講座 心理学概論 10 社会心理学 7 こころのバランス

 人間の社会的認知はいったい何が規定しているのであろうか。  

 我々は何らかの自分の行為について他人からけなされたとき、悲しいと感じる。しかし、またべつのひとから「ドンマイ」と言われると心は落ち着き、元気を取り戻すことができる。  

 こうした「対人バランス」について、きわめてユニークな理論を唱えた3人の社会心理学者がいる。この節ではそれら3人の社会心理学者たちの理論を見ていくことにする。  

 まず、ひとり目は「認知的不協和理論」を唱えたフェスティンガーの理論を紹介する。  

 彼はひとが自分の心のバランスを保つ上で矛盾する情報にさらされた状態を「認知的不協和状態」だと言った。たとえば、喫煙する人間にとって「喫煙は有害」と言う情報は「認知的不協和状態」であり、人間と言うものはできるだけ心に葛藤や矛盾を抱えない「認知的協和状態」に自分の心を置いておこうとする心理機制が働くと主張した。先の喫煙の例だと、「喫煙をやめる」なり「喫煙はストレス解消に役立つので有意味であると考える」なりして自分の心を維持しようとする、と言うことになる。  

 たとえば新しいスマホを買ったら、すぐその後にさらに新しいスマホが出たと言うことを知れば、彼は熱心に自分のスマホの「トリセツ」を何回も読むだろう、と予測できるわけである。  

 ふたり目に「バランス理論」を唱えたハイダーの理論を見てみよう。この理論は本当に鋭いところに着眼しているので、読者の皆さんにはぜひ覚えていただきたい理論である。  

 この理論は「P-O-X理論」としばしば呼ばれる。どうしてそう呼ばれるかと言えば、Pはひと、Oは対象、Xは第三者のことを表しているためである。あるひとがある第三者のことを好きで、2人とも絵画が苦手だったとする。この場合、あるひとと第三者の関係はプラスの関係にあると考える。つまり、「P-X(+)」だと言うことである。そして両者とも絵画(O)が嫌いなので、「P-O(-)」、「X-O(-)」と言うことになり、2重のマイナスなので打ち消し合って絵画に対する2人の態度はプラスの関係と言うことになる。  

 このように、「P-O-X」の三者関係がトータルでプラスであれば「安定した人間関係」、逆にマイナスであれば「不安定な人間関係」を表すと言うのがハイダーの「バランス理論」の含意である。筆者などは、この理論を知ったとき、「よくそんな見事な発見をしたな」と大変感心したことがあり、それゆえ読者の皆さんも日常の対人関係でこの理論を使って事態を理解することを強くお勧めしておきたい。お気づきの方もいると思うが、これは「序説」に出てきた故・安倍淳吉の社会心理学の定義「Man to Man to Thing」の事態の理論そのものである。  

 さて、最後の理論であるが、これは「動機づけ」のところでも説明したディシの「やる気」にかんする社会心理学的理論である。  

 彼は、人間が何かに取り組もうとするときには、2つの条件が揃っていないと心のインバランスによって「やる気が出ない」と言う。ひとつはその物事についての「有能感(コンピーテンス)」であり、もうひとつはその物事についての「自己決定感」だと言う。  

 たとえば、親が「勉強しろ」と言うので勉強しても身が入らないし、勉強する内容が自分の能力を超えていると認知していればやはり「やる気」は出ないであろう。彼によれば、SOMAと言うブロックパズルを解く課題を被験者に与え、これらの条件が満たされている者のパフォーマンスと満たされていない者のパフォーマンスを比較したところ有意な差が認められたと言う。  

 認知の安定を図るとか、良好な人間関係を維持するとか、物事に取り組むとかするときには、読者の皆さんにはこれらの理論は役立つと思うので、ぜひ「豆知識」として心の中に置いておいていただきたいと思う。

講座 心理学概論 10 社会心理学 6 世論とデマ 

 この節では先に述べた「クロスオーバー社会」における人間の情報の状況認知の問題について考えてみようと思う。  

 典型的なものは「世論」であろう。そこで世論と言うものの形成過程について考えてみたい。  

 現代社会においては世論の形成に果たすマスメディアの役割が特に注目しなければならないように思われる。マコームズとショーは、マスコミの情報選択によってひとびとに「どの情報が重要か」を左右する点に着目し、そのようなマスコミの情報選択のことを「議題設定」と名付け、マスメディアの議題設定によってひとびとの情報の重要性が規定されていることを調査によって明らかにした。そして彼らは、マスコミの議題設定はひとびとの思考の内容を規定するわけではなく思考の対象を規定すると考えた。  

