みなさんは「○○が食べたーい」と思うことがよくあることだろう。
実は学習心理学ではこのようなタイプの条件付けは学習のタイプのレパートリーにもなければ、したがって決まった名称もない。
そこで筆者は、このようなタイプの条件付けのことを「選好的条件付け」と命名したい。
選好的条件付けには行動主義が嫌った結果的欲求の不可視性と反応の自由度の大きさと言うものがその基礎にあり、他のいかなる条件付けとも異なっている。
Just another WordPress site
みなさんは「○○が食べたーい」と思うことがよくあることだろう。
実は学習心理学ではこのようなタイプの条件付けは学習のタイプのレパートリーにもなければ、したがって決まった名称もない。
そこで筆者は、このようなタイプの条件付けのことを「選好的条件付け」と命名したい。
選好的条件付けには行動主義が嫌った結果的欲求の不可視性と反応の自由度の大きさと言うものがその基礎にあり、他のいかなる条件付けとも異なっている。
表題の理由は簡単明瞭で、なぜ欧米人に青い瞳とブロンドの髪の人間が多いのかと同断である。
ある程度の温度変化に耐えて生きるには、体毛があった方が有利である。
なのになぜ地球上の人類から体毛がなくなったのであろうか。
先に欧米人のアウトルックがそうなったのと同断だと述べた。
それはこう言うことなのである。「その方が魅力的だから」。
人間の歴史は選抜交配の歴史だとも言えるほど、人類はそれを好んだ。つい近世まではやれ源氏だのお家柄だのと真面目にこだわるひとが大勢を占めていたほどである。
なので、ある時代までは自然上生存に有利に体毛のあるひとびとしかいなかった。
しかし、突然変異により体毛のない人間が生まれ、ひとびとはそれを重宝がり始めた。
そこからいきなり人間の体毛が消えていったのである。「毛のない人間」が魅力的なので、ひとびとはこぞって毛のない異性(特に女性)に群がり、突然変異からの選抜交配の道を選んだ、と言うわけである。
だから、それと同断で、欧米人は青い瞳とブロンドが多数になったのである。
そのことは、「アダムとイブ」の神話に象徴的に表現されている。
一般に環境と種はあらゆる意味で持ちつ持たれつの関係にあるが、このようなこと(選抜交配に頼ること)その他あらゆる意味で最も環境の受動から縁遠くなってしまったのが現生人類だと言える。
昨日(2023年9月15日)発表したポスターです。なんか、どうでも良いことを考えているようで…(画像の文字が小さくて読めない方はこれらの画像をjpg保存して拡大してお読みください)。
●発表まとめ
「心身問題」
身体は心へのもの(環境)の文化的生態学的連鎖的翻訳系である。こう考えると「心身二元論」は回避できる(系なら環境にいくらでもある)。
「主観-客観、存在の問題」
これらは観点の問題ではなく、認識の不可抗力性の問題である。
「私性問題」
一次的には個体の時間的持続存在性の必要により要請されてくる。
「自閉症」は一般に「対人関係のぎこちなさ」をその主訴とする。
多くの心理学者は自閉症の原因を「脳の問題」であるが、脳の何が問題であるのかは不明である、と考えている。
筆者は人間の対人認識と言うものが、他の動物と同様、認知と感情がセットとなってはたらく結果だと見ている。要するに、遺伝的には認知と感情は区別されることなく組み込まれている、と考えている。
これが何らかの理由で機能不全になった結果が、「自閉症」と言う診断になるのだと思う。したがって、すべての自閉症が遺伝的とは言い切れないかも知れない。
しかし、もし心理学者の多くが自閉症を「脳の障害」だと言っている前提に立つならば、筆者はその原因解明には、思ったほどの労力をかけずにできてしまうのではないか、と提言させていただきたい。
