家庭でできるプチ永久機関「巡りん」

ご自宅のお風呂の水で簡単にできます。

これがなぜできるのかと言うと、逆さまにした風呂桶の中の空気圧が2気圧ほどに高まるためです。水面付近の水圧は1気圧なので、空気圧に負けて気泡(空気)が循環する仕組みになるわけです。なお、風呂桶の形が台形の方が装置内の単位体積あたりの圧縮空気圧が高まるため、有利です。

ただし、これを水面近くで実現しようとしても、1.ストローの中に水が完全になく、2.ストローはあまり長くない、の2条件がたまたま揃うと言うように運が良くないとうまくは動作しません。取り敢えず冷やかしでも動作確認をしたいのなら、水深がそこそこあるところでおやりになってください。

なお、桶は透明なシリカ製、ストローはトウモロコシ由来のものが良いです(環境保護の観点から)。

追伸
うまく行かない方へ
以下のような明確な装置にし、
 
1.あまり空気溜りを大きくしないで
2.適当な水深のところで
3.空気の返し管を細くする
と、うまく行きます。
あきらめないで!!

※得心が行かない方はこちらをご覧ください。

「勉強」にみる記憶の特質

 
 予め断っておく。僕は「勉強」が嫌いだ。したがって「勉強」と言う価値観は持ってはいない。ただ心理学のトピックではあるので、やむを得ず僕なりの知見を述べるに過ぎない。

 最近は、なぜ記憶がうまくできるのかを巡って「精緻化(情報の付加)」とか「符号化特定性(コード化の仕方)」とかが話題になっている。

 しかし、事ほどさように記憶成績が上がるのかと言えば、ただ「差が認められる」程度である。

 僕は受験勉強をしたことはない。当然塾にも予備校にも縁がない。

 そんな僕に記憶成績について語る資格はないのであろうが、心理士の端くれとして「精緻化」や「符号化特定性」よりも記憶にとって大事なことを書き留めておく。

 僕が小学生高学年のとき、同じクラスに双子の姉妹がいた。その姉妹はたった2人きりで学年トップの座を占めていた。

 僕は人生で一度だけ「勉強」の真似事をしたことがある。それは、高校のクラスの男子の中で試験対策をしようとなったときのことである。自分は英語を担当したので、少し突っ込んで試験範囲の英語についていろいろと調べ、みんなにそれを「教授」する役割を担った。

 僕のいつもの英語の成績は、学年平均よりもかなり低かった。ところがそのときの英語の試験の成績が学年トップ3に入ったのである。

 このことが教えることは、受験勉強にせよ何にせよ、知識が記憶に定着するのには、みんなが「受験勉強」と聞いて思い浮かべるような孤独な「勉強」よりも、みんなでの教え合いと学び合いのある「共助学習」の方が遙かに効果的だと言うことである。

 世には「記憶術」と言って語呂合わせをすると良く覚わると言う都市伝説がある。

 残念ながら、いわゆる「記憶術」は、その効果において個人差がありすぎるばかりではなく、ごく一部の人間にしか恩恵を与えない、と言うことがある。

 「バズ学習」と言う言葉を聞いたことのあるひとも多いだろう。だが残念ながら、その効果は自発的かつ未知なものでないと現れはしないのである。

 「受験競争」と言う言葉が叫ばれて久しい。ところが、人間のパフォーマンス(成績)を上げるのには、「競争」よりも「共助」であると言う人間の建て付けの上での特質があるのである。

 なので筆者にとって記憶力アップに最も効果がありそうなのは、あくまで「共助学習」であると言うことを強調して、この記事の結びとする。このような学習形態は、「科学としての心理学」にも、現在の学校なり予備校なりの環境にも見出すことができない。

