ライプニッツの「微小知覚」の本来

 
 ライプニッツは、「雨が一滴落ちても聞こえないが、たくさん降ると聞こえる」ことについて、一滴の雨を「微小知覚」だと考え、「微小知覚の集まり」のことを可聴音なのだと理解した。

 これは正しくはない。雨が一滴落ちただけでも聞こえる大粒の雨もあるし、雨の一滴が十分小さければ、そのような雨がどれだけ集まっても聞こえるわけではないからである。また、雨粒同士の空中衝突音についてもそれが言える。雨粒の空中衝突音が聞こえるためには、たくさんの雨粒が強く空中衝突している必要がある。

 想像してほしい。2つのトランペットをまったく同じピッチでまったく同時にまったく同じ強さで吹いたとする。音は1つのトランペットのときの音量の2倍になるだろうか。ならないのである(ただし、ピッチが僅かでもずれていれば音幅が強烈に知覚される)。

 つまり、「音」は加算的なものではなく、並行的なものである。

 しかし、彼のこの考えは、「周波数」と言う現象を考えるときに深い意味を持っている。

 「周波数」と言うものは、一般に物質の振動とか震えだと理解されていると思うが、実は突き詰めて行くと、「物質(帯)の鼓膜への衝突音(もちろん超低周波や高周波は聞こえない)」だと言うことに気付く。

 このように考えたときにはじめてライプニッツの「微小知覚」のような発想が意味を持ってくるのである。

関根豊松に僕が言われたこと

  
 僕は天理教その他いかなる宗教とも無関係である。だからいかなる超能力もいらない。

 「関根豊松」でググると、いろいろな彼の超能力とか説話が出てくると思うが、僕は彼の言行が支離滅裂に感じられたので、彼に対する印象はネガティヴと言う他はない。

 ただ、彼の超能力が「プラシーボ効果」によると言う仮説が間違っていることは明確に断言しておく。なぜなら、彼による治病が有効だったほとんどのひとは、その親類縁者が彼に治病を嘆願したケースがほとんどだったからである。したがって「プラシーボ効果(バーナム効果)」がはたらく余地はなかったと考えるべきであろう。

 これは彼の講話を直接聴いた者でないと分からないと思うが、とにかく屁理屈とこじつけが多いのであった。具体例を挙げると、「ハイと返事できないひとは肺病にかかる」とか「頑固なひとはがんになる」…である。おそらくこれらの屁理屈と言うかこじつけは、彼が見た一例だけを取ってそう言っていたように思われる。彼の言説で得心したのは「無理は理がない」の一言だけだった。

 疑問はまだある。僕は30代の頃5年ほどホームレスだった。だから「貧すれば鈍す」と言う諺の真実性を知っている。それでいま僕のやっている知恵のひとつでとても大きなものは「お金のいらない因果(殺生と自然破壊)なき生活の知恵」の探求であるが、天理教ではそれは「貧への落ちきり」と言う神徳を授かるためのワンステップに過ぎないとみなされている。一体神様は人間にどんな生活を望んでいるのであろうか。この現状社会への迎合性が天理教と言う宗教の狭隘性と限界を示しているように見える。

 加えて、世界の真の姿と言う意味でだと、ロスチャイルド家による世界の経済的植民地化など不思議なことに決して語られることのない大問題や深刻な社会弱者(ホームレス、貧富の格差など)の問題などには一切触れずに人間を語ることは、決して世のため人のためにはならないのに、それらは一切「因縁」のひとことで片付けられていた。彼を超能力者にした天と言うものそのものの眼力がおかしいと感じるのは僕だけであろうか。天と言うものには骨がないのであろう。

