自分が生きているうちに一度は履いてみたかった。
僕のご先祖様である江戸期の名もなき百姓衆の息吹が伝わってくる。
しかし、これを思い付いたひとは凄いと思う。

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自分が生きているうちに一度は履いてみたかった。
僕のご先祖様である江戸期の名もなき百姓衆の息吹が伝わってくる。
しかし、これを思い付いたひとは凄いと思う。
誰でも恋愛はするかも知れない。
しかし、考えてもみれば実にバカバカしいことではないだろうか。
と言うのは、恋愛においていつもプロポーズする側が心理的弱者(つまり、下)の立場になる。女性が性的な視線を向けられることも、これと同断の構制である(こちらにかんしては個人差の大小も考慮されなくてはならない)。もちろんそれは時代背景にも負うところが大きい。
さらにバカバカしいことには、恋愛を一種の「博打」にしてしまう(僕は祖父譲りの博打否定論者である)。
これは人間の尊厳と言うものを考えたとき、それを著しく損なうものなのではないだろうか。それは有り体に言うと、媚び諂いそのものである。それをいいことにした悪事が横行もするだろう。
心理的な上下のできない男女の関係こそ、これからの時代に模索されるべき問題なのではあるまいか(僕は男性の男性度、女性の女性度の存続を妨げる者ではない)。
やはりステップワイズ(少しずつ)にお付き合いを深めて行くのが良いのかも知れない。
僕が死んだら、僕のことは以下のように語られるであろう。
「願いの1つも叶わないまま病魔で踏んだり蹴ったりの波乱に満ちた人生を一銭も儲けることなく閉じた」
まぁこの国、1万人中9999人はそうだろうと思うけど。
いまは七夕のあと。
※僕のしてきた「仕事」はこちらの通りだが、(僕自身が気付いた知恵はすべてノーコピーライトにもかかわらず)何一つ社会的に実現していない。
だからもっと短く言うと、僕の人生は「現実のない人生」。それで分かるのは人間は「心の動物」などではなく、「現実の動物」だと言うこと。
謎がない問題が解かれることはない。
心理学においても、多彩な統計学の手法を用いていることは常識的なことである。
しかし、その「ミソ」を明確にイメージできているひとはまずいない。
そこで、ここでは統計的検定、中でも使用頻度の大きい「2つの平均値の差の検定(いわゆるt検定)」について、イメージからお話してみたい。
集団Aと集団Bがいずれもある課題について正規分布をするとする。しかし集団Aの平均が50点(標準偏差4.5)で、集団Bの平均が55点(標準偏差5.0)だったとする。
ここで集団Aの平均値と集団Bの平均値に有意な差があるかと言う問題に統計的答えを出すためには、これら2つの集団の正規分布曲線を重ねてみて、重複部分の面積が相対的に大きければ「有意差なし」、小さければ「有意差あり」と言うことになる。有意差についてはある程度重複面積が小さければ「5%水準で有意」、さらに小さければ「1%水準で有意」とかになり、マスコミの記事でこうした表現に触れたひとも少なくないだろう(要するに100回そうして5回ないし1回未満しか起こらない確率と言う意味です)。
イメージで語れば、そのような手続きを取ることによって、集団Aと集団Bの平均値に差があるのかを検討できることは容易にお分かりいただけるであろう。本当に簡便な数式でこれを求めることができるのなら、それが主流となるべきである。
しかし残念ながら、現実にはそのような統計学的手続きが実在するわけではなく、2つの集団の差分から成るもうひとつの正規分布曲線を導き出して、統計的に「有意」なのか否かを判別するのが現在のt検定の現実の手続きである。
ここでの目的は、イメージとして統計的検定、分けてもt検定を理解してもらうことだったので、これで良しとしよう。
僕は以前書いたように、カウンセラーではない、したがってこの世(在野)に必要ではない心理士である。
その無価値な心理士として考える「統合失調症の心理的治療」の具体について触れておきたいが、その前にひと言だけ断っておく。
統合失調症については、心理的治療よりも精神医学的治療、すなわち腹側淡蒼球などの薬物的な代謝異常の是正が優先する。そのドラスティックさにおいては、心理治療よりも薬物治療の方が根本的な治療たりうるからである。
さて、統合失調症は多くの場合、「意味付けされた幻聴」をその主訴とする。それで僕は統合失調症のことを「囚人症候群(別名アナザーパイロット症候群)」と呼ぶことを提案している。その意味で、統合失調症は「理解不能の病」ではない。
多くの医師が言うように、統合失調症患者ではこの「意味付けされた幻聴」が「現実」だと認識していることが、「病識の欠落」なのだと問題視しているわけである。
ならば、統合失調症患者に治療者が手取り足取りして、「それはあなたのおかしなところです」と一々指摘して、「普通はそんな認識は持ちません」と言う明確なメッセージを与え、病識を持たせるところから心理的治療は開始されるべきである。
