「回生ブレーキ(疾走力の再エネルギー化)」にみる虚と実

 
 皆さんは、「回生ブレーキ(疾走力の再エネルギー化)」と言う言葉を最近よく耳にするであろう。それは制動力(ブレーキ力)を力として回収し、再び疾走力に投入する、と言うエネルギー・メカニズムである。
 
 車の加速力が0キロから5キロになるのと、5キロから10キロになるのには、速度が小さいほど同じ5キロのスピードアップでも大きな力が必要で、ある車速からある車速までに加速するのに必要な力は、加々速度の対数を取る(0キロから5キロよりも、5キロから10キロの方が加速に必要な力は小さい)ことは容易に想像ができることだろう。

 いや、想像ができると言うよりも、クラッチ式バイクやマニュアル車に乗っているひとは、このことが肌に染みて感じられていることだろう。

 これがもし加速と言う意味ではなく、速度維持に必要な力と言うお話になれば、必要な力は遙かに小さくて済むことは皆さんにもお分かりのことだろう。

 ここに疾走力の再利用にかかわる嘘が市場に出回っていることに、皆さんはお気づきだろうか。

 疾走体がただその速度を維持するだけのことなら、「回生ブレーキ(あるいは、疾走力の再エネルギー化)」で回収した力で実は十分なのである。理屈としては、シャフトに電磁石がついていれば、十分な電力は得られるし、何ならブレーキをかける方が疾走し続けるよりも大きなエネルギーを必要とする。

 確かに疾走体が発進と停止を短い間隔で繰り返す場合にはそれは言えない。それだけの力が確かに必要である。

 しかし、継続して疾走し続ける疾走体の場合だと、疾走力それ自体だけで加速とは言わないまでも速度維持程度のことなら力学的にできてしまう、と指摘したいのである。

 これは紛れもなく一種の永久機関である(永久機関がいかに容易くできるかについてはこちらの記事を参照のこと)。

 世間で取り上げられる「回生ブレーキ」あるいは疾走力の再エネルギー化についての虚と実を取り上げてみた。

 最後に。「天才」と言う神話に騙されてはいけない。この世に本当に「天才」がいるのだとしたら、こんな幼稚園級のお話はとっくの昔に片付いていたはずなのだから。

神様と僕の対話

 
 僕:どうして世界には平和が訪れないのでしょうか?

 神様:それはじゃな、頑ななまでに小さなことを大事にしなくなったときに訪れる理と言うものじゃ…要するに日常生活感覚を忘れると言うことじゃからそれを大事に思うように仕向けることが大切じゃ…人間、大きなものに自分を委ねれば、その身の丈を大きく思いがちなものなのじゃ…

 …そこで僕は考えた。これからの国際秩序は軍事的にではなく刑事的に守られるべきだ、と。

 それは我が国憲法の前文にある「名誉ある地位を占めたいと思う」と言う一節とリンクしている。

同じ「コミュニケーション」でも…

 
 内向型の人間にとっての「コミュニケーション」とは、「その話はどうか」と言う意味での「(心の投企としての)作品」である。
 
 これに対し、外向型の人間にとっての「コミュニケーション」とは、「その話で人間関係はどうなるか」と言う意味での「(心の投企とは関係のない)話題」である。
 
 同じ「コミュニケーション」でも、性格によるその機能の違いを弁えないでそれを行っても、“It rains cats & dogs.(破壊的コミュニケーション)”になる。

旧制弘前高等学校校歌・弘前大学北鷹寮寮歌

 
 旧制弘前高等学校校歌「虚空に羽ばたき」
            作詞 土井晩翠
            作曲 弘田龍太郎

 虚空に羽ばたき 南を図る
 大鵬われらの 徽章とかざす
 紅顔抱かん 理想の高き
 譬へか岩木の 偉大の姿

 高山仰ぎて 景行向かふ
 いにしへもろとも 此道ひとつ
 力を蓄え 心を練りて
 本土の北より 嵐の如く

 希望に溢れて 光栄めざし
 健児よ活きたる 世界に駆けよ
 見よ見よ文明 進みてやまず
 青春わが身に 只この一度

 
 
 

