我々は常に推測しながら生きている。「覚」とは「心が触れること」の謂いである。
したがって、「認識」とは「収まり(対象意味)に触れること」の謂いである。
対象意味は、いつもそれ単体では存在し得ない。
それにはいつもタテとヨコの関係があって、タテを「抽象」、ヨコを「類推」と言う。
「連合」とか「連想」に人間の本質を見た哲学者や心理学者たちは了見が狭すぎる。
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我々は常に推測しながら生きている。「覚」とは「心が触れること」の謂いである。
したがって、「認識」とは「収まり(対象意味)に触れること」の謂いである。
対象意味は、いつもそれ単体では存在し得ない。
それにはいつもタテとヨコの関係があって、タテを「抽象」、ヨコを「類推」と言う。
「連合」とか「連想」に人間の本質を見た哲学者や心理学者たちは了見が狭すぎる。
植物の成体には水を浄化する力があり、その種子は天然の防腐剤に富む。
「ドリア三昧」
カレードリア、チーズドリア、ミトコンドリア
「大相撲」
「遠藤はダメだね~」
「エンドウは豆だね~」
お粗末様でした。
エインズワースの「ストレンジ・シチュエーション法」は、発達心理学を学んだ者なら誰でも知っていることだろう。
今日はその研究がなぜ行き詰まっているのかについてお話したい。
親子が筆者の場合のように、幼い頃「あれができたから褒美をあげる」と言うような「条件付きの承認」であった場合、筆者がまずそうなのだが、学校に行ってひどいいじめを受けても、「親に話す」と言う発想自体が浮かばない。
筆者は中学2年生の1年間、ある同級生の奴隷にさせられ、1年間眠りにつく度に布団の中で泣き通したが、ついぞ親に話したことは一度もなかった。
結論から述べて恐縮ではあるが、筆者のようにスキンシップなどから始まる親の情愛を知らない人間は、その心が打たれ弱く、副交感神経系失調に陥るのである。
エインズワースの「ストレンジ・シチュエーション法」がその真価を発揮するのは、この人間の「打たれ弱さ」に焦点を当てたときに他ならないことに大方の心理学者は気付いていない。
「条件付きの承認」と言う言葉を聞いて、心理学を知るものであれば、まず先にロジャースの「来談者中心療法」を思い浮かべるであろう。そこでは「条件付きの承認」が最も忌み嫌われている。
この「条件付きの承認」をやめて、本当の親子の情愛が成り立っていたならば、子は学校もろもろで味わうネガティヴな経験を親に話すはずである。そして、打たれ弱い子にはならないであろう。
親の情愛に恵まれなかった子は、ひとの心に気付かせるのに懲罰以外の方法を知らないまま大人になるのである。
筆者が行動主義を嫌うのは、まずもってこの理由による。そして、「来談者中心療法」の限界が、育まれるべきものが情愛である、と言うところにある。と言うのは、カウンセラーが異性であった場合、そこに情愛が生じることは厳しく戒められているからである。
心理学で錯綜していてその本質を見定められてはいない大問題について、今日は交通整理をしてお話させて頂いた。
以上が被験体を僕とした神様の実験のレポートである。
エネルギー資源のない我が国で電気の供給を行うなら、以下に示す「ニコラ・テスラ式永久発電器」を作れば良い。
テスラは、小さな発振器を鉄骨に当てて、共振周波数にセットすると、鉄骨が激しく揺れるのをすでに100年前に行っていた。そして彼は、「これを使えばブルックリン橋を1時間で壊せる」と言って立ち去ったと言う。
しかし、ブルックリン橋を壊されても困るので、常に揺れが一定の範囲に収まるようにサーモスタットのように、鉄骨の運動が出力側からフィードバックされ、共振周波数を運動量に合わせて自動調整される機構にすると良い。
このような仕掛けを鉄骨全体に数百施すと、発振器の電流の数千倍の電気が得られる。かかる費用はメンテナンス代だけ。「発電には燃料が要る」と言う神話を崩したかった。
図中に発振器と鉄骨の全体像は書かなかった。鉄骨は水平の横揺れをするものとして記述した。他の腹案としては、自動車の内燃機関のようなタイプの構造でも可。
火事場ですべきことを短くまとめておく。
まず、二酸化炭素は太陽光に誘導される性質があるので、太陽光並みのルクスの得られる投光器並びにケイ素を使って二酸化炭素を制御し、避難路を確保することが火事場においてはまず先決である。
次に消火のしかたであるが、現在の水による消火では水が飛び散るせいで消火に時間がかかりすぎる。火の中にチリチリバラバラな水をかけても、火は燃焼の過程で火中の気体を膨張させ、それが消火を手間取らせる。
思い切ったことを言えば、火は水ではなく、土と水をこねた泥で行うべきである。それにより火事場の酸素供給をストップさせ、消火にかかる時間を大幅に短縮できる。
証拠保全と現場検証において水による消火より劣るのではないか、と言う反問はもっともではあるが、慎重に考えた場合、本当にそうなのであろうか。消火時間の短縮によってそれがどう変わるのか、慎重な検討を求めたい。
なお、火事場の検証については、どの物質がたとえば何分燃えると何が多く検出されるかなどを検討のこと。
大方の精神疾患では、「随伴症状」として「不眠」が生ずる。
このことが意味するところは、大方の精神疾患では副交感神経の失調が生じる、と言うことである。
したがって、不眠を解消するためには、メラトニン製剤なりレプチン製剤なりオレキシン抑制製剤なりの投与が必要だと言うことになる。
