講座 心理学概論 4 感覚心理学 2 感覚の定義

 「感覚」と言う言葉の意味はとても広い。「洗練されたセンス」とか「生の感覚」など、いわゆる「五感」に限定されてはいない。しかし、心理学における「感覚」はいわゆる「五感」のことを表す場合が多い。  

 感覚には心理学的には視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚の五感の他に温度感覚、痛覚、痒覚、臓器感覚、平衡感覚、運動感覚などが挙げられている。催幻覚剤(メスカリン、LSDなど)を服用すると、そこにないものが知覚されることがある。これを幻覚(hallcination)と言う。また、まぶたを強く押すと光を感じる。目のモダリティー(感覚適性)は光であって、圧力ではない。この場合の圧力を「不適刺激」と言う。  

 ところで、諸感覚に共通のモダリティーはないのであろうか。我々は「ある」と考える。どの感覚も「コントラスト」から成り立っている。感覚共通のモダリティーとして「コントラスト」を挙げておきたい。  

 感覚を扱った有名な哲学的著作にマッハの「感覚の分析」、ライルの「心の概念」などがある。いずれもすぐれた著作であるので、是非一度ご一読願いたい。  

 我々は感覚を外界・内界と心の接点だと定義する。我々の研究(2011)では意識を「経験を感覚すること」と定義していることから分かるように、内界内の感覚も含めて考えると言う立場である。こう定義することによって、心理学で扱える感覚を広げる狙いがある。  

 ところで果たして、ジェームズが主張するような「生の感覚」というのは実在するのであろうか。というのも、たとえば視覚において網膜像は反立しているのに我々は決して世界を逆さまに見ることはない。「知覚心理学」の章で取り上げるように、仮に「生の感覚」が実在するとしたら、ゲシュタルト心理学者たちが指摘したように、映画は細切れに見えるだろうし、音楽は知覚されないはずである。そのほか感覚は様々に修飾されている事実もこの仮定に疑問を投げかけている。哲学で言えば、カントの「物自体」という仮定が抱えているパラドックスと同じパラドックスに陥っているのではないか。   

 我々はこのような事態を受けて、心身二元論に代わる枠組みとして「態主義」と言う考え方をアンチテーゼとして提案したい。心理学的にバランスの取れた見方だと思うが故にである。「状態・事態」など、世界は態としてのみ知覚しうるのだと主張したいのである。

講座 心理学概論 4 感覚心理学 1 精神物理学

 ドイツにおいて1834年、ウェーバーによって刺激強度がどれくらい違えばたとえば重さのような感覚が区別できるかについての最初の重要な法則が発見された。それは、たとえば100グラムの重りと102グラムの重りがギリギリ区別できるならば、200グラムの重りと204グラムの重りでないと重さを区別できない、すなわち重さの区別は比率が一定にギリギリ区別できる、という法則であった。彼は区別という言葉の代わりに「弁別」と言う言葉を使って、区別できるギリギリの値を「弁別閾」と称した。  

 1860年、フェヒナーは「精神物理学要綱」という書物を著して刺激の物理的強度と精神的強度の関係にかんする、いわゆる「フェヒナーの法則」を発表した。精神が感じる刺激の強度は、物理的強度のべき乗(フェヒナーの場合、正確には対数)に感覚固有の定数をかけて示すことができる、と言う法則がそこには発表されていた。さらに、刺激を感知できるギリギリの物理学的値を「絶対閾」と呼び、その研究についても記していた。  

 フェヒナーは野心家だった。彼の構想では、物理的世界と精神的世界の関係にかんする学問である「外的精神物理学」と生理学的世界と精神的世界の関係にかんする学問である「内的精神物理学」を追求すべきであり、精神物理学の本質は内的精神物理学の完成にあると考えていた。現在でも未だ不明な部分の多い内的精神物理学の完成こそが彼のライフワークになるはずだった。しかし彼のこのような構想は、後世の心理学者・生理学者たちに委ねられることとなった。  

 正確に言うと、感覚のべき乗法則は、スティーヴンスによって完成された。彼は類い希なる数学的才能を持っていた。彼の心理統計の発展に尽力した部分は極めて大きい。心理統計の名義尺度・序数尺度・間隔尺度・比尺度の分類は彼の手によるものである。彼の精神物理学への評価は高く、「精神物理学は数学に似て、応用的分野で有用なものになるだろう。政治・産業においても不可欠のものになるだろう」と語り、精神物理学の厳密科学化に尽力したことは特筆されねばならない。

