「なぜ自民党一党独裁なのか」についての一考察

 

 表題の問題は、政治を「政策」と言う観点でその勢力の考察をする人間にはかなり見当違いな問題だと言う気がする。

 野党はいつでもいわゆる「社会正義」に重きを置くので、「人間の欲望」については話を持って行きづらいし、理詰め社会に嫌気の差している民草にとっては、政治家の「人情劇場」を観られることは心のオアシスになっているわけである。

 昔からの自民党の体質として絶対に外せないのは、いつの時代も彼らが下々の「欲望の受け皿」、「人情劇場の役者」になってきたことである。

 誰でもどこをどうにかすれば、自民党の代議士に「利害」と言う名の欲望を満たす話を彼らの耳に届けることができる。要するに、欲望を満たしたい下々の人間にとって、彼らは「話せる人間」なのである。また、代議士が人情味あふれていれば、それに同情する日本人の国民性と言うものがある。

 眼前の利害に汲々としている下々の人間にとって、またそのレゾンデートルの重きがそこにある人間にとって、自民党の代議士はもっとも間口を広く「欲望の話を聞いてくれそうな人間」だから、そのネットワークが全国津々浦々に張り巡らされているから、また、「政治なんて誰がやっても同じ」と言う社会の風潮の中での「政治家の人情劇場」を観ることができるから、自民党の一党独裁は長期にわたって安定的に続いている、と考えるべきである。それに加え、官僚にとって自民党は自分たちの行政を一番よく聴いてくれると言うメリットがある。いつしか安倍首相が「悪夢の民主党政権」と息巻いていたが、民主党が円滑な政権運営をできなかった最大の理由は、官僚と仲が悪かったから、ただそれだけに過ぎない。

 なので、裏を返せば、法治国家としての我が国において、どこからでも「メス」を入れれば至る所に「病巣」があるのは当然である。たとえば、我が国は他のいかなる国にも類例を見ない「反社会的勢力天国(国家予算の1割を動かし、マフィアの1000倍の関係者がいると言われている)」であるが、なぜそうなるのかの一翼は、自民党のかかる「欲望主義と人情劇場体質」に担われている。

 我が国における有権者の投票行動で顕著なのは、大方のサラリーマンは仕事で政治を考える余裕もなくなり、必然的に「理詰め」にウンザリして「人情劇場」になびき、また野党は少数派なのでたとい野党に一票を入れたとしても数の力には及ばないので野党に希望を託すことは現実味がないと言う「民主主義」の運命としての負のスパイラル(その意味で、民主主義なのか多数派主義なのか分からない)である。その意味で、「国民」は「根拠のない自信」の中で漂い、流されている。野党がいかに「政策で勝負」と言っても、大方のサラリーマンにはそんなことを考える余裕もないし、「それで私のしかじかの欲望はどうなるのか」は非常に感じづらい。結果、「目先さえ良ければそれでいい」、「政治は人情劇場の方が面白い」、「“自民党政治は現状を反映しているだろう”バイアス(どうしてその前に「自分」が先立たないのかは謎である)」になってしまうのは無理からぬ部分もある。が、国のありようがこのような異常な姿なのにも拘わらず、「日の本」だの「国歌斉唱」だのとピント外れしたおめでたい「国民」を見るにつけ、「見所のない奴ばかり」と長嘆息するの他はない。「骨のある進歩派」を自負する日本共産党でさえ、「大企業」と言う抽象的表現に溺れ、「財閥」と言う言葉を使ったのを一度たりとも見たことがない。それはスイス銀行にうなるような隠し資産を持つ国際3大財閥からにらまれるのが怖いからであろう。彼らの無理矢理一枚板主張を聴いていると、もはやイデオロギーと言うよりは宗教に見える。何事にも様々な角度があるはずで、それゆえひとの意識はさまざまなはずなのに、なぜごくひとつの見解しかいけないと言うのか。