 天理教の掲げる「陽気ぐらし」と言う理念にも大きな疑念がある。天国をみているひとと地獄にあるひととでは正直な心情はまったく違うはずである。それを無視した「陽気ぐらし」と言う理念には同意できない。僕は苦労は好んでするものだとは思わないが、苦労が苦労たり得るのには、それが本当に苦労だからであろう。人生に春秋がなければ苦労は功徳たり得ない。このように、人生を大きなところから見ると、「陽気ぐらし」と言うのは、人生の功徳たり得る苦労(それは決して生やさしいものではない)のプロセス的な全否定なのではないか。例を挙げると、徳川家康の人生は断腸の思いの連続であったが、彼が「陽気ぐらし」などと浮世離れした考えを持っていたわけではない。また、アメリカ人は陽気でオープンだと言われる。彼らの陽気さの影には相当な性的乱脈も見られ、一概に陽気であることが人間の正しさを担保してくれるわけでもない。

 天理教では人間は「泥海」から産まれたと言う。僕には僕なりの人間の誕生についての見解(現在のような海水ミネラルと特定の周波数、そしてその環境を作ったシアノバクテリアによって育まれたナマコ類が転成した海中は虫類が人間の祖先)があるが、もし人間が「泥海」とかかわるとすれば、それは人間の誕生においてではなく、滅亡のときのことだと思える。天理教の教義を聞いていて僕が不快に思うのは、何とでも言えることを何とでも言えるようにかなり大風呂敷で説いておいて、いつも「科学でもそう言われている」と自説の傍証として無批判に科学を使い、自己を正当化する心の醜さである。かく言う僕は、人間の思考と言う枠内では科学を信奉する人間でもなければ学問を信奉する人間でもない。彼らには放縦な「科学」や「学問」の弊が良く分かっていないように見える。僕は教義とか教条とかの名をまとったイデオロギーには嫌悪感を覚える。それがどれだけ人間の自由を踏みにじってきたことかと。これは宗教に限らずあらゆる人間の活動に言えることだが、「人間をある思想に丸め込む」と言う心性は、どけだけ人間の良き可能性を封じてしまっていることだろう。外面ではなく自分の肚のうちに(それがどんなに微妙な問題であろうとあらゆる問題についての)善悪(いや、善悪だけはない)がない人間は、倫理的にも道義的にも、ひとり野に放り出されたとき、きわめて弱い人間であることを彼らは理解しているだろうか。

 宗教とかイデオロギーと言うものは、まさに「人間をある思想に丸め込む」ことなしには成立しない。結果として人間個々人の地力は落ち、了見が狭くなる。そのせいか、僕が若い頃に天理教に集まる若者たちを見ていて痛切に分かったことは、彼らの心はとても鬱屈していて息苦しいものだったと言う現実である。それで良く思ったのは、このひとたちに「陽気暮らし」などと言う絵空事はとても無理だと言うことである。何だかまるで彼らは収容所に集められた囚人の観があった。その意味で特に印象に残っているのはG君兄弟である。彼らは自分の翼をまったく広げることができていなかったように強く感じた。

 関根の「鉄拳制裁」は知るひとには良く知られたことだが、そのような奢った態度で「愛町」を名乗る資格があるのか。少なくとも僕の理解では、愛とはそう言うものではない。そしてそこからして呆れたことに、そうして「育て」られた彼の弟子に、ひとりも彼に伍する人物は現れはしなかった。とすると、彼の超能力は、およそ「徳」とか「道」の問題などとは何ら関係のない、ただの生まれつきの素質としか考えられない。彼の言説と超能力は完全に切り離して考えられなければならない。

 そんな彼に、ガキの僕が言われた唯一のことは、「この子は賢いよ」の一言であった。

 当たってはいまいが、遠いガキの頃の思い出話である。

 彼は大変苦労した人間であったが、僕も苦労その一点においては病苦・ホームレス生活・犯罪被害…と負けてはいないと自負している。ただひとつ彼と僕を分けるのは、願いが叶う人間(関根)か叶わない人間(僕)かである。この両者の個性は、「力」と言う一点において、対決の名からはほど遠いものである。何せ僕には超能力はないのだから。

