「コロナ」の今後の目途

 現在世界中で「新型コロナウィルス」の猛威を目の当たりにして、お先真っ暗な方もいらっしゃると思うので、僕なりの「コロナの一段落の展望」について申し上げたい。

 新型コロナウィルスのひとつの「弱点」は、「湿気」だと言うお話をよく耳にする。

 四季に恵まれた我が国の気候風土を考えると、湿気の一番多い時期というのは、「梅雨」の時期と言うことになる。

 つまり、今般の「コロナ禍」のピークは、梅雨の直前までで、そのあたり過ぎから我が国におけるパンデミックは一段落するのではないか、と僕は見ている。

 息の長い話なので即時の終息を期待する向きにはいささか酷なお話かも知れないが、今年の梅雨あたりで山場は乗り切れるのではないか、と展望し、気休め程度のお話を終えようと思う(梅雨のない北海道については見通せない)。

尻福王様遊び(古い遊びの復興:いわゆる「尻取り福笑い」)

 最近の子どもたちはPC・スマホゲームに熱中していて、我々のような貧しい時代の子どもの外遊びが極端に減っている。

 そこで、子どもたちがリアルな外遊びを楽しめるような知育型の遊びを考案してみた。

 その遊びの名は、「尻福王様ゲーム」と言い、何をするのかと言うと、子どもたちに尻取りをさせ、自分が思い付いた尻取りのことばの最後の一文字だけを記憶させ、たとえば何順かすれば何音かを記憶することになる。

 そして、そのことばが予め決められたカテゴリーの何らかのことばであればカテゴリー順に予め決めた点数がもらえるようにする(カテゴリーの例:「政治」、「刑事」、「娯楽(エンターテインメント)」、「スポーツ」、「趣味」、「病気」など)。

 こどもは、ただ尻取りをするだけではなく、点数の高いカテゴリーのことばができるようにも意識して尻取りをするようになり、点数の累計に応じて「王様」とか「大臣」とか「部長」とか「課長」とか「平民」に分かれるようにする。

 音順は決められていてもフリーでも良い。音数が少ない方が単語になりやすいので、年齢相応に音数は設定すれば良い。できれば「記録・判定員」がいて、枯れ枝で地面に各参加者の語尾を記しておくと良い(対象児に障害がある場合などはハンデとして記録を教えても良いなど柔軟に対応のこと)。

 ありきたりそうな遊びではあろうけれども、子どもの知育には資する外遊びになると思っている。

 あと、学校でドロップアウトする生徒が出ないように、すべての教科の「変○○(教科名:たとえば“変音楽”)」も導入すべきと考える。チームの団結力を高める「チーム・オセロ」なども良いであろう。

零細企業の経済「学」

 我々は確か学校で、「ものの価格」は「需要と供給のバランスで決まる」と教えられてきた。

 しかし、我々のような零細企業の経営陣にとって、この理屈が完全な嘘っぱちであることはあまりにも明白である。

 マーケティングで市場開拓しようとしている経済戦略家にとっては確かにそうかも知れない、と言うよりそう見えるかも知れない。

 しかし、我々のような零細企業の経営陣にとっての「常識」は以下のようなもので、いわゆる経済学の教えるところとは全く違っている。

 「価格は、それぞれの事情で決まる」。

 結局、「お金の問題」と言うのは、社会と個人の財やサービスを巡る「請求分の信頼度」があるかどうか、そう言う事業が営めるか、ひいてはそこに公共投資をしているかの問題なのであろう。それを「適正」でなく欠く財やサービスは支払いの対象にならないし、信頼度の担保されていない経済はお金を紙くずにするだけだろう。

 財には現在のところ実質性のものと天然性のものがある。

糖質と空気の不思議な関係

 みなさん冷凍庫にアイスクリームを入れてこんな経験はありませんか?

