誰も明らかにしなかった「重力」の本質

 
 元来「重力観」には2つの立場がある。1つは「スタティック(=静的)」と見る立場(従来の重力観)であり、もう1つは「ダイナミック(=動的)」と見る立場である。筆者は後者の立場で見ると言うことを、ここで予めお断りしておく。なお、ニュートンからアインシュタインに至る重力観の系譜はすべて重力を「所与のもの」と見る立場であり、それゆえ重力の発生過程を説明しない立場であった。しかし、その視点の限界は、重力係数が定義ごとに異なると言う矛盾などに認めることができる。

 「重力」によって惑星上のものものは同じものものが真空宇宙空間にあるときよりも「軽く」なろうとしている。言い換えると、「重力」とは本質的に「物体の総体的な抵抗力(=反発力)を無効にする力」のことであり、ものものの結合力(分子間力)を弱めるエネルギーであると言える。それくらい単体物の宇宙中におけるエネルギーは強い。それゆえ「重力」は、地球上でのものものの本来(宇宙空間中)の「重さ」に対する「脱力化」のはたらきをする。

 これが惑星の中心からの物性の変化であり、それにより球形でもものものが周囲に遇われる理由である。

 平たく言うと「重力」によってものものの結合力が弱まる。「重力」は惑星中心のガス「燃焼(燃焼物が燃焼温度になっても閉じ込められて燃焼できない可能性もあるのでこのような表現をした)=熱的重層性(ポイントは真空における熱のはたらき)」によって発生する現象である。意外に思われるかも知れないが、太陽系惑星は一番遠い海王星でもその中心温度は5000度はあり、その中で最も中心温度が低いのは火星(2000度)であり、地球を1としたときの重力が0.42しかない。これは太陽系惑星の中で最も重力が弱い。重力がガスの挙動によって引き起こされることを示唆する事実である。ちなみに月の重力はみんなが知っている通り地球の6分の1(中心温度1200度)である。

 星に高低ができるのは、単にものものの結合力の差の表現に過ぎない。このことを別の角度から考えると、重力と言うのは垂直に最も良くはたらき、天体を構成する全物質を堆積するはたらきであると言うべきである。これを一言で「物約性(物的電気化学変性)」と言う。よって天球の平面上の速度をもつすべての運動体は、上昇運動(この場合だけ重力は強まる)を除いて静止物体より小さな重力しかはたらかない。このことから、天体上で相対的に静止しているものにしか所与の重力ははたらいていないのである(しかし、天体がすべて運動体であることから、一つの要因として静止していることが重力を発生しているのか否かには議論の余地がある…筆者の考えでは、慣性系と重力は背反する。この点で重力と慣性系を同一視したアインシュタインの相対性理論は誤っており、むしろ重力と慣性系は反対するものだと考えるべきである。)。

 なので、同じ物質(もの)でも恒星・惑星表面にあるものと、真空宇宙空間にあるものでは、後者の方が結合力は強い。これが、直径がたったの数メートルの流星でも地球に与える衝撃がきわめて大きい理由である。逆に、太陽系惑星以外の宇宙彷徨天体が衝突しない限りは惑星公転の軌道から全く外れないのは、重力が質量に依存すると言う仮説の反証と見ることができる。

 ※なお、「ガス」と表現した部分は「特殊な鉱物の高温状態」と読み替えることもできる。

ユークリッド幾何学批判

 
 ユークリッド幾何学には、人間の認識と相容れない部分があるのでそれを質したい。

 点と線の定義において、それらは面積を持たないと仮定しているが、面積を持たない点や線は実在しない。

 こう指摘するとすぐにひとびとはイデア論の話に逃げる。点も線も真円も正三角形も実描に対するイデアであって、現実には描き得ず、なので真実に実在するものはイデア(仮構)だけなのだ…と。

 よくよく考えてほしい。この話は単なるレトリックなだけなのではないか、…と言うのも、点や線や真円や正三角形は現実に描き得ず…と言っておきながら、我々の脳裡でだけは描き得る、と言う…ちょっと待ってくれよ、そんなの我々の脳裡でさえ描き得ないではないか、…と言うお話になる。