 関根は上述の通り、人助けの力を得ていることで他にマウントを取るようなところがあった。それは正しくはない。だが、僕にもひとりの人間として良く分かるのは、神の懐に抱かれ人助けができる人間になると言うのは、人間にとって最高の幸せであって、関根が人助けをやめられなかった心理と言うものは僕なりにでもとても良く分かる気がする。やはりそれは人間にとって最高の生きがいであることだけは間違いない。

 僕は関根のようなご神徳には与れなかったけれど、代わりにこんなことをやっている(ホームレスがお金なしに生活できる程度までは仕上げてある…これで「生活に困ったら宗教に」と言うひとは減らせると思う)。その方が僕の水には合っている。繰り返すが、宗教やイデオロギーは人間としての地力や了見を落とすばかりではなく、その枠は生活のあり方が特定の人間の発案に傾きがちになりルーティーン化してしまい「これは問題でこの方が良い」と校合されなくなり、「そのひとの味」を消してしまう。宗教やイデオロギーではなく、僕には限りない自由があるからそれができる。宗教やイデオロギーでは教義教条と言う「踏み絵」を踏まされることなくその恩恵に与ることは無理である。

 僕は関根の肉声を聞いた最後の世代である。彼の口癖は「蒔いた種はみな生える」だったが、不器用な百姓の末裔である僕の場合、「蒔いた種はみな土に還っていった」。

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楢山節考(ならやまぶしこう)

 
 「楢山節考(ならやまぶしこう)」と聴いて、「それ、何のこと?」と思う若者が多いかと思う。ある世代以上の方ならお分かりの通り、早い話が「姥捨て山」のお話である。

 僕は現代の老人ホームにその典型を見る思いがする。このことについて思うところがあるので、それについて述べてみたい。

 僕がとても不思議に思うのは、どうして年輪を重ねた人生の先輩であるお年寄りに、人生の辛酸とか含蓄とか経験について思う存分語っていただいて、若者世代への心の糧をつなぐような活動がこの国にはないのか、と言うことである。

 子どもが老人ホームを「慰問」するとき、まるでそれが当たり前のように子どもたちがただ歌って踊って、それに老人たちが拍手する姿しかないのは、本当に社会の財産の持ち腐れのような気がする。そのこと自体がどれほど老人の精神衛生上プラスなのか、甚だ疑問である。

 これは僕だけの妄想ではない。心理学者の下仲順子さんによれば、高齢者は概して若者よりもものごとの理解も良いし、要領も答え方も良く、若者よりずっと芯がありますよ、と言う。

 少なくとも経験値と言うことで言えば、我々のような若造(筆者は58歳である)が老人に勝てる道理がない。ところが、それが社会の財産になっていないことをとても悲しく思う。

 幼稚園児に人生を語ることがお年寄りに苦手であろうはずがない。彼らは何世代もの子どもたちを育ててきたのだから。それが小学生、中学生…となれば話はなおのことではないか。

 だから現代の老人ホームを見て、「楢山節考」をそこに見る気がしてならないのである。長い人生経験がものを言わずにいるのは、金・銀・ダイヤモンドをドブに捨てるようなものなのではないだろうか。

 

最高裁はLGBTに屈した

 
 はじめに断っておく。僕は倫理的に微妙な「人工培養肉」とか「脳死」とか「尊厳死」などに代表される問題を百も二百も扱い、判断してきた。どんな問題が出てきても気付いても、問題から逃げたことは一度もない。

 反論が予想されるので、多くは語らない。僕は政治的には右でも左でもなく、いわんや中間でもない。自分の祖先である江戸期の名もなき百姓衆に学んだ収入ゼロのただの相互扶助による重層的(全年代型)コミュニティイストに過ぎない。

 いわゆる「LGBT問題」は、突き詰めるほどアルタナティヴ(二者択一)な問題であることをこの国の国民は忘れてしまったかのように感じる。そんなにLGBTが正義なら、まず皇室と最高裁裁判官にすべてのLGBTを結集させてみるべき。皇族については、天皇の継承を「直系の男子」としているが、そう言うなら法の整合性の観点から最高裁はこれも違憲と判断すべき。