 しかし何と言っても一番の要因は、国民の99.99%が「金銭主義の轍」を踏んでいることの罪障が自己正当化の「根拠」を求めて自民党に票を投じさせていることが一番強い自民党支持の動機になっているように思われる。それは国民ひとりひとりの心理的な「偏った実益主義」とか「だらしなさ(人間的な緩さに起因する不条理への反抗)」とか「いい加減さ」の投影なのかも知れない。いや、もしかしたら、「周囲に波風を立てたくない」と言う理由だけで国民が自分の精神衛生の良さのために多数派である自民党を支持しているのかとさえも思いたくなる。

 自民党政治の本質を一言でと言われれば、それは「既成事実化」の一言に尽きる。折しも「カジノ法案」が成立していて、これはその自民党の「御用聞き(清濁合わせ呑む善悪の見境のない代官所)体質」をとても良く象徴しているように思う。テレビで「水戸黄門」が打ち切りになったのもうなずける。

 要するに、現在の我が国では、「欲望と情」が「理性」を凌駕している。見ていると、この国の国民は「勢い」と「流行」に流されやすい。それが問題の核心に拍車をかけているように見える。「保守」とか「革新」と言うのは、観念に溺れた誰かに都合の良い事態を固定したいと言う政治的思惑のある偶像に過ぎない。

 で目下、「コロナ禍」の影響で、消費は相変わらずなのに収入は大ダメージを受けている。味噌糞一緒くたで迷惑する諸層にはお詫び申し上げたいが、いま経済に求められているのは皮肉にも安倍総理が看板政策にしてきた「デフレ脱却」なのではなくて、「底を打つまでのデフレ誘導」政策であると申し添えたい。

 枝野氏の言う「実を取る」ことに経済政策の重心を置こうと言うのであれば、国民の人気を取る安倍氏の「30兆円規模の追加予算(これも総理の説明を聴くと「事業主」と「納入業者」の関係性を抜きにして「バランスを欠く」と言う理解不能なロジックがどこから出ているのかが分からない)」などと言う方法ではなく、(もし民草がその事実を認識すれば即インフレになるので)関係者以外オフ・リミット(箝口令を敷く)の「日本銀行券30兆円追加発行」をして、最も貧しいひとびとを経由するようにマネーサプライをすれば、自ずと「デフレ誘導」はできるのではと思う。

 社会における「欲望の分布図」が偏った状態でその社会が危機に瀕するとどう言うことになるか、と言うお話であった。同時に、江戸期の百姓社会のように現在の社会が重層的なコミュニティとして確たるものであったなら、有り得ない話なのでもあった。あまり表沙汰にはならないが、実際の自民党の代議士には、「人情」と表裏の「パワハラ病」、「どことつながっているか分からない病」と言う持病もある。今般の「コロナ禍」は、そのような自民党体質に試練を突き付けている、と言えよう。

 社会における「欲望の分布図」が偏った状態でその社会が危機に瀕するとどう言うことになるか、と言うお話であった。同時に、江戸期の百姓社会のように現在の社会が重層的なコミュニティとして確たるものであったなら、有り得ない話なのでもあった。あまり表沙汰にはならないが、実際の自民党の代議士には、「人情」と表裏の「パワハラ病」、「どことつながっているか分からない病」と言う持病もある。今般の「コロナ禍」は、そのような自民党体質に試練を突き付けている、と言えよう。

 ひとつだけ現在の極東情勢について触れておかなければならないことがある。それは現在の極東情勢の骨格を作ったのは寺崎英成と言うひとりの日本人外交官なのであり、少なくともそれにかんしては「押しつけ」と言う認識は誤りだと言うことである。なぜ彼の「外郭防衛線」構想が現在の我が国のありように決定的な影響を与えたのかと言えば、それはひとえに戦後のアメリカの極東軽視の態度に与するところが大きかったことに負っていると言わねばならない。そして、国民の自民党支持は、この「外郭防衛戦」構想に対してだけ集まったと見ることもできる。

 自民党から立候補した多数の政治家に問うてみたい。「それはなんの防衛反応なのですか?」と。

 で、最後に一言。このような世を見るにつけ、人生のデフォルトは絶望と失望と落胆とわきまえるべし、と。この世で「作品」と呼ばれるもの、また行為のすべての本質的機能はひとの心にであれ行為にであれ、さまざまな「ブラックボックス」たるさまざまなひとおよびさまざまな個々の人心に向けての「意図的な動線のコントロール」に過ぎない。ひとびとの人格頼みにでもしていなければ、一対多の関係性で結果が無茶苦茶になることは誰にでも分かる。僕の見るところ人間は一種の化け物なので、特に「ことば」は怖い。もう戦と博打と品評会はでぇ嫌えだ!!

