発話の機構と言語運用

 我々は常日頃からこのように日本語を話しているわけであるが、筆者の母国語である日本語の習得経験をヒントにタイトルのようなことを考えてみたい。  

 筆者は母国語である日本語を自分の祖母に身につけていただいた経験の持ち主である。  

 まだ3歳にも満たない筆者は、日本語の習得が大変難しかったことをよく覚えている。  

 言語の習得というのは、たぶんステップワイズ(逐次的)に進んでゆくものではなくて、いわば「言語ゲシュタルト」とでも言うべき言語の構図を「丸呑み」することで身に付くものだと言うことが何となく筆者には分かっている。  

 それは、「何を言っているのか」が分かると言うことはおぼろげながらできても、自らその言語を運用できるようになるのには完全な言語、ひいては言語機構そのものの「丸呑み」が必要だと言うことである。  

 この「ことばの丸呑み」ができて初めてたとえば筆者なら日本語をマスターできるように思われる。  

 動機付けと言う側面から見れば、「分からないのがもどかしい」と言う切迫した心理状態がその後押しをしているように思われる。  

 言語の運用は、少しずつできるようになる類のものではなくて、「ある日突然覚わるもの」であることをご理解いただきたい。

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