 「アレッ、アイスクリームの袋がパンパン」…。

 で思うわけですが、糖質が冷えると空気を膨張させているのではないか…、と。

 他にも、水だとそこそこの量がないと髪の毛は整えられないのに、自分の唾(つば)だとごく少量で髪の毛を整えられるとか…。

 ちょっと意外な暮らしのヒントかと思います。

僕の心境

 心と言うのはインチキだ。

 誰が何のためにまるでハゲタカのように僕の心を吹聴し、心を押しつけてくるのか。 その理由を見つけることから始めよう。

 そして日本のすべての「国民」はみな誰も口に出さないだけで統合失調症らしい。 統合失調症の本態は何かと言われると、体の角度関係がおかしい心理状態だと言える。

 僕は知っている。「絆」と言うのは心理的なものではなく物理的なもののことを。

 人間、つまり「絆」と言う観点から見れば、心と言うのは身体のオモチャである。言い換えるなら、「身体が好きなように心する」と言えよう。そして心というのは炎のようなものである。炎を物質だというひとはいない。心も同断である。

 なので我々がいつも人間に見るものは「そのひとの性格」ではなくて「そのひとの体質」なのである。

人情で100%お金が動く社会だったら

 人情はひとの痛みや苦しみ、不条理にとても敏感である。    

 もし人情で100%お金が動く社会だったら、この国には餓死者などひとりも出なくて済む話だろう。  

 僕のように不器用なので生きていたくなくなる人間もひとりもいなくなるだろう。  

 そもそも神様が人間にお金を発見させたのには、そう言う目論見があったからなのでした。  

 なので、現代日本社会を見て神様はこう言うであろう、「達者なことは達者なことそれ自体で報われているではないか。達者でないと金儲けができないところに現代日本の悲劇がある」と。

 制度が「お金に名前を書く社会」だったらばなお可。違法な経済活動は根絶できる。

 あるいは、「減らないお金」が発明されればそれは家計にとっても財政にとっても革命なのであろう。

ホームレスの方々の生計を立てるには

 

 僕の望みはこの国が「餓死者の出ない国」になることです。  

 一番厳しいのはホームレスの方々かと思います。表向き何の問題もなさそうな我が国でも、1週間に1人のひとが餓死する現状がそこにあります(これには虐待やネグレクトで餓死した子どもはカウントされていませんで、我が国の餓死者とほぼ同数いると見られています)。  

 そこで考えました。  

 官公庁や警察や公共交通機関の倉庫などには持ち主の分からない様々な物品が保管されていると思います。  

 その保管されている物品をホームレスの方々に貸し出し業務をしていただいたらホームレスの方々も何とか暮らせるのでは、とふと思いました。  

 典型的なものは「忘れ物」で、とりわけ「傘」が多いと思います。  

 なので主要な施設や駅に傘を置いておいて安価でレンタルすれば、みんなお天気を気にせずに様々なところに出掛けられるし、ホームレスの方々のちょっとした収入源になるような気がします。  

 他にも高級時計や貴金属もあるでしょう。一定の収入は見込めます。

 それから、さまざまなジャンルのお店で売れ残ったものやひとびとが持て余しているものを引き取って転売して生計を立てるように仕向けるのも悪くはないでしょう。街角に「ホームレス施し処」を設け、廃棄○○を一般人がそこに置いて行く習慣にすれば、どれだけホームレスの方々は助かることでしょう。

 たとえば、仲介手数料を10%取って「野営物々交換所」を営むなどです(なお、「カネの動くところに悪事あり」なので、必ず医療・警察などの社会疫学関係とは連携して動くこと)。これはホームレスだけに限ったことではなく、難民などにも言えることです。はじめのうちは品数がないと言う問題は、スタート時にホームレス支援NPOの方々の物品を使うことなどを想定すると良いと思います。 

 ホームレスの支援関係のNPOの方々などでホームレスの方々の生活支援に頭を悩ませている方々がいらっしゃいましたら、そこら辺の制度設計を国に提案して一定収入以下の方という条件でそんな事業を始めてはいかがでしょうか。

 特にホームレスの方々への心配として、「衣食住」が肝心です。国や地方自治体は、基本的人権の遵守の観点から、特に都市部で顕著な「空き家」で建築基準法上問題がないものにかんしては、彼らの集合住居などとして運用可能に制度設計してしかるべきです。それから、現在問題になっている「食品ロス」で出た余った食料をホームレスに回すための制度設計も当面必須かと思います。召し物は地域で開かれるバザーなどの余り物をあてがうようにすれば良いでしょう。その他コンビニのその他の廃棄食品などさまざまな「お下がり」をホームレスの方々の生活のために回すことも大事でしょう。

