「勉強」にみる記憶の特質

 
 予め断っておく。僕は「勉強」が嫌いだ。したがって「勉強」と言う価値観は持ってはいない。ただ心理学のトピックではあるので、やむを得ず僕なりの知見を述べるに過ぎない。

 最近は、なぜ記憶がうまくできるのかを巡って「精緻化(情報の付加)」とか「符号化特定性(コード化の仕方)」とかが話題になっている。

 しかし、事ほどさように記憶成績が上がるのかと言えば、ただ「差が認められる」程度である。

 僕は受験勉強をしたことはない。当然塾にも予備校にも縁がない。

 そんな僕に記憶成績について語る資格はないのであろうが、心理士の端くれとして「精緻化」や「符号化特定性」よりも記憶にとって大事なことを書き留めておく。

 僕が小学生高学年のとき、同じクラスに双子の姉妹がいた。その姉妹はたった2人きりで学年トップの座を占めていた。

 僕は人生で一度だけ「勉強」の真似事をしたことがある。それは、高校のクラスの男子の中で試験対策をしようとなったときのことである。自分は英語を担当したので、少し突っ込んで試験範囲の英語についていろいろと調べ、みんなにそれを「教授」する役割を担った。

 僕のいつもの英語の成績は、学年平均よりもかなり低かった。ところがそのときの英語の試験の成績が学年トップ3に入ったのである。

 このことが教えることは、受験勉強にせよ何にせよ、知識が記憶に定着するのには、みんなが「受験勉強」と聞いて思い浮かべるような孤独な「勉強」よりも、みんなでの教え合いと学び合いのある「共助学習」の方が遙かに効果的だと言うことである。

 世には「記憶術」と言って語呂合わせをすると良く覚わると言う都市伝説がある。

 残念ながら、いわゆる「記憶術」は、その効果において個人差がありすぎるばかりではなく、ごく一部の人間にしか恩恵を与えない、と言うことがある。

 「バズ学習」と言う言葉を聞いたことのあるひとも多いだろう。だが残念ながら、その効果は自発的かつ未知なものでないと現れはしないのである。

 「受験競争」と言う言葉が叫ばれて久しい。ところが、人間のパフォーマンス(成績)を上げるのには、「競争」よりも「共助」であると言う人間の建て付けの上での特質があるのである。

 なので筆者にとって記憶力アップに最も効果がありそうなのは、あくまで「共助学習」であると言うことを強調して、この記事の結びとする。このような学習形態は、「科学としての心理学」にも、現在の学校なり予備校なりの環境にも見出すことができない。

 ただ、「お受験」と言う価値観のもとでは、こう言っても進むも地獄退くも地獄には違いない。

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