同じ「コミュニケーション」でも…

 
 内向型の人間にとっての「コミュニケーション」とは、「その話はどうか」と言う意味での「(心の投企としての)作品」である。
 
 これに対し、外向型の人間にとっての「コミュニケーション」とは、「その話で人間関係はどうなるか」と言う意味での「(心の投企とは関係のない)話題」である。
 
 同じ「コミュニケーション」でも、性格によるその機能の違いを弁えないでそれを行っても、“It rains cats & dogs.(破壊的コミュニケーション)”になる。

ショートショート「一般社会からどうとはされていない閉鎖社会の人間の特質」

 
 社会的位置づけが何れであるにせよ高圧的で異常にプライドが高い。

 それは当人の特殊属性感に比例する。

 差別や偏見、ファシズムの土壌にはそのような心理的背景がある。

心理学にからむ哲学的問題について(第87回日本心理学会大会発表ポスター)

 
 昨日(2023年9月15日)発表したポスターです。なんか、どうでも良いことを考えているようで…(画像の文字が小さくて読めない方はこれらの画像をjpg保存して拡大してお読みください)。

●発表まとめ

 「心身問題」
 身体は心へのもの(環境)の文化的生態学的連鎖的翻訳系である。こう考えると「心身二元論」は回避できる(系なら環境にいくらでもある)。

 「主観-客観、存在の問題」
 これらは観点の問題ではなく、認識の不可抗力性の問題である。

 「私性問題」
 一次的には個体の時間的持続存在性の必要により要請されてくる。

「自閉症」の問題圏

 
 「自閉症」は一般に「対人関係のぎこちなさ」をその主訴とする。

 多くの心理学者は自閉症の原因を「脳の問題」であるが、脳の何が問題であるのかは不明である、と考えている。

 筆者は人間の対人認識と言うものが、他の動物と同様、認知と感情がセットとなってはたらく結果だと見ている。要するに、遺伝的には認知と感情は区別されることなく組み込まれている、と考えている。

 これが何らかの理由で機能不全になった結果が、「自閉症」と言う診断になるのだと思う。したがって、すべての自閉症が遺伝的とは言い切れないかも知れない。

 しかし、もし心理学者の多くが自閉症を「脳の障害」だと言っている前提に立つならば、筆者はその原因解明には、思ったほどの労力をかけずにできてしまうのではないか、と提言させていただきたい。

 もし自閉症が認知機能の問題だとするならば、それは哲学で言う「即自」よりは「対自」認知の問題であろう。だとするならば、その錬成としての「自己概念」の発達に顕著な影を落としているはずである。

 しかし、そこに問題の所在を見つけられなかったとすると、可能性のある認識は、「感情受容(共感性)の障害」一択に絞られてくる。これをみるのには、養育者の感情表出に対する自閉症児の応答性を見ていれば良い。

 しかし、自閉症の症状は多彩なので、個別具体のケースごとに原因を想定しなければならない事態も視野に入れておかねばならない。

 その場合、「環境の欠損(栄養、対人関係の狭さ、そのあり方のゆがみなど)」と言う非遺伝的な要因も含めて、「自己概念」に問題はないか、他者(養育者)の感情受容に問題はないか、と言う3つの視点から自閉症を見て行く必要があるように思われる。

 いずれであるにしても、大勢としてか個別具体としてか、自閉症の原因究明についてのポイントについて述べてみた。

筆者からみた「ラザラス-ザイアンス論争」

 
 読者の方は、「ラザラス-ザイアンス論争」と聴いても何のことを言っているのか分からないと言う向きの方が多いかと思うので、まずはこの論争の概要を示し、次いで筆者の見解を表明したい。なお、この議論の筆者なりの結論は、「ジェームズ=ランゲ説-キャノン=バード説論争」の参考にもなると思うので、それも念頭に置いておかれたい。
 
 1980年代に、ラザラスは、感情が起きるに当たっては、必ず認知的評価が必要だと主張した。これに対して異を唱えたのがザイアンスで、彼は感情と認知はそれぞれ独立のシステムで、感情は認知的評価を伴わずとも生起しうる、と噛みついたのである。

