苦楽から考える学習心理学

 昔、僕の知人であるエプスタイン博士は言っていた。人間が常に求め続けているのは「最適な苦楽の均衡」だと。

 それなりに重い言葉だとは思っている。

 従来の学習心理学では報酬なら報酬単独、罰なら罰単独で理説が考えられてきたが、「人生」と言う文脈で考えると、むしろ「苦の中の楽」、「楽の中の苦」と言う方が現実に合ったものの考えではないか、と思う。

 その意味で、我々の人生においてベースラインが「中性」と言うことはあり得ない気がする。それはたぶん、ラットの学習でも同じことであろう。

 「苦の中の楽」は「苦」を忍耐させ、「楽の中の苦」は「楽」をより嬉しいものにする。人間が適応的なうちは、「苦」にも「楽」にも意義づけを見出だす。人間においては、苦楽の別なく「それに意義を見出す」ことが一番のモチベーションになる。これからの学習心理学は、「意義を見出せる個別具体的な条件」を探ることがトレンドになってゆくであろう。

 その耐性の限界を個々人境遇的に超えたとき、精神病理に襲われるのであろう。つまり、「学習」と言う現象はそれ単独の意義を持つ概念ではなくて、精神衛生上の一大トピックであると言わねばならない。それは、「どのような状態のとき、どの情報を学び、どの情報を棄てるか」の問題だと言える。また、任意の行動それ自体の精神的コストも視野に入れるべきであろう。

 で、冒頭のエプスタイン博士の言葉を考え直してみると、「苦楽の均衡」と言うのは、「耐性の限界を超えないように」と読み替えることができる。ただ、人間はたぶん基本的には「楽」志向であることは間違いない。そしてまただぶん、その問いには機械的な答えはない。なぜなら、自分がどう感じているひとにどうされると学び、あるいは拒絶されるかの問題のように思われるからである。

 そうなると、問題は「苦楽・境遇・対人関係のデザイン」がどのようであるので、学習を促進し、あるいはやめるのであろうか、と言う話になる。多くのひとは、子ども時代の勉強の思い出などを振り返ってみると、何らかの考えに辿り着くであろう。また、以前指摘したように生産性を考えるときに「社会の中の企業」、つまり企業活動の社会的財産性を視野に入れないことが心理学における生産性研究のネックであるように、現代サラリーマンの仕事を考える上でも、このように考えることは「報酬と罰」の学習心理学よりも説得力があるだろう。そして結局、このような問いへの答えには即物的な「報酬や罰」だけではなく、「そのひとの人生の履歴の産物」としての「価値観」がかかわってくることを痛感するであろう。

 非常に大雑把な一般論を言うと、比較的短期の学習には「意義」、長期の学習には「苦楽」の関与が大きい気がする。

 これまでの学習心理学は、「苦」と「楽」を切り離して考えられてきた。しかし、有機体の現実を考えたとき、事態は決して単純ではなく、学習は境遇適応上、もう少し大きな目で見る必要がある。

感覚閾の日内変動

 我々の感覚は、夜と昼、空腹時と満腹時、生理学的状態、環境の知覚などの複数の要因で閾値(threshold=感覚による刺激検出可能な刺激の物理的最小値)が変化していると考えるのはおかしいだろうか。

 たとえば、夜聴く音楽とボリュームは同じでも、昼聴いた方が音量が小さいと感じたりすることは、我々の日常にはよくある話である。もしかするとこれは視覚と聴覚の感覚間相互作用をも示唆する知見なのかも知れない。

 ところで、心理学で感覚を問題にするとき、いつもお決まりで論じられるのは感覚刺激の受容における「合理的理由(たとえば、音楽の例だといわゆるS/N比のようなものの仮定)」であろう。