 さらにデイヴィソンは、我々がよく選挙などで誰に投票しようとするかを決めるときに「第3者、言い換えれば他人様はどう言う選択をするだろうか」と言うことを考えて一票を投じることがあるので、彼はこのような現象に「第3者効果」と名付け、それまでは有権者の主体的な意思で投票行動が行われると考えられていたそれまでの考え方の再考を促した。  

 世論には大勢の意見が見えてくるとひとは自分の持っている少数派の意見について表出しなくなると言う現象が見られる。これがノエレ=ノイマンの指摘した「沈黙の螺旋」と言う社会現象である。  

 世論を決定するファクターは様々である。上述の議題設定の他にも世間一般が持っている危機感とか欲求不満だとか社会問題への意識なども世論を形成する大きな要因であろう。  

 さて、「世論」に付き物なのが「流言」すなわちデマである。  

 デマがなぜ生じるのかについては大きく分けてオールポートの考え方とシブタニの考え方の2つがある。  

 我が国でデマが社会に与えるインパクトを考えさせられるきっかけになった事件がある。いわゆる「豊川信金事件」である。この事件では豊川信金に多くの預金者が預金を引き出そうと殺到したため「取り付け騒ぎ」が起こった。  

 この事件のことの発端は他愛ない女子高校生たちの会話に始まっている。電車の中でひとりの女子高生が「私、豊川信金に就職するのよ」と言いそれを聞いたもうひとりの女子高生が「えー、豊川信金は危ないよ」と言ったのを他の乗客たちが聞き、その噂がどんどん広がって行って取り付け騒ぎにまで発展したわけである。  

 有名なパーソナリティ心理学者であるオールポートは、流言、つまりデマが生じるのには、当事者にとっての話題の重要性とその話題についての情報の曖昧さの相乗効果が働くと考えた。彼の考えた有名な公式は以下のようなものである。「デマの流布量~A(曖昧さ)×I(重要性)」。  

 これに対しシブタニは、曖昧な状況を合理的に理解するためのものがデマだと主張した。彼によればマスコミなどの制度的チャンネルによって十分に情報が与えられていない状況でデマが発生すると言う。  

 マスコミと言うものがなぜ現代において我々にとって有効な役割を持っているのはなぜかと考えると、それはまず第一の理由として我々に影響を与えている、あるいは与えるかもしれない状況については予めひとびとに知ってもらうことによって我々がどうあるべきかを考える機会を与えると言うところにあるように思われる。  

 しかし、インターネットが普及した現代においては、マスコミの果たす役割の限界を補完する機能があるように思われる。  

 いずれにしても、「世論とデマ」のからくりはそう言うもので、我々がどう接して行けば良いのかを読者の皆さんもたまには真面目に考えてみていただきたい。

 加えて、「デマ」と言う議題設定自体の限界も意識したい。事柄の性質によってデマの生じやすさと発生機序は異なるであろうことは誰にでも想像できることである。

講座 心理学概論 10 社会心理学 5 対人魅力

 なぜひとはひとを好きになるのであろうか。  

 それはひとがあるひとに「魅力」を感じるからであろう。この節ではそのような「対人魅力」の問題を扱う。  

 一般に心理学では対人関係のはじめのうちは外見など見てくれを重視するが、時間の経過に伴って人柄などの内面を重視するようになると言う知見が認められている。山中の研究によると、ひとがひとに魅力を感じ、親密化するか否かは数週間で決まると主張している。  

 恋愛の初期過程を考えてみると、さまざまな要因が働いてひとはひとを好きになるようである。とりわけ大きなものが「印象」である。アッシュの研究では対人的な印象はそのひとの人柄を表す言葉の順序を様々に変えて被験者がそのひとの印象語を提示する順序によって対人的な印象は大きく変わることを明らかにした。たとえば、好ましい印象語を冒頭に持ってくる場合と、そうではない印象語を冒頭に持ってくるのでは、好意度は前者の方がはるかに高くなることを突き止めている。  