 弘前大学北鷹寮寮歌「白明のうた」
             作詞 吉田昭二
             作曲 高橋司

 古城のほとり 老松の
 囁き常の 友として
 霊峰仰ぐ 朝には
 迷いの夢も 去りぬべし

 希望の影も 遙かにて
 妙なる虹の いたずらに
 映えて虚しく 消ゆるとも
 汝が太陽は なほ燃えん

 悲哀の雲は 地を掩うて
 吹雪は夜半に 吠ゆる時
 北鷹の舎に 灯はともり
 生命の華を 咲かせなん

近代国際外交の克服のために

 
 誰でも近代の国際外交関係を支配してきたものは、インタレスト(利害)であることは容易に察しがつくであろう。

 しかし、これは国際外交関係の本質と言うものを省みるとき、はなはだ危うく、また不安定なものだと感じられるのもまた一理ではなかろうか。

 それは、インタレストと言うものが、その国の国状や需要に左右されることによるものであることを痛感せざるを得ないゆえである。要するに、それらが変われば世界地図が変わってしまうと言う歴史をいままでなしてきたのである。

 インタレストによる外交と言うもののこの限界を克服して真の安定した国際外交関係を成立させるためには、やはり利害打算から離れた何かを重視する他にはないのではなかろうか。

 それにつきひとびとは、「真の心のふれあい」だと言いもすれば、「安定した外交こそ真の財産」だとも言うし、「二心ないこと」だとも言い、「思い遣り」だとも言い、「歴史に学ぶこと」だとも言い、「国状情報の共有」だとも言い、「ひとびとの地力」だとも言い、「民草レベルでの交流」だとも言い、「純粋な心による親善の努力の積み重ね」だとも言う。いずれであるにしても、「インタレストを超えた外交努力」であると言う一点でだけは一致している。

 加えて、ここで短く「善」と「悪」について考察をしておく。日常感覚で言う(つまり大袈裟ではない)真の平和に資する思念のことを「善」と言い、それに反する思念のことを「悪」と言うのである。

 近代国際外交の問題点を克服し、不安定な国際外交関係から脱却し、真の国際和平を実現するためには、これから何が理念となるべきかについて、この拙い筆者の文章の読者にはいかなる「答え」が浮かんでくるのであろうか。

 その「答え」は、筆者にではなく、読者の皆さんに委ねられる。

視聴覚両方障害者のための「掌(指)ことば」

 
 言語の本質は「加減算性(賦与・付加/控除・否定)」と「即性」と「示置性」と「対話性」と「時制」の5つしかない。これを6段階の順を追って掌(あるいは指)に伝えることにより、視聴覚両方障害者のためのコミュニケーション言語を作ることができる。

 「加減算性」と言うのは筆者なりの判断論の本質を突くもので、「判断とは認識の加減算である」と言うテーゼを具現したもので、「即性」の間、後に賦与、付加、控除、否定を表す指繰りで指示する。

 「即性」(英語の5W1H、場所、具有性(名詞、動詞、形容詞、間投詞、接続詞)、あるなし、(ことばの本質はすべて形容詞だと理解していると分かりやすい))については概ね300語以内(5指の繰り触れようの組み合わせがそれくらい)に収め、並列されているときは主語述語等価関係を表すものとし、「加減算性」は即性同士の関係を示し(加算・控除は即性間にはさみ、賦与・否定は即性の連続の後に置く)2指で足り、「示置性」は5指(~について、~に対して、~において、~と、~の(条件下で))で足り、「対話性」は5指(疑問、請願、叙述、感嘆、落胆)で足り、「時制」も3指2段(現在、過去、未来の3指と完了、継続、無時制の3指の2段)で足りるので、この「5指6段コミュニケーション」を基本として現実の使用上の障害などがあれば柔軟に改善してゆくのが良い。

 語順は理解しやすいように「対話性」、「加減算性」、「時制」、「即性」、「示置性」の順で配置すると良い。特に子どもの言語獲得においては初期的に疑問から始まるので、それを足場にするのが良い。

 段を飛ばすときにはトンと掌に1回拍子を入れ、節を挟む場合は、節の手前と終わりにトンと掌に2回拍子を入れるのが良い。言いたいことが終わったら、3回トンと掌に拍子を入れるのが良い(必ずしも6段になっていなくても良い/カタコトの日本語のような口語体が派生することも許容する)。

