最高裁はLGBTに屈した

 
 はじめに断っておく。僕は倫理的に微妙な「人工培養肉」とか「脳死」とか「尊厳死」などに代表される問題を百も二百も扱い、判断してきた。どんな問題が出てきても気付いても、問題から逃げたことは一度もない。

 反論が予想されるので、多くは語らない。僕は政治的には右でも左でもなく、いわんや中間でもない。自分の祖先である江戸期の名もなき百姓衆に学んだ収入ゼロのただの相互扶助による重層的(全年代型)コミュニティイストに過ぎない。

 いわゆる「LGBT問題」は、突き詰めるほどアルタナティヴ(二者択一)な問題であることをこの国の国民は忘れてしまったかのように感じる。そんなにLGBTが正義なら、まず皇室と最高裁裁判官にすべてのLGBTを結集させてみるべき。皇族については、天皇の継承を「直系の男子」としているが、そう言うなら法の整合性の観点から最高裁はこれも違憲と判断すべき。

 これまで膨大な判例の蓄積のある日本国憲法には、「婚姻は両性の合意のもと」に行われると書いてある。言うまでもなくここで言う「両性」とは「男と女」のことである。憲法の保障する基本的人権の法理は、「思想・信条の自由」を保証するものであり、この点で言えば、LGBT賛成の者も反対の者もいずれも侵害されてはならないはずである。ところがこの国では僕のようにLGBTに否定的な人間は非国民だとか売国奴だとかの謂われのない精神的苦痛を与え続けられているのが実情である。

 このことを敷衍すると、それではなぜ「両性の合意」規定があるのかと言う点で、それは男性性や女性性の権利の濫用を抑制する趣旨だと解すれば、法理として得心が行く。要するに、「ヤリマン」や「ヤリチン」を抑制する趣旨だと解すれば良いのである。つまり、暗黙に婚姻(前提)以外の性的関係を厳しく制限する趣旨だと解すれば、広く社会疫学として有効である。現実問題として、我が国のHIV感染者の大方はGで占められている。Gには次のように語りかけたい…「そうするとHIVの感染リスクが100倍高まりますよ」と。

 なぜ僕がこの問題に大きな懸念をもっているのかと言うと、この問題で国民の多くがその善悪の基準を「再考」させられた結果、他の諸問題においても事の善し悪しが曖昧になって行って、真の善悪を考えなくなり、結果として犯罪を増加させ、治安を悪化させるところまで行き着いてしまうのではないか、と思うためである。要するに、誰の目にも見えないところでそうした「規範の曖昧化効果」が進行して、社会疫学的に結果的に大きなマイナスになる心配があるからである。これはなぜ我が国が移民を受け入れないのかの真の理由とも通じるものがある。もし移民が誰でもこの国に移住できたとしたら、その国の治安感覚を持ち込まれて、どうにかこうにか治安の良さを持ちこたえてきた我が国の治安がどんどん悪くなる、と言う懸念があるのと同断である。そうした事態になれば、警察官の数をいまの5倍くらいまで増やさなければならず、莫大な血税を国民が払うことになる。

 にもかかわらず、「LGBT問題」を誰も具体的な問題とは考えない。それをみなが「自分に縷が及ばない(自分には直接に降りかからない)問題」だと思っている。あるのは薄っぺらな「正義」と抽象だけ。

 そこにあるのは具体的な想像力の欠如とひどい偽善だけ。社会疫学の立場から考えるとあまりにも具体的喪失(たとえば夫婦や家庭の価値の喪失)が大きく予測される。官僚してからが東大卒かなんか知らないが頭がおかしい。「銭湯は身体的特徴で」とか血迷っているが、「使用禁止」にすればそれで良かっただけ。これはおそらくだが、現実の公衆浴場の経営者にしてみれば、客足が遠のくのを恐れてそうするのではなかろうか。身体を洗える場所は何も公衆浴場だけではない。その意味で、この国の国民の誰一人としてそう言う現場の実情など想像できていないのである。

 そうしないとどうなるか。まず政府の通達を無視した「チ○コを持つ女」や「マ○コを持つ男」に公衆浴場や着替えをはじめとするあらゆる場面は占拠され、そうでなくとも最悪同性愛者が目を輝やかせて同性の公衆浴場で同性の性器の「品定め」をし、「パートナー選び」さえされかねない。これらのことに嫌悪感も何も持たないひとが一体どれだけいると言うのか。公衆浴場、着替え、病院の相部屋、トイレ…具体的問題が生じるであろう場面はあまりにも多い。そしてそれが社会的混乱を生まないと言う認識それ自体があまりにも常識外れである。