もし自閉症が認知機能の問題だとするならば、それは哲学で言う「即自」よりは「対自」認知の問題であろう。だとするならば、その錬成としての「自己概念」の発達に顕著な影を落としているはずである。
しかし、そこに問題の所在を見つけられなかったとすると、可能性のある認識は、「感情受容(共感性)の障害」一択に絞られてくる。これをみるのには、養育者の感情表出に対する自閉症児の応答性を見ていれば良い。
しかし、自閉症の症状は多彩なので、個別具体のケースごとに原因を想定しなければならない事態も視野に入れておかねばならない。
その場合、「環境の欠損(栄養、対人関係の狭さ、そのあり方のゆがみなど)」と言う非遺伝的な要因も含めて、「自己概念」に問題はないか、他者(養育者)の感情受容に問題はないか、と言う3つの視点から自閉症を見て行く必要があるように思われる。
いずれであるにしても、大勢としてか個別具体としてか、自閉症の原因究明についてのポイントについて述べてみた。
タイトルの内容を書くに当たって、この内容が真実から筆者自身も五里霧中状態であることをお断りしておく。
さて、筆者は先の記事にも書いた通り、この世で雷様が一番怖い。この記事を書いたところでその恐怖が変わることは全くない。
雷雨がなぜ起きるのかと言うと、厚い水蒸気の塊、つまり雲ができて、厚い雲中の大気温度が日光を遮断するために引き起こされる温度低下により水蒸気が結露し、それが雨として降るわけである。
同時に、厚い雲中の水素やヘリウムの熱膨張率が限界に達し、これが爆発すると雷様が落ちるわけである。このような自然界における電気現象で「電源(この場合は帯電原子の塊)」が冷えずに発生する電気現象はひとつもない。
当然、落雷直後の雲中気体の塊は温度低下する。そうするとまた爆発し、次々と落雷が発生する。つまり、落雷が連続して起きるのは、雲中気体の連続的温度低下による。
ひとつ特記しておきたいのは、雷様が落ちるに当たっては、たとい0.0001ミリ秒前でも、雷様は落ちるスポットを「決めて」落ちる、と言うことである。
温度ギャップ爆発をもたらして生じる電圧の高い落雷においては、地上で(いかに僅かでも)先行して正の逆起電力が生じ、そこへ落雷するわけで、したがって落雷を避けたければ、起電力の起きない地上物件の下にいれば良い。
風の強い雷雨と風がほとんど吹かない雷雨がある。大気中の風と言うのは上空の温度差による気体のアップセット(動転)が地上にまで波及したものであるから、いずれもありうるのはおかしな話ではないが、そのアップセットがある程度以上にある場合が若干多いため、風を伴う雷雨が若干多いのは得心の行くところだろう。
雷雨のあらましについては以上の通りである。
話が大袈裟に聞こえるかも知れないが、いのちのはじまりにとって決定打となるのは、「そこに水と生存にとって必要な環境(温度、塩分、ミネラル)」がそろっているだけでは足りてはいなくて、100ギガヘルツ~100テラヘルツと言う法外な超短波(テラヘルツ)遠赤外線の必要を指摘しないわけには行かない。
おそらく宗教関係者は「光」と聴くと「金色の光」を想像するだろうが、そんな超短波線を何者も認識できないし、期待を裏切って申し訳ない。
その後、そうして各所(陸海空)に原始生命が誕生し、それらの基盤は陸海空それぞれの地点性の構造に生命展開の可能性が秘められ、それらがウィンウィンになるように合わさって、次第に複雑な生命に展開して行った。多くの生物に性があるのはその名残りであるように思われる。
表題の内容については、ざっとそんなような見当をつけている。
先の記事末尾の指摘、および先行記事「心理学における「連合主義」の誤り」への補足になるが、ストーリーは「実証」からは始まらない。「実証」は、良くて物事の「傍証」たりうるに過ぎない。
ある意味どうでもいい話で申し訳ない。