 恋愛における初頭の魅力は、自分の外見と相手の外見がそれほど魅力度が変わらない相手に好意を持ちやすいことが様々な研究でたびたび指摘されてきた。これを「釣り合い(マッチング)仮説」と呼び、恋愛の重要なファクターであると考えられている。  

 他にも、金銭を多く持っている男性や社会的ステータスの高い男性や才覚のある男性に女性は惹かれるとか、バーンとネルソンの「類似性-魅力仮説」のように、態度や知識や趣味の共有できる異性にひとは魅力を感じると言う研究もある。  

 ところで、アカデミックな対人心理学に「恋愛心理学」と言う分野はないが、巷にはよくひとびとは「恋愛心理学」なるものを信じているようである。いわく、「相手が嘘をついているときには視線が右上を向く」とか「腕組みをされたら嫌われている」など。これらはすべて科学的な根拠はないので、夢のない話で申し訳ないのであるが信じるに値する知識ではないことをここに断っておく。  

 ただし、次の一点は実験的に確かめられている。  

 人間は、光の明るさに応じて瞳孔の大きさが変わることは周知の事実であるが、ヘスは対象への興味のあるなしに応じても瞳孔の変化が見られることを実験的に検証した。たとえば男性に女性のヌード写真を見せると、瞳孔の大きさは2割ほど大きくなり、女性の場合だと男性のヌードの他に赤ちゃんを抱く女性の写真を見ても同様の変化が見られることが分かったのである。  

 この知見を対人関係一般で知っていると、ちょっとだけ有利かも知れない。話している相手の目を見れば、自分に興味を持っているのか否かが推定できるためである。  

 人間の対人認知についても認知心理学の章で紹介した「確証バイアス」が見られる。よく「第一印象は大事」と社会では言われるが、この「第一印象」と言うのは一種の確証バイアスであるので、そのひとが本当はどんなひとかは関係の進展を進める中で理解するようにしないと、関係の進展を「第一印象」が大きく規定してしまうことになりかねず、偏見でひとを見てしまうことがあるように思われるので注意が必要である。  

 「好き」と言うことはひとそれぞれの何を人間に重視するか、心理学的に言い換えれば人間のどの面に自我関与(感情的巻き込まれ)しているかと言うことによっても、様々に変化する。また、人間関係の途中でどんな場面でどんな他人といて、そこで生じた覚醒と言う中立な心理状態をどのように解釈するかによって、それが他人の属性に帰属されるとそのひとに魅力を感じるなどの、シャクターの「情動2要因論」から説明することも可能である。  

 人間と言うものは一度好きになるとずっと好きでいて、一度嫌いになるとずっと嫌いなままと言うことも多い。また、異性の魅力を外見に集約する傾向もなぜ起こるのかと言うことを考えると、好意・嫌悪の継続にせよ外見への魅力の集約にせよ、「思考の節約」ができるからではないかと筆者は見ている。いわゆるマッハの「思惟経済説」である。しかし人間の親密化過程と言うのはお互いの情報のどこまで深くまでを詳しく知ることによって成し遂げられることを考えると、そのことを忘れないことが人づきあいにおいて得をする、と考えるべきものと思われる。

講座 心理学概論 10 社会心理学 4 社会の種別と心理機制

 我々の身を置く社会は、大別すると2つの種別の社会に分類できるように思う。  

 それは、「目的集団(意図的社会)」と「非目的集団(クロスオーバー社会)」の2つである。  

 前者の代表例は国家に始まって、政府、官僚機構、学校、会社、家庭その他さまざまな目的のもとに設立された集団(学会とか経済団体、NPOやコミュニティなど)などであろう。  

 後者は意図的でない人間の集団で、大衆(マスコミの視聴者や週刊誌の読者など)、街でひとびとが行き交う公衆、一時的かつ一意ではない目的で集まった聴衆や群衆、攻撃的な乱衆などであろう。  