 他の具体的問題としては、異性に交際を申し込まれるときにでさえ、博打めいて精神衛生によくはないことなのに、それが同性からのものとなれば、一般人のモヤモヤとかストレスは計り知れないものになるだろう。それが生涯にわたるスティグマ(烙印)やトラウマ(心の傷)になったとき、誰がそれに補償をすると言うのか。

 これによく似た問題として、生きているうちには異性の医師や看護師に自分の性器を見られる問題とか、死んだら死んだで望まないのに葬儀屋に自分の性器を見られる問題がある。しかし我々は主張せず忍従して耐えているのが現実である。特に僕はマスコミに嘲られるチンカスの出る性器の持ち主であり、それだけでもかなりの苦痛である。ただでさえ「ルッキズムはいけない」と言いながら出演者を訴求力と言う顔面等差別で選り好んでいるマスコミには、僕のような人間を嘲り笑った罪の意識があるのか(「大河ドラマ」にみるように史実に基づけばあんな不自然にイケメンイケジョばかりではないことは明らか)。さらに僕は収入ゼロ。おかげで齢58にもなるのに嫁ひとりできない(そんなことで男を選り分ける嫁は要らんけど)。テレビ○日とか○川哲朗とか、誰がそのことに慰謝料を払ってくれようか。人間は、自分を辱めた者のことを生涯忘れない。臥薪嘗胆。ひとりLGBTだけそうした艱難辛苦を免れるのだとしたら、それは不条理のみぞを徒に大きくするだけだ。

 従前通りで何がいけないと言うのか。世の中には離婚や養育者の交代で私生児の扱いを受ける子どもも多い。「事実婚」と言う言葉もあるほどで、なぜ一部のLGBTだけがこれまでにない法的根拠を求める権利があると言うのか。自説を社会に強制したいだけに見えるのは自分だけであろうか。具体的現場は理念とか理屈ほどに単純ではない。このようなことを僕が主張するとほとんどいまの社会では袋叩きに遭う。言説で人質を取ることを世間では「ファシズム」と言う。ことLGBT問題にかんする限り、マスコミが熱心に推進した「LGBTファシズム」に陥っているように思えてならない。加えて検索エンジンなどではLGBTについての発生社会背景とかについての本質(僕は背景に孤立恐怖の社会心理的なものがあると見ている。当事者たちは自分の性自認の原因として語るので、それが隠されている)はググれず、ましてネガティヴな情報には一切アクセスできない状況になっており、権力とマスコミの一体化は激しく、この「LGBTファシズム」は「言論の自由」を明らかに侵害しており、元来あって然るべき法の裁きさえ免れている醜状である。本来この「問題」の本丸は、「はにわり(半陰陽)」のひとびとの社会的処遇の問題であったはずである。意図的にそこから目を逸らすように仕組まれていると思わざるを得ない。

 反論したいひとには、まずはこれを読んでからにしていただきたい。

 僕の知人のあるひとは、それは変態なだけだと言っていたが、僕にしてみれば程度問題(自身の存立の危機)に見えている。

 かく言う筆者も同性に性的感情を覚えたことがある。幸い一過性のものだったため、何か間違ったと言うわけではないが、それで僕に分かったことは、悪魔や頑強なLGBTに感情を占拠されて、そう言うおかしな心情になることが分かっている。LGBTで悲しいのは、彼らにはそれに気付く精神的余裕がないままにそれが自分の永続的感情であると勘違いしたまま性自認を主張しているところにこの悲劇の本質がある。そのことの傍証として、この問題が突然ある時期から降って湧いたように主張されはじめて、いきなりLGBTの大軍団ができたことに物語られている。人間の心と言うものは、どこかでかかわりあっているのでそうなったと理解すれば得心がゆく。僕は自分の考えを現実の社会でいくつもなぜか盗まれているのを痛いほど見てきた。

