視聴覚両方障害者のための「掌(指)ことば」

 
 言語の本質は「加減算性(賦与・付加/控除・否定)」と「即性」と「示置性」と「対話性」と「時制」の5つしかない。これを6段階の順を追って掌(あるいは指)に伝えることにより、視聴覚両方障害者のためのコミュニケーション言語を作ることができる。

 「加減算性」と言うのは筆者なりの判断論の本質を突くもので、「判断とは認識の加減算である」と言うテーゼを具現したもので、「即性」の間、後に賦与、付加、控除、否定を表す指繰りで指示する。

 「即性」(英語の5W1H、場所、具有性(名詞、動詞、形容詞、間投詞、接続詞)、あるなし、(ことばの本質はすべて形容詞だと理解していると分かりやすい))については概ね300語以内(5指の繰り触れようの組み合わせがそれくらい)に収め、並列されているときは主語述語等価関係を表すものとし、「加減算性」は即性同士の関係を示し(加算・控除は即性間にはさみ、賦与・否定は即性の連続の後に置く)2指で足り、「示置性」は5指(~について、~に対して、~において、~と、~の(条件下で))で足り、「対話性」は5指(疑問、請願、叙述、感嘆、落胆)で足り、「時制」も3指2段(現在、過去、未来の3指と完了、継続、無時制の3指の2段)で足りるので、この「5指6段コミュニケーション」を基本として現実の使用上の障害などがあれば柔軟に改善してゆくのが良い。

 語順は理解しやすいように「対話性」、「加減算性」、「時制」、「即性」、「示置性」の順で配置すると良い。特に子どもの言語獲得においては初期的に疑問から始まるので、それを足場にするのが良い。

 段を飛ばすときにはトンと掌に1回拍子を入れ、節を挟む場合は、節の手前と終わりにトンと掌に2回拍子を入れるのが良い。言いたいことが終わったら、3回トンと掌に拍子を入れるのが良い(必ずしも6段になっていなくても良い/カタコトの日本語のような口語体が派生することも許容する)。

 「示置性」の「~と」とか短い叙述(主語述語関係のみの叙述)にかんしては、節を挟む形で表現する(他の場合もこれに準ずる)。

 取り急ぎ提案まで。

心理学が助長する世界の過ち

 
 いまはすでにこの世にはいないが、親しくしていたブロガーさんに僕の「講座 心理学概論」への感想として、「いまの社会は巨大なスキナー箱のようですね」、とご指摘いただいたことがあった。

 僕は人間の第一は愛、第二が人間性、第三が相互扶助、第四が知恵、…とそこに「科学」とか「学問」を挙げたりする人間ではない。

 なぜかと言うと、そう言う順番で大事なことが優先していたなら、いまのような世にはなっていなかっただろうからである。

 端的に言えば今の世の中は、「賞罰の社会だからお金の社会になった」と言うことである。この社会は人間的にかなり薄っぺらな社会であり、それによる精神の荒廃と人間関係問題がかなり進行している。

 言うまでもないが、賞罰をその思想の中心にしてきたのが「現代」の心理学である。ここでは「卵が先か鶏が先か」は論じないことにする。

 僕は人間にとって第四に大事な「知恵」、具体的には「因果(殺生)なき生活の知恵」を、ホームレスがお金なしに生活できる程度までは考えてきたし、これからも人生の課題として考えてゆくつもりである。

 このような世においては、効率と利便が何よりも重視されるので、我々の祖先である縄文人たちでさえなしはしなかったような実質的な奴隷主義が世のあらゆるところにはびこっている。

 「民主主義」と言う理念は良いものなのかも知れないが、いまの世では実質単なる「多数決主義」に陥っている。政治にせよ経済にせよ、その本来は「妥当主義(僕は合理的と言う言葉が嫌いなのでこう言う言い方になった)」と言うべきものではなかったか。

 いまの社会に妥協する言い方をすれば、本当に優秀な経営者と言うものは、首切り(リストラ)によって企業を維持するような経営者のことを言うのではなくて、誰も犠牲にすることなく企業を立て直せる経営者のことだと思っている。

 僕の社会理想は「相互扶助による重層的(全世代型)コミュニティ」であるが、あまりにも社会の現状とかけ離れ過ぎているため、どんなに頑張っても実現しそうにない。

「勉強」にみる記憶の特質

 
 予め断っておく。僕は「勉強」が嫌いだ。したがって「勉強」と言う価値観は持ってはいない。ただ心理学のトピックではあるので、やむを得ず僕なりの知見を述べるに過ぎない。

 最近は、なぜ記憶がうまくできるのかを巡って「精緻化(情報の付加)」とか「符号化特定性(コード化の仕方)」とかが話題になっている。

 しかし、事ほどさように記憶成績が上がるのかと言えば、ただ「差が認められる」程度である。

 僕は受験勉強をしたことはない。当然塾にも予備校にも縁がない。

 そんな僕に記憶成績について語る資格はないのであろうが、心理士の端くれとして「精緻化」や「符号化特定性」よりも記憶にとって大事なことを書き留めておく。

 僕が小学生高学年のとき、同じクラスに双子の姉妹がいた。その姉妹はたった2人きりで学年トップの座を占めていた。

 僕は人生で一度だけ「勉強」の真似事をしたことがある。それは、高校のクラスの男子の中で試験対策をしようとなったときのことである。自分は英語を担当したので、少し突っ込んで試験範囲の英語についていろいろと調べ、みんなにそれを「教授」する役割を担った。

 僕のいつもの英語の成績は、学年平均よりもかなり低かった。ところがそのときの英語の試験の成績が学年トップ3に入ったのである。

 このことが教えることは、受験勉強にせよ何にせよ、知識が記憶に定着するのには、みんなが「受験勉強」と聞いて思い浮かべるような孤独な「勉強」よりも、みんなでの教え合いと学び合いのある「共助学習」の方が遙かに効果的だと言うことである。

 世には「記憶術」と言って語呂合わせをすると良く覚わると言う都市伝説がある。

 残念ながら、いわゆる「記憶術」は、その効果において個人差がありすぎるばかりではなく、ごく一部の人間にしか恩恵を与えない、と言うことがある。

 「バズ学習」と言う言葉を聞いたことのあるひとも多いだろう。だが残念ながら、その効果は自発的かつ未知なものでないと現れはしないのである。

 「受験競争」と言う言葉が叫ばれて久しい。ところが、人間のパフォーマンス(成績)を上げるのには、「競争」よりも「共助」であると言う人間の建て付けの上での特質があるのである。

 なので筆者にとって記憶力アップに最も効果がありそうなのは、あくまで「共助学習」であると言うことを強調して、この記事の結びとする。このような学習形態は、「科学としての心理学」にも、現在の学校なり予備校なりの環境にも見出すことができない。

 ただ、「お受験」と言う価値観のもとでは、こう言っても進むも地獄退くも地獄には違いない。

選好的条件付け

 
 みなさんは「○○が食べたーい」と思うことがよくあることだろう。

 実は学習心理学ではこのようなタイプの条件付けは学習のタイプのレパートリーにもなければ、したがって決まった名称もない。

 そこで筆者は、このようなタイプの条件付けのことを「選好的条件付け」と命名したい。

 選好的条件付けには行動主義が嫌った結果的欲求の不可視性と反応の自由度の大きさと言うものがその基礎にあり、他のいかなる条件付けとも異なっている。