 これらは言い換えると、「面識のある集団」と「面識のない集団」と言うことになるかと思う。  

 面白いことに、我が国の昔の「ムラ社会」では「面識のないひと」と出会うと驚くが、都市社会では「面識のあるひと」と出会うと驚くと言う心理機制の違いが生じている。  

 さらに「目的集団」は「利益追求社会」と「人間関係追求社会」に分けられる。前者は広い意味で、「世のためひとのため」と言う意味で、現代の民主主義国家やコミュニティやNPOやボランティア集団などの「ヨコ社会」も含まれると解してほしい。要するに「目的集団」と言うのは「組織社会」と言う意味である。  

 組織社会に働く心理機制は様々ある。たとえば、学校の子どもが教師の期待によって成績が上がるというような「ピグマリオン(ローゼンソール)効果」とか、「このひとはさる大学の教授の息子です」と言われるとさぞ優秀な子どもなんだろうと存在を高く見積もる「ハロー(光背)効果」とか、そんなことを言われている子どもについてのひとびとの印象形成は「大学の教授の息子」と言う社会的に有利な方に認識が全般的に偏る「アンカリング」、仕事ができると認知されている人物が仕事上のミスをしたり、逆に仕事ができないと認知されているひとが成果を上げるとそれが目立ち印象が大きくシフトする「ゲイン-ロス効果」、組織には多くの人間がいるので自分ひとりぐらいは何もしなくても良いだろうと考えて生ずる「社会的手抜き(ソーシャル・ローフィング)」など枚挙にいとまがない。  

 組織社会を把握するための有名な理論に三隈二不二の「PM理論」がある。類似の理論が多数あるのでこの理論をその代表として説明する。組織社会には、「目的達成のための行動(パフォーマンス:P)」と「人間関係維持のための行動(メンテナンス:M)」の2種類が存在し、組織の優れたリーダーと言うものはこれら両者に長けているとこの理論では考えられている。  

 では、「非目的集団」に働く心理機制にはどのようなものがあるであろうか。  

 選挙の際に、世論調査などを行って候補者たちの優勢や劣勢が伝えられると、優勢なひとに投票したくなる心理(勝ち馬効果あるいはバンドワゴン効果)と、逆に同情から劣勢のひとに投票したくなる心理(負け犬効果あるいはアンダードッグ効果)などの「アナウンス効果」が大衆には見られる。  

 また、マスコミなどで「信憑性が高い」とされた情報の送り手は、説得効果が高くなると言う「スリーパー効果」、何らかの問題で多くのひとは自分はそんなにまずくないと感じる「平均以上効果」、優勢な意見は語られる機会が増えるのに対して、劣勢な意見はどんどん語られなくなっていくと言うノエレ=ノイマンの指摘した「沈黙の螺旋効果」などが見られる。  

 他にもロッターと言う心理学者が提唱したものごとの「統制の座」が自分にあるのかあるいは外側にあるのかの認知によって無力感の消長が規定されると言うアブラムソンの「改訂学習無力感理論」がある。  

 犯罪に巻き込まれたひとびと同士が、犯人に対して好意を持つことが立てこもりの犯罪などにはよく見られる。このような認知バイアスのことを「ストックホルム症候群」と言う。  

 これまで述べてきたことから、「目的集団」、「非目的集団」にはそれぞれの社会形態に応じたさまざまな心理機制が働くことを理解いただけたものと思う。

講座 心理学概論 10 社会心理学 3 規範の魔力

 ご近所さんから国家まで実に様々な社会の中を我々は生きているが、歴史上はナチスのホロコーストとか日本軍部の南京大虐殺とか、これが現代になると暴力で自分たちの社会勢力を伸ばそうとする「イスラム国」とか「ひとり独裁」が続く北朝鮮とか、一体なぜ人間は不条理な社会の形を選択してしまうのであろうか。  

 こうした現象について筆者は、いつも猫に悩まされているネズミたちが集まってどうしたものかと相談していたら一匹のネズミが「猫が来たことが分かるように猫の首に鈴をかければ良い」と言いどのネズミも「それは名案だ」と言ったがいざ誰が猫の首に鈴をかけてくるのかの話になった途端どのネズミも黙り込んでしまったと言うイソップ童話の「ネズミの相談」と言う話から筆者が名付けた「猫の鈴効果」と言うものがはたらき、それと相俟って人間の考えと言うものは議論の対象になったときに目新しい意見に注意が行くばかりに集団としての意見が極端に安全策に偏る「コーシャスシフト」と、逆に危険な方向に偏る「リスキーシフト」と言う「集団極性化」が働いて起こるからではないか、と見ている。これらはすべて「集団規範」の問題である。なぜアメリカでトランプ政権が誕生したのかなどはこの見地から理解できよう。特にこの場合では「集団極性化」の2つのシフトが同時に働いたとみられる。  

