言うと、この問題で国民の多くがその善悪の基準を「再考」させられた結果、他の諸問題においても事の善し悪しが曖昧になって行って、真の善悪を考えなくなり、結果として犯罪を増加させ、治安を悪化させるところまで行き着いてしまうのではないか、と思うためである。要するに、誰の目にも見えないところでそうした「規範の曖昧化効果」が進行して、社会疫学的に結果的に大きなマイナスになる心配があるからである。これはなぜ我が国が移民を受け入れないのかの真の理由とも通じるものがある。もし移民が誰でもこの国に移住できたとしたら、その国の治安感覚を持ち込まれて、どうにかこうにか治安の良さを持ちこたえてきた我が国の治安がどんどん悪くなる、と言う懸念があるのと同断である。そうした事態になれば、警察官の数をいまの5倍くらいまで増やさなければならず、莫大な血税を国民が払うことになる。

 にもかかわらず、「LGBT問題」を誰も具体的な問題とは考えない。それをみなが「自分に縷が及ばない(自分には直接に降りかからない)問題」だと思っている。あるのは薄っぺらな「正義」と抽象だけ。

 そこにあるのは具体的な想像力の欠如とひどい偽善だけ。社会疫学の立場から考えるとあまりにも具体的喪失(たとえば夫婦や家庭の価値の喪失)が大きく予測される。官僚してからが東大卒かなんか知らないが頭がおかしい。「銭湯は身体的特徴で」とか血迷っているが、「使用禁止」にすればそれで良かっただけ。これはおそらくだが、現実の公衆浴場の経営者にしてみれば、客足が遠のくのを恐れてそうするのではなかろうか。身体を洗える場所は何も公衆浴場だけではない。その意味で、この国の国民の誰一人としてそう言う現場の実情など想像できていないのである。

 そうしないとどうなるか。まず政府の通達を無視した「チ○コを持つ女」や「マ○コを持つ男」に公衆浴場や着替えをはじめとするあらゆる場面は占拠され、そうでなくとも最悪同性愛者が目を輝やかせて同性の公衆浴場で同性の性器の「品定め」をし、「パートナー選び」さえされかねない。これらのことに嫌悪感も何も持たないひとが一体どれだけいると言うのか。公衆浴場、着替え、病院の相部屋、トイレ…具体的問題が生じるであろう場面はあまりにも多い。そしてそれが社会的混乱を生まないと言う認識それ自体があまりにも常識外れである。

 他の具体的問題としては、異性に交際を申し込まれるときにでさえ、博打めいて精神衛生によくはないことなのに、それが同性からのものとなれば、一般人のモヤモヤとかストレスは計り知れないものになるだろう。それが生涯にわたるスティグマ(烙印)やトラウマ(心の傷)になったとき、誰がそれに補償をすると言うのか。

 これによく似た問題として、生きているうちには異性の医師や看護師に自分の性器を見られる問題とか、死んだら死んだで望まないのに葬儀屋に自分の性器を見られる問題がある。しかし我々は主張せず忍従して耐えているのが現実である。特に僕はマスコミに嘲られるチンカスの出る性器の持ち主であり、それだけでもかなりの苦痛である。ただでさえ「ルッキズムはいけない」と言いながら出演者を訴求力と言う顔面等差別で選り好んでいるマスコミには、僕のような人間を嘲り笑った罪の意識があるのか(「大河ドラマ」にみるように史実に基づけばあんな不自然にイケメンイケジョばかりではないことは明らか)。さらに僕は収入ゼロ。おかげで齢58にもなるのに嫁ひとりできない(そんなことで男を選り分ける嫁は要らんけど)。テレビ○日とか○川哲朗とか、誰がそのことに慰謝料を払ってくれようか。人間は、自分を辱めた者のことを生涯忘れない。臥薪嘗胆。ひとりLGBTだけそうした艱難辛苦を免れるのだとしたら、それは不条理のみぞを徒に大きくするだけだ。