 

普遍言語に必要な2つの要件

 筆者は身の丈がショボいなりに視聴覚同時障害者のための言語はできないだろうかと、自分なりに散策している。

 最近、その要諦が2つに絞れるのではないかと考え始めている。

 ことばを哲学してみると、まず何よりことばそのものの性質が「即性の表現」だと言うことを身に染みて感じる。

 ことばによる世界認識の本質は「有無」のような存在性の主張なのではなく、認識したありのままの何かの「即不即」、すなわち即性の表現であると言うことに気づかざるを得ない。

 で、言葉がややこしくなるのは何かと何かの関係性についても言及しようとするからで、これを一括りにすると「示置性」と言うことになるだろう。

 つまり、障害者言語を考えるときに必要なものと言うのは、「即性」と「示置性」の2項が最有力な候補ではないかと思う次第である。そして、言語の本質とは、「知覚・思いへのことばの該当への構成的処理」なのではないか、と。

 我々にとって「ことばを覚えることの先生」である子どもたちに、そのようなヒントを元にした「ことばづくり遊び」などをしてもらうと、存外我々も子どもたちから障害者言語についてのヒントをもらえるのかも知れない。

 無論それはそのままで良いというわけではなく、障害者の限定的な知覚特性を考慮して改良しなくてはならないであろうが。

カテゴリーと意味にかんする考察

 冒頭から結論を申し上げると、カテゴリーと意味の関係は、従来の説で仮定されてきた「付加関係」にあるのでも、「等式関係」にあるのでもなく、「即不即関係(A by B関係)」にあるのである。

 特に記号論理学(と言うより集合論)ではカテゴリーや意味は「等式関係」から理解すると言う流儀が採られてきたが、現実言語を不要に複雑に理解するためのツールとしては意味があるのかも知れないが、ほとんど現実言語の理解からは浮世離れしている。

 たとえば、「ウサギは白い」と言う命題は、「ウサギ」と「白い」が文字通り等価になるなどとは思ってはいないだろう。「ウサギ」と「白い」は概念クラスがまったく異なっている。多くの言語哲学者たちは、シニフィアンとシニフィエの距離を大きく見積もりすぎている。

 これは、「ことばの体系は即性表現の体系である」と言うテーゼまでを視程に入れてのことであるが、取り敢えず、このお話は、特に発達言語学的に意味があると思うが、ここではこれ以上の指摘はしないこととする。 

尻福王様遊び(古い遊びの復興:いわゆる「尻取り福笑い」)

 最近の子どもたちはPC・スマホゲームに熱中していて、我々のような貧しい時代の子どもの外遊びが極端に減っている。

 そこで、子どもたちがリアルな外遊びを楽しめるような知育型の遊びを考案してみた。

 その遊びの名は、「尻福王様ゲーム」と言い、何をするのかと言うと、子どもたちに尻取りをさせ、自分が思い付いた尻取りのことばの最後の一文字だけを記憶させ、たとえば何順かすれば何音かを記憶することになる。

 そして、そのことばが予め決められたカテゴリーの何らかのことばであればカテゴリー順に予め決めた点数がもらえるようにする(カテゴリーの例:「政治」、「刑事」、「娯楽(エンターテインメント)」、「スポーツ」、「趣味」、「病気」など)。

 こどもは、ただ尻取りをするだけではなく、点数の高いカテゴリーのことばができるようにも意識して尻取りをするようになり、点数の累計に応じて「王様」とか「大臣」とか「部長」とか「課長」とか「平民」に分かれるようにする。

 音順は決められていてもフリーでも良い。音数が少ない方が単語になりやすいので、年齢相応に音数は設定すれば良い。できれば「記録・判定員」がいて、枯れ枝で地面に各参加者の語尾を記しておくと良い(対象児に障害がある場合などはハンデとして記録を教えても良いなど柔軟に対応のこと)。