 ただ、「お受験」と言う価値観のもとでは、こう言っても進むも地獄退くも地獄には違いない。

ショートショート「一般社会からどうとはされていない閉鎖社会の人間の特質」

 
 社会的位置づけが何れであるにせよ高圧的で異常にプライドが高い。

 それは当人の特殊属性感に比例する。

 差別や偏見、ファシズムの土壌にはそのような心理的背景がある。

選好的条件付け

 
 みなさんは「○○が食べたーい」と思うことがよくあることだろう。

 実は学習心理学ではこのようなタイプの条件付けは学習のタイプのレパートリーにもなければ、したがって決まった名称もない。

 そこで筆者は、このようなタイプの条件付けのことを「選好的条件付け」と命名したい。

 選好的条件付けには行動主義が嫌った結果的欲求の不可視性と反応の自由度の大きさと言うものがその基礎にあり、他のいかなる条件付けとも異なっている。

人間から毛がなくなったわけ

 
 表題の理由は簡単明瞭で、なぜ欧米人に青い瞳とブロンドの髪の人間が多いのかと同断である。

 ある程度の温度変化に耐えて生きるには、体毛があった方が有利である。

 なのになぜ地球上の人類から体毛がなくなったのであろうか。

 先に欧米人のアウトルックがそうなったのと同断だと述べた。

 それはこう言うことなのである。「その方が魅力的だから」。

 人間の歴史は選抜交配の歴史だとも言えるほど、人類はそれを好んだ。つい近世まではやれ源氏だのお家柄だのと真面目にこだわるひとが大勢を占めていたほどである。

 なので、ある時代までは自然上生存に有利に体毛のあるひとびとしかいなかった。

 しかし、突然変異により体毛のない人間が生まれ、ひとびとはそれを重宝がり始めた。

 そこからいきなり人間の体毛が消えていったのである。「毛のない人間」が魅力的なので、ひとびとはこぞって毛のない異性(特に女性)に群がり、突然変異からの選抜交配の道を選んだ、と言うわけである。

 だから、それと同断で、欧米人は青い瞳とブロンドが多数になったのである。

 そのことは、「アダムとイブ」の神話に象徴的に表現されている。

 一般に環境と種はあらゆる意味で持ちつ持たれつの関係にあるが、このようなこと(選抜交配に頼ること)その他あらゆる意味で最も環境の受動から縁遠くなってしまったのが現生人類だと言える。

心理学にからむ哲学的問題について(第87回日本心理学会大会発表ポスター)

 
 昨日(2023年9月15日)発表したポスターです。なんか、どうでも良いことを考えているようで…(画像の文字が小さくて読めない方はこれらの画像をjpg保存して拡大してお読みください)。

●発表まとめ

 「心身問題」
 身体は心へのもの(環境)の文化的生態学的連鎖的翻訳系である。こう考えると「心身二元論」は回避できる(系なら環境にいくらでもある)。

 「主観-客観、存在の問題」
 これらは観点の問題ではなく、認識の不可抗力性の問題である。

 「私性問題」
 一次的には個体の時間的持続存在性の必要により要請されてくる。

「自閉症」の問題圏

 
 「自閉症」は一般に「対人関係のぎこちなさ」をその主訴とする。

 多くの心理学者は自閉症の原因を「脳の問題」であるが、脳の何が問題であるのかは不明である、と考えている。

 筆者は人間の対人認識と言うものが、他の動物と同様、認知と感情がセットとなってはたらく結果だと見ている。要するに、遺伝的には認知と感情は区別されることなく組み込まれている、と考えている。

 これが何らかの理由で機能不全になった結果が、「自閉症」と言う診断になるのだと思う。したがって、すべての自閉症が遺伝的とは言い切れないかも知れない。

 しかし、もし心理学者の多くが自閉症を「脳の障害」だと言っている前提に立つならば、筆者はその原因解明には、思ったほどの労力をかけずにできてしまうのではないか、と提言させていただきたい。

 もし自閉症が認知機能の問題だとするならば、それは哲学で言う「即自」よりは「対自」認知の問題であろう。だとするならば、その錬成としての「自己概念」の発達に顕著な影を落としているはずである。

 しかし、そこに問題の所在を見つけられなかったとすると、可能性のある認識は、「感情受容(共感性)の障害」一択に絞られてくる。これをみるのには、養育者の感情表出に対する自閉症児の応答性を見ていれば良い。

 しかし、自閉症の症状は多彩なので、個別具体のケースごとに原因を想定しなければならない事態も視野に入れておかねばならない。

 その場合、「環境の欠損(栄養、対人関係の狭さ、そのあり方のゆがみなど)」と言う非遺伝的な要因も含めて、「自己概念」に問題はないか、他者(養育者)の感情受容に問題はないか、と言う3つの視点から自閉症を見て行く必要があるように思われる。