 従前通りで何がいけないと言うのか。世の中には離婚や養育者の交代で私生児の扱いを受ける子どもも多い。「事実婚」と言う言葉もあるほどで、なぜ一部のLGBTだけがこれまでにない法的根拠を求める権利があると言うのか。自説を社会に強制したいだけに見えるのは自分だけであろうか。具体的現場は理念とか理屈ほどに単純ではない。このようなことを僕が主張するとほとんどいまの社会では袋叩きに遭う。言説で人質を取ることを世間では「ファシズム」と言う。ことLGBT問題にかんする限り、マスコミが熱心に推進した「LGBTファシズム」に陥っているように思えてならない。加えて検索エンジンなどではLGBTについての発生社会背景とかについての本質(僕は背景に孤立恐怖の社会心理的なものがあると見ている。当事者たちは自分の性自認の原因として語るので、それが隠されている)はググれず、ましてネガティヴな情報には一切アクセスできない状況になっており、権力とマスコミの一体化は激しく、この「LGBTファシズム」は「言論の自由」を明らかに侵害しており、元来あって然るべき法の裁きさえ免れている醜状である。本来この「問題」の本丸は、「はにわり(半陰陽)」のひとびとの社会的処遇の問題であったはずである。意図的にそこから目を逸らすように仕組まれていると思わざるを得ない。

 反論したいひとには、まずはこれを読んでからにしていただきたい。

 僕の知人のあるひとは、それは変態なだけだと言っていたが、僕にしてみれば程度問題(自身の存立の危機)に見えている。

 かく言う筆者も同性に性的感情を覚えたことがある。幸い一過性のものだったため、何か間違ったと言うわけではないが、それで僕に分かったことは、悪魔や頑強なLGBTに感情を占拠されて、そう言うおかしな心情になることが分かっている。LGBTで悲しいのは、彼らにはそれに気付く精神的余裕がないままにそれが自分の永続的感情であると勘違いしたまま性自認を主張しているところにこの悲劇の本質がある。そのことの傍証として、この問題が突然ある時期から降って湧いたように主張されはじめて、いきなりLGBTの大軍団ができたことに物語られている。人間の心と言うものは、どこかでかかわりあっているのでそうなったと理解すれば得心がゆく。僕は自分の考えを現実の社会でいくつもなぜか盗まれているのを痛いほど見てきた。

 名古屋の市バスの中で、何食わぬ顔をして僕の隣に座り、勝手に僕のズボンのファスナーを開けて僕のチ○コを弄んでいたおじさんは、果たして知人が言うような「変態」の一言で片付けられるべきものだったのだろうか。僕はそう思わない。推測の域を出ないにせよ、LGBTのどれだけかはこのような連中であり、その他は現代の問題である不登校と同じく、意識的にか無意識的にか何らかの危機を察知して異性の性自認に逃げているだけのように感じられる。そしてこの問題の背後にあるのは、人間の権力性の大小についての個人差なのであろう(事実戦国時代の武将には男色に耽った者が少なくない)。

 僕の認識ではLGBTのなかにはそう言う奴(「衝動」を抑えきれずに変態行為をはたらく奴)も現実にいるし、もし公にLGBTを認めてしまえば多数の具体的便乗犯(たとえば風呂場覗きやトイレ覗きなどの「なりすましLGBT」)も出ることくらいは容易に想像がつく。下手をすればタオルの下や石けんの中、シャンプーのプッシュボタンにマイクロカメラを隠し持っているかも知れない。ただ「心の問題」と現実に割り切れるものなのか。ずるい奴はポリグラフ(虚偽検出)さえかいくぐると言う。それもそのはずだ。悪魔の本質はただ悪いと言うことではなくて、問題から逃げるところにある。

 これから5年後までに僕の指摘する社会的混乱がひとつでもあったなら、国民は全員僕に一人につき罰金5万円は払ってくれるべき。これは正義を誤ったすべての人間に言いたいこと。

 自殺問題があったからと言い、国民全員がマスコミの洗脳に染まってしまった。自殺があったからと言うなら、全然別の問題(たとえば借金苦や貧困)でも国民はそのように日和ってくれるのか。そもそも「LGBTの自殺が多い」と言う主張は統計的にあまり意味がない。と言うのは圧倒的に健常者の自殺と比べてパラメーターが小さいからである。