 これが厄介なことに、両説ともそれぞれに支持する実験的知見があって、ラザラスの説は認知心理学の治療理論において実証されており、ザイアンスの説にも「単純接触効果(刺激に触れただけでボジティヴな感情が生起する)」と言う知見があったのである。
 
 一応ここで、これに関連する「ジェームズ=ランゲ説-キャノン=バード説論争」もおさらいしておこう。「泣くから悲しい」の標語でも有名な「ジェームズ=ランゲ説」は、感情が惹起されるためには、それに先行する身体反応が必要だと考えた。より常識に近いと思われるのが、これに対する「キャノン=バード説」で、感情が生起した後に身体反応が現れる(悲しいから泣く)、と主張した。

 ここではお話を「ラザラス-ザイアンス論争」に限るが、その結論は「ジェームズ=ランゲ説-キャノン=バード説論争」にも適用されるだろうと言う含みを持たせておく。

 筆者の考えでは、感情の生起に認知的評価が必要かどうかも論じないし、いわんや感情と認知がそれぞれ独立のシステムかどうかについても何も語るつもりはない。

 ただ筆者の思うところでは、感情の生起にとって必要なのは「心理的構え(psychological set)」であり、「ラザラス-ザイアンス論争」は、一種の抽象に溺れた論争だったに過ぎないように見える。

 たとえば筆者はこの世で一番雷様が怖いと思っている。雷様が鳴り出すと、怖くて震え出す。そして現実に雷様が附近を直撃したりすると、ひどくビックリして胃がひっくり返るほどである。

 しかしもし、筆者が雷様がまったく鳴っていない状況でそれ相当の音を聴いた場合にはどうであろうか。筆者はそれを誰かが家で転倒したと解するかも知れないし、附近の住宅が崩落したと解するかも知れない。少なくとも、雷様の直撃とは明らかに異なる反応をするだろう。つまり、恐らくそれで自分の胃がひっくり返る思いはしないだろう。

 あるいは映画を見ている。話の筋から主人公がさえない人間で、何をやっても周囲から叱責されると言う伏線が筋として与えられていて、主人公はいつも泣いているとしよう。ところが映画のクライマックスではたまたま主人公にできて周囲の誰にもできない問題が持ち上がり、一躍主人公は賞賛されたとしよう。我々は「主人公はさえない奴」と言う心理的構えを持ったがために、最後に賞賛される主人公を見て落涙するかも知れない。

 人間は、いつでも何らかの心理的構え(日常の心の持ちよう)を無意識に持っている。つまり、特に何も意識していないと言う構えのときは、取り敢えず「何それ?」くらいの反応はするだろう。

 と言うわけで、僕なりにみた「ラザラス-ザイアンス論争」は、ラザラスなりザイアンスなりのいずれかが正しいと言うわけではなくて、感情的反応とか胃がアップセット(動転)するとかの反応には、必ず何らかの心理的構えが前提としてあり、必要なように思うわけである。恐らくその中には認知的(記憶的)なものも感情的なものもあるはずである。

 恐らくその意味で、「ラザラス-ザイアンス論争」は、命題の立て方そのものに問題があったのではないかと思われるのである。いったい、「実験」とか「実証」とは何なのであろうか。

心理系その他の資格の乱立についての懸念

 
 現在心理系その他の資格の乱立状態が続いている。

 自分の調べたところでは、心理系の資格だけでも50個くらいある。

 資格を与える側にとっては、資格の賦与者がマウントを取れて、ただの良い儲け話に過ぎないように思う。

 この状態で僕が抱く懸念は以下のようなものである。

 ほとんど名もない資格でも、資格保持者であることを良いことに、犯罪行為が濫発するのではないか、と言う懸念である。

 これには司法も手を焼く案件が多くなると予想される。

 ただでさえ、人間的かかわりに性的なものがあり得ないと言うことが不自然なのに、職業資格家はそれを「倫理」として掲げることでそのようなかかわりを排除する。そのため「クライエント」は通常の人間関係とはおよそかけ離れた不自然な人間関係を「カウンセラー」との間に持つことになる。