しかし、それ以上の問題として、果たして「不眠」が本当に「精神疾患の随伴症状」と言えるのか、と言うことを考えてみなくてはいけない。
もしかしたら、大方の精神疾患の「主症状」が「不眠」で、個々の精神疾患の症状は「不眠」の「随伴症状」なのかも知れない。
その解明は、そのような問題意識から精神疾患を捉え直すことから始まるのだろう。
この問題に決着をつけるのは、僕ではなくて読者のみなさんであってほしい。
表題の問題について筆者がよく目にしてきたのは、「それは誰の認識か」とか「どこからものを見るか」の問題だと言う見解である。
ところが、筆者から見えるそれらの問題の所在は、まったく異なったところにある。
現実の「主観ー客観」とか「存在」の問題と言うのは、「それには議論の余地があるか」と言う認識の不可抗力性と言うところに問題の所在があるのであり、上記のような問題の立て方そのものがそこから目を逸らしてしまうはたらきをしているのである。
しかし、それが分かったからと言って、「主観ー客観」、「存在」の問題に適正解を与えているわけではない、と言うことに留意してほしい。
これは日常よくあることだが、ある主観にとって「議論の余地がない」と思われることが、他のある主観にとって「議論の余地がある」かも知れないからである。それらは、個人的主観レベルでも社会的主観レベルでも文化的主観レベルでも起こりうることである。
したがって、筆者が何が「主観的」で何が「客観的」で、また、何が「存在」なのかについては何も語っていないことをご理解いただきたい。
筆者はただ、「主観ー客観」、「存在」の問題の所在が本当はどこにあるのかを指摘したに過ぎない。
範例を物理学に取ってみよう。
現在ではニュートン物理学は否定され、アインシュタイン物理学とか量子力学が盛んに展開されている。もっと遡るとアリストテレスの自然学もあった。
ある文化では、別にわざわざニュートン物理学を否定してアインシュタイン物理学や量子力学をそこに据える必要など実用上はまったくないかも知れない。
もっと言うと、いまから100年後の「最先端物理学」ではアインシュタイン物理学や量子力学でさえ否定されているかも知れない。
さらに言うと、お茶の間に暮らす我々には、そんなことはどうでもいいと言う意見がその主観の正直なところかも知れない。
このように、自然には何が「主観」で何が「客観」で何が「存在」なのかは人類が滅亡しても不明なのかも知れず、一意な解と言うものが本当は存在しえないのかも知れない。
そのようなわけで、筆者は問題の所在がどこにあるかについては指摘したが、それらの問題に適正解を与えたわけではない、と言うことをご理解いただければそれで満足なのである。
最後に、「偶然ー必然」問題の本質は、因果性(事象間の規制関係)を認識主観が伴っているか否かの問題であることを指摘して、結びとする。
僭越ながら、筆者生まれも育ちも名古屋市西区の下町である。
その名古屋の「ご当地ソング」が流行らない訳について簡単に所感を述べておこう。
まず第1に挙げなければならないのは、「名古屋には旅情がない」と言うことである。神戸にせよ横浜にせよ長崎にせよ、「ご当地ソング」が流行った地域には「旅情」と言うものがある。名古屋にはそれがない。
では、名古屋の「ご当地ソング」は永遠に無理なのであろうか。
筆者は一点だけ名古屋の「ご当地ソング」が流行りうる可能性を感じている。それは名古屋以外の他のどの地域にもない名古屋独特の雰囲気である「賑々(にぎにぎ)しさ」をうまく表現したならば、名古屋の「ご当地ソング」としてヒットしうるのではないかと言うことである。
いまは廃れてきているが、名古屋には「菓子蒔き」とか「ええじゃないか」と言うような、同じ地域のひとびとが皆面識があるような錯覚を感じさせるような文化がある。殿様が庶民的だった時代に栄えた歴史もある。そのイメージをジャストミートで強烈に放ったのは「きんさんぎんさん」ではなかったか。
そのような文化の本質をひと言で表現せよと言われれば、僕はそれは「賑々しさ」だと思うのである。
以下の絵をご覧頂きたい。
BugelskiとAlampay(1962)は、上の多義図形を「人」刺激図版を先行して提示する群と、「動物」刺激図版を先行して提示する群で図の見え方が7割5分方同じカテゴリーの図として見えることを実験的に検証した。
さらに興味深いことに、一度そのように見えた図は、その後に逆(つまり、先行刺激が「人」である場合には「動物」を、「動物」である場合には「人」)のカテゴリーに属する図版を提示しても、9割方の被験者は先行刺激が何であったかが決まっていたら、その解釈(見え方)を変えないことも分かった。
この実験が我々に教えるところは、「ファーストインプレッション(第一印象)」がイメージレベルばかりではなく、概念レベルでも重要な役割を果たすことであった。いまで言う「プライミング効果」研究の先駆けとなる研究だったと言えよう。
なお、原題中にある「the role of frequency(頻度の役割)」は確認されなかった。
【原著論文】
Bugelski,B.R.& Alampay,D.A. The role of frequency in developping perceptual sets
Canadian Journal of Psychology Vol.15, Pp.205-211, 1962