講座 心理学概論 3 心理学史 15 機能主義心理学

 1854年にスペンサーが書いた「心理学原論」の中で、彼はラマルク的進化論を中心とした適応の心理学について述べている。「進化論が正しいならば、心も進化の観点から理解することができる」と彼は言った。そして「知能は、質的な差ではなく量的な差である」とも述べている。それを受けてダーウィンは「人間はより程度の低い有機体から派生したものである」と言い、「人間の心と動物の心は程度の違いである」ことを強調した。ここに、心理学の基礎としての進化論が出現したのである。そして相関係数や個人差の心理学の基礎を自分の財産だけで研究したダーウィニスト、フランシス・ゴルトンが現れた。同時に彼は負の遺産も残したと言われる。いわゆる「優生学」である。この思想は「ヘッド・スタート計画」をもってしても白人と黒人の知能の差は埋められないとするジェンセンのような心理学者を出現させ、現代でもなお払拭され切れてはいない。ダーウィンの友人で比較心理学者のロマーニズは1883年の彼の著作の中で動物から人間にいたる心の進化の展望を書いたが、それが「逸話法」という方法によっていることがモーガンの「低次の原因で説明できる動物の行動を、より高次の原因で説明してはならない」という「モーガンの公準」と言う形での批判につながり、ソーンダイクらの失笑の的となった。  

 それ以前に入植が始まっていたアメリカでは福音派のプロテスタントが国をまとめあげていった。そのアメリカに心理学を移植したティチナーはイギリスのウォードのような思想、つまり内容ではなく機能を研究すべきとするプラグマティズムの思想に凌駕されつつあった。これは、実業を重視するビジネスの世界から湧き起こって来た思想である。このような土地では社会ダーウィニズムの受けが良かった。このような中でフランスのビネーが開発した知能テストが客観的だとして熱狂的に受け入れられたが、皮肉なことにそのようなひとびとの優生思想に冷や水を浴びせたのがナチスによるホロコーストだった。  

 プラグマティズムの公式な提唱者はパースであった。彼はベインの影響を受け、信念を習慣に還元し、ある信念が真理かどうかは「実際の行為と、どれだけ納得しうる関係にあるか」によると言った。このような現実の行為の認識論へのビルト・インはウィリアム・ジェームズによって遂行された。ジェームズは心を「目的を追求する戦士」だと言い、心身並行論を唱え、「心理学の原理」を書き、「脳という機械に重りをつければ我々はサイコロの4以上の目の出る確率を上げることができる」と言った。彼の「意識の流れ」と言う言葉はあまりにも有名である。彼は哲学と生理学を結びつけたこと、「泣くから悲しい」というジェームズ-ランゲ説を唱えたことでもよく知られている。  同じプラグマティズムの論客デューイは1896年に「心理学における反射孤の概念」という論文を書き、行動は反射孤ではなくて巡回回路であることを主張した。そしてエンジェルが現れ、ティチナーを倒してアメリカの機能主義を決定づける。1885年にはエビングハウスが「記憶について」という実験論文を発表し、その流れはヨーロッパにも取り込まれていく。ティチナーもエンジェルも機能主義者だと認めたブレンターノもヨーロッパで影響力を行使していく。  

 ちょうどその後(1909年)、ヤーキズとモーガリスが「動物心理学におけるパブロフ的方法」という著作をアメリカに紹介し、「行動主義」をアメリカで確実に準備してゆく。

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