 これまで膨大な判例の蓄積のある日本国憲法には、「婚姻は両性の合意のもと」に行われると書いてある。言うまでもなくここで言う「両性」とは「男と女」のことである。憲法の保障する基本的人権の法理は、「思想・信条の自由」を保証するものであり、この点で言えば、LGBT賛成の者も反対の者もいずれも侵害されてはならないはずである。ところがこの国では僕のようにLGBTに否定的な人間は非国民だとか売国奴だとかの謂われのない精神的苦痛を与え続けられているのが実情である。

 このことを敷衍すると、それではなぜ「両性の合意」規定があるのかと言う点で、それは男性性や女性性の権利の濫用を抑制する趣旨だと解すれば、法理として得心が行く。要するに、「ヤリマン」や「ヤリチン」を抑制する趣旨だと解すれば良いのである。つまり、暗黙に婚姻(前提)以外の性的関係を厳しく制限する趣旨だと解すれば、広く社会疫学として有効である。現実問題として、我が国のHIV感染者の大方はGで占められている。Gには次のように語りかけたい…「そうするとHIVの感染リスクが100倍高まりますよ」と。

 なぜ僕がこの問題に大きな懸念をもっているのかと言うと、この問題で国民の多くがその善悪の基準を「再考」させられた結果、他の諸問題においても事の善し悪しが曖昧になって行って、真の善悪を考えなくなり、結果として犯罪を増加させ、治安を悪化させるところまで行き着いてしまうのではないか、と思うためである。要するに、誰の目にも見えないところでそうした「規範の曖昧化効果」が進行して、社会疫学的に結果的に大きなマイナスになる心配があるからである。これはなぜ我が国が移民を受け入れないのかの真の理由とも通じるものがある。もし移民が誰でもこの国に移住できたとしたら、その国の治安感覚を持ち込まれて、どうにかこうにか治安の良さを持ちこたえてきた我が国の治安がどんどん悪くなる、と言う懸念があるのと同断である。そうした事態になれば、警察官の数をいまの5倍くらいまで増やさなければならず、莫大な血税を国民が払うことになる。

 にもかかわらず、「LGBT問題」を誰も具体的な問題とは考えない。それをみなが「自分に縷が及ばない(自分には直接に降りかからない)問題」だと思っている。あるのは薄っぺらな「正義」と抽象だけ。

 そこにあるのは具体的な想像力の欠如とひどい偽善だけ。社会疫学の立場から考えるとあまりにも具体的喪失(たとえば夫婦や家庭の価値の喪失)が大きく予測される。官僚してからが東大卒かなんか知らないが頭がおかしい。「銭湯は身体的特徴で」とか血迷っているが、「使用禁止」にすればそれで良かっただけ。これはおそらくだが、現実の公衆浴場の経営者にしてみれば、客足が遠のくのを恐れてそうするのではなかろうか。身体を洗える場所は何も公衆浴場だけではない。その意味で、この国の国民の誰一人としてそう言う現場の実情など想像できていないのである。

 そうしないとどうなるか。まず政府の通達を無視した「チ○コを持つ女」や「マ○コを持つ男」に公衆浴場や着替えをはじめとするあらゆる場面は占拠され、そうでなくとも最悪同性愛者が目を輝やかせて同性の公衆浴場で同性の性器の「品定め」をし、「パートナー選び」さえされかねない。これらのことに嫌悪感も何も持たないひとが一体どれだけいると言うのか。公衆浴場、着替え、病院の相部屋、トイレ…具体的問題が生じるであろう場面はあまりにも多い。そしてそれが社会的混乱を生まないと言う認識それ自体があまりにも常識外れである。