 こうした人間の不条理な規範ができてしまうのはなぜかについては多くの実験社会心理学的研究がある。  

 このような問題意識の下でミルグラムと言う心理学者はある意味有名な「服従実験」を行った。被験者は擦りガラス越しに映る問題回答者が答えを間違えるごとに罰として電気ショックを与えるよう実験者に命じられた。問題の間違いが累積していくにつれて電気ショックは強くするよう指示された。  

 すると、空恐ろしい結果が出た。被験者の実に9割以上が命じられるままに最強の電気ショックを与えるまでになったのである(この実験は被験者に強い心理的苦痛を与える実験であったため現在では禁止されている)。この実験での実験者が被験者に印象付けたのは「権威」だったので、その命令は我々の日常の規範よりもより強く、被験者たちは実験者の指示に盲目的に従ったものと考えられる。  

 もうひとつこのような実験がある。ジンバルドーが行った一般市民24名を受刑者と看守役に分けて経過を観察したところ、それぞれの役割がエスカレートしていき、僅か6日で中止になった「スタンフォード監獄実験」である。  

 規範と言うものは、人間の行動に節約性を与える役割も持っているので、ひとびとの心が規範に収斂するいわゆる「斉一性(同調へ)の圧力」と言うものが集団成員にはかかる。  

 アッシュはこのことを実証するために、7人のサクラと1人の本当の被験者の8人のグループを組んで、先にサクラの7人にわざと同じ間違った答えを述べさせた。その結果、3割の被験者がその明白に間違った答えを答えると言うショッキングな事実を明らかにした。  

 斉一性の圧力とはまた違った要因でもひとびとが規範を共有しようとする傾向にあることをシェリフは自動光点移動装置を用いて確認した。被験者がそれぞれの被験者が答えた数値をフィードバックして自分の数値を他の被験者の数値に近づけて行き、実験の最後の方ではすべての被験者がほとんど同じ数値を報告することを実証したのである。  

 人間と言うものは、ひとりぼっちにされたとき、どうしたらよいのか良く分からなくなると言う経験をお持ちの方も多いであろう。そのようなとき、たとえば前章で述べた乳幼児の「社会的参照」のように、他人の判断を準拠枠(判断基準)として参考にすると言う人間の本性をこれまで述べてきた研究は語りかけている。  

 このようなときに人間が規範に引きずられた誤った判断をしないために何が必要かと言うことを考えると、1つには規範自体が誤っていないこと、もう1つには規範に引きずられない強力な論拠を持っていることが大事ではないかと言うことが言えそうである。

講座 心理学概論 10 社会心理学 2 社会のはじめ

 まず、「人間はなぜ社会を作るのか」と「社会の本質」について考えてみたい。  

 それには、「人類はどこから来たか」を考えることがさまざまのことを我々に教えてくれるように思うので、そのあたりから考え始めたい。  

 人類は500万年前まではチンパンジーと同じ祖先を持っていて、アフリカに大地溝帯ができたために、外敵からの襲撃を受ける機会が激減し、樹上から陸上に生活の場が移り暇ができたために原始的な文化が始まったものと推察できる。  

 チンパンジーと人間に共通する特徴は、多くの肉食動物と違って、獲物を捕らえる鋭い牙もなければ、敵から身を守る強靭な甲羅があるわけでもなく、角があるわけでもなく、一個体だけでその生存を図ってゆくことは困難だったため、多くの草食動物同様、群れを作り役割を分化させることで最大の繁殖率を確保しようとしていたことは確かなことであろう。ただ、チンパンジーの社会のように有力なオスにしか繁殖権がなかったのかどうかははっきりしない。  

 この節のタイトルに「社会のはじめ」と書いたのは、社会と言うものの一番大事な構成要件は「規範」であることを指摘したかったためである。  

 群れの中ではできるだけ闘争を避け、群れに危険が迫ってきたときにはいち早くそれが群れに伝わるように司令塔的な存在が必要になり、その限りでは群れの中の平和を享受すると言う社会を作ることで人類の祖先は生存を図ってきた。  