読者の方は、「ラザラス-ザイアンス論争」と聴いても何のことを言っているのか分からないと言う向きの方が多いかと思うので、まずはこの論争の概要を示し、次いで筆者の見解を表明したい。なお、この議論の筆者なりの結論は、「ジェームズ=ランゲ説-キャノン=バード説論争」の参考にもなると思うので、それも念頭に置いておかれたい。
1980年代に、ラザラスは、感情が起きるに当たっては、必ず認知的評価が必要だと主張した。これに対して異を唱えたのがザイアンスで、彼は感情と認知はそれぞれ独立のシステムで、感情は認知的評価を伴わずとも生起しうる、と噛みついたのである。
これが厄介なことに、両説ともそれぞれに支持する実験的知見があって、ラザラスの説は認知心理学の治療理論において実証されており、ザイアンスの説にも「単純接触効果(刺激に触れただけでボジティヴな感情が生起する)」と言う知見があったのである。
一応ここで、これに関連する「ジェームズ=ランゲ説-キャノン=バード説論争」もおさらいしておこう。「泣くから悲しい」の標語でも有名な「ジェームズ=ランゲ説」は、感情が惹起されるためには、それに先行する身体反応が必要だと考えた。より常識に近いと思われるのが、これに対する「キャノン=バード説」で、感情が生起した後に身体反応が現れる(悲しいから泣く)、と主張した。
ここではお話を「ラザラス-ザイアンス論争」に限るが、その結論は「ジェームズ=ランゲ説-キャノン=バード説論争」にも適用されるだろうと言う含みを持たせておく。
筆者の考えでは、感情の生起に認知的評価が必要かどうかも論じないし、いわんや感情と認知がそれぞれ独立のシステムかどうかについても何も語るつもりはない。
ただ筆者の思うところでは、感情の生起にとって必要なのは「心理的構え(psychological set)」であり、「ラザラス-ザイアンス論争」は、一種の抽象に溺れた論争だったに過ぎないように見える。
たとえば筆者はこの世で一番雷様が怖いと思っている。雷様が鳴り出すと、怖くて震え出す。そして現実に雷様が附近を直撃したりすると、ひどくビックリして胃がひっくり返るほどである。
しかしもし、筆者が雷様がまったく鳴っていない状況でそれ相当の音を聴いた場合にはどうであろうか。筆者はそれを誰かが家で転倒したと解するかも知れないし、附近の住宅が崩落したと解するかも知れない。少なくとも、雷様の直撃とは明らかに異なる反応をするだろう。つまり、恐らくそれで自分の胃がひっくり返る思いはしないだろう。
あるいは映画を見ている。話の筋から主人公がさえない人間で、何をやっても周囲から叱責されると言う伏線が筋として与えられていて、主人公はいつも泣いているとしよう。ところが映画のクライマックスではたまたま主人公にできて周囲の誰にもできない問題が持ち上がり、一躍主人公は賞賛されたとしよう。我々は「主人公はさえない奴」と言う心理的構えを持ったがために、最後に賞賛される主人公を見て落涙するかも知れない。
人間は、いつでも何らかの心理的構え(日常の心の持ちよう)を無意識に持っている。つまり、特に何も意識していないと言う構えのときは、取り敢えず「何それ?」くらいの反応はするだろう。
と言うわけで、僕なりにみた「ラザラス-ザイアンス論争」は、ラザラスなりザイアンスなりのいずれかが正しいと言うわけではなくて、感情的反応とか胃がアップセット(動転)するとかの反応には、必ず何らかの心理的構えが前提としてあり、必要なように思うわけである。恐らくその中には認知的(記憶的)なものも感情的なものもあるはずである。
恐らくその意味で、「ラザラス-ザイアンス論争」は、命題の立て方そのものに問題があったのではないかと思われるのである。いったい、「実験」とか「実証」とは何なのであろうか。
現在心理系その他の資格の乱立状態が続いている。