講座 心理学概論 3 心理学史 18 臨床心理学の誕生と発展

 1896年、ヴントのもとで学位を取得したウィットマーは、アメリカ心理学会ではじめて「臨床心理学」という用語を使用した。この時を以て臨床心理学が誕生したとみなされている。彼は学校生活や学習に問題を抱えたひとびとを心理学の知見を駆使して援助した最初のひとでもある。その後、19世紀初頭のビアーズやヒーリーなどの活躍により、精神障害や非行の問題への心理学的アプローチが発展し、児童指導クリニックが各地に作られ、児童指導運動の流れを作ってゆく。  

 それから時を少しおいた1920年代あたりから、行動主義に基づく動物恐怖症や夜尿症の治療の展開が見られ、その後ウォルピが系統的脱感作法という行動療法の原型を作り、ラザラスの多面的行動療法、スキナーとその弟子たちによる行動理論の臨床的応用などがぞくぞくと登場した。  

 すでに述べたので省くがそれ以前はこの分野の代表的治療法は精神分析だけだった。そこに主に教育・福祉問題に焦点を当てた「指示的カウンセリング」がウィリアムソンらによって提起されるのだが、それは行動主義の怒濤に凌駕されていた。しかし、「カウンセリング」と言う概念を提起した功績は認めなければならない。それはやがて、1940年代のロジャーズによる「非指示的カウンセリング」に取って代わる。彼は「教えるから変わる」のではなくて、「教えないから変わる」という人間性理論によって代表される「臨床心理学の第3潮流(マズロー)」と位置づけられている。彼の弟子に、「既存の心理学理論では、パーソナリティを変化に抵抗するものと位置づけているがゆえに、パーソナリティの変化をうまく扱えないでいる」として、それに変わる「体験過程論」を唱えたジェンドリンがいる。  

 教条主義的な行動療法に冷や水を浴びせたのは、バンデューラである。彼は子どもを対象とする実験を行い、ただ行動を観察するだけで学習は生じうることを示した「モデリング」という概念を提起し、学習には必ず報酬が必要だとする既存の行動理論に異を唱え、モデリングの臨床応用にも積極的だった。  

 そのような点も踏まえて、現代ではベックの唱えた「認知療法」と既存の行動療法が結びついた「認知行動療法」が特に盛んになってきている。  

 以上で「心理学史」は終わりである。いよいよこれから心理学の扱う問題と論争を見てゆくことになる。

講座 心理学概論 3 心理学史 17 行動主義の台頭

 19世紀末のロシアでは、胃酸の分泌の研究をしていた生理学者(彼は「心理学者」と呼ばれることを嫌った)パブロフが、イヌを被験体とした実験の中で、肉粉を盛った皿を皿だけ見せても顕著な胃酸・唾液の分泌が見られることを発見し、これを「精神的分泌」と名付けた。この研究は先述の通り、アメリカに紹介され、これを契機にアメリカでは実体の見えない「心」を研究するのではなくて、観察可能な「行動」を研究すべきだとする学者が1910年頃には多数存在した。  

 そんな中で1913年にワトソンは「行動主義者の見た心理学」と言う論文を発表し、それまでの主観的言語による心理学の追求を、科学の要求する客観性・公共性を損なうものだと厳しく非難し、科学的心理学が研究すべきものは目に見えぬ「心」ではなくて、観察可能な「行動」だけだと主張し、自らの立場を「行動主義」と呼んだ。  

 行動主義の濫觴はデューイやエンジェルのいたシカゴ大学にあった。ワトソンはロックと同じく極端な環境主義者であった。11ヶ月の「アルバート坊や」の実験ではシロネズミを見るたびに不快な金属音を鳴らすことを繰り返すと、アルバート坊やはシロネズミだけではなく白ウサギ、さらにはサンタクロースのひげを見ただけで恐怖から泣くようになることを示した。パブロフの実験も含めてこれらの現象は、後にヤーキスとヒルガードによって「古典的条件付け」と名付けられたものである。  

 1930年代になると、科学的概念はそれを測定する手続きによって定義されなければならない、という「操作主義」の考えが、古い行動主義では説明がつかなかった現象の説明のために導入されることとなった。その中でクラーク・ハルは習慣強度、反応ポテンシャル、動因といった仮説的構成概念を導入し、反応が強められるのは反応によって動因が弱められるためである、という「動因低減説」を唱えた。1943年の著書「行動の原理」は世界的に普及した本となったが、それからのハルはどんどん難解で実証不可能な理論の袋小路に入っていった。