 しかし、もし我々の感覚と言うものが必ずしも合理的にはたらくわけではない、と言うことも再考の余地のあるところなのではなかろうか。

 一心理士として、今日はそんなことを考えている。

通知表

春学期が終わり、僕の手には通知表

僕の地域では5段階評価なんだ

通知表を見たら、ほとんど「3」だった

これって、どう言うこと? 僕はそれなりに頑張ったし自信もあった

なのに先生はと落ち込んだ

神様はそれを見ていた、「君の考えは違う」と

形の上では先生がつけた成績かも知れない

じゃが、わしの考えは違う

それは実はあなたが先生の授業につけた点数なんだ

僕のYahoo!ブログは「はてなブログ」へと移行いたしました

 Yahoo!ブログが今年の12月15日に終了するのに伴いまして、僕のこれまでのすべてのYahoo!ブログの記事を「はてなブログ」へと移行いたしました。  

 これまで僕のYahoo!ブログを閲覧していらっしゃった方々は、引き続き僕の「はてなブログ」にて各記事をご覧いただけますのでこれからもよろしくお願い申し上げます。  

 新しい僕の「はてなブログ」のURLは以下の通りです。  

 https://tottsan0912.hatenablog.com/  

 これからも変わらぬご厚誼のほどよろしくお願いいたします。 

心身問題

 
 車がクラッシュするのは物理的には秩序であるが、交通整理の観点では秩序ではない。そこには「二重の秩序」が存在する。いわく「物理レベル」、「生存レベル」。

 ものの存在はものとしては秩序だが、その存在が生存にとっては秩序だったり秩序でなかったりする。
 
 それは病と健康の関係のようなものである。
 
 病は、物理現象としては秩序の現れでも、生存の世界と言う観点では秩序の乱れである。要するに、それを生存の観点から見た場合、そこに「からだ」と言うモメントが潜伏している、つまり生存の世界か単なるそれ以外の世界かを区別するだけの観点の違いを「もの」だとか「こころ」だとかで表現しているだけなのではないだろうか。

 ものとこころ、と言う問いそのものも、そう言うことなのだろう。生存の世界、そうでない観点で見た世界、なにかそのようなものがこの問題の本質のようである。もっと明確に言うと、「身体」と言うのは生存の秩序の世界の謂いであり、「心」と言うのは存在の秩序の世界の謂いだと言うことである。

 存在の世界と言う観点からする心というのは秩序に従ったり抗ったりしうるが、そのからだと言うものは生存そのものの秩序にしたがっていないと、失われてしまう。

 したがって、「心身問題」と言うのは、対立観念の問題なのではなく、観点(強調点ないし次元)の相違を表現しただけの問題なのだと思われる、「生存の秩序上の世界」か「ただの存在そのものの秩序上の世界」なのか、と言う。

 強いて言えば、そう強調したくなるほどの広大な地平が「もの」概念にも「こころ」概念にも伴うと言うことだろう。

 また、それらが現象面でかかわり合うこと(転化し合うこと)が魔鏡となって「心身二元論」と言うオカルト的信仰を引き起こしているように見える。現に医学などでは、現象的問題と生存問題を同時に取り扱う必要から、こうした問題については無頓着とも言える態度が散見される。この場合、正しくは「生存(Leben)のあり方と物質(Ding)のあり方はどう関係しているか」と言う問いの立て方を意識しているのでなくてはならない。

 しかしたとえば「機能」と言う観点から現象を見れば、「心」的現象も「身」的現象も認識論上は等価なのである。

 要するに、「心身問題」には、本質的に「生存の世界」か「存在そのものの世界」かと言う観点(ないし次元)の違いが伏在しているに過ぎない。元来、「実践(=生存のためのはたらき)」と「存在」は別々の問題であるが、そのアポリアは、これらを混同するところにその潜淵があると言わねばならない。