 群れの中には一見何の情報もないように見えても、そのように群れの平和を保つ規範が意識的にか無意識的にか存在すること、それが社会の構成要件の本質である。それが証拠に、どこの国のひとびとも生活していくうえでたとい赤の他人との間であっても、普段は大声を上げないとか、お互いの行く手を遮らないとか、さまざまな「暗黙の了解=規範」を守っているために日常生活に混乱を来さなくて済んでいるわけである。  

 それは犬などの哺乳動物では、「なわばりと順位」と言った形で明確に現れていたが、人間の集団ほど群れの個体数が多くなり各個体の新皮質が発達すると心理的に流動化し、それに代わって上述のように人間社会は「規範」で自分たちを守るようになったのである。  

 やがて規範の類似した人間同士が意気投合することから文化と言うものが始まったと考えると自然なように思われる。まぁ、現在の政党とか派閥のようなものだったのであろう。  

 しかし、「文化」と言う言葉が徴表しているように、いつからどこで人類が「ことば」と言う文化の礎を手にしたのかは明確ではない。「ことば」と言うものの力は他のどんな動物同士の力よりも強力である。なぜなら、自分の意思はもちろんのこと、自分の置かれた状況の綾の事細かまでを伝え合うことは、群れの共有する情報量を飛躍的に増大させ、ときには知恵すら伝達しあえる仕組みになったと言うわけなのだから。  

 群れの規範を逸脱しない範囲で、人類は強力な親子関係を築くことで、文化の伝達効率を飛躍的に増大させたものと思われる。漠然と他個体とまちまちのかかわりを持つよりも、親子と言う括りで文化を伝達した方が生存にははるかに大きな可能性が生まれるからである。  

 規範と言うものは、物理的にも心理的にも交通整理のような役割を果たす。かくして、洞窟で暖が取れることを学んだ人類は、氷河期の恐竜のようなカタストロフを免れることができた。そのさいの交通整理の仕方は現在で言うマナーとかエチケットと呼ばれるものである。  

 人間には言語の中枢がある大脳左半球のみならず、イメージの中枢である右半球もあったので、ラスコーでは洞窟に壁画を残し、縄文時代の我が国では精巧な土器を作るものまで現れた。多くの者にとっては卑弥呼が統治に使った「魔鏡」と同じで、畏れと表裏一体の尊敬や崇拝の精神が喚び起こされ、社会秩序が徐々に確かなものになっていったことは間違いがないことであろう。ときにこれがあまりにも平凡で一般的なものになると再び人間は闘争と殺戮の時代を経験した。それが「食」と言う命の根幹にかかわる稲作が一般化した我が国の弥生時代のようなときである。  

 このように、「規範」と言うものが「社会のはじめ」であり、その交通整理機能が文化の濫觴であることが理解できたものと思う。  

 次節では、このような「規範」が現代人に対して持つ不思議な役割(規範の魔力)について具体的な研究を交えて説明することとしたい。

講座 心理学概論 10 社会心理学 1 序説

 読者の皆さんの中には「社会心理学」と言う学問領域があることを知っている方もいれば、知らなかったと言う方もいることと思う。  

 そこで、まず、「社会心理学」と言う学問がどう言う学問なのかについてガイダンスを行っておこうと思う。  

 学問と言うものには、「卵が先か鶏が先か」と言う問題が常に付きまとう。  

 たとえば哲学を例に取ると、現在の定説ではギリシアのミレトスのタレスが「アルケー(万物の根元)は水である」とか「私の説を諸君は批判的に考えてほしい」とか言ったと言うことで今でこそ哲学の創始者だと考えられているが、おそらくタレスに言わせれば、そんなこと毛頭考えていなかった、と言うことになるだろう。  

 学問の定義を「卵」と考え、問題意識や実際を「鶏」と考えるならば、タレスの例は、「鶏が先」の好例である。後々の学者なりがそのような問題提起を初めてした、と後追い的に認定されたので、そう言うことになったのだと言える。  

 社会学など僅かの例外を除いて、ほとんどの学問はこのタイプの学問であるが、心理学全体にしてもそれが言える。と言うのは、心理学の対象である「心」の意味についてはどんな学者であろうと素人であろうと分かっているのに、いざ「心とは何か」と問われると、未だに誰も答えられないのが実情である。筆者も「思いと知覚の移ろいの座」あるいは「思いと知覚の構造」ぐらいの貧弱な答えにもならない答えしか出せない。  