 ハルと対照的なのが巨視的目的行動を研究したトールマンである。短い期間だったがケーラーのもとで過ごしたこともあるトールマンは、期待、仮説、信念、認知地図と言った概念をその理論の中核に置き、サイン-ゲシュタルト理論を構築した。  

 これらの理論を不要に複雑な理論だとして、「条件付けは1回の試行で接近していれば成立する」という接近説をブチ挙げたのはガスリーであった。彼の理論が誤りなのは明白だけれども、学習の進展を1試行ごとに考えるという点では学習心理学において強化の規定因を1試行ごとに考える「レスコーラ=ワグナー・モデル」の中にその着想は生きている。  

 今日の学習心理学を語る上で欠かせないのが、何らかの反応(オペラント)をすれば何らかの報酬が得られるようなタイプの学習、すなわち道具的条件付けの研究に生涯を捧げたスキナーの存在である。彼は道具的条件付けを研究するためにバーを押せば餌が出てくるような「スキナー・ボックス」を考案し、条件付けの技法を用いて臨床的問題を解決する「シェイピング」という方法を考案した。  

 しかし、1960年代になって学習理論の限界が徐々に明らかになるにつれて、トールマンのいう「認知」を旗印としてナイサー、アンダーソンらによって「認知心理学」が唱導されるようになり、以前ほどの勢いは今の心理学界では失われている。

講座 心理学概論 3 心理学史 16 発達心理学の誕生

 19世紀半ばのドイツでベーアは人間の発達を「分化と体制化」の過程であるとする発達の一般原理を提唱した。その後ダーウィニストのヘッケルが「個体発生は系統発生を繰り返す」という反復発生説を唱える。後にアメリカのホールが発達原理として仮定したのも、この説である。  

 そういうドイツの雰囲気の中で、1883年にプライヤーが自分の子どもを出生直後から3歳になるまでの間を観察して「児童の精神」という本にまとめた。組織的観察法を用いた彼の手法は、彼の著作を以て児童心理学の誕生とされるだけの信頼性があると認められた。  

 これらの温床は19世紀に欧米における「身分制から職業選択の自由へ」という流れに求められる。標準的な教育としての中等教育の普及は、青年期という新たな発達段階を生み出し、1901年にボストンで始まった職業指導運動に代表される社会運動が青年期という時期に焦点を合わせて勃興し、1904年にはホールが反復発生説を基礎とした「青年期」という著作を書いた。これは青年心理学の始まりに位置すると考えられている。  

 1926年にウェルナーが「発達心理学入門」を著し、大人と子ども、文明人と未開人の比較から発達の一般原理を提出した。それは、「未分化-分化-統合」という定向発達を唱えるものであった。

 ロシアにも発達心理学が20世紀初頭に現れた。マルクスの弁証法的唯物論を発達に当てはめて考えたのはヴィゴツキーであった。彼は児童心理学を発達心理学に取って代わらせる役目を担ったピアジェとは対照的に、こどもの外言はやがて内言へと移行してゆくものと見、内言はやがて不要になるというピアジェと真っ向から対立する形となった。現在ではヴィゴツキーの立場を取る学者が多い。  

 1970年代になると、ライフスパン発達心理学(生涯発達心理学)が産まれ、減退や水準の低下といったこれまで否定的に捉えられていた中高年期以降の「老化」は、生涯発達心理学の重要なテーマとして「エイジング」という発想への転換をした。ここに、「ゆりかごから墓場まで」の心理学としての生涯発達心理学が誕生し、現在まで夥しい数の著作が刊行されるに至っている。その前提して1960年代のベトナム反戦運動とか学生運動が盛んになり、それが黒人の公民権運動や女性や高齢者の権利の主張にまで影響を与え、アメリカの中高年の危機を顕在化させたと言う背景があり、生涯発達心理学は時代の要請だったと言える。 