自分の調べたところでは、心理系の資格だけでも50個くらいある。
資格を与える側にとっては、資格の賦与者がマウントを取れて、ただの良い儲け話に過ぎないように思う。
この状態で僕が抱く懸念は以下のようなものである。
ほとんど名もない資格でも、資格保持者であることを良いことに、犯罪行為が濫発するのではないか、と言う懸念である。
これには司法も手を焼く案件が多くなると予想される。
ただでさえ、人間的かかわりに性的なものがあり得ないと言うことが不自然なのに、職業資格家はそれを「倫理」として掲げることでそのようなかかわりを排除する。そのため「クライエント」は通常の人間関係とはおよそかけ離れた不自然な人間関係を「カウンセラー」との間に持つことになる。
一体、本当の「心の救い」とは何なのであろうか。
こうした現状の上に、資格発行団体の金儲け目的でしかない心理系その他の資格の保持を良いことに、犯罪行為に及ぶ「資格保持者」が続出してくることは目に見えている。
たとえば個人情報ひとつ取っても、表向きは「インフォームドコンセント」を理由に得た個人情報を裏名簿「業者」に売って私腹を肥やす「資格保持者」はいくらでも出てくるだろう。公式の統計によってさえこの国の60人に1人が麻薬に手を出していると言う。「治療」と称して違法薬物を勧める「資格保持者」もいくらでも出てくるだろう。
近頃流行っているのは、「犯罪者心理にない者による犯罪」である。その意味で言えば、この手の犯罪は、「犯罪者心理にない者の犯罪」の範疇に入るであろう。
金儲けのための資格作りには法的規制が必要だと感じる次第なのである。
ライプニッツは、「雨が一滴落ちても聞こえないが、たくさん降ると聞こえる」ことについて、一滴の雨を「微小知覚」だと考え、「微小知覚の集まり」のことを可聴音なのだと理解した。
これは正しくはない。雨が一滴落ちただけでも聞こえる大粒の雨もあるし、雨の一滴が十分小さければ、そのような雨がどれだけ集まっても聞こえるわけではないからである。また、雨粒同士の空中衝突音についてもそれが言える。雨粒の空中衝突音が聞こえるためには、たくさんの雨粒が強く空中衝突している必要がある。
想像してほしい。2つのトランペットをまったく同じピッチでまったく同時にまったく同じ強さで吹いたとする。音は1つのトランペットのときの音量の2倍になるだろうか。ならないのである(ただし、ピッチが僅かでもずれていれば音幅が強烈に知覚される)。
つまり、「音」は加算的なものではなく、並行的なものである。
しかし、彼のこの考えは、「周波数」と言う現象を考えるときに深い意味を持っている。
「周波数」と言うものは、一般に物質の振動とか震えだと理解されていると思うが、実は突き詰めて行くと、「物質(帯)の鼓膜への衝突音(もちろん超低周波や高周波は聞こえない)」だと言うことに気付く。
このように考えたときにはじめてライプニッツの「微小知覚」のような発想が意味を持ってくるのである。
僕は天理教その他いかなる宗教とも無関係である。だからいかなる超能力もいらない。
「関根豊松」でググると、いろいろな彼の超能力とか説話が出てくると思うが、僕は彼の言行が支離滅裂に感じられたので、彼に対する印象はネガティヴと言う他はない。
ただ、彼の超能力が「プラシーボ効果」によると言う仮説が間違っていることは明確に断言しておく。なぜなら、彼による治病が有効だったほとんどのひとは、その親類縁者が彼に治病を嘆願したケースがほとんどだったからである。したがって「プラシーボ効果(バーナム効果)」がはたらく余地はなかったと考えるべきであろう。
これは彼の講話を直接聴いた者でないと分からないと思うが、とにかく屁理屈とこじつけが多いのであった。具体例を挙げると、「ハイと返事できないひとは肺病にかかる」とか「頑固なひとはがんになる」…である。おそらくこれらの屁理屈と言うかこじつけは、彼が見た一例だけを取ってそう言っていたように思われる。