 しかし、我が国には、学問を定礎してからでないと実地に入ることはできない、と言う学者もいる。筆者が大学時代の講義「社会心理学」を担当された故・安倍淳吉がまさにそうであった。  

 彼によると、「社会心理学とは Man to Man to Thing の科学である」と言う。訳せば、「事を介しての対人性の科学」だと言うことになる。筆者は彼の講義での評価は「可」であった。そして、何の因果か彼の学派の先生の講義の僕に対する評価もすべて「可」であった。彼らから見ると勉強嫌いの僕はあまり理解力のない学生だと見られていたのだろう、と察している。しかし不思議なことに、彼の定義からは出てこないような群集心理とか公衆の定義とかよくアメリカで起きる暴動などの乱衆などの話で彼の講義は始まった。その他彼の定義では射程に含まれない社会心理学的問題として「印象」の問題も存在する。  

 いま改めて僕に「社会心理学とはどう言う学問か」と訊かれれば、僕は社会心理学で最も隆盛を誇ったアメリカの社会心理学を見て総覧的に定義する「鶏が先」派である。  

 頭脳が安倍先生に比べれば1万分の1もない怠け者の筆者が言うことなので、頼りないと思われる方は筆者がこれから言うことは無視して彼のご著書を図書館ででも読んでみてほしい。  

 さて、筆者は「総覧型」の学問の位置づけを考える後追い型の人間なので、どのように「社会心理学」を考えているかを述べてみたい。  

 筆者なりにアメリカの現実の社会心理学をオーバービューすると、「社会心理学」と言うのは一言で言うと、「社会構制による心の変化の学問」と結論付けられる。  

 デマにせよ、アメリカ大統領選にせよ、「冷淡な傍観者」にせよ、家族の病理にせよ、いじめ問題にせよ、心が何らかの社会に置かれていることによって時に的確に、時に歪んで変化すると言う事象を捉え、社会を作っていること特有の人間の心への変化の機制を持つこと、そしてそれによる変化の本質についての議論がアメリカの社会心理学ではこれまで行われてきた、と見るのが筆者のスタンスである。「国」があって為政者と国民があり、「選挙」があって候補者と有権者があり、「家族」があって親なり兄弟なりがあり、「学校」があって教師と生徒がいて、「会社」があって上司なり同僚がいる。  

 したがって、筆者がこれから書いていく社会心理学の内容は、安倍先生のように主体性を押し出して、と言うより従来の流儀に則って書かれるスタンダードなものになることをここに予告しておきたい。  

 まず、なぜ人間が社会を形成するのか、について考察し、社会にはどのような種別のものがあるのかについて指摘し、特定の社会の下に人間がいることによってどのような問題や影響があるのかを概観し、どんな法則や効果がそこに認められるのかについて社会と個人の結びつきの強弱の観点から陳述し、適宜社会問題への社会心理学からの提言なりヒントなりを与えていくスタイルを取りたい。  

 それでは、次節から具体的に社会心理学の世界を見ていくことにしよう。

講座 心理学概論 9 発達心理学 15 老人と知恵

 読者のみなさんは、「知恵」とはどう言うものだと言う見解をお持ちであろうか。  

 「知恵」の他に似た概念として「知識」と言うものがある。  

 これらの違いを筆者なりに検討すると、対象把握のための情報のことを「知識」と言い、状況対処のための考えを「知恵」だと言っていいように思う。しかし、厳密に考えると、そう簡単な2分法になるとは限らない。ちょっとした「思考の整理学」ぐらいに考えていただければよい。  

 たとえば、有名なゲシュタルト心理学者のケーラーが、檻の中に棒があって檻の外にバナナを置いておくと、檻の中のチンパンジーは棒を使ってバナナを取ることをひらめくことを突き止めた。この研究は有名な「チンパンジーの知恵試験」と言う実験であって、チンパンジーで問われたのは「知識」ではなく「知恵」であった。  