 猛省を促したい。それでも文句があるのなら、どうせ僕の夢や願いや考えやアイディアは社会的にはひとつも叶わないことは嫌と言うほど分かり切っているので、勝手にしてくれ。何せ僕は江戸期の名もなき百姓衆の末裔なので、お上が誤ったとしても、自分の夢が叶わないからと言っても、痛くも痒くもない。

 おそらく最高裁は世界標準の判決を出そうとする意識が強かったのだろう。しかし、この問題で世界標準になろうとすればするほど、この国は日本ではなくなっていく。

 この問題は、これまで我々の間で培ってきた常識への挑戦なだけではなく、「社会>個人」なのか「社会<個人」なのかと言う永遠に答えの出ないかも知れないプロブレマティック(問題構制)を孕んでいる。

 そして、この問題はそのいい加減さにおいて原発問題と完全に相似であって、勝るとも劣らない。言いたいのは、「テメエの言説には責任を持て」、ただそれだけである。

 ※なお、僕のホームページはこちら

国民が道化師になる時

 ファシズムとは国民全員が道化師になった状態の事である。国民の道化師度は国民のファシズム度だと言うことができる。なぜか?…それは国民の意思が政治にギブアップした証拠だからだ。だから世間でお笑いが流行る時と言うのはあまりいい時だとは言い難いと言わざるを得ないのだ。

「卒業」の日米比較に異議あり

 日本では、「入学してしまえばふつうは4年で卒業できる」と言い、アメリカでは「入学は簡単だが卒業は難しい」と言う。

 これを単に「子を送り出す親の立場」で考えてみると、やはり日本の方が親切なように思える。

 「卒業が難しい」と言うことは、卒業のための年数が増えると言うことなので、それだけ学費をたくさん取られることになる。

 アメリカでは、「大学もビジネス」のようである。

「なぜ自民党一党独裁なのか」についての一考察

 

 表題の問題は、政治を「政策」と言う観点でその勢力の考察をする人間にはかなり見当違いな問題だと言う気がする。

 野党はいつでもいわゆる「社会正義」に重きを置くので、「人間の欲望」については話を持って行きづらいし、理詰め社会に嫌気の差している民草にとっては、政治家の「人情劇場」を観られることは心のオアシスになっているわけである。

 昔からの自民党の体質として絶対に外せないのは、いつの時代も彼らが下々の「欲望の受け皿」、「人情劇場の役者」になってきたことである。

 誰でもどこをどうにかすれば、自民党の代議士に「利害」と言う名の欲望を満たす話を彼らの耳に届けることができる。要するに、欲望を満たしたい下々の人間にとって、彼らは「話せる人間」なのである。また、代議士が人情味あふれていれば、それに同情する日本人の国民性と言うものがある。

 眼前の利害に汲々としている下々の人間にとって、またそのレゾンデートルの重きがそこにある人間にとって、自民党の代議士はもっとも間口を広く「欲望の話を聞いてくれそうな人間」だから、そのネットワークが全国津々浦々に張り巡らされているから、また、「政治なんて誰がやっても同じ」と言う社会の風潮の中での「政治家の人情劇場」を観ることができるから、自民党の一党独裁は長期にわたって安定的に続いている、と考えるべきである。それに加え、官僚にとって自民党は自分たちの行政を一番よく聴いてくれると言うメリットがある。いつしか安倍首相が「悪夢の民主党政権」と息巻いていたが、民主党が円滑な政権運営をできなかった最大の理由は、官僚と仲が悪かったから、ただそれだけに過ぎない。

 なので、裏を返せば、法治国家としての我が国において、どこからでも「メス」を入れれば至る所に「病巣」があるのは当然である。たとえば、我が国は他のいかなる国にも類例を見ない「反社会的勢力天国(国家予算の1割を動かし、マフィアの1000倍の関係者がいると言われている)」であるが、なぜそうなるのかの一翼は、自民党のかかる「欲望主義と人情劇場体質」に担われている。