加えて、世界の真の姿と言う意味でだと、ロスチャイルド家による世界の経済的植民地化など不思議なことに決して語られることのない大問題や深刻な社会弱者(ホームレス、貧富の格差など)の問題などには一切触れずに人間を語ることは、決して世のため人のためにはならないのに、それらは一切「因縁」のひとことで片付けられていた。彼を超能力者にした天と言うものそのものの眼力がおかしいと感じるのは僕だけであろうか。天と言うものには骨がないのであろう。
天理教の掲げる「陽気ぐらし」と言う理念にも大きな疑念がある。天国をみているひとと地獄にあるひととでは正直な心情はまったく違うはずである。それを無視した「陽気ぐらし」と言う理念には同意できない。僕は苦労は好んでするものだとは思わないが、苦労が苦労たり得るのには、それが本当に苦労だからであろう。人生に春秋がなければ苦労は功徳たり得ない。このように、人生を大きなところから見ると、「陽気ぐらし」と言うのは、人生の功徳たり得る苦労(それは決して生やさしいものではない)のプロセス的な全否定なのではないか。例を挙げると、徳川家康の人生は断腸の思いの連続であったが、彼が「陽気ぐらし」などと浮世離れした考えを持っていたわけではない。また、アメリカ人は陽気でオープンだと言われる。彼らの陽気さの影には相当な性的乱脈も見られ、一概に陽気であることが人間の正しさを担保してくれるわけでもない。
天理教では人間は「泥海」から産まれたと言う。僕には僕なりの人間の誕生についての見解(現在のような海水ミネラルと特定の周波数、そしてその環境を作ったシアノバクテリアによって育まれたナマコ類が転成した海中は虫類が人間の祖先)があるが、もし人間が「泥海」とかかわるとすれば、それは人間の誕生においてではなく、滅亡のときのことだと思える。天理教の教義を聞いていて僕が不快に思うのは、何とでも言えることを何とでも言えるようにかなり大風呂敷で説いておいて、いつも「科学でもそう言われている」と自説の傍証として無批判に科学を使い、自己を正当化する心の醜さである。かく言う僕は、人間の思考と言う枠内では科学を信奉する人間でもなければ学問を信奉する人間でもない。彼らには放縦な「科学」や「学問」の弊が良く分かっていないように見える。僕は教義とか教条とかの名をまとったイデオロギーには嫌悪感を覚える。それがどれだけ人間の自由を踏みにじってきたことかと。これは宗教に限らずあらゆる人間の活動に言えることだが、「人間をある思想に丸め込む」と言う心性は、どけだけ人間の良き可能性を封じてしまっていることだろう。外面ではなく自分の肚のうちに(それがどんなに微妙な問題であろうとあらゆる問題についての)善悪(いや、善悪だけはない)がない人間は、倫理的にも道義的にも、ひとり野に放り出されたとき、きわめて弱い人間であることを彼らは理解しているだろうか。
宗教とかイデオロギーと言うものは、まさに「人間をある思想に丸め込む」ことなしには成立しない。結果として人間個々人の地力は落ち、了見が狭くなる。そのせいか、僕が若い頃に天理教に集まる若者たちを見ていて痛切に分かったことは、彼らの心はとても鬱屈していて息苦しいものだったと言う現実である。それで良く思ったのは、このひとたちに「陽気暮らし」などと言う絵空事はとても無理だと言うことである。何だかまるで彼らは収容所に集められた囚人の観があった。その意味で特に印象に残っているのはG君兄弟である。彼らは自分の翼をまったく広げることができていなかったように強く感じた。