 いずれであるにしても、大勢としてか個別具体としてか、自閉症の原因究明についてのポイントについて述べてみた。

雷雨の謎といのちのはじまり

 
 タイトルの内容を書くに当たって、この内容が真実から筆者自身も五里霧中状態であることをお断りしておく。

 さて、筆者は先の記事にも書いた通り、この世で雷様が一番怖い。この記事を書いたところでその恐怖が変わることは全くない。

 
 雷雨がなぜ起きるのかと言うと、厚い水蒸気の塊、つまり雲ができて、厚い雲中の大気温度が日光を遮断するために引き起こされる温度低下により水蒸気が結露し、それが雨として降るわけである。

 同時に、厚い雲中の水素やヘリウムの熱膨張率が限界に達し、これが爆発すると雷様が落ちるわけである。このような自然界における電気現象で「電源(この場合は帯電原子の塊)」が冷えずに発生する電気現象はひとつもない。

 当然、落雷直後の雲中気体の塊は温度低下する。そうするとまた爆発し、次々と落雷が発生する。つまり、落雷が連続して起きるのは、雲中気体の連続的温度低下による。

 ひとつ特記しておきたいのは、雷様が落ちるに当たっては、たとい0.0001ミリ秒前でも、雷様は落ちるスポットを「決めて」落ちる、と言うことである。

 温度ギャップ爆発をもたらして生じる電圧の高い落雷においては、地上で(いかに僅かでも)先行して正の逆起電力が生じ、そこへ落雷するわけで、したがって落雷を避けたければ、起電力の起きない地上物件の下にいれば良い。

 風の強い雷雨と風がほとんど吹かない雷雨がある。大気中の風と言うのは上空の温度差による気体のアップセット(動転)が地上にまで波及したものであるから、いずれもありうるのはおかしな話ではないが、そのアップセットがある程度以上にある場合が若干多いため、風を伴う雷雨が若干多いのは得心の行くところだろう。

 雷雨のあらましについては以上の通りである。

 話が大袈裟に聞こえるかも知れないが、いのちのはじまりにとって決定打となるのは、「そこに水と生存にとって必要な環境(温度、塩分、ミネラル)」がそろっているだけでは足りてはいなくて、100ギガヘルツ~100テラヘルツと言う法外な超短波(テラヘルツ)遠赤外線の必要を指摘しないわけには行かない。これは、火山の噴火によって大量に放出されるので、いのちのはじまりがそれによって引き起こされたことに疑いの余地はない。

 おそらく宗教関係者は「光」と聴くと「金色の光」を想像するだろうが、そんな超短波線を何者も認識できないし、期待を裏切って申し訳ない。

 その後、そうして各所(陸海空)に原始生命が誕生し、それらの基盤は陸海空それぞれの地点性の構造に生命展開の可能性が秘められ、それらがウィンウィンになるように合わさって、次第に複雑な生命に展開して行った。多くの生物に性があるのはその名残りであるように思われる。

 表題の内容については、ざっとそんなような見当をつけている。

 先の記事末尾の指摘、および先行記事「心理学における「連合主義」の誤り」への補足になるが、ストーリーは「実証」からは始まらない。「実証」は、良くて物事の「傍証」たりうるに過ぎない。

 ある意味どうでもいい話で申し訳ない。

 

筆者からみた「ラザラス-ザイアンス論争」

 
 読者の方は、「ラザラス-ザイアンス論争」と聴いても何のことを言っているのか分からないと言う向きの方が多いかと思うので、まずはこの論争の概要を示し、次いで筆者の見解を表明したい。なお、この議論の筆者なりの結論は、「ジェームズ=ランゲ説-キャノン=バード説論争」の参考にもなると思うので、それも念頭に置いておかれたい。
 
 1980年代に、ラザラスは、感情が起きるに当たっては、必ず認知的評価が必要だと主張した。これに対して異を唱えたのがザイアンスで、彼は感情と認知はそれぞれ独立のシステムで、感情は認知的評価を伴わずとも生起しうる、と噛みついたのである。

 これが厄介なことに、両説ともそれぞれに支持する実験的知見があって、ラザラスの説は認知心理学の治療理論において実証されており、ザイアンスの説にも「単純接触効果(刺激に触れただけでボジティヴな感情が生起する)」と言う知見があったのである。
 
 一応ここで、これに関連する「ジェームズ=ランゲ説-キャノン=バード説論争」もおさらいしておこう。「泣くから悲しい」の標語でも有名な「ジェームズ=ランゲ説」は、感情が惹起されるためには、それに先行する身体反応が必要だと考えた。より常識に近いと思われるのが、これに対する「キャノン=バード説」で、感情が生起した後に身体反応が現れる(悲しいから泣く)、と主張した。