講座 心理学概論 3 心理学史 15 機能主義心理学

 1854年にスペンサーが書いた「心理学原論」の中で、彼はラマルク的進化論を中心とした適応の心理学について述べている。「進化論が正しいならば、心も進化の観点から理解することができる」と彼は言った。そして「知能は、質的な差ではなく量的な差である」とも述べている。それを受けてダーウィンは「人間はより程度の低い有機体から派生したものである」と言い、「人間の心と動物の心は程度の違いである」ことを強調した。ここに、心理学の基礎としての進化論が出現したのである。そして相関係数や個人差の心理学の基礎を自分の財産だけで研究したダーウィニスト、フランシス・ゴルトンが現れた。同時に彼は負の遺産も残したと言われる。いわゆる「優生学」である。この思想は「ヘッド・スタート計画」をもってしても白人と黒人の知能の差は埋められないとするジェンセンのような心理学者を出現させ、現代でもなお払拭され切れてはいない。ダーウィンの友人で比較心理学者のロマーニズは1883年の彼の著作の中で動物から人間にいたる心の進化の展望を書いたが、それが「逸話法」という方法によっていることがモーガンの「低次の原因で説明できる動物の行動を、より高次の原因で説明してはならない」という「モーガンの公準」と言う形での批判につながり、ソーンダイクらの失笑の的となった。  

 それ以前に入植が始まっていたアメリカでは福音派のプロテスタントが国をまとめあげていった。そのアメリカに心理学を移植したティチナーはイギリスのウォードのような思想、つまり内容ではなく機能を研究すべきとするプラグマティズムの思想に凌駕されつつあった。これは、実業を重視するビジネスの世界から湧き起こって来た思想である。このような土地では社会ダーウィニズムの受けが良かった。このような中でフランスのビネーが開発した知能テストが客観的だとして熱狂的に受け入れられたが、皮肉なことにそのようなひとびとの優生思想に冷や水を浴びせたのがナチスによるホロコーストだった。  

 プラグマティズムの公式な提唱者はパースであった。彼はベインの影響を受け、信念を習慣に還元し、ある信念が真理かどうかは「実際の行為と、どれだけ納得しうる関係にあるか」によると言った。このような現実の行為の認識論へのビルト・インはウィリアム・ジェームズによって遂行された。ジェームズは心を「目的を追求する戦士」だと言い、心身並行論を唱え、「心理学の原理」を書き、「脳という機械に重りをつければ我々はサイコロの4以上の目の出る確率を上げることができる」と言った。彼の「意識の流れ」と言う言葉はあまりにも有名である。彼は哲学と生理学を結びつけたこと、「泣くから悲しい」というジェームズ-ランゲ説を唱えたことでもよく知られている。  同じプラグマティズムの論客デューイは1896年に「心理学における反射孤の概念」という論文を書き、行動は反射孤ではなくて巡回回路であることを主張した。そしてエンジェルが現れ、ティチナーを倒してアメリカの機能主義を決定づける。1885年にはエビングハウスが「記憶について」という実験論文を発表し、その流れはヨーロッパにも取り込まれていく。ティチナーもエンジェルも機能主義者だと認めたブレンターノもヨーロッパで影響力を行使していく。  

 ちょうどその後(1909年)、ヤーキズとモーガリスが「動物心理学におけるパブロフ的方法」という著作をアメリカに紹介し、「行動主義」をアメリカで確実に準備してゆく。

講座 心理学概論 3 心理学史 14 精神分析学

 催眠療法を心理治療に本格的に導入したのはシャルコーであった。彼の弟子の中にはジャネ・ビネー・フロイトなど優秀な学者が多い。  

 パリのシャルコーが催眠によって心理的外傷となった出来事を神経症患者に再体験させると症状が消失することに感銘を受けたフロイトは、ブロイアーとともに「ヒステリーの研究」という書物を著し、同じ本の中でブロイアーとは違った見解を著して以来、彼と他の精神分析家の間には、常に対立があり、競合離散したことは以下に述べるとおりである。  

 その前に、彼の理論について述べておく必要があろう。彼は催眠を捨て、自由連想法という方法によって力動的無意識を明らかにしようとした。当初は前意識、意識、無意識という心の領域分けをし、神経系もそれに応じた3種類を仮定していたが、次第にイド・自我・超自我の葛藤・調整から心的生活は成るという、局所論から構造論へのシフトをした。彼の中心的仮定は幼児性欲説にあったが、それが発展して「エディプス・コンプレックス」説になった。乳幼児は異性の親とパートナーに成りたがるが、そこには同性の親という「障害物」がある。この障害物によって去勢されるのではないかという不安からイドを守るために同性の親に同化してその価値観を超自我として発達させることによって保身を図ることでその調整役としての自我が発達する、と言う説である(ヴィクトリア時代には女性にも精液の発射器官があると考えられていた)。フロイトはヴントと同じく心の予測は不可能で、心理学は考古学のようなものだと考えていた。  