 名古屋の市バスの中で、何食わぬ顔をして僕の隣に座り、勝手に僕のズボンのファスナーを開けて僕のチ○コを弄んでいたおじさんは、果たして知人が言うような「変態」の一言で片付けられるべきものだったのだろうか。僕はそう思わない。推測の域を出ないにせよ、LGBTのどれだけかはこのような連中であり、その他は現代の問題である不登校と同じく、意識的にか無意識的にか何らかの危機を察知して異性の性自認に逃げているだけのように感じられる。そしてこの問題の背後にあるのは、人間の権力性の大小についての個人差なのであろう(事実戦国時代の武将には男色に耽った者が少なくない)。

 僕の認識ではLGBTのなかにはそう言う奴(「衝動」を抑えきれずに変態行為をはたらく奴)も現実にいるし、もし公にLGBTを認めてしまえば多数の具体的便乗犯(たとえば風呂場覗きやトイレ覗きなどの「なりすましLGBT」)も出ることくらいは容易に想像がつく。下手をすればタオルの下や石けんの中、シャンプーのプッシュボタンにマイクロカメラを隠し持っているかも知れない。ただ「心の問題」と現実に割り切れるものなのか。ずるい奴はポリグラフ(虚偽検出)さえかいくぐると言う。それもそのはずだ。悪魔の本質はただ悪いと言うことではなくて、問題から逃げるところにある。

 これから5年後までに僕の指摘する社会的混乱がひとつでもあったなら、国民は全員僕に一人につき罰金5万円は払ってくれるべき。これは正義を誤ったすべての人間に言いたいこと。

 自殺問題があったからと言い、国民全員がマスコミの洗脳に染まってしまった。自殺があったからと言うなら、全然別の問題(たとえば借金苦や貧困)でも国民はそのように日和ってくれるのか。そもそも「LGBTの自殺が多い」と言う主張は統計的にあまり意味がない。と言うのは圧倒的に健常者の自殺と比べてパラメーターが小さいからである。

 猛省を促したい。それでも文句があるのなら、どうせ僕の夢や願いや考えやアイディアは社会的にはひとつも叶わないことは嫌と言うほど分かり切っているので、勝手にしてくれ。何せ僕は江戸期の名もなき百姓衆の末裔なので、お上が誤ったとしても、自分の夢が叶わないからと言っても、痛くも痒くもない。

 おそらく最高裁は世界標準の判決を出そうとする意識が強かったのだろう。しかし、この問題で世界標準になろうとすればするほど、この国は日本ではなくなっていく。

 この問題は、これまで我々の間で培ってきた常識への挑戦なだけではなく、「社会>個人」なのか「社会<個人」なのかと言う永遠に答えの出ないかも知れないプロブレマティック(問題構制)を孕んでいる。

 そして、この問題はそのいい加減さにおいて原発問題と完全に相似であって、勝るとも劣らない。言いたいのは、「テメエの言説には責任を持て」、ただそれだけである。

 ※なお、僕のホームページはこちら

恋愛の人間的欠点

 
 誰でも恋愛はするかも知れない。

 しかし、考えてもみれば実にバカバカしいことではないだろうか。

 と言うのは、恋愛においていつもプロポーズする側が心理的弱者(つまり、下)の立場になる。女性が性的な視線を向けられることも、これと同断の構制である(こちらにかんしては個人差の大小も考慮されなくてはならない)。もちろんそれは時代背景にも負うところが大きい。

 さらにバカバカしいことには、恋愛を一種の「博打」にしてしまう(僕は祖父譲りの博打否定論者である)。

 これは人間の尊厳と言うものを考えたとき、それを著しく損なうものなのではないだろうか。それは有り体に言うと、媚び諂いそのものである。それをいいことにした悪事が横行もするだろう。