 ユークリッド幾何学…延いてはイデア論そのものに矛盾があるのである。

 少し真面目に考えると、どこからそんなことを発明したのかは知らないが、点や線や真円や正三角形ほど真実には実在しえないものはない…だがみんなはそれ(=イデア)だけが真実に実在するのだと言う。

 ユークリッド幾何学自体の限界も含めて、イデア論に潜む矛盾についてご一考を迫っておく次第である。

理の矛盾のまとめ~行動主義とイデア論等~

 
 行動主義は「目に見える行動」を対象にすれば、それが科学の要請する客観性・公共性を担保できる旨をその唱道者であるJ.B.ワトソンに言われて著しくラディカルな「心理学」がもたらされた。

 しかし、現場の研究者たちは口にこそは出さないが、その当の「行動」は少なくとも現実的には2義以上の性格を持つ、すなわちその「行動」は研究者の推測上のものか、主体の現実のものか、或いは…と言う矛盾を孕んでおり、そのどこが客観的なのか、と指摘せざるを得ない。なぜこのことが問題にならないのかと言うと、研究者たちにとっては単なる推測上のことが現実にも起きるのかにしか関心を払っていないためである。

 プラトンが提唱した「イデア論」によると、「真実在はイデアだけ」で、それは心の中(脳裡)にしかないと言われている。

 たとえば真円とか正三角形と言ったものは作図をすれば必ず誤差が出ると言う。不思議なことに、みんなはこれを冗談だと解してはいない。なぜなら、真円とか正三角形と言うもの自体、すでに心の中(脳裡)でしてからが現実に描きうるわけではないからである。

 このような社会的来歴を持つ「イデア」と言う観念は、その誤解から解かれるために、「理念」と言い換えられるべきだと考えている。「イデア」は「形而上存在」と呼ぶことにしたい。ユークリッド幾何学を参照するまでもなく、線分とか点とかは現実には非実在である。このように、「形而上存在」と言うのは、本当は真実在どころではなく、真非実在(単なる理)である。このことを分かりやすく言っておこう。「理と言うものは目に見えない(理論の中にしか存在しない)」のである、あるいは「実在しないのはイデアだけ」、と。したがって当然、行動主義の追い求めるものも「目に見える」わけではなく、そこに我々が見るものはある種の特異な「理の現れ」であるに過ぎない。この理解は、ものをものとして定義できないと言う人間の感性認識の限界の問題も同時に語っている…感性は感性以上には認識できないのである(ただし、ユークリッド幾何学の難点を克服したければ、線分の内側・外側と言う認識を与えれば良い…「含まれている/含まれていない」は計算結果を左右しない…このことを「包含関係は範囲・面積にとって明晰である」と言うこととする)。

 最後に「因果律」についての誤解を解いておこう。特にヘーゲル以降ひとびとは因果律が適用されるべきではないような事象にも因果律を適用し、それを単なる事象継起程度の意味でしか用いなくなった憾みがある。しかしそれは誤解である。

 因果律で説明されるべき継起とは、「それがなかったらそれは起こらなかった」と言うくらい強い継起的関係性(焦点と像の関係)について言及するときに用いるべき概念なのである。ある哲学者によると、砲弾による要塞の破壊は、上司の命令によるとも言えるし、砲弾があったことによるとも言えると言って因果律の相対性を説き、それは一種の擬人化だとさえ言うが、別に上司の命令がなくても別の砲撃手によって砲弾を撃った場合でも要塞は破壊されうるので、前者ではなく後者の(とある砲撃手の手元に砲弾があってその砲撃手に砲撃の意志があった)方が「因果律」と呼ばれるにふさわしいのである。

 なお、現実から予想通りではあるが、このようなことを見るにつけ、人間の学習的洗脳性は高いと言わざるを得ない。

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廣松「物象化」論にみる錯認

 
 まず、筆者が廣松の言うところの「物象化」が起きる単純な理由をテーゼの形で示しておきたい。

 “ことばがもの(森羅万象)をもの化する”