 他の具体的問題としては、異性に交際を申し込まれるときにでさえ、博打めいて精神衛生によくはないことなのに、それが同性からのものとなれば、一般人のモヤモヤとかストレスは計り知れないものになるだろう。それが生涯にわたるスティグマ(烙印)やトラウマ(心の傷)になったとき、誰がそれに補償をすると言うのか。これはもしかしたら「心ひとつでない夫婦」のもたらす実害であるのかも知れない。

 これによく似た問題として、生きているうちには異性の医師や看護師に自分の性器を見られる問題とか、死んだら死んだで望まないのに葬儀屋に自分の性器を見られる問題がある。しかし我々は主張せず忍従して耐えているのが現実である。特に僕はマスコミに嘲られるチンカスの出る性器の持ち主であり、それだけでもかなりの苦痛である。ただでさえ「ルッキズムはいけない」と言いながら出演者を訴求力と言う顔面等差別で選り好んでいるマスコミには、僕のような人間を嘲り笑った罪の意識があるのか(「大河ドラマ」にみるように史実に基づけばあんな不自然にイケメンイケジョばかりではないことは明らか)。さらに僕は収入ゼロ。おかげで齢58にもなるのに嫁ひとりできない(そんなことで男を選り分ける嫁は要らんけど)。テレビ○日とか○川哲朗とか、誰がそのことに慰謝料を払ってくれようか。人間は、自分を辱めた者のことを生涯忘れない。臥薪嘗胆。ひとりLGBTだけそうした艱難辛苦を免れるのだとしたら、それは不条理のみぞを徒に大きくするだけだ。

 従前通りで何がいけないと言うのか。世の中には離婚や養育者の交代で私生児の扱いを受ける子どもも多い。「事実婚」と言う言葉もあるほどで、なぜ一部のLGBTだけがこれまでにない法的根拠を求める権利があると言うのか。自説を社会に強制したいだけに見えるのは自分だけであろうか。具体的現場は理念とか理屈ほどに単純ではない。このようなことを僕が主張するとほとんどいまの社会では袋叩きに遭う。言説で人質を取ることを世間では「ファシズム」と言う。ことLGBT問題にかんする限り、マスコミが熱心に推進した「LGBTファシズム」に陥っているように思えてならない。加えて検索エンジンなどではLGBTについての発生社会背景とかについての本質(僕は背景に孤立恐怖の社会心理的なものがあると見ている。当事者たちは自分の性自認の原因として語るので、それが隠されている)はググれず、ましてネガティヴな情報には一切アクセスできない状況になっており、権力とマスコミの一体化は激しく、この「LGBTファシズム」は「言論の自由」を明らかに侵害しており、元来あって然るべき法の裁きさえ免れている醜状である。本来この「問題」の本丸は、「はにわり(半陰陽)」のひとびとの社会的処遇の問題であったはずである。意図的にそこから目を逸らすように仕組まれていると思わざるを得ない。

 反論したいひとには、まずはこれを読んでからにしていただきたい。

 僕の知人のあるひとは、それは変態なだけだと言っていたが、僕にしてみれば程度問題(自身の存立の危機)に見えている。

 かく言う筆者も同性に性的感情を覚えたことがある。幸い一過性のものだったため、何か間違ったと言うわけではないが、それで僕に分かったことは、悪魔や頑強なLGBTに感情を占拠されて、そう言うおかしな心情になることが分かっている。LGBTで悲しいのは、彼らにはそれに気付く精神的余裕がないままにそれが自分の永続的感情であると勘違いしたまま性自認を主張しているところにこの悲劇の本質がある。そのことの傍証として、この問題が突然ある時期から降って湧いたように主張されはじめて、いきなりLGBTの大軍団ができたことに物語られている。人間の心と言うものは、どこかでかかわりあっているのでそうなったと理解すれば得心がゆく。僕は自分の考えを現実の社会でいくつもなぜか盗まれているのを痛いほど見てきた。