 心理的な上下のできない男女の関係こそ、これからの時代に模索されるべき問題なのではあるまいか(僕は男性の男性度、女性の女性度の存続を妨げる者ではない)。

 やはりステップワイズ(少しずつ)にお付き合いを深めて行くのが良いのかも知れない。

僕の人生展望

 
 僕が死んだら、僕のことは以下のように語られるであろう。

 「願いの1つも叶わないまま病魔で踏んだり蹴ったりの波乱に満ちた人生を一銭も儲けることなく閉じた」

 まぁこの国、1万人中9999人はそうだろうと思うけど。

 いまは七夕のあと。

 ※僕のしてきた「仕事」はこちらの通りだが、(僕自身が気付いた知恵はすべてノーコピーライトにもかかわらず)何一つ社会的に実現していない。

 だからもっと短く言うと、僕の人生は「現実のない人生」。それで分かるのは人間は「心の動物」などではなく、「現実の動物」だと言うこと。

統計的検定の初歩

 
 心理学においても、多彩な統計学の手法を用いていることは常識的なことである。

 しかし、その「ミソ」を明確にイメージできているひとはまずいない。

 そこで、ここでは統計的検定、中でも使用頻度の大きい「2つの平均値の差の検定(いわゆるt検定)」について、イメージからお話してみたい。

 集団Aと集団Bがいずれもある課題について正規分布をするとする。しかし集団Aの平均が50点(標準偏差4.5)で、集団Bの平均が55点(標準偏差5.0)だったとする。

 ここで集団Aの平均値と集団Bの平均値に有意な差があるかと言う問題に統計的答えを出すためには、これら2つの集団の正規分布曲線を重ねてみて、重複部分の面積が相対的に大きければ「有意差なし」、小さければ「有意差あり」と言うことになる。有意差についてはある程度重複面積が小さければ「5%水準で有意」、さらに小さければ「1%水準で有意」とかになり、マスコミの記事でこうした表現に触れたひとも少なくないだろう(要するに100回そうして5回ないし1回未満しか起こらない確率と言う意味です)。

 イメージで語れば、そのような手続きを取ることによって、集団Aと集団Bの平均値に差があるのかを検討できることは容易にお分かりいただけるであろう。本当に簡便な数式でこれを求めることができるのなら、それが主流となるべきである。

 しかし残念ながら、現実にはそのような統計学的手続きが実在するわけではなく、2つの集団の差分から成るもうひとつの正規分布曲線を導き出して、統計的に「有意」なのか否かを判別するのが現在のt検定の現実の手続きである。

 ここでの目的は、イメージとして統計的検定、分けてもt検定を理解してもらうことだったので、これで良しとしよう。

統合失調症の心理的治療

 
 僕は以前書いたように、カウンセラーではない、したがってこの世(在野)に必要ではない心理士である。

 その無価値な心理士として考える「統合失調症の心理的治療」の具体について触れておきたいが、その前にひと言だけ断っておく。

 統合失調症については、心理的治療よりも精神医学的治療、すなわち腹側淡蒼球などの薬物的な代謝異常の是正が優先する。そのドラスティックさにおいては、心理治療よりも薬物治療の方が根本的な治療たりうるからである。

 さて、統合失調症は多くの場合、「意味付けされた幻聴」をその主訴とする。それで僕は統合失調症のことを「囚人症候群(別名アナザーパイロット症候群)」と呼ぶことを提案している。その意味で、統合失調症は「理解不能の病」ではない。

 多くの医師が言うように、統合失調症患者ではこの「意味付けされた幻聴」が「現実」だと認識していることが、「病識の欠落」なのだと問題視しているわけである。

 ならば、統合失調症患者に治療者が手取り足取りして、「それはあなたのおかしなところです」と一々指摘して、「普通はそんな認識は持ちません」と言う明確なメッセージを与え、病識を持たせるところから心理的治療は開始されるべきである。

 そしてその先に進むためには、その症状に意識的に対決・無視させるよう患者を導くことこそが、真の意味での統合失調症の心理的治療になるはずである。

 これは昔からある「ロゴセラピー」と言う手法である。

 果たして、「公認心理師」は、こう言う治療を現実に行っているのであろうか。

心理学における「連合主義」の誤り

 
 心理学史において、特に学習心理学においてクローズアップされる史実は、ジョン・ロックに始まる「連合」と言う概念である(哲学史ではロックは経験論だと言われるが、大局的にみたとき人間の経済的存在論を説くと言う意味で、筆者は合理論者だとみている。それはアダム=スミスやリカードなどの思想的系譜に属する)。

 しかも念の入ったことには、それが心理観の基本概念として、条件付けなどの「発見」へと道が続いたことは、「心理学者」たちのひどい視野狭窄を招いてしまった。

 特に我々日本人には、「連合」と言う観念は奇異なものにさえ見える。

 僕は、かねてから言っている通り、「報酬と罰」と言う学習観に否定的である。単純に言って、そう言う「原理」でもしひとを育てたとするならば、そのひとはおそらく共感性に欠けた利害と打算で生きるだけの「マシーン人間」に育つに違いない。それが証拠に、ある種の共感性がはたらいていないと、天敵から身を守る法とか採餌戦略その他さまざまな「生きて行く知恵」は世代を超えて受け継がれはしないはずである。