 まず、劣等感の理論を唱えたアドラーが離れていった。フロイトはユダヤ人だったから、ユダヤ人ではないユングが仲間の一人になったことはフロイトにとってとりわけ嬉しいことだったが、当初から考えにずれがあり、ユングも分析心理学を唱えて袂を分かった。サリヴァンも有力な弟子の一人だったが、より社会的な理論を提唱し、袂を分かった。  フロイトにはアンナ・フロイトという娘がいた。彼女は現在の高校の教科書に出てくるようなフロイトの防衛機制の詳細な分類をしたことで有名である。それまでのフロイトは「抑圧」と「昇華」の概念を明らかにしていたに過ぎなかった。  

 精神分析のイギリス学派と呼ばれる対象関係論がイギリスでは活発化した。文字通り母親やその乳房、移行対象(忘れ形見)を重視する学派で、主要な人物にクライン・フェアバーン・ウィニコットなどがいる。中でもフェアバーンはフロイトに似た理論を展開し、注目を集めた。

講座 心理学概論 3 心理学史 13 ヴント以降

 ヴントのもとで学位を得た心理学者たちは数多いが、ヴントの理論を継承する心理学者は一人もいなかったと言って良い。その中でも優れた心理学者にキュルペがいる。彼は、ヴントとは異なって、高次精神機能である思考を実験的に研究することができると考えた。そして、さらに「心像のない思考」がある、と指摘した。彼はまた「思考制限法」によって連合主義の弱点が突けるとした。彼の「心像のない思考」にかんしては、1901年にマイヤーとオルトが「非常にしばしば、はっきりした心像とも意志活動とも言えない意識過程を、被験者たちは追想実験において報告したことを述べておかねばならない」と報告している。  

 ミル父子のようなイギリス経験論とヴントのような大陸観念論を折衷させ、アメリカに心理学をもたらした人物がティチェナーである。彼は心はそれ以上には解析できない「要素」が組み合わさってユニークな感覚が生じると唱えた。しかし、晩年の彼は科学の仕事を「相関の記述」だと完全に限定し、こと心に至っては、完全な記述主義者になった。このような極端な心観・科学観が災いして、彼の「構成主義」は、一代で滅びる運命となった。     

 1890年、キュルペのいたヴュルツブルグ大学のエーレンフェルスが「ゲシュタルト質について」と言う論文で、個々の要素である音の物理的性質は異なるのに移調しても同じメロディーが認識される事実を指摘して「部分の総和は全体とは異なる」というゲシュタルト心理学を宣言する。その師マイノングもこれを支持した。マイノングの師は作用心理学で有名なブレンターノであった。ブレンターノの影響を受けたエーレンフェルスは、ゲシュタルト質は「志向的」すなわち能動的な意識の働きによると考えたが、ベルリン学派のヴェルトハイマーやコフカ、ケーラー達はそうは考えなかった。  

 彼らによれば、ゲシュタルトは受動的に認識されるものであると言い、それは脳の電場であたかも「認識の写し」が生じるために認識が生起するという「心理-物理同型説」を唱えた。彼らは、そのような立場から音楽・錯視・洞察などの現象を説明しようとした。  

 しかし、同じゲシュタルト心理学であっても、「場の理論」を脳内過程に還元せず、あくまでも心理的なそれに限定するレヴィンのような立場も現れた。

講座 心理学概論 3 心理学史 12 体系的科学的心理学への道

 19世紀も半ばになると、生理学的心理学にかんする業績がちらほらと見られるようになる。G.A.ミュラーは、感覚ごとにそれを媒介する物質は異なる、とする「神経特殊エネルギー説」を唱えた。この追随者にヘルムホルツもいた。彼は1850年というきわめて早い年に、カエルの筋肉に刺激を与えて神経伝導速度を測定した。その結果、刺激の伝導は毎秒26メートルほどであることを突き止めた。これには先達がいた。L.ガルヴァーニ夫妻である。彼らはカエルの脚に雷の電流を流すと、あたかも生きているかのように収縮することを見いだしていた。この頃の計量心理学的研究として重要な発想は、単純な刺激とその反応と、単純な刺激と選択反応の差分が選択時間として測定できる、と言うドンデルスの研究に先駆的に見られるものである。  