 名古屋の市バスの中で、何食わぬ顔をして僕の隣に座り、勝手に僕のズボンのファスナーを開けて僕のチ○コを弄んでいたおじさんは、果たして知人が言うような「変態」の一言で片付けられるべきものだったのだろうか。僕はそう思わない。推測の域を出ないにせよ、LGBTのどれだけかはこのような連中であり、その他は現代の問題である不登校と同じく、意識的にか無意識的にか何らかの危機を察知して異性の性自認に逃げているだけのように感じられる。そしてこの問題の背後にあるのは、人間の権力性の大小についての個人差なのであろう(事実戦国時代の武将には男色に耽った者が少なくない)。

 僕の認識ではLGBTのなかにはそう言う奴(「衝動」を抑えきれずに変態行為をはたらく奴)も現実にいるし、もし公にLGBTを認めてしまえば多数の具体的便乗犯(たとえば風呂場覗きやトイレ覗きなどの「なりすましLGBT」)も出ることくらいは容易に想像がつく。下手をすればタオルの下や石けんの中、シャンプーのプッシュボタンにマイクロカメラを隠し持っているかも知れない。ただ「心の問題」と現実に割り切れるものなのか。ずるい奴はポリグラフ(虚偽検出)さえかいくぐると言う。それもそのはずだ。悪魔の本質はただ悪いと言うことではなくて、問題から逃げるところにある。

 これから5年後までに僕の指摘する社会的混乱がひとつでもあったなら、国民は全員僕に一人につき罰金5万円は払ってくれるべき。これは正義を誤ったすべての人間に言いたいこと。

 自殺問題があったからと言い、国民全員がマスコミの洗脳に染まってしまった。自殺があったからと言うなら、全然別の問題(たとえば借金苦や貧困)でも国民はそのように日和ってくれるのか。そもそも「LGBTの自殺が多い」と言う主張は統計的にあまり意味がない。と言うのは圧倒的に健常者の自殺と比べてパラメーターが小さいからである。

 猛省を促したい。それでも文句があるのなら、どうせ僕の夢や願いや考えやアイディアは社会的にはひとつも叶わないことは嫌と言うほど分かり切っているので、勝手にしてくれ。何せ僕は江戸期の名もなき百姓衆の末裔なので、お上が誤ったとしても、自分の夢が叶わないからと言っても、痛くも痒くもない。

 おそらく最高裁は世界標準の判決を出そうとする意識が強かったのだろう。しかし、この問題で世界標準になろうとすればするほど、この国は日本ではなくなっていく。

 この問題は、これまで我々の間で培ってきた常識への挑戦なだけではなく、「社会>個人」なのか「社会<個人」なのかと言う永遠に答えの出ないかも知れないプロブレマティック(問題構制)を孕んでいる。

 そして、この問題はそのいい加減さにおいて原発問題と完全に相似であって、勝るとも劣らない。言いたいのは、「テメエの言説には責任を持て」、ただそれだけである。

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恋愛の人間的欠点

 
 誰でも恋愛はするかも知れない。

 しかし、考えてもみれば実にバカバカしいことではないだろうか。

 と言うのは、恋愛においていつもプロポーズする側が心理的弱者(つまり、下)の立場になる。女性が性的な視線を向けられることも、これと同断の構制である(こちらにかんしては個人差の大小も考慮されなくてはならない)。もちろんそれは時代背景にも負うところが大きい。

 さらにバカバカしいことには、恋愛を一種の「博打」にしてしまう(僕は祖父譲りの博打否定論者である)。

 これは人間の尊厳と言うものを考えたとき、それを著しく損なうものなのではないだろうか。それは有り体に言うと、媚び諂いそのものである。それをいいことにした悪事が横行もするだろう。