 ホームレスの方々に限らず、貧しいひとびとの深刻な問題として、必要最低限の医療も受けられないと言う問題もあります。これには貧しいひとびとや篤志家の方々で最低限のお金を集めて医療費のパイにする「医療費組合」を作り、運営すると言うこともまた大事な活動なのではないでしょうか。

 しかし僕としてはこう言うことも可能なのではと思っています。つまり、ケイ酸や黒土を焼いてテラヘルツ超遠赤外線を照射し、ひとびとに治病行為をすれば、多少の謝礼を得て暮らしを立てることもできるのではないかと。ケイ酸や黒土なら、砂や土にいくらでも含まれているので(ただし、安全にだけは十分注意してください)。

 そのようにして篤志家の方々も含めた「共同資本主義(=物品および資金のプール/ものの無償貸与を含む)」と言う考え方で、無産階級の方々の衣食住を最低は保障できるようにならないと、様々な事情からホームレスになったり無産階級のまま生きていかなければならない(僕も含めて)不器用なひとびとはその暮らしが立ち行くことはままならないでしょう。それなら商売の才覚のあるひともないひとも生きてゆけるようになるでしょう。大方のお金持ちの方々は、資本を大きくする意図でそうしています。このような方々に世の中の最下層のひとびとの救済は望めません。現在は理念だけで空虚な「人権」と言うものを確かなものにする術は最下層のひとびとを含めた「共同資本主義」の他にはないでしょう。事実、多くのこの国の庶民は、資金が枯渇しない程度にプールされていれば良いと言う慎ましやかなひとびとです。もちろん僕はひとびとのお金への呪縛、つまり「お金稼ぎだけの自由主義」を解くべく、「因果(殺生)なき生活の知恵」を人生の課題として考えていますし、死ぬまでには何かその類いの良い知恵をあと1つなり2つなりは考えて行くつもりです。しかしもっと大事なのは、僕はすでに100個ほどの知恵を絞ってきましたが、この国の全員が生涯のうちに1つだけそう言う知恵を絞ってさえくれれば、その数は1億となり、僕の虚しい努力よりも遙かに力強いでしょう。また、社会疫学を考えたら、重層的(全世代型)コミュニティもそれと同時に要請されてきます。ある意味、そう言った制度的是正こそ真に政治に求められていると思います。

 昔この国ではお坊さんが托鉢して糧を得ていました。それと同じことです。今はネットが発達しています。そう言うところに「町で拾ったホームレスの声」などを匿名にして届ける仕事もホームレス支援のNPO関係者などの方の重要な役割ではないでしょうか。  

 しかしいつか僕はこう言うことを言いました。ひとびとにモラルが育つとすれば、それはひとびとがひとびとなりに「守りたいもの」を自覚することなしにそれは育たないと。それには人生における不条理とか痛みや苦しみ、苦労をひとびとが共有できるようになる必要があると思います。

 (本当につまらない)蛇足までに付け加えておくに、都会のホームレスの方々を集めて簡単な研修を行って、疲れたひとびとの心を星空を見上げることで癒やす「星空(アストロ)セラピー」(これは僕のいい加減なネーミングです)のエージェントになっていただくのも今の時節あながちバカな話ではないのかも知れません。それくらい都会のサラリーマンでさえ息苦しさを感じているようにも見えます。  

 その治療鉄則は「何も教えてはならない、クライエントの感じたままをひたすら聴く側に回る」ぐらいでしょうか。大事なことは、心理屋の飯の食い種にするより、心の問題には何人もコミットする資格がある、と言うことです。  

 無論、都会の真ん中でクリアな星空など見えない訳で、集客・公共交通機関利用・アポ取り・施設維持およびその安全管理などいくつかのハードルはありますが、ゼロから経験値を積み上げていく仕事もあって良いのではないか、と思います。  