 それと前後して、1834年にはウェーバーによって刺激の差分の検出限界、すなわち弁別閾にかんする法則が報告され、カントの「心は数学化できない故に科学の対象にはなり得ない」と言う考えが明白な誤りであることが実証された。そして1860年、テオドール・フェヒナーの「精神物理学要綱」が出版され、刺激の検出限界すなわち絶対閾、感覚量と刺激量の関係にかんする法則も提出された。一定の体系を備えた世界で最初の実証的著作の出版という意味で、1860年を体系的科学的心理学の始まりと見る心理学者も多い。  

 それにヴィルヘルム・ヴントが続く。ヴントはヘーゲルの哲学の発展的継承者だと自認していたが、はじめ(1879年)自分のポケットマネーで、1885年からはライプツィヒ大学の予算から世界最古の心理学実験室を運営したことで有名な人物である。ヴントの関心は「心的総合」にあった。たとえば「しょっぱい」と言う単語は「し」・「ょ」・「っ」・「ぱ」・「い」という5つの記号から成っているが、これらを「総合」することによって「塩辛い」と言う意味になる。このように、総合の働きから心的生活が成り立っているとヴントは見る。ヴントの力点は、このように後のティチナーが力点を置いた「構成」にはなく、「総合」にあった。ヴントの心理学がしばしばガンツハイト心理学と呼ばれるのは、このためである。彼は1870年に「生理学的心理学」と言うタイトルの本を出版しているが、特に有名なのが感情は「興奮-鎮静」・「緊張-弛緩」・「快-不快」の3方向で説明できるとする「感情の3要素説」であるが、最近の因子分析的研究で、その意義が再確認されたりして、古くて新しいヴントというイメージを再び植え付ける結果となっている。ヴントは実験的心理学を離れて、現実の人間を理解するためには、文化固有の物語・童話・神話などを分析して初めて明らかになると言う発想を持っており、それをできる学問を「民族心理学」だと考えていた。彼は彼が死んだ1920年に大著「民族心理学」を完成させており、それは今日の文化心理学の中に生きている。

講座 心理学概論 3 心理学史 11 現代心理学への伏線2

 ここでは、①シャルコーの心理療法の原理となった催眠療法への伏線としてのメスメリズム、②生理学的心理学の端緒となったガルの心理大脳生理学説、③超心理学の基となった心霊研究協会、の3つの消長について説明する。  

 ①について。18世紀に活躍したメスメルは、生命のあるものにはある種の目に見えない流体が働いており、この流れが阻害されると精神疾患がもたらされると考えた。この流れを正常にするには金属磁気に類比される動物磁気を手や魔法の杖で叩くなどして整えることで治療効果が得られると考えた。この考えは学会から冷ややかな目で見られ、彼の「動物磁気説」は否定的に捉えられた。そのため彼は晩年の15年ほどの間、その研究から完全に手を引いた。しかし世俗的には科学主義的合理主義を受け入れきれない多くの人々の間で人気を博した。学術的な進歩の観点からは、ブレードが後にメスメルの引き起こした現象は「動物磁気」などによるものではなく、それは「催眠術」だと指摘したことが、シャルコーのヒステリーの治療の中に取り込まれることとなっていく。  

 ②について。今では一般に「骨相学」と呼ばれているが、それはシュプルツハイムによる命名で、その呼称をガル自身は受け入れなかった。ただし一般に紹介されているように、ガルはプラトンのように心の座は脳にあり、脳の部位ごとに受け持つ能力は違っており、優れた能力の背後には、それを担う脳の部位に膨らみが見られ、そのため人の頭の形が異なっているのだと考えたのは事実である。その後この説をめぐって膨大な研究がなされたが、彼の仮説の中で正しかったのは「脳が心の座である」ことだけであることが次々と実証されていった。しかしこの仮説が心理学にとって果たした役割は大きく、大脳生理学の先駆者として彼は位置づけられている。  

 ③について。死への恐怖を科学は慰めてくれないことに大きな不満を持っていたマイヤーズは師シジウィクの激励を受けて心霊研究協会を設立した。この協会の会長を務めたことのある心理学者にウィリアム・ジェームズがいる。その後ジェームズは一般心理学へと向かい、マイヤーズは霊的現象の記録を記した本を書き、世俗では人気を二分した。  

 以上で欧米における科学的心理学への伏線を記した。次節からはいよいよ本格的な科学としての心理学の歴史に触れることとする。ただし、思想史的には大陸の合理論とイギリス経験論の間の右往左往・合算・折衷をそこにみることになるだろうから、意識的にまとめて簡略に触れることとしたい。「心理学検定」を受検しようとする人々のためには今節までの知識は必要ない。