 つまり、筆者が言いたいことは、いわゆる「物象化」と言う意識のはたらきは、「意識対象-意識作用-意識内容」と言う「カメラモデルの世界観」などと言う大袈裟なところによって生じるわけではなく、ことばそのものがもの的性格を持つことによって起きる普遍的事実によって支持されている、と言うことである。
 
 タイトルの割には短い文章になったけれども、要するにそう言うことである。

「回生ブレーキ(疾走力の再エネルギー化)」にみる虚と実

 
 皆さんは、「回生ブレーキ(疾走力の再エネルギー化)」と言う言葉を最近よく耳にするであろう。それは制動力(ブレーキ力)を力として回収し、再び疾走力に投入する、と言うエネルギー・メカニズムである。
 
 車の加速力が0キロから5キロになるのと、5キロから10キロになるのには、速度が小さいほど同じ5キロのスピードアップでも大きな力が必要で、ある車速からある車速までに加速するのに必要な力は、加々速度の対数を取る(0キロから5キロよりも、5キロから10キロの方が加速に必要な力は小さい)ことは容易に想像ができることだろう。

 いや、想像ができると言うよりも、クラッチ式バイクやマニュアル車に乗っているひとは、このことが肌に染みて感じられていることだろう。

 これがもし加速と言う意味ではなく、速度維持に必要な力と言うお話になれば、必要な力は遙かに小さくて済むことは皆さんにもお分かりのことだろう。

 ここに疾走力の再利用にかかわる嘘が市場に出回っていることに、皆さんはお気づきだろうか。

 疾走体がただその速度を維持するだけのことなら、「回生ブレーキ(あるいは、疾走力の再エネルギー化)」で回収した力で実は十分なのである。理屈としては、シャフトに電磁石がついていれば、十分な電力は得られるし、何ならブレーキをかける方が疾走し続けるよりも大きなエネルギーを必要とする。

 確かに疾走体が発進と停止を短い間隔で繰り返す場合にはそれは言えない。それだけの力が確かに必要である。

 しかし、継続して疾走し続ける疾走体の場合だと、疾走力それ自体だけで加速とは言わないまでも速度維持程度のことなら力学的にできてしまう、と指摘したいのである。

 これは紛れもなく一種の永久機関である(永久機関がいかに容易くできるかについてはこちらの記事を参照のこと)。

 世間で取り上げられる「回生ブレーキ」あるいは疾走力の再エネルギー化についての虚と実を取り上げてみた。

 最後に。「天才」と言う神話に騙されてはいけない。この世に本当に「天才」がいるのだとしたら、こんな幼稚園級のお話はとっくの昔に片付いていたはずなのだから。

神様と僕の対話

 
 僕:どうして世界には平和が訪れないのでしょうか?

 神様:それはじゃな、頑ななまでに小さなことを大事にしなくなったときに訪れる理と言うものじゃ…要するに日常生活感覚を忘れると言うことじゃからそれを大事に思うように仕向けることが大切じゃ…人間、大きなものに自分を委ねれば、その身の丈を大きく思いがちなものなのじゃ…

 …そこで僕は考えた。これからの国際秩序は軍事的にではなく刑事的に守られるべきだ、と。

 それは我が国憲法の前文にある「名誉ある地位を占めたいと思う」と言う一節とリンクしている。

同じ「コミュニケーション」でも…

 
 内向型の人間にとっての「コミュニケーション」とは、「その話はどうか」と言う意味での「(心の投企としての)作品」である。
 
 これに対し、外向型の人間にとっての「コミュニケーション」とは、「その話で人間関係はどうなるか」と言う意味での「(心の投企とは関係のない)話題」である。
 
 同じ「コミュニケーション」でも、性格によるその機能の違いを弁えないでそれを行っても、“It rains cats & dogs.(破壊的コミュニケーション)”になる。