 そう言う着想から見ると、何かがあるムラより何もないムラの方が都会の疲れたひとびとにとっては魅力的に映るはずです。他にも心理臨床家では気付けない通勤通学時の隙間時間をサラリーマンや学生から愚痴を聴く「ホンネのぶつけ先になる」とか「全部話す療法(一定時間心に浮かんだことはすべて口に出すと言う療法)」とか「約束をひとつ療法(出勤時のサラリーマンに今日の目標を語ってもらい、帰宅時に「どうでしたか?」と結果を聴く療法)」なんかもあって良いかもです。

 他にも環境保護事業として二酸化炭素を代謝で酸素に変えるクロレラやユーグレナのバルーンによる高層大気中散布とか、タバコ火災に特化した「タバコ火災保険事業」などに彼らの活路を見出せないでしょうか。

 アフリカなどの発展途上国のひとびとまでも視野に入れるなら、家禽を殺して食べると言う発想ではなく、放牧してある家禽の消化酵素を微量採取し、培養して荒れ地の枯れ草に漬け、それを食料にはできないでしょうか。自然の道理になぞらえて言うならば、ちょうど親鳥が一度口にした食べ物を雛に与えるように。

 最後にお話が星空のことに戻りますが、ホームレスの皆さんに「潮の満ち干原理による発電」をしていただくと我々にとっても福音です。  

 星空は、晴れてさえいれば誰にでも見えます。何者のものでもあれば何者のものでもないでしょう。

 

 ※その他応用的にホームレスの方々に役立つかも知れない知恵(一例)についてはこちら(一応ホームレスの方々がお金なしに生活できる程度までは出そろっています。コピーライトは自由ですので何卒拡散の程よろしくお願いいたします)。

自然の贈り物としての「蜂の空の巣」

 我々はこれまで衣食住すべてにわたって「罪のない知恵」を探してきた。  

 それは要するに、我々が自然の犠牲なくしていかに生きられるかの問題と言って良い。  

 その「仙人の霞」以降の最も大きな気付きは「蜂の空の巣は衣と住(書)にとってとても大事である」と言うことである。  

 蜂は巣を作ることによってその子孫を繁栄させてきた。  

 蜂の子が育つのに適温というものがあるはずであろう。夏の暑さで腐らず、そして越冬すら可能にする彼らの巣と言うものは自然界で稀に見る天の恵みなのではなかろうか。  

 蜂は巣を1年使ったら、また新しい巣を作るべく新しい女王蜂が誕生するようになっている。  と言うことは、「お古の蜂の空の巣は自然を犠牲にしないで服飾や紙にしうる」と考えるのに罪はないであろう。製法を和紙のように考えれば、本当の意味での「日本紙」ができるだろう。  

 ところでそう言うと片っ端から現生の蜂たちの巣を刈って回る後先を考えない愚かなひとびとが出てくる恐れなしとしない。少し考えてみれば、蜂が絶滅するこのような愚行を敢行するといずれ蜂は絶滅し、お目当ての巣は消失する。なので「蜂の空の巣」と言っているわけである。  

 もしかすると、何らかの蜂の巣の成分を罪なく固形化できるのであれば、それはとても軽い建材になるはずなので、地震でどうにかなってもたぶん決して誰も犠牲にならなくなるであろう。  

 要するに、我々は「衣食住」のうち「衣」と「住」のエースとして「蜂の空の巣」を考え得るであろう。  

 もし「住」における建材としての「蜂の空の巣」が難しくても、我々にはもうひとつ選択肢がある。それは「火山灰」である。火山灰は10センチも積もれば熱帯と氷河を同居させうるほど恒温性には抜群に優れている。たとえば粘土と火山灰を調合して天日に晒すなり焼くなりすればいずれ自然に還せる建材ができるであろう。  

 他にも海に目を転ずれば、赤潮や青潮で死んだプランクトンの死骸とか、川なら腐った水の汚染成分なども何かに変えられるかも知れない。  

 他にも「タケノコの皮」とか「動物の生え替わって抜け落ちた毛」とか「宿主を失った貝殻」とか「卵の殻」とか「動物の生え替わって抜け落ちた角」とか「蝉の抜け殻」とか「ロウ」など探せばいくつもの候補がある。我々の「罪なき自然からの知恵」の探求はまだまだ続く。