 その意味で学習心理学における「学習」と言うのは、他律的に作為的な判断形成ほどの意味であって、プラグマティズムの哲学者たちの拙速な考え方の申し子と言って良い。実に良く現在の学歴経済主義的世界観を表しているではないか。

 そこで、哲学的な見地から「連合主義」の人間的欠陥を指摘しておきたいと思う。

 僕の認識論では、概念のタテの関係を「抽象-具象」、ヨコの関係を「類推-帰趨(ロールオン-ロールアウト)」だとする。なので「連合」と言う概念はこれら2軸の複合的概念だと言うことになる。また、「連合」と言うのは、人間の類推能力のごく一部に過ぎないと考える。かつてウィリアム・ジェームズは意識活動を「意識の流れ」になぞらえたが、日本と言うローカルな一地域に住む僕の見方では、人間の意識活動と言うものは、日本語で言う「結び(敢えて英語で言えばknot)」と言うことが中心なのではないかと思われる。

 親鳥が雛に餌を与えることについて、熟慮のない「心理学者」は、「親鳥-餌」と言う条件付けが成立すると考えるに違いない。

 しかし、そのような営みで種が繁栄する源は、そんなに安っぽい「原理」によるものであろうか。適正ないのちのリプロダクションが報酬と罰だけで成立するものなのだろうか。

 これは僕の持論になるが、親鳥が雛に餌を与えるときに、親鳥の持ってくるものが餌と言う「報酬」だと言うよりも、親鳥の気遣い(生きてほしいと言うメッセージ)であるに違いない、と思う。そしてこの「生きてほしい」と言うメッセージ性のことをこそ「愛」と呼ぶのである。そしてこのようなメッセージ性を通して動物が学習するのは、即物的関係性と言うより抽象能力なのではないか、と言う気がしている。その抽象能力と言うのは、文化的だが言語外の「即性是認-否認」、すなわち判断である(しかし僕はあくまで思考と言う枠内では判断よりは良い視点の変幻自在さ-良い即性の与え方-を重視する)。「愛」は主体の側では実在する感情ではあるが、言語的コミュニケーション以外だと、客体にそれが芽生えるにはその感情を黙々と客体にとって焦点的、集積的かつ累乗的な行為の形で与え続けないといけない。こうしたことが他にも同様にないと、抽象能力は開花しない。その意味で言うと、哺乳類の中で人間ほど「愛」や「抽象」がエレガントではない動物はいない。

 だから、「連合主義」と言うのは、血の通った動物の「学習」の本質を突いてはいない、と思う次第なのである。言ってみれば、路傍の石だけを拾って「これこそ人間の指導原理なり」と言う愚がそこにある。

 世の中では「過保護」はいけない、と言う。ここで語られている「過保護」とは、一方的な価値観の押し売りや形だけの溺愛や腫れ物に触るような養育的態度のことを言うのであろう。しかし、真の意味でならば、「過保護大いに結構」と言いたい。いまの金銭至上主義の社会では矛盾が大き過ぎ、ひとがひとと対等に仲間であると言う意識を持ちすぎて損をすることはないからである。

 実証できればそれが科学だと言うのなら、僕の立場は非科学である。

常習的犯罪者の心理的特質

 
 長い文章には飽き飽きしているひとも多いと思うので、できるだけ短く言います。

 常習的犯罪者の心理的特質は、「罪悪感がない」と言うことです。

 その背景は、人間としての対等意識が育まれていない、と言う社会的な問題にあります。

 以上。

僕はカウンセラーではない心理士です

 僕はカウンセラーではない心理士です。

 それを証明するのが僕の執筆した「講座 心理学概論」です。興味のある方は是非ダウンロードしてお好きなところからご一読ください。

 ファイルはPDFで、こちらです。僕のホームページはこちら

 カウンセラーではない心理士が何の役に立つかって?何の役にも立ちません。収入ゼロ。「公認心理師」になるか修士以上を出る以外で心理学を学んでも人生に後悔しか残りません。学部卒は心理屋としてはチンカス扱い。僕のようにならないように。

 58歳にもなってパラサイトシングルだから生きていられるだけ。ベーシックインカム希望。