 一体、本当の「心の救い」とは何なのであろうか。

 こうした現状の上に、資格発行団体の金儲け目的でしかない心理系その他の資格の保持を良いことに、犯罪行為に及ぶ「資格保持者」が続出してくることは目に見えている。

 たとえば個人情報ひとつ取っても、表向きは「インフォームドコンセント」を理由に得た個人情報を裏名簿「業者」に売って私腹を肥やす「資格保持者」はいくらでも出てくるだろう。公式の統計によってさえこの国の60人に1人が麻薬に手を出していると言う。「治療」と称して違法薬物を勧める「資格保持者」もいくらでも出てくるだろう。

 近頃流行っているのは、「犯罪者心理にない者による犯罪」である。その意味で言えば、この手の犯罪は、「犯罪者心理にない者の犯罪」の範疇に入るであろう。

 金儲けのための資格作りには法的規制が必要だと感じる次第なのである。

楢山節考(ならやまぶしこう)

 
 「楢山節考(ならやまぶしこう)」と聴いて、「それ、何のこと?」と思う若者が多いかと思う。ある世代以上の方ならお分かりの通り、早い話が「姥捨て山」のお話である。

 僕は現代の老人ホームにその典型を見る思いがする。このことについて思うところがあるので、それについて述べてみたい。

 僕がとても不思議に思うのは、どうして年輪を重ねた人生の先輩であるお年寄りに、人生の辛酸とか含蓄とか経験について思う存分語っていただいて、若者世代への心の糧をつなぐような活動がこの国にはないのか、と言うことである。

 子どもが老人ホームを「慰問」するとき、まるでそれが当たり前のように子どもたちがただ歌って踊って、それに老人たちが拍手する姿しかないのは、本当に社会の財産の持ち腐れのような気がする。そのこと自体がどれほど老人の精神衛生上プラスなのか、甚だ疑問である。

 これは僕だけの妄想ではない。心理学者の下仲順子さんによれば、高齢者は概して若者よりもものごとの理解も良いし、要領も答え方も良く、若者よりずっと芯がありますよ、と言う。

 少なくとも経験値と言うことで言えば、我々のような若造(筆者は58歳である)が老人に勝てる道理がない。ところが、それが社会の財産になっていないことをとても悲しく思う。

 幼稚園児に人生を語ることがお年寄りに苦手であろうはずがない。彼らは何世代もの子どもたちを育ててきたのだから。それが小学生、中学生…となれば話はなおのことではないか。

 だから現代の老人ホームを見て、「楢山節考」をそこに見る気がしてならないのである。長い人生経験がものを言わずにいるのは、金・銀・ダイヤモンドをドブに捨てるようなものなのではないだろうか。

 

統合失調症の心理的治療

 
 僕は以前書いたように、カウンセラーではない、したがってこの世(在野)に必要ではない心理士である。

 その無価値な心理士として考える「統合失調症の心理的治療」の具体について触れておきたいが、その前にひと言だけ断っておく。

 統合失調症については、心理的治療よりも精神医学的治療、すなわち腹側淡蒼球などの薬物的な代謝異常の是正が優先する。そのドラスティックさにおいては、心理治療よりも薬物治療の方が根本的な治療たりうるからである。

 さて、統合失調症は多くの場合、「意味付けされた幻聴」をその主訴とする。それで僕は統合失調症のことを「囚人症候群(別名アナザーパイロット症候群)」と呼ぶことを提案している。その意味で、統合失調症は「理解不能の病」ではない。

 多くの医師が言うように、統合失調症患者ではこの「意味付けされた幻聴」が「現実」だと認識していることが、「病識の欠落」なのだと問題視しているわけである。

 ならば、統合失調症患者に治療者が手取り足取りして、「それはあなたのおかしなところです」と一々指摘して、「普通はそんな認識は持ちません」と言う明確なメッセージを与え、病識を持たせるところから心理的治療は開始されるべきである。

 そしてその先に進むためには、その症状に意識的に対決・無視させるよう患者を導くことこそが、真の意味での統合失調症の心理的治療になるはずである。

 これは昔からある「ロゴセラピー」と言う手法である。

 果たして、「公認心理師」は、こう言う治療を現実に行っているのであろうか。

心理学における「連合主義」の誤り

 
 心理学史において、特に学習心理学においてクローズアップされる史実は、ジョン・ロックに始まる「連合」と言う概念である(哲学史ではロックは経験論だと言われるが、大局的にみたとき人間の経済的存在論を説くと言う意味で、筆者は合理論者だとみている。それはアダム=スミスやリカードなどの思想的系譜に属する)。