仙人の霞

 「中国四千年の歴史から望むもの」の続きのお話になるが、「この世に不老長寿はあり得るか」と問われたとき、僕の貧脳にまず思い浮かぶのは、「芋」である。  

 確かに同じ土地に相変わらず植物が生え続けるには、それとともに土壌の成分の時間的経過による養分維持とかミミズや細菌による土壌の生化学的変化が必要で、さもなくば少しずつ位置を変えて繁殖するしかないだろう。  

 そんなわけで、条件がよければ芋はいつまでも繁殖し続けうる不老不死の生命であり得るように僕は思う。  

 芋には土壌から糖分を生成するものとあまりそうならないもの、様々が存在する。  

もし、糖生成のポテンシャルを持ちながら糖を生成しない芋があったとしたら、その糖生成抑制の仕組みの力で糖尿病の治療が可能かも知れないと思われる。  

 ところで、最近のひとびとの多くはミミズも細菌も流行らないような造成地で暮らしていて、猫の額ほどの狭いベランダでそんなような土を使って植物を栽培しておられる方も多いのではと思う。  

 そうなると、ひとつの可能性として、ミミズや細菌を悩ますことなくさまざまの植物を育てることが可能なばかりか、その植物の根による土壌の生化学的変化の産物としての「植物のウ○コ」をおこぼれとして頂ける知恵のひとつもひとびとは得ることができるようになる時代が来るかも知れない。  

 それには、人の手で育てられている植物がしおれてきたら土壌を入れ替え、入れ替え前の土壌から適当なお目当ての生化学物質を濾過するなり、プローブ(捕捉体)やレセプターを使って回収するなりすればよいのではないだろうか。あるいは、植物の根が好んで伸びそうな輸栄管をあしらっておき、そこから代謝的に植物の「ウ○コ」を回収し、その代わりに新しい必要な土壌成分を投下するのも悪くはないのかも知れない。  

 あるいは、適切な(生)化学物質を土壌に含ませておき、「植物のウ○コ」が結晶化するようであれば、そんなややこしい仕組みを考えなくても良いのかも知れない。  

 心の深いひとびとは長年、人間の殺生を戒めながら、植物の繁殖力の強さからその植物が繁殖しすぎる植物自体の痛みを感じ取って、そのおこぼれに与ることは罪ではないだろう、と思いながら精進料理しか口にしないお坊さんのような向きも多かっただろうと思われる。

 その意味では、山羊や羊や牛馬の消化液を微量採取し、培養することで我々人間にも都会の雑草を食して生活することも無理ではないかも知れない。 

 あるいは二酸化炭素を吸着固化させる魔法の物質がこの世にあるのなら、自然を害することなくできる紙の知恵が見出されるかも知れない。実際に「炭素固定」と言う技術を使って二酸化炭素と有機物(たとえば、死んだ後の貝殻)を反応させれば本物の「仙人の霞」になるかも知れない。  

 実は未だ気付かないところで、人間が本来口にすべき「自然のおこぼれ」がいくらもあるかも知れない。人間は頭が巧みかと思えば盲点だらけのようなところもあって、本来出会うべき知恵が自然にどれだけあるかは良く分からないものである。  

 と言いながら、運命の行きがかりとは言え、ステーキが好きだったりする僕は、牛を殺生している食肉業者さんの当事者の皆さんは社会の需要を人間のひとつの情念として受け止めて、毎日心を鬼にする苦労を絶やさないのであろう、と忖度する他はないのである。  

 自分の育てた牛や豚とのお別れの日に、心に陰りの落ちない酪農家もおそらくはいないであろう。  

(中国語のおできになる方はこのお話を数千年の長きにわたって我が国の文化を支えてくださった中国の民草の皆さんにひとつの観念的な恩返しとして拡散してください。僕のネット上の著作はすべてノーコピーライトです。ひとつだけそのときに気をつけて頂きたいのは、僕としては自分の知恵を水のようにしたいと願っていると言うことです。どう言うことかは読者の皆さんのご想像にお任せいたします)