そしてその先に進むためには、その症状に意識的に対決・無視させるよう患者を導くことこそが、真の意味での統合失調症の心理的治療になるはずである。
これは昔からある「ロゴセラピー」と言う手法である。
果たして、「公認心理師」は、こう言う治療を現実に行っているのであろうか。
心理学史において、特に学習心理学においてクローズアップされる史実は、ジョン・ロックに始まる「連合」と言う概念である(哲学史ではロックは経験論だと言われるが、大局的にみたとき人間の経済的存在論を説くと言う意味で、筆者は合理論者だとみている。それはアダム=スミスやリカードなどの思想的系譜に属する)。
しかも念の入ったことには、それが心理観の基本概念として、条件付けなどの「発見」へと道が続いたことは、「心理学者」たちのひどい視野狭窄を招いてしまった。
特に我々日本人には、「連合」と言う観念は奇異なものにさえ見える。
僕は、かねてから言っている通り、「報酬と罰」と言う学習観に否定的である。単純に言って、そう言う「原理」でもしひとを育てたとするならば、そのひとはおそらく共感性に欠けた利害と打算で生きるだけの「マシーン人間」に育つに違いない。それが証拠に、ある種の共感性がはたらいていないと、天敵から身を守る法とか採餌戦略その他さまざまな「生きて行く知恵」は世代を超えて受け継がれはしないはずである。
その意味で学習心理学における「学習」と言うのは、他律的に作為的な判断形成ほどの意味であって、プラグマティズムの哲学者たちの拙速な考え方の申し子と言って良い。実に良く現在の学歴経済主義的世界観を表しているではないか。
そこで、哲学的な見地から「連合主義」の人間的欠陥を指摘しておきたいと思う。
僕の認識論では、概念のタテの関係を「抽象-具象」、ヨコの関係を「類推-帰趨(ロールオン-ロールアウト)」だとする。なので「連合」と言う概念はこれら2軸の複合的概念だと言うことになる。また、「連合」と言うのは、人間の類推能力のごく一部に過ぎないと考える。かつてウィリアム・ジェームズは意識活動を「意識の流れ」になぞらえたが、日本と言うローカルな一地域に住む僕の見方では、人間の意識活動と言うものは、日本語で言う「結び(敢えて英語で言えばknot)」と言うことが中心なのではないかと思われる。
親鳥が雛に餌を与えることについて、熟慮のない「心理学者」は、「親鳥-餌」と言う条件付けが成立すると考えるに違いない。
しかし、そのような営みで種が繁栄する源は、そんなに安っぽい「原理」によるものであろうか。適正ないのちのリプロダクションが報酬と罰だけで成立するものなのだろうか。
これは僕の持論になるが、親鳥が雛に餌を与えるときに、親鳥の持ってくるものが餌と言う「報酬」だと言うよりも、親鳥の気遣い(生きてほしいと言うメッセージ)であるに違いない、と思う。そしてこの「生きてほしい」と言うメッセージ性のことをこそ「愛」と呼ぶのである。そしてこのようなメッセージ性を通して動物が学習するのは、即物的関係性と言うより抽象能力なのではないか、と言う気がしている。その抽象能力と言うのは、文化的だが言語外の「即性是認-否認」、すなわち判断である(しかし僕はあくまで思考と言う枠内では判断よりは良い視点の変幻自在さ-良い即性の与え方-を重視する)。「愛」は主体の側では実在する感情ではあるが、言語的コミュニケーション以外だと、客体にそれが芽生えるにはその感情を黙々と客体にとって焦点的、集積的かつ累乗的な行為の形で与え続けないといけない。こうしたことが他にも同様にないと、抽象能力は開花しない。その意味で言うと、哺乳類の中で人間ほど「愛」や「抽象」がエレガントではない動物はいない。
だから、「連合主義」と言うのは、血の通った動物の「学習」の本質を突いてはいない、と思う次第なのである。言ってみれば、路傍の石だけを拾って「これこそ人間の指導原理なり」と言う愚がそこにある。
世の中では「過保護」はいけない、と言う。ここで語られている「過保護」とは、一方的な価値観の押し売りや形だけの溺愛や腫れ物に触るような養育的態度のことを言うのであろう。しかし、真の意味でならば、「過保護大いに結構」と言いたい。いまの金銭至上主義の社会では矛盾が大き過ぎ、ひとがひとと対等に仲間であると言う意識を持ちすぎて損をすることはないからである。
実証できればそれが科学だと言うのなら、僕の立場は非科学である。
長い文章には飽き飽きしているひとも多いと思うので、できるだけ短く言います。
常習的犯罪者の心理的特質は、「罪悪感がない」と言うことです。
その背景は、人間としての対等意識が育まれていない、と言う社会的な問題にあります。
以上。
「学習心理学」と言うのは、真には親の愛を知らない餓鬼のようなものである。
その基本が「報酬と罰」でしかない限り、共感性に満ちた真に人間性が豊かな人間が育たない。