関根の「鉄拳制裁」は知るひとには良く知られたことだが、そのような奢った態度で「愛町」を名乗る資格があるのか。少なくとも僕の理解では、愛とはそう言うものではない。そしてそこからして呆れたことに、そうして「育て」られた彼の弟子に、ひとりも彼に伍する人物は現れはしなかった。とすると、彼の超能力は、およそ「徳」とか「道」の問題などとは何ら関係のない、ただの生まれつきの素質としか考えられない。彼の言説と超能力は完全に切り離して考えられなければならない。
そんな彼に、ガキの僕が言われた唯一のことは、「この子は賢いよ」の一言であった。
当たってはいまいが、遠いガキの頃の思い出話である。
彼は大変苦労した人間であったが、僕も苦労その一点においては病苦・ホームレス生活・犯罪被害…と負けてはいないと自負している。ただひとつ彼と僕を分けるのは、願いが叶う人間(関根)か叶わない人間(僕)かである。この両者の個性は、「力」と言う一点において、対決の名からはほど遠いものである。何せ僕には超能力はないのだから。
関根は上述の通り、人助けの力を得ていることで他にマウントを取るようなところがあった。それは正しくはない。だが、僕にもひとりの人間として良く分かるのは、神の懐に抱かれ人助けができる人間になると言うのは、人間にとって最高の幸せであって、関根が人助けをやめられなかった心理と言うものは僕なりにでもとても良く分かる気がする。やはりそれは人間にとって最高の生きがいであることだけは間違いない。
僕は関根のようなご神徳には与れなかったけれど、代わりにこんなことをやっている(ホームレスがお金なしに生活できる程度までは仕上げてある…これで「生活に困ったら宗教に」と言うひとは減らせると思う)。その方が僕の水には合っている。繰り返すが、宗教やイデオロギーは人間としての地力や了見を落とすばかりではなく、その枠は生活のあり方が特定の人間の発案に傾きがちになりルーティーン化してしまい「これは問題でこの方が良い」と校合されなくなり、「そのひとの味」を消してしまう。宗教やイデオロギーではなく、僕には限りない自由があるからそれができる。宗教やイデオロギーでは教義教条と言う「踏み絵」を踏まされることなくその恩恵に与ることは無理である。
僕は関根の肉声を聞いた最後の世代である。
僕のホームページはこちら。
「楢山節考(ならやまぶしこう)」と聴いて、「それ、何のこと?」と思う若者が多いかと思う。ある世代以上の方ならお分かりの通り、早い話が「姥捨て山」のお話である。
僕は現代の老人ホームにその典型を見る思いがする。このことについて思うところがあるので、それについて述べてみたい。
僕がとても不思議に思うのは、どうして年輪を重ねた人生の先輩であるお年寄りに、人生の辛酸とか含蓄とか経験について思う存分語っていただいて、若者世代への心の糧をつなぐような活動がこの国にはないのか、と言うことである。
子どもが老人ホームを「慰問」するとき、まるでそれが当たり前のように子どもたちがただ歌って踊って、それに老人たちが拍手する姿しかないのは、本当に社会の財産の持ち腐れのような気がする。そのこと自体がどれほど老人の精神衛生上プラスなのか、甚だ疑問である。
これは僕だけの妄想ではない。心理学者の下仲順子さんによれば、高齢者は概して若者よりもものごとの理解も良いし、要領も答え方も良く、若者よりずっと芯がありますよ、と言う。
少なくとも経験値と言うことで言えば、我々のような若造(筆者は58歳である)が老人に勝てる道理がない。ところが、それが社会の財産になっていないことをとても悲しく思う。
幼稚園児に人生を語ることがお年寄りに苦手であろうはずがない。彼らは何世代もの子どもたちを育ててきたのだから。それが小学生、中学生…となれば話はなおのことではないか。
だから現代の老人ホームを見て、「楢山節考」をそこに見る気がしてならないのである。長い人生経験がものを言わずにいるのは、金・銀・ダイヤモンドをドブに捨てるようなものなのではないだろうか。