 我が国における有権者の投票行動で顕著なのは、大方のサラリーマンは仕事で政治を考える余裕もなくなり、必然的に「理詰め」にウンザリして「人情劇場」になびき、また野党は少数派なのでたとい野党に一票を入れたとしても数の力には及ばないので野党に希望を託すことは現実味がないと言う「民主主義」の運命としての負のスパイラル(その意味で、民主主義なのか多数派主義なのか分からない)である。その意味で、「国民」は「根拠のない自信」の中で漂い、流されている。野党がいかに「政策で勝負」と言っても、大方のサラリーマンにはそんなことを考える余裕もないし、「それで私のしかじかの欲望はどうなるのか」は非常に感じづらい。結果、「目先さえ良ければそれでいい」、「政治は人情劇場の方が面白い」、「“自民党政治は現状を反映しているだろう”バイアス(どうしてその前に「自分」が先立たないのかは謎である)」になってしまうのは無理からぬ部分もある。が、国のありようがこのような異常な姿なのにも拘わらず、「日の本」だの「国歌斉唱」だのとピント外れしたおめでたい「国民」を見るにつけ、「見所のない奴ばかり」と長嘆息するの他はない。「骨のある進歩派」を自負する日本共産党でさえ、「大企業」と言う抽象的表現に溺れ、「財閥」と言う言葉を使ったのを一度たりとも見たことがない。それはスイス銀行にうなるような隠し資産を持つ国際3大財閥からにらまれるのが怖いからであろう。彼らの無理矢理一枚板主張を聴いていると、もはやイデオロギーと言うよりは宗教に見える。何事にも様々な角度があるはずで、それゆえひとの意識はさまざまなはずなのに、なぜごくひとつの見解しかいけないと言うのか。

 しかし何と言っても一番の要因は、国民の99.99%が「金銭主義の轍」を踏んでいることの罪障が自己正当化の「根拠」を求めて自民党に票を投じさせていることが一番強い自民党支持の動機になっているように思われる。それは国民ひとりひとりの心理的な「偏った実益主義」とか「だらしなさ(人間的な緩さに起因する不条理への反抗)」とか「いい加減さ」の投影なのかも知れない。いや、もしかしたら、「周囲に波風を立てたくない」と言う理由だけで国民が自分の精神衛生の良さのために多数派である自民党を支持しているのかとさえも思いたくなる。

 自民党政治の本質を一言でと言われれば、それは「既成事実化」の一言に尽きる。折しも「カジノ法案」が成立していて、これはその自民党の「御用聞き(清濁合わせ呑む善悪の見境のない代官所)体質」をとても良く象徴しているように思う。テレビで「水戸黄門」が打ち切りになったのもうなずける。

 要するに、現在の我が国では、「欲望と情」が「理性」を凌駕している。見ていると、この国の国民は「勢い」と「流行」に流されやすい。それが問題の核心に拍車をかけているように見える。「保守」とか「革新」と言うのは、観念に溺れた誰かに都合の良い事態を固定したいと言う政治的思惑のある偶像に過ぎない。

 で目下、「コロナ禍」の影響で、消費は相変わらずなのに収入は大ダメージを受けている。味噌糞一緒くたで迷惑する諸層にはお詫び申し上げたいが、いま経済に求められているのは皮肉にも安倍総理が看板政策にしてきた「デフレ脱却」なのではなくて、「底を打つまでのデフレ誘導」政策であると申し添えたい。

 枝野氏の言う「実を取る」ことに経済政策の重心を置こうと言うのであれば、国民の人気を取る安倍氏の「30兆円規模の追加予算(これも総理の説明を聴くと「事業主」と「納入業者」の関係性を抜きにして「バランスを欠く」と言う理解不能なロジックがどこから出ているのかが分からない)」などと言う方法ではなく、(もし民草がその事実を認識すれば即インフレになるので)関係者以外オフ・リミット(箝口令を敷く)の「日本銀行券30兆円追加発行」をして、最も貧しいひとびとを経由するようにマネーサプライをすれば、自ずと「デフレ誘導」はできるのではと思う。