 ありきたりそうな遊びではあろうけれども、子どもの知育には資する外遊びになると思っている。

 あと、学校でドロップアウトする生徒が出ないように、すべての教科の「変○○(教科名:たとえば“変音楽”)」も導入すべきと考える。チームの団結力を高める「チーム・オセロ」なども良いであろう。

マズロー理論の読み方

 「マズロー理論」、すなわち「生理」・「安全」・「所属と愛」・「承認と尊敬」・「自己実現」のいわゆる「欲求5段階説」は果たして何のために考えられたのであろうか、と言う疑問に筆者長年思いあぐねていた。

 エビデンスがあってそう言ったのではないとか、あまりにも芸術的だとかの批判も耳を傾けるべきところは多かった。

 もしこれが「人間の心理的成長」にかんする理論だと言われれば、やはり僕の中には強い反発がある。

 しかし、最近気づいたのは、この「マズロー理論」は本来のターゲットが健常者だと考えられてきたのが過ちで、マズローの臨床活動から得られた洞察だと言われれば、ある程度腑に落ちる、と言うことだった。

 そうなのだ。この理論は「成長理論」などではなく、「精神疾病の心理的病因論」だと考えれば良いのである。

 生理的欲求が満たされないならば、人間はただの獣になる。

 安全欲求が満たされないならば、反社会的人格になる。

 所属と愛の欲求が満たされないならば、うつその他や人格障害になる。

 承認と尊敬の欲求が満たされなければ、モンスター人格になる。

 自己実現の欲求が満たされないならば、適応障害になる。

 筆者なりのマズローのリーディングは、かくして精神障害論へと様相を変える。

神経症と自己認識

 神経症(ヒステリー)の最も大きなファクターは、「自分が所定の心理的位置にいない」と言う自己認識と大きくかかわっている。

 したがってその治療原則は、「彼がどの心理的位置にいると感じるとコンフォタブルなのか」を同定するとともに、その心理的位置に再定位させることが基本となる。

 ただ、現実上それが無理な場合は多く、その場合どれだけの「心のコンフォタブル・リスト」が彼にヒットするのかを探ることになる。

 もちろん、「治療場面」に限って「治療」しようとするのには無理がある。制度や人間関係など社会資源を絡めて解決するなり、人生の困難を味わわせて自己認識を変容させるなりのいくつもの選択肢がある。

 ただ、基本は「フィールドワークでの解決」と言うことになる。

「がん」の「利水力欠乏仮説」

 

 筆者は長年にわたり、さまざまな疾病の患者さんと出会う機会が多く、それは心理的な問題を抱えたひとであったり、身体疾患の患者さんであることも多かった。

 我が国においては、死因のトップは「がん」であり、5年生存率は70パーセントに届く勢いで医学も進歩してはいるが、未だに医学界には「がん」の病態の本質を捉えた説は登場してはいない。

 さまざまなひととのかかわりの中で、僕はがん患者さんを10人程度見てきたわけであるが、あるときふとがん患者さんに共通の特質ではないかと思う体質に気づいた。

 それは、がん患者さんの全身にわたる細胞内利水力(浸透圧調節機構の正常性)、分けても新鮮な水の代謝力が小さいのではないか、と言う観察上の知見である。

 もちろんそれは、よく化粧品のCMなどで訴求されているような「お肌のハリ、ツヤ」などと言う表面上の利水力のことではなく、人間の全身、あるいは五臓六腑に満ちあふれるような全体的な体細胞の利水力のことである。

 そしてそれは、全身の細胞の利水性浸透圧調節機構の問題なのであろう。それが証拠に「がん」で死ぬ海洋生物は(若干の貝類を除いて)大方いない(海洋のプラスチック片の散乱などにより今後海洋生物が「がん」に罹る可能性は否定できない)。また、多くの魚では浸透圧調節の役割が小さい。それはがんが腔腸動物特有の病気であることを意味する。がんは有機体の他のどの臓器よりもタンパク質合成のために栄養分を消費する。また、この事実はヒト小腸ではなぜ「がん」がほとんどできないかも説明する(言うまでもなくヒト小腸は体内で水分代謝が最も盛んであり、浸透圧調節機構の異常が起きにくい)。

