心理学における「連合主義」の誤り

 
 心理学史において、特に学習心理学においてクローズアップされる史実は、ジョン・ロックに始まる「連合」と言う概念である(哲学史ではロックは経験論だと言われるが、大局的にみたとき人間の経済的存在論を説くと言う意味で、筆者は合理論者だとみている。それはアダム=スミスやリカードなどの思想的系譜に属する)。

 しかも念の入ったことには、それが心理観の基本概念として、条件付けなどの「発見」へと道が続いたことは、「心理学者」たちのひどい視野狭窄を招いてしまった。

 特に我々日本人には、「連合」と言う観念は奇異なものにさえ見える。

 僕は、かねてから言っている通り、「報酬と罰」と言う学習観に否定的である。単純に言って、そう言う「原理」でもしひとを育てたとするならば、そのひとはおそらく共感性に欠けた利害と打算で生きるだけの「マシーン人間」に育つに違いない。それが証拠に、ある種の共感性がはたらいていないと、天敵から身を守る法とか採餌戦略その他さまざまな「生きて行く知恵」は世代を超えて受け継がれはしないはずである。

 その意味で学習心理学における「学習」と言うのは、他律的に作為的な判断形成ほどの意味であって、プラグマティズムの哲学者たちの拙速な考え方の申し子と言って良い。実に良く現在の学歴経済主義的世界観を表しているではないか。

 そこで、哲学的な見地から「連合主義」の人間的欠陥を指摘しておきたいと思う。

 僕の認識論では、概念のタテの関係を「抽象-具象」、ヨコの関係を「類推-帰趨(ロールオン-ロールアウト)」だとする。なので「連合」と言う概念はこれら2軸の複合的概念だと言うことになる。また、「連合」と言うのは、人間の類推能力のごく一部に過ぎないと考える。かつてウィリアム・ジェームズは意識活動を「意識の流れ」になぞらえたが、日本と言うローカルな一地域に住む僕の見方では、人間の意識活動と言うものは、日本語で言う「結び(敢えて英語で言えばknot)」と言うことが中心なのではないかと思われる。

 親鳥が雛に餌を与えることについて、熟慮のない「心理学者」は、「親鳥-餌」と言う条件付けが成立すると考えるに違いない。

 しかし、そのような営みで種が繁栄する源は、そんなに安っぽい「原理」によるものであろうか。適正ないのちのリプロダクションが報酬と罰だけで成立するものなのだろうか。

 これは僕の持論になるが、親鳥が雛に餌を与えるときに、親鳥の持ってくるものが餌と言う「報酬」だと言うよりも、親鳥の気遣い(生きてほしいと言うメッセージ)であるに違いない、と思う。そしてこの「生きてほしい」と言うメッセージ性のことをこそ「愛」と呼ぶのである。そしてこのようなメッセージ性を通して動物が学習するのは、即物的関係性と言うより抽象能力なのではないか、と言う気がしている。その抽象能力と言うのは、文化的だが言語外の「即性是認-否認」、すなわち判断である(しかし僕はあくまで思考と言う枠内では判断よりは良い視点の変幻自在さ-良い即性の与え方-を重視する)。「愛」は主体の側では実在する感情ではあるが、言語的コミュニケーション以外だと、客体にそれが芽生えるにはその感情を黙々と客体にとって焦点的、集積的かつ累乗的な行為の形で与え続けないといけない。こうしたことが他にも同様にないと、抽象能力は開花しない。その意味で言うと、哺乳類の中で人間ほど「愛」や「抽象」がエレガントではない動物はいない。

 だから、「連合主義」と言うのは、血の通った動物の「学習」の本質を突いてはいない、と思う次第なのである。言ってみれば、路傍の石だけを拾って「これこそ人間の指導原理なり」と言う愚がそこにある。

 世の中では「過保護」はいけない、と言う。ここで語られている「過保護」とは、一方的な価値観の押し売りや形だけの溺愛や腫れ物に触るような養育的態度のことを言うのであろう。しかし、真の意味でならば、「過保護大いに結構」と言いたい。いまの金銭至上主義の社会では矛盾が大き過ぎ、ひとがひとと対等に仲間であると言う意識を持ちすぎて損をすることはないからである。

 実証できればそれが科学だと言うのなら、僕の立場は非科学である。

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