 言い換えるなら、この世は生存レベル(身体の維持世界)での秩序と物理レベル(あるがままの事象世界)の秩序が錯綜して存在している、と言うことである。

 もう一歩歩を進めて「物心問題」と言うことになれば、「不可抗力性のある世界(物が与えている側面)」と「必ずしも不可抗力的でない世界(心が与えている側面)」と言う観点の差異を表出するものに過ぎないことは容易に分かるだろう。「不可抗力性」と「心理的変動性」を対比するのは冒頭に述べたのと同様「二重の秩序世界における観点の相違(G・ライルの言葉を借りれば「カテゴリー・ミステイク」※ただし彼自身の言ったのとは違う意味で)」の問題であり、この問題が難しく感じられるのは、人間の知覚が、ただの物質の配列の写しなのではない、と言うところあたりににあるのであろう。

 この問題の濫觴は、人間は、乳幼児の頃は存在と実践(感情的行為)に区別はないが、長ずるにつれその区別ができてくることの表れに見ることができると言えよう。したがって、乳幼児には「心身問題」など存在しない。

 このような問題をより広汎に考えるときには、「そのものごとの不可抗力性はどうか」と「そのものごとは価値を帯びているか」の2点に気をつけて考察するのが良い。「価値」とは、「どれだけありがたいか」の問題である。

ミューラー=リヤー錯視

 いわゆる「ミューラー=リヤー錯視」の説明理論で最も有名なのは「グレゴリーの3次元仮説」であろう。  

 その説では、矢羽根が180°未満だと鋭ければ鋭いほど「コーナーの行き詰まり」と知覚されるので、線分が近くに寄って見え、180°超だと「オープンスペースの入り口」と知覚されるので線分が「こっちこい、こっちこい」と長く見えるのだ、と説明できよう。

 しかしミューラー=リヤー錯視はポンゾ錯視のように線遠近法的な解釈の余地は小さく、読者の皆さんにはたぶん、二次元的な刺激を三次元的に解釈すると言うこと自体に疑念を抱かれる向きも多いであろう。 

 僕はそんな大した仮説ではなく、矢羽根の角度が線分の「そこまで」を曖昧化して過大視・過小視させるのでこの錯視が起こると考えている。それが証拠に矢羽根の閉じたものと開いたものを平行に上下に並べたときに、ともに線分の終点に垂直のスリットを入れるとこの錯視は消失する。まぁ、「位置誤認説」とでも言えるのではと考える。

 ただ、常識的には「伸張と収納」パターンのお話なのでこの錯視は自然な気がする。

人間の日常とAIの示差

 以前の記事に書いたことだが、「人間はきっかけと気づきの動物である」と指摘した。

 人間の認識の勘所と、人工知能(AI)の勘所の違いをこの記事では述べてみたい。

 AIは簡単に言うと、「すべて定義されたシステム」だと言うことができる。

 しかし人間の「きっかけと気づき」は完全には定義しきれないばかりでなく、かなり気まぐれに成り立つとは言えないだろうか。その上人間社会では何よりも「訴求力」がものを言う。

 コンピューターには「曖昧な認識」は持てない。「曖昧な刺激を識別する」ことはできても。コンピューターには「訴求力」も持てない。「訴求力」はいつの時代でも経験値であり、「訴求力の当て推量」はできても。

脱腸(そけいヘルニア)

 僕の父方の祖父は、将棋3段でガキの頃当時の尋常小学校で1番2番を争うほど僕とは天と地の差があるほどの優秀な御仁で、その1番2番を争っていた相手がなんと京都大学名誉教授で文化勲章受章者だと言うので、ちょっとにわかには信じられないことでしょう。

 その祖父の親父、つまり僕の曾祖父はかなりの豪傑で、僕の祖父を連れて大阪の鉄道環状線の駅と駅の間を鉄くずを拾って生計を立てる反面、ひどい博打好きで、いつも祖父は僕にそのような苦労話を言い聞かせていたのを懐かしく思い出します。

 で、僕の親父を除いては、曾祖父、祖父、そして僕とみな脱腸(そけいヘルニア)で、片方の睾丸が異常に大きいので分かるばかりでなく、この病気の一番の症状である下腹部の違和感が常に伴っておりました。