 「示置性」の「~と」とか短い叙述(主語述語関係のみの叙述)にかんしては、節を挟む形で表現する(他の場合もこれに準ずる)。

 取り急ぎ提案まで。

偽りの「誠実」

 
 昔、あるところに大変に才覚のある人間がおりました。

 彼はその才覚を「大きなところ」に見込まれて、「手伝ってあげましょう」と言うので、それを受け入れました。

 そして、その「大きなところ」は、みずからがそれで手に入れる大枚のごく一部を「キックバック」して彼に環流していました。

 そして、その「大きなところ」は、「我々の存在を伏せていてくれるなら、あなたに手渡すお金が途切れることはありませんのでご安心を」と彼に言いました。

 そのため、その才覚の持ち主である彼は、周囲から「黙々と努力する人」だと誤解され続けましたとさ。

 おしまい。

男と女がいる理由

 
 結論から申し上げると、それは「種の多様性」をもたらすからである。

 もし単性生殖で種を持ちこたえようとすれば、種の多様性は狭くなる。

 遺伝子が多様なほど、さまざまな環境適応が可能になる。

 だから、子どもたちを一様に学校に結束してしまうのは正しくない。学校は重層的(全世代型)コミュニティではないので、そこに相互扶助はないからである。

廣松「として等値化的統一」は普遍ではない

 
 この問題を論ずるに当たって、「認識」のさらに内奥にある「理解」を定義しておこう。

 「理解」とは「どう言うことかが分かること」である。
 
 まず、廣松の「として等値化的統一」が成立する認識場面は、実はかなり限られていて、「特定詞をそれと同じ系の具体詞として」理解する場合に限られる。

 「これは草である」、「彼は音楽家である」、「美しいとは凜としていることである」…これらの場合には、そこに廣松が指摘した「として等値化的統一」が現実問題として実在する。

 しかし、「彼は踊っている」とか、「この花は美しい」、…これらの場合ではどうであろうか。どう考えても「彼」と「踊る」が、「この花」と「美しい」が「等値化的」に「統一」されようがない。なぜならそれらは、「別の値(代入できない値)」だからである。

 いわゆるところの「SはPである」と言う「判断の原型」を止めてはいない(カテゴリーミスマッチがある)ので、そこに「等値化的統一」は認められず、ただ単なる理解だとしか考えようがない。

 超文法的に考えてみると、廣松が「四肢的認識構造」を「対他的判断成態」と見ていることが、それ自身大きなアポリアに基づいていることがはっきりする。

 判断と言うものがすべて対他的なものだと言う考え方そのものが極端に過ぎる。「これは木だ」と認識するのに実情として「あれは草だ」と言うことを別段要請するわけではないからである。

 それで筆者は考え直してみたのであるが、「判断」と言うのは「として等値化的統一」だと思ってしまえば、そこからは必ず水漏れする事例の大群を目にすることになる。実態として「として等値化的統一」が実在する判断と言うのは、かなり限られているわけである。たとえば、我々は知覚の前面には現れない「空気」をどうして知ることができるのか。

 彼も多くの哲学者同様、「判断」を「SはPである」に矮小化しているわけである。

 では「判断」とは何のことを言うのであろうか。

 筆者の考えでは、「判断」と言うのは「認識上の加減算」のことを言うのだと思っている。

 その「加算形」は「認識の賦与および付加」のことであり、「減算形」は「認識の控除および否定」であると考えれば、かなり話はシンプルになるし、理解もしやすい。なぜならば、どうして我々が重文・複文を理解しづらいかも説明できるし、さらに、話しているときに文の結びをどの言葉にするかで迷うことも良くあることも説明できる。これらは、言葉の「加減算のもつれ」によっていることは言を俟たない。

 これに「推移律」を加えると、言語の神経学的基盤にも言及することができる。概念が制約される器質障害を突き止める課題に直面するだろう。それは「想像力」の障害なのかも知れない。

 記号論理学は「関係性だけで」できているために現実の言語理解には役立たないのである。

 このような筆者の考えを理解いただければ、筆者がチョムスキーの「生成文法理論」にも反対なのは容易に分かっていただけるだろう。それは、日本語には男性形・女性形・中性形はなくてヨーロッパ語にはあると言ったように、言葉と言うものは天与のものと言うよりは造作的なものだからである。

 廣松の哲学認識と筆者の哲学認識の違いは相当数に上るが、それらについては黙っていることとしたい。