 しかも念の入ったことには、それが心理観の基本概念として、条件付けなどの「発見」へと道が続いたことは、「心理学者」たちのひどい視野狭窄を招いてしまった。

 特に我々日本人には、「連合」と言う観念は奇異なものにさえ見える。

 僕は、かねてから言っている通り、「報酬と罰」と言う学習観に否定的である。単純に言って、そう言う「原理」でもしひとを育てたとするならば、そのひとはおそらく共感性に欠けた利害と打算で生きるだけの「マシーン人間」に育つに違いない。それが証拠に、ある種の共感性がはたらいていないと、天敵から身を守る法とか採餌戦略その他さまざまな「生きて行く知恵」は世代を超えて受け継がれはしないはずである。

 その意味で学習心理学における「学習」と言うのは、他律的に作為的な判断形成ほどの意味であって、プラグマティズムの哲学者たちの拙速な考え方の申し子と言って良い。実に良く現在の学歴経済主義的世界観を表しているではないか。

 そこで、哲学的な見地から「連合主義」の人間的欠陥を指摘しておきたいと思う。

 僕の認識論では、概念のタテの関係を「抽象-具象」、ヨコの関係を「類推-帰趨(ロールオン-ロールアウト)」だとする。なので「連合」と言う概念はこれら2軸の複合的概念だと言うことになる。また、「連合」と言うのは、人間の類推能力のごく一部に過ぎないと考える。かつてウィリアム・ジェームズは意識活動を「意識の流れ」になぞらえたが、日本と言うローカルな一地域に住む僕の見方では、人間の意識活動と言うものは、日本語で言う「結び(敢えて英語で言えばknot)」と言うことが中心なのではないかと思われる。

 親鳥が雛に餌を与えることについて、熟慮のない「心理学者」は、「親鳥-餌」と言う条件付けが成立すると考えるに違いない。

 しかし、そのような営みで種が繁栄する源は、そんなに安っぽい「原理」によるものであろうか。適正ないのちのリプロダクションが報酬と罰だけで成立するものなのだろうか。

 これは僕の持論になるが、親鳥が雛に餌を与えるときに、親鳥の持ってくるものが餌と言う「報酬」だと言うよりも、親鳥の気遣い(生きてほしいと言うメッセージ)であるに違いない、と思う。そしてこの「生きてほしい」と言うメッセージ性のことをこそ「愛」と呼ぶのである。そしてこのようなメッセージ性を通して動物が学習するのは、即物的関係性と言うより抽象能力なのではないか、と言う気がしている。その抽象能力と言うのは、文化的だが言語外の「即性是認-否認」、すなわち判断である(しかし僕はあくまで思考と言う枠内では判断よりは良い視点の変幻自在さ-良い即性の与え方-を重視する)。「愛」は主体の側では実在する感情ではあるが、言語的コミュニケーション以外だと、客体にそれが芽生えるにはその感情を黙々と客体にとって焦点的、集積的かつ累乗的な行為の形で与え続けないといけない。こうしたことが他にも同様にないと、抽象能力は開花しない。その意味で言うと、哺乳類の中で人間ほど「愛」や「抽象」がエレガントではない動物はいない。

 だから、「連合主義」と言うのは、血の通った動物の「学習」の本質を突いてはいない、と思う次第なのである。言ってみれば、路傍の石だけを拾って「これこそ人間の指導原理なり」と言う愚がそこにある。

 世の中では「過保護」はいけない、と言う。ここで語られている「過保護」とは、一方的な価値観の押し売りや形だけの溺愛や腫れ物に触るような養育的態度のことを言うのであろう。しかし、真の意味でならば、「過保護大いに結構」と言いたい。いまの金銭至上主義の社会では矛盾が大き過ぎ、ひとがひとと対等に仲間であると言う意識を持ちすぎて損をすることはないからである。

 実証できればそれが科学だと言うのなら、僕の立場は非科学である。

常習的犯罪者の心理的特質

 
 長い文章には飽き飽きしているひとも多いと思うので、できるだけ短く言います。

 常習的犯罪者の心理的特質は、「罪悪感がない」と言うことです。

 その背景は、人間としての対等意識が育まれていない、と言う社会的な問題にあります。

 以上。