 曾祖父は脱腸を抱えたまま天に召されましたが、僕の祖父は90歳を過ぎてから、僕は45歳を過ぎてから手術によって脱腸を治しました。

 最近は女性でもこの病気で悩んでいる方も多いと聴きましたので、そこそこ大きな病院で早めの手術を推奨いたします。

 まぁ、祖父や僕の脱腸は隔世遺伝なのでどうしようもありませんが、祖父の持っていた優秀さは残念ながら僕には遺伝しておりません。

 僕も病院でもらえる「症」は10個ぐらいいただいておりますが、それらは賞金や賞品のもらえる類いの「賞」ではないので、かかった医療費は大変なものでした。

 たぶん、病気をひとつも持っていない方は珍しいと思います。我々のような人間はどうやって病をだましだましなだめながら生きてゆけるかが人生の大きな課題だと言うべきでしょう。

うんこが暴く「行動主義」の如何様

 

 こんにちは。  

 「心理学は目に見える行動のみを研究すべきである」と言う「行動主義」による心理学での「学習」概念および知見には常識では得心できない部分があります。それについて短くお話します(特に第7パラグラフの末尾()内に注目してください)。  

 まずはじめに述べておきたいのは、「学習」と言うものは、たとい暗黙裏にではあっても、「意義(関係性の訴求力)に気づいた時点に成立する」と言うのが僕の考えです。人間くらい複雑な有機体では、「情報の時点で気にかけることは変わる(=気にかける時点で情報へのアクセスのあり方も決まる)」と言うことです。

 我々は、ある日お医者様がテレビで「ウ○コが臭いのはがんのサインです(=条件罰刺激→これはすでにひとつの対呈示型の条件付けになっている)」などと話しているのを聴き、その後の日常でたとえば「自分のウ○コが臭かった(成立した条件付けにおける罰刺激による強化)」などと言う経験を持つと、次の日からそのことを気に病むようになる(=条件付けの成立)でしょう。この現象を支配しているのは、「関係性の意義(訴求力)を知ること」であって、刺激と強化の先後性ではありません。あるいは何かで逆恨みしたひとが、幾日かして棒を見たら「これであいつらを叩き殺してやる」と思うかも知れません。ありがたいお話をしたひとが話をしてからひとしきりして「コホン」と咳をした。「いい話をするのには喉が大変なんだな」と我々が認識する。船が港にないので「船は出航したんだな」と知る。あることを主張した後に身だしなみが乱れていたのに気づき、その後あることを主張する際には常に身だしなみに気をつける。誰かの話を聴いて事情を察する。どれも刺激と強化の先後性の問題ではないことがお分かりでしょう。このように、すべてをオペラントと報酬で解釈すること自体に限界がある。

 報酬や罰が与えられた後に条件刺激が与えられるタイプの条件付けのことを「痕跡条件付け」と言い、一般に成立しない事象だと考えられています。そうすると先行した報酬や罰の後に呈示された条件刺激を「それには何か報酬や罰にとっての意味はあるのだろうか(たとえば告白された好きな異性の何でもない仕草が(それが自分への愛情のサインだったのだろうかと)気にかかる)」と訝ることはできない相談になります。

 しかし、よく考える読者は次のことに気付くでしょう。関係性の覚識を持ちうる報酬と自発行動(オペラント)については、次のようなことがあり得ることを。すなわち他個体の報酬に続くオペラントを観察する。後に自分に特定のオペラント状況になったとき、そう言えば的にある報酬とオペラントの関係に気付く、そしてオペラントを行う(例:パチンコ、自動車の運転等…これらは、刺激-報酬と言う文脈でも理解できれば、報酬-刺激と言う文脈でも理解できるのである)。この問題では重大な問題も提起される。つまり、この個体はそのオペラント-報酬関係を「自分事」と見なければこの学習は成立しないのか、あるいはその事象関係を単に一般論として認識するのか。また、ソーンダイクが言っているようにこのような学習が機械的に成り立ちうるものなのか、ひとつひとつステップワイズに学習が進捗するのか、言い換えればそのような学習はどのくらいの深度で起きるのか。そのような認識と言うもの自体、ただの事象の羅列を見ていただけなのに、なぜそれらの関係性に気づけるのか、その認知的基礎は那辺にあるのか。注意機制がはたらくときとはたらかないときがあるが、その差は何によるのか。いずれにせよ、関係性の覚識が事後に認知されるので、この学習は一種の「痕跡条件付け」になっている。