 また、良く俗に「身体を温めるとがんになりにくい」と言う。これは、炎天下で仕事をするのとおなじように、身体を温めると水分代謝が活発化するからであると考えられる。ここにひとつの「がん予防薬」のヒントを見出すことはできないだろうか。筆者のインスピレーションでは石を栄養源とするバクテリアなどががんの予防や治療で有望なように思われる。

 加えて、水分滞留部位以外の水代謝が活発な、脇や股のような常に水代謝を行っている部位には「がん」は発生しない。妊婦や胎児にも「がん」は好発しない。水分再代謝の活発な体部位に「がん」は好発する。

 「がん」になる条件研究は山際勝三郎と市川厚一の先駆的研究から我が国では盛んであるが、「がん」の病態的本質についての究明はこれまでほとんどなされてこなかった。確かに、我が国のがん学会などではタンパク質燃焼物質である「トリプP1」などの発がん性物質の解明には血のにじむような努力がなされてきた。ただ、ひとつ筆者にとって気がかりなのは、それだけですべてのがんが説明できない、と言うところなのである。

 もともと僕は「がん」と聴いたときにひとつのインスピレーションを持った。それは、「(新鮮な水代謝の滞留の結果)生化学的な塩基配列か何か(たとえば、浸透圧調節の異常による酸素代謝機構)がねじれている」と言うものであった。以上に書いた「利水力」に限らずこのインスピレーションで「がん」を見てゆけば、いずれ自ずと「がん」の病態の本質をつかめるだろう。

 この知見が何らかの形でがんの予防や治療のヒントになれば幸いである。

 ※HIVの発生機序と治療のヒントは「腸内フローラ」にあると見ているが、詳しいお話は後日改めて書くことにする。

貨幣の秘密

 マルクスが「ドイツイデオロギー」や「資本論」で追求していた「貨幣の秘密(レゾンデートル)」は、結局彼自身分析できないまま「資本論」で算盤に乗せようのない出来損ないの「搾取率」とか「価格形成のメカニズム」の説得力そのものへの疑問につながり、結局その影響力は限定的であった。なぜかと言えば、結びつく論理必然性のない事象同士を無理矢理関係づけようとしたためである。

 心理学でもミクロ経済学的な「行動経済学」が台頭してきているが、経済活動そのものの説明には無理があると僕は見ている。

 「価格」は「需要と供給のバランス」で決まる、と我々は学校で教えられてきた。

 ところが、我々のような零細企業の経営者にとって、この理説が嘘っぱちであることは身にしみて感じてきたところである。

 貨幣価格の規定因は、大雑把に言えば「それぞれの事情で決まる」、もう少し正確に言うと、「さまざまな資源の社会的限定性で決まる」と言うべきかと思う。したがって貨幣とは「さまざまな自然・人工資源の社会的限定性認知の一意な測度(ものさし)」だと言うことができる。それと、いわゆる「価値」と言うのは社会的限定性と換金可能認識があってはじめて決まり、したがってあるところからそのひとのモラルや人間性を測ることができる。アダム・スミスの言う「希少性のパラドックス」は、価値希少説に立っているから起きるだけのことで、価値の規定因の捉え方としては少し誤っている。

 たとえば違法薬物の売人にバイヤーが確かめるのはいつでも「モノは確かなんだろうな」と言うことであり、金本位制の方が変動相場制よりも物価が安定しやすいのはこの理由による(ただし、経済活動の多様性は犠牲になる)。

 それはサラリーでも同じことである。「財やサービスを巡る支出分の信頼度」でサラリーも決まる。そもそもは、お金と言うものは、王様が奴隷に差を付ける(差分化する)ための恩寵であった。それが一般化してその規定因が少し変化したと考えられる。

 しかし、貨幣の性質はそれだけにとどまらない。人間的には「お金は魔性の女のようなもの」とも言えるし、マルクスが「貨幣の秘密」と呼んだのには、この事情が絡んでいた可能性がある。

