筆者からみた「ラザラス-ザイアンス論争」

 
 読者の方は、「ラザラス-ザイアンス論争」と聴いても何のことを言っているのか分からないと言う向きの方が多いかと思うので、まずはこの論争の概要を示し、次いで筆者の見解を表明したい。なお、この議論の筆者なりの結論は、「ジェームズ=ランゲ説-キャノン=バード説論争」の参考にもなると思うので、それも念頭に置いておかれたい。
 
 1980年代に、ラザラスは、感情が起きるに当たっては、必ず認知的評価が必要だと主張した。これに対して異を唱えたのがザイアンスで、彼は感情と認知はそれぞれ独立のシステムで、感情は認知的評価を伴わずとも生起しうる、と噛みついたのである。

 これが厄介なことに、両説ともそれぞれに支持する実験的知見があって、ラザラスの説は認知心理学の治療理論において実証されており、ザイアンスの説にも「単純接触効果(刺激に触れただけでボジティヴな感情が生起する)」と言う知見があったのである。
 
 一応ここで、これに関連する「ジェームズ=ランゲ説-キャノン=バード説論争」もおさらいしておこう。「泣くから悲しい」の標語でも有名な「ジェームズ=ランゲ説」は、感情が惹起されるためには、それに先行する身体反応が必要だと考えた。より常識に近いと思われるのが、これに対する「キャノン=バード説」で、感情が生起した後に身体反応が現れる(悲しいから泣く)、と主張した。

 ここではお話を「ラザラス-ザイアンス論争」に限るが、その結論は「ジェームズ=ランゲ説-キャノン=バード説論争」にも適用されるだろうと言う含みを持たせておく。

 筆者の考えでは、感情の生起に認知的評価が必要かどうかも論じないし、いわんや感情と認知がそれぞれ独立のシステムかどうかについても何も語るつもりはない。

 ただ筆者の思うところでは、感情の生起にとって必要なのは「心理的構え(psychological set)」であり、「ラザラス-ザイアンス論争」は、一種の抽象に溺れた論争だったに過ぎないように見える。

 たとえば筆者はこの世で一番雷様が怖いと思っている。雷様が鳴り出すと、怖くて震え出す。そして現実に雷様が附近を直撃したりすると、ひどくビックリして胃がひっくり返るほどである。

 しかしもし、筆者が雷様がまったく鳴っていない状況でそれ相当の音を聴いた場合にはどうであろうか。筆者はそれを誰かが家で転倒したと解するかも知れないし、附近の住宅が崩落したと解するかも知れない。少なくとも、雷様の直撃とは明らかに異なる反応をするだろう。つまり、恐らくそれで自分の胃がひっくり返る思いはしないだろう。

 あるいは映画を見ている。話の筋から主人公がさえない人間で、何をやっても周囲から叱責されると言う伏線が筋として与えられていて、主人公はいつも泣いているとしよう。ところが映画のクライマックスではたまたま主人公にできて周囲の誰にもできない問題が持ち上がり、一躍主人公は賞賛されたとしよう。我々は「主人公はさえない奴」と言う心理的構えを持ったがために、最後に賞賛される主人公を見て落涙するかも知れない。

 人間は、いつでも何らかの心理的構え(日常の心の持ちよう)を無意識に持っている。つまり、特に何も意識していないと言う構えのときは、取り敢えず「何それ?」くらいの反応はするだろう。

 と言うわけで、僕なりにみた「ラザラス-ザイアンス論争」は、ラザラスなりザイアンスなりのいずれかが正しいと言うわけではなくて、感情的反応とか胃がアップセット(動転)するとかの反応には、必ず何らかの心理的構えが前提としてあり、必要なように思うわけである。恐らくその中には認知的(記憶的)なものも感情的なものもあるはずである。

 恐らくその意味で、「ラザラス-ザイアンス論争」は、命題の立て方そのものに問題があったのではないかと思われるのである。いったい、「実験」とか「実証」とは何なのであろうか。

「筆者からみた「ラザラス-ザイアンス論争」」への3件のフィードバック

  1. 無理矢理にでも笑顔を作れば、少なくとも、脳を騙せる、みたいなのは本当ですか?

    1. TPOにもよるでしょうが、苦しいときに笑顔を作っても、それは「ゆがんだ笑顔」にしかならないでしょう。
      もしそれが「脳を騙す」としたら、それはおそらく社会的相互作用の結果のときだけでしょう。
      「無理矢理笑顔を作る」→「周囲が和む」→「自分も気持ちが前向きになる」みたいに。

      1. そうなんですね、いろいろ都市伝説的なことをまにうけてしまうので、こんな質問でも答えてくださってうれしいです

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