 しかし、上に述べましたように現実には人間では普通に見られる学習です。そもそも学習心理学における「中性刺激」と言うものが本当に「中性刺激」と言い切れるのかどうかも疑問で、実は必ず人間を含めた動物たちには環境の一々について生態学的意味があって、もしかしたらラットでも「餌を食べたら天井灯が点き、明るさと言うアメニティが得られるので餌を食べる」と言う学習があり得ないと断言はできません。「中性刺激」が「退屈な刺激」か「魅力的な刺激」かはその有機体しか知り得ぬことです。そんなわけで、「報酬的ないし罰的関係性の理解」さえあれば、どんな条件付けでも成立し得るのです。もしこの手の学習が成立しないと言うことであれば、そのような無数の要素からなる「学校の授業」などの意味伝聞的学習は学習心理学上無意味だと言うお話になってしまいます(そう言う意味からではありませんが、僕は9割の学校の授業は大方のひととは無縁の与太話だと思っています)。  

 要するに、我々はそれが強化子か罰子かは任意の刺激による行動の増減で推察していますが、たとえば適度な刺激を有機体が求めているのであれば、行動の増減が強化子によるものか罰子によるものかは断言できないと思うのです。たとえば空腹な時のご馳走と満腹な時のご馳走は、強化子にもなれば罰子にもなり得ます。その上常に学習は一定の振れ幅で更新され続けてゆきます。心理状態と言うものは、常に揺れ動いています。この辺の事情からプレマックの原理とか、アリソンとティンバーレイクの反応制限説とかが出てきたわけですが、ここでの筆者の関心事ではないので、割愛します(要点だけを言うと、ある行為を他のある行為に枠付けてしか理解できないことが行動主義の根本的欠陥なのである…ワトソンは行動は観察の前に一意だと言うが、実はそれも違っていて、通常我々は「観察事実」が我々の推察なのか被験体の主観的事実なのかの区別を特につけているわけでもない…つまり、本当に客観的なことは「観察事実としての行動」を以てしても決まらない…行動から意味を抜き去っても、それは行動にすらならない…「たぶん、…だろう」…これは、どれだけ観察の「精度」を上げても振り払うことのできないアポリアなのである…この問題の本質は、「意味の効能の推定」と「事態の推定の不可抗力感」の2面から考察でき、これらにダブルチェックが入っている限りでその意味は「生きている」のである…したがって我々が事態を正確に伝えたければ、ありふれた表現になるが、事態の推察性の正確を期すばかりではなく、意味の正確性に気を付けること、そこまでが我々のコミュニケーションの正確性の限界だと言うことになる…しかし、「どこまで詰めればそれは真実なのか」は厳密性の問題にはなり得ても、何がそれを保証するのかは明らかにはし切れない…ただ言えることは客観性と言うのは「それしかあり得ない主観性」のことだと言うだけだ…我々は一般問題として、この問題の本質はその真実性にあるのではなく、コミュニケーション維持性にあるとみている…つまり、意味に困らないようにコミュニケーションが存立するのではなくて、コミュニケーションに困らないように意味は存立するのだとみている)。  

