廣松「として等値化的統一」は普遍ではない

 
 この問題を論ずるに当たって、「認識」のさらに内奥にある「理解」を定義しておこう。

 「理解」とは「どう言うことかが分かること」である。
 
 まず、廣松の「として等値化的統一」が成立する認識場面は、実はかなり限られていて、「特定詞をそれと同じ系の具体詞として」理解する場合に限られる。

 「これは草である」、「彼は音楽家である」、「美しいとは凜としていることである」…これらの場合には、そこに廣松が指摘した「として等値化的統一」が現実問題として実在する。

 しかし、「彼は踊っている」とか、「この花は美しい」、…これらの場合ではどうであろうか。どう考えても「彼」と「踊る」が、「この花」と「美しい」が「等値化的」に「統一」されようがない。なぜならそれらは、「別の値(代入できない値)」だからである。

 いわゆるところの「SはPである」と言う「判断の原型」を止めてはいない(カテゴリーミスマッチがある)ので、そこに「等値化的統一」は認められず、ただ単なる理解だとしか考えようがない。

 超文法的に考えてみると、廣松が「四肢的認識構造」を「対他的判断成態」と見ていることが、それ自身大きなアポリアに基づいていることがはっきりする。

 判断と言うものがすべて対他的なものだと言う考え方そのものが極端に過ぎる。「これは木だ」と認識するのに実情として「あれは草だ」と言うことを別段要請するわけではないからである。

 それで筆者は考え直してみたのであるが、「判断」と言うのは「として等値化的統一」だと思ってしまえば、そこからは必ず水漏れする事例の大群を目にすることになる。実態として「として等値化的統一」が実在する判断と言うのは、かなり限られているわけである。たとえば、我々は知覚の前面には現れない「空気」をどうして知ることができるのか。

 彼も多くの哲学者同様、「判断」を「SはPである」に矮小化しているわけである。

 では「判断」とは何のことを言うのであろうか。

 筆者の考えでは、「判断」と言うのは「認識上の加減算」のことを言うのだと思っている。

 その「加算形」は「認識の賦与および付加」のことであり、「減算形」は「認識の控除および否定」であると考えれば、かなり話はシンプルになるし、理解もしやすい。なぜならば、どうして我々が重文・複文を理解しづらいかも説明できるし、さらに、話しているときに文の結びをどの言葉にするかで迷うことも良くあることも説明できる。これらは、言葉の「加減算のもつれ」によっていることは言を俟たない。

 これに「推移律」を加えると、言語の神経学的基盤にも言及することができる。概念が制約される器質障害を突き止める課題に直面するだろう。それは「想像力」の障害なのかも知れない。

 記号論理学は「関係性だけで」できているために現実の言語理解には役立たないのである。

 このような筆者の考えを理解いただければ、筆者がチョムスキーの「生成文法理論」にも反対なのは容易に分かっていただけるだろう。それは、日本語には男性形・女性形・中性形はなくてヨーロッパ語にはあると言ったように、言葉と言うものは天与のものと言うよりは造作的なものだからである。

 廣松の哲学認識と筆者の哲学認識の違いは相当数に上るが、それらについては黙っていることとしたい。

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