 社会における「欲望の分布図」が偏った状態でその社会が危機に瀕するとどう言うことになるか、と言うお話であった。同時に、江戸期の百姓社会のように現在の社会が重層的なコミュニティとして確たるものであったなら、有り得ない話なのでもあった。あまり表沙汰にはならないが、実際の自民党の代議士には、「人情」と表裏の「パワハラ病」、「どことつながっているか分からない病」と言う持病もある。今般の「コロナ禍」は、そのような自民党体質に試練を突き付けている、と言えよう。

 社会における「欲望の分布図」が偏った状態でその社会が危機に瀕するとどう言うことになるか、と言うお話であった。同時に、江戸期の百姓社会のように現在の社会が重層的なコミュニティとして確たるものであったなら、有り得ない話なのでもあった。あまり表沙汰にはならないが、実際の自民党の代議士には、「人情」と表裏の「パワハラ病」、「どことつながっているか分からない病」と言う持病もある。今般の「コロナ禍」は、そのような自民党体質に試練を突き付けている、と言えよう。

 ひとつだけ現在の極東情勢について触れておかなければならないことがある。それは現在の極東情勢の骨格を作ったのは寺崎英成と言うひとりの日本人外交官なのであり、少なくともそれにかんしては「押しつけ」と言う認識は誤りだと言うことである。なぜ彼の「外郭防衛線」構想が現在の我が国のありように決定的な影響を与えたのかと言えば、それはひとえに戦後のアメリカの極東軽視の態度に与するところが大きかったことに負っていると言わねばならない。そして、国民の自民党支持は、この「外郭防衛戦」構想に対してだけ集まったと見ることもできる。

 で、最後に一言。このような世を見るにつけ、人生のデフォルトは絶望と失望と落胆とわきまえるべし、と。この世で「作品」と呼ばれるもの、また行為のすべての本質的機能はひとの心にであれ行為にであれ、さまざまな「ブラックボックス」たるさまざまなひとおよびさまざまな個々の人心に向けての「意図的な動線のコントロール」に過ぎない。ひとびとの人格頼みにでもしていなければ、一対多の関係性で結果が無茶苦茶になることは誰にでも分かる。僕の見るところ人間は一種の化け物なので、特に「ことば」は怖い。もう戦と博打と品評会はでぇ嫌えだ!!

 

「ダメノミクス」の穴埋め

 民草の財布を肥やすことに失敗した「アベノミクス」は、今となっては「ダメノミクス」と呼ぶべきだろう。  

 日銀の超低金利財政政策のために、経済の浮揚はもはや不可能のようにさえ見える。  

 これは我が国に限ったことではなく、先進国のほとんどが同じような経済状況にある。  

 本当に打つ手は何もないのだろうか。  

 僕はひとつだけ経済浮揚のための提言をしておきたい。  

 金利を昔のように5パーセントぐらいに上げて、世界中の注目を集めて日本が「世界の財布」になるように仕向けたうえで、集まった預金をさまざまな保険商品の運用資金にし、運用益で金利を賄えば、余剰金が出た場合は税収にすればよいので、財政再建は可能だと僕は思っている。  

 もともと僕は公共性と収益性の高い保険事業は国営でやるべきだと言う持論を持っていて、現在の保険会社の社員はすべて公務員にすべきだと考えてきた。  

 リスクが全くないとは言わない。だがそれはそれほど高いと僕は思わない。  

 そしてもうひとつ、僕が長年考えてきた政府の省庁再編案がある。  

 それは「国土保全省」と言う省庁に現在のいくつかの省庁(たとえば外務省・農林水産省・防衛省・国土交通省・環境省・資源エネルギー庁etc.…)を再編すれば、また、「生活文化省」に現在の文部科学省・経済産業省・厚生労働省・郵政省・法務省etc.…を再編すれば、行政手続きが一元化でき、簡素化できるであろう。  

 これら2つの私案は、無論コスト削減、すなわち財政再建を狙ったものである。  

 政治の形態として僕が望むものは、現状を見ているとあと5000年くらいの間は無理であろうが、コミュニティ重層的代表制が理想である。そこから決められた政治のトップは5~6人の「陪審員」が務め、ひとりが乱心しても他が代わるようにしておかないと政治的に危険である。  

 「アベノミクス」に失敗した総理は、自棄にでもなって「サケノミツクス」でもすれば良い。