 さて、国を富ませたいと思うのであれば、「財やサービスを巡る請求分の信頼度が確かな財やサービスを国民の皆が豊富に保持していること」だと言うべきである。そうでなければものの価格は下落し、札束はただの紙切れに失墜するだろう。政府のマネーサプライで経済をコントロールできると勘違いしている者もいるが、よほど外国為替市場で自国通貨が高くない限り物価が上がるだけで国民生活にはマイナスだと悟るべきである。最近流行の「MMT理論」などでは、こうした我々の見方に否定的であるが、実体経済のないところでマネーサプライをしてもインフレに陥るだけである。行ってせいぜい「バブル」や「幻想下の経済」の説明理論に止まると思う。

 賢明な読者諸氏は、なぜ現在我が国の「デフレ」が長期化しているのかについての察しがお付きかと思う。それは「過当競争」と「わけの分からない(=信の置けない)商売が巷に溢れている」からだと。これでは財布の紐が固くなってデフレに陥るのは当たり前である。商売に明確な白黒の付く経済的状態が整理・再編されれば現下のデフレから脱却することはそんなに困難ではない。いわゆる「アベノミクス(大胆な金融政策・積極的な財政政策・民間投資を喚起する成長戦略)」がなぜ的外れなのかと言うと、「過当競争の知恵による緩和」と明晰なマーケットの「白黒見える化」に取り組んではいないからである。デフレの問題が、「商売の量」だけではなく「商売の質」の問題だと言う認識が決定的に欠如している。

 また、健全な家計の運用のために、収入に対する消費の割合を決めておくのが良い。

 しかし、そこには一人間としての無理はないのか?我が国は150年前までは大方百姓の社会であり、商業の国ではなかった。それをいきなり国民皆商人にすると言う強引な考えは社会矛盾を増強する。このようなときの急場の知恵としては、その手の知恵者に考えを皆が拝借するよりない。

 マルクスは、これらの内に「政府への信託」あるいは「社会における共通合意」のマジックらしきもの(実はそれは「貨幣の賠償可能性」が与えるものであってマジックなどではないし、「貨幣の賠償可能性」を支えているものは「実体経済活動の豊富さ」に帰着する」)が含まれることなどからそれを「貨幣の秘密」と呼んだと思われる。

 だがマルクスは、たったこれだけのことを理解できなかったばっかりに、諸国民をミスリードするという失態を犯したのである。大きな目で見た場合、「様々な認識主観それぞれにとってその社会にどれだけの光りモノがあるか」に貨幣供給量および預貯金量は依存するのである。このひとつの命題を認識しているだけで、社会経済は適正になしうるのである。なぜならそれは、経済と言うものは、「One for all」も「All for one」もあることを物語っているからである(しかし、少し考えれば「本来の経済」と言うものは自然生態学に反するべきではない)。

 もうひとつ指摘しておきたいのは、経済にかかわる人心がディフェンス(防御)局面にあるときは物価は下落しにくく、オフェンス(攻め)局面にあるときは逆のような状態になりやすい、と言うことである。MMTが有効なのは、人心が長期のディフェンス局面にあるときに過ぎない。何故か。それは人心がディフェンス局面にあるときには財布の紐が固くなるからである。逆にオフェンス局面になるとひとびとの財布の紐は緩み、市場の貨幣供給量が余剰となり、物価は下落しやすい。無論、それは社会における「光りモノ」の量が同じ条件下で、と言う仮定の元でのお話である。これが企業経営者のお話となると、「光りモノの確信」=「先見の明」がその企業の命脈を握ることになる。勿論それらはすべて、ひとびとの経済についての状況認知と言う心理学的過程を前提とする。

 なお、これからの時代は単なる「ものづくり」をひたすら追求するのではなく(それは自然とのミスマッチを増大させる)、各大学に新設の「リサイクル学部」で学んだ実務家・専門家が「ものの輪廻」を志向し富み栄えるような社会へと徐々にシフトチェンジしてゆくべきと考える。

 ※お断り
 僕はマルクス主義とも資本主義とも無関係です(信用は人心でも担保可能/サービスの内には労働も含まれ、労働者と経営者、労働と報酬(=財)を分けて考えるのは間違い/現代では財のウェイトが重すぎるので様々な問題が生じている)。