 心理的な上下のできない男女の関係こそ、これからの時代に模索されるべき問題なのではあるまいか(僕は男性の男性度、女性の女性度の存続を妨げる者ではない)。

 やはりステップワイズ(少しずつ)にお付き合いを深めて行くのが良いのかも知れない。

僕の人生展望

 
 僕が死んだら、僕のことは以下のように語られるであろう。

 「願いの1つも叶わないまま病魔で踏んだり蹴ったりの波乱に満ちた人生を一銭も儲けることなく閉じた」

 まぁこの国、1万人中9999人はそうだろうと思うけど。

 いまは七夕のあと。

 ※僕のしてきた「仕事」はこちらの通りだが、(僕自身が気付いた知恵はすべてノーコピーライトにもかかわらず)何一つ社会的に実現していない。

 だからもっと短く言うと、僕の人生は「現実のない人生」。それで分かるのは人間は「心の動物」などではなく、「現実の動物」だと言うこと。

統計的検定の初歩

 
 心理学においても、多彩な統計学の手法を用いていることは常識的なことである。

 しかし、その「ミソ」を明確にイメージできているひとはまずいない。

 そこで、ここでは統計的検定、中でも使用頻度の大きい「2つの平均値の差の検定(いわゆるt検定)」について、イメージからお話してみたい。

 集団Aと集団Bがいずれもある課題について正規分布をするとする。しかし集団Aの平均が50点(標準偏差4.5)で、集団Bの平均が55点(標準偏差5.0)だったとする。

 ここで集団Aの平均値と集団Bの平均値に有意な差があるかと言う問題に統計的答えを出すためには、これら2つの集団の正規分布曲線を重ねてみて、重複部分の面積が相対的に大きければ「有意差なし」、小さければ「有意差あり」と言うことになる。有意差についてはある程度重複面積が小さければ「5%水準で有意」、さらに小さければ「1%水準で有意」とかになり、マスコミの記事でこうした表現に触れたひとも少なくないだろう(要するに100回そうして5回ないし1回未満しか起こらない確率と言う意味です)。

 イメージで語れば、そのような手続きを取ることによって、集団Aと集団Bの平均値に差があるのかを検討できることは容易にお分かりいただけるであろう。本当に簡便な数式でこれを求めることができるのなら、それが主流となるべきである。

 しかし残念ながら、現実にはそのような統計学的手続きが実在するわけではなく、2つの集団の差分から成るもうひとつの正規分布曲線を導き出して、統計的に「有意」なのか否かを判別するのが現在のt検定の現実の手続きである。

 ここでの目的は、イメージとして統計的検定、分けてもt検定を理解してもらうことだったので、これで良しとしよう。

統合失調症の心理的治療

 
 僕は以前書いたように、カウンセラーではない、したがってこの世(在野)に必要ではない心理士である。

 その無価値な心理士として考える「統合失調症の心理的治療」の具体について触れておきたいが、その前にひと言だけ断っておく。

 統合失調症については、心理的治療よりも精神医学的治療、すなわち腹側淡蒼球などの薬物的な代謝異常の是正が優先する。そのドラスティックさにおいては、心理治療よりも薬物治療の方が根本的な治療たりうるからである。

 さて、統合失調症は多くの場合、「意味付けされた幻聴」をその主訴とする。それで僕は統合失調症のことを「囚人症候群(別名アナザーパイロット症候群)」と呼ぶことを提案している。その意味で、統合失調症は「理解不能の病」ではない。

 多くの医師が言うように、統合失調症患者ではこの「意味付けされた幻聴」が「現実」だと認識していることが、「病識の欠落」なのだと問題視しているわけである。

 ならば、統合失調症患者に治療者が手取り足取りして、「それはあなたのおかしなところです」と一々指摘して、「普通はそんな認識は持ちません」と言う明確なメッセージを与え、病識を持たせるところから心理的治療は開始されるべきである。

 そしてその先に進むためには、その症状に意識的に対決・無視させるよう患者を導くことこそが、真の意味での統合失調症の心理的治療になるはずである。

 これは昔からある「ロゴセラピー」と言う手法である。

 果たして、「公認心理師」は、こう言う治療を現実に行っているのであろうか。