 他にも我々にはこう言うことはあるのではないでしょうか。「俺がさっき話したことは覚えておきな」と言われて我々がそれを覚えておくことがあり得ることを。あるいは「○○でないと気が済まない」と言うことが有り得ることを。パソコンの実用よりも設定に熱心になるように「手段の目的化」が有り得ることを。またあるいは、「あ、あれそう言う意味だったの」と言うような「言われて気付く(いわば「振り返り学習」)」ことがあることを。「きっかけと気づき」の前後関係がどうあろうと、学習における「気づき」は人間の場合いつでも任意の時点です。これらが「報酬と罰」による学習心理学的説明でできるとでも言うのでしょうか。

 たとえば、鳥さんの育児行動を考えてみましょう。鳥さんの育児行動、たとえば餌を与えるとかお尻を舐めるとか、こう言った行動が単に「報酬と罰」で説明できるでしょうか。僕は無理だと思います。なぜなら、鳥さんの育児行動が世代を超えて受け継がれて行くのは、その行動の意図なり意味なりが雛鳥たちに伝わることによってではないでしょうか。親鳥に対する雛の親しみの感情も、そうでないと生じないでしょう。単に「餌」と言う強化子、「尻を舐められる」と言う強化子のみによって雛鳥たちはそれらの行動を学習するでしょうか。情愛を感じるでしょうか。それは無理でしょう。雛鳥たちが親鳥から学ぶのは「報酬」でも「罰」でもなく、「気遣い」なのではないでしょうか。 

 で、なんで我々の学校の授業が大方覚わらないのかと言うと、「自我関与しているか否か」よりむしろ「その気づきは主観的評価を伴っているか否か」、すなわち「欲求があっての理解か否か」の問題だと思うのです。 人間は「境遇の動物」であり、「きっかけと気づきの動物」です。

 要するに、「行動主義」は「意識なき心理学(Psychologie ohne Bewusstsein)」だから人間の学習が「気付いたときに成り立つ」と言う至極当然の常識さえ説明できないと思うのです(無論、無意識的学習もあることは否定しません)。

 言いたいことはこういうことです。これまでの学習心理学は条件付けだのなんだのと言う偏ったパラダイムを追いかけるのではなく、「動機付け」と「行為」と言う観点から有機体の学習活動を考えていかなくてはならないでしょう、と言うことです。

 

心理学が科学だと言うことへの疑念

 ヴィルヘルム・ヴント以降の心理学は「科学」だと言う。これから「そうかも知れないけど…」的なお話をします。

 心理学における実験デザインの典型的な例は、他の条件が皆同じで(ceteris paribus)ひとつの変数だけが違う場合に、そのひとつの条件が結果に差を与えているのかどうか、のような場合です。

 心理学科で学ばれた方は一度は聴いたことがあると思います、「実験とは因果関係を確かめるものである」と言うことを。

 しかしたとえば、大食をする子と小食な子の体重には違いが見られるか、と言うような問題を考えてみてください。

 もし差が見られたとして、これは「大食か小食か」だけの問題でしょうか?

 もしかしたら、大食と小食を分けるものが食物分解酵素のはたらきだったら、あるいは代謝の活発さだったら、「大食か小食か」が「原因」と言うよりは、単なる「側面変数」に過ぎない、ということになりはしないでしょうか?

 あるいは、「体調が良くなる」と謳われたサプリの効能は、サプリそのものではなく、サプリを飲むことを意識したために「規則正しい食生活」になったためかも知れません。

 こう言う疑問を抱かせるような心理学研究は数限りなくあります。と言うよりかなりの心理学研究がそのようなピンボケに陥っています。

 「科学科学」と偉そうに言っても、本質を突いていないのに騒ぐのは少しどうかしているのではないのかな、と思う次第です。

 僕は思います。変数間の関係について正確な見通しを与えるものは、結局人間の直観や洞察なんだ、と。

 手続きが科学的だからと言って、ものごとの本質を突いている保証などないと言うべきではないでしょうか。我々は「科学」を盲信するのはひととしてどうか、と思う次第です。