 ここではお話を「ラザラス-ザイアンス論争」に限るが、その結論は「ジェームズ=ランゲ説-キャノン=バード説論争」にも適用されるだろうと言う含みを持たせておく。

 筆者の考えでは、感情の生起に認知的評価が必要かどうかも論じないし、いわんや感情と認知がそれぞれ独立のシステムかどうかについても何も語るつもりはない。

 ただ筆者の思うところでは、感情の生起にとって必要なのは「心理的構え(psychological set)」であり、「ラザラス-ザイアンス論争」は、一種の抽象に溺れた論争だったに過ぎないように見える。

 たとえば筆者はこの世で一番雷様が怖いと思っている。雷様が鳴り出すと、怖くて震え出す。そして現実に雷様が附近を直撃したりすると、ひどくビックリして胃がひっくり返るほどである。

 しかしもし、筆者が雷様がまったく鳴っていない状況でそれ相当の音を聴いた場合にはどうであろうか。筆者はそれを誰かが家で転倒したと解するかも知れないし、附近の住宅が崩落したと解するかも知れない。少なくとも、雷様の直撃とは明らかに異なる反応をするだろう。つまり、恐らくそれで自分の胃がひっくり返る思いはしないだろう。

 あるいは映画を見ている。話の筋から主人公がさえない人間で、何をやっても周囲から叱責されると言う伏線が筋として与えられていて、主人公はいつも泣いているとしよう。ところが映画のクライマックスではたまたま主人公にできて周囲の誰にもできない問題が持ち上がり、一躍主人公は賞賛されたとしよう。我々は「主人公はさえない奴」と言う心理的構えを持ったがために、最後に賞賛される主人公を見て落涙するかも知れない。

 人間は、いつでも何らかの心理的構え(日常の心の持ちよう)を無意識に持っている。つまり、特に何も意識していないと言う構えのときは、取り敢えず「何それ?」くらいの反応はするだろう。

 と言うわけで、僕なりにみた「ラザラス-ザイアンス論争」は、ラザラスなりザイアンスなりのいずれかが正しいと言うわけではなくて、感情的反応とか胃がアップセット(動転)するとかの反応には、必ず何らかの心理的構えが前提としてあり、必要なように思うわけである。恐らくその中には認知的(記憶的)なものも感情的なものもあるはずである。

 恐らくその意味で、「ラザラス-ザイアンス論争」は、命題の立て方そのものに問題があったのではないかと思われるのである。いったい、「実験」とか「実証」とは何なのであろうか。

心理系その他の資格の乱立についての懸念

 
 現在心理系その他の資格の乱立状態が続いている。

 自分の調べたところでは、心理系の資格だけでも50個くらいある。

 資格を与える側にとっては、資格の賦与者がマウントを取れて、ただの良い儲け話に過ぎないように思う。

 この状態で僕が抱く懸念は以下のようなものである。

 ほとんど名もない資格でも、資格保持者であることを良いことに、犯罪行為が濫発するのではないか、と言う懸念である。

 これには司法も手を焼く案件が多くなると予想される。

 ただでさえ、人間的かかわりに性的なものがあり得ないと言うことが不自然なのに、職業資格家はそれを「倫理」として掲げることでそのようなかかわりを排除する。そのため「クライエント」は通常の人間関係とはおよそかけ離れた不自然な人間関係を「カウンセラー」との間に持つことになる。

 一体、本当の「心の救い」とは何なのであろうか。

 こうした現状の上に、資格発行団体の金儲け目的でしかない心理系その他の資格の保持を良いことに、犯罪行為に及ぶ「資格保持者」が続出してくることは目に見えている。

 たとえば個人情報ひとつ取っても、表向きは「インフォームドコンセント」を理由に得た個人情報を裏名簿「業者」に売って私腹を肥やす「資格保持者」はいくらでも出てくるだろう。公式の統計によってさえこの国の60人に1人が麻薬に手を出していると言う。「治療」と称して違法薬物を勧める「資格保持者」もいくらでも出てくるだろう。

 近頃流行っているのは、「犯罪者心理にない者による犯罪」である。その意味で言えば、この手の犯罪は、「犯罪者心理にない者の犯罪」の範疇に入るであろう。

 金儲けのための資格作りには法的規制が必要だと感じる次第なのである。