 生涯発達心理学の立場から「老人」と言うものを考えた時、まず語られるのは、「知識」ではなくて「知恵」ではなかろうか。  

 長いライフタイムを生きてきた人間である老人は、質的にも量的にも若者よりは物理的にも社会的にも多くの体験を生きてきたひとびとであろう。一概には言えないとしても、一般的にはその豊富な経験に裏打ちされた老人の「知恵」には学ぶところが多い。  

 もちろん、認知症など老人の抱える心理学的問題も多いのではあるが、ここでは不幸にしてそう言うさだめを持つ老人のことは敢えて考えることを避けようと思う。  

 プロミンと言う心理学者が創始した「行動遺伝学」の研究によると、若年の知能の遺伝寄与率は30パーセント程度であるが、老人になるとそれが70パーセントに跳ね上がると言う知見がある。  

 しかし、キャッテルとホーンが明らかにした2種類の知能、すなわち新たなことを学習するための知能である「流動性知能」と経験の応用のような知識の適用などで要求されてくる「結晶性知能」では、知能の衰減のパターンが全く異なることを明らかにした。前者は加齢の影響を大きく受けるが、後者はあまり加齢の影響を受けないことが分かったのである。  

 「知識」であるとか「知恵」であるとかについては、認知心理学の世界では、「プロダクション・システム」と言うパラダイムで考えることが多い。「プロダクション・システム」とは、1.データ、2.ルール、3.インタープリタの3つのレベルで知的作業が行われる、と言う考えである。確かに老人は、データとルールのインプットは苦手ではあるが、インタープリタは例えば将棋の高段者に老人も多いことを考えると衰えないことが分かるであろう。  

 老人から我々が学ぶべきものは何も「知恵」ばかりではない。人間がどんな境遇に置かれるとどんな気持ちになるのかとか、彼らの人生経験から学ぶべきものも多いように思われる。  

 また、童話や訓話、民話など我々の生活上の「常識」が、我々の子どもの頃のように3世代同居が当たり前だった時代と比べると、核家族が多い現代ではそう言った草の根的な知識なり知恵なりと言うものが学校教育でしか補完できない世知辛い世の中になりつつある。子どもたちの間でそれなりの人気のある文化のエージェント(教師やスクールカウンセラー、メディア、ゲームなど)がそれらを伝えてゆくべき時代なのかもしれない。  

 シンガーらの研究によると、老人の中でも「主観的健康感」が高いものほどご長寿の傾向が強く、「病は気から」と言う格言は老人では間違いのないことらしいことも分かってきた。  

 老人を何でも邪魔者扱いし、少し困るとすぐに施設に入所させる(楢山節考)など、現代の労働問題と密接に結び付いた老人問題も少なくはない。老人と共生しながら豊かな人生を誰もが送れる社会を作るための制度設計や自然と老人に話題が振られるようなテレビ番組の制作なども、喫緊の課題のひとつであることは間違いがないであろう。

講座 心理学概論 9 発達心理学 14 適応の問題

 我々は様々な社会でうまくやっていかないといけない。そうでなければ自傷他害の恐れのある心の収拾がつかない人間に転落してしまうこともある。  

 この「うまくやっていくこと」を心理学では「適応」と呼んでいるが、この節では「一体、適応とは何なのか」と言う問題について考えてみたい。  

 結果的に社会でハッピーになることが「適応」であるとするならば、それはきわめて一面的なものの見方に過ぎない。  

 「適応」を考えるときに、ある高名な心理学者は、適応の概念を「船にスクリューがアジャスト(適応)する」と言ったようにきわめて無機的な「適応」観を述べていたことを思い出すのであるが、人間は機械ではないので、このような見方には筆者正直言って違和感を覚える。  

 端的な例として、心理学で言ういわゆる「適性処遇交互作用」と言う現象を見てみよう。  

 社交性の高い学生と低い学生に一方的なコンピューター授業と教室の講義のいずれかをそれぞれ同数ずつ受けてもらった。すると、平均点はどちらの学生も大差は付かなかったが、面白い現象がみられた。  

 社交性の高い学生の講義でのテスト結果は有意に高く、低い学生ではその逆、つまりコンピューター授業の方が有意に高かったのである。  

 心理学ではこのような何らかの心理的特性が受けるべき適切な処遇を決める現象のことを「適性処遇交互作用」と呼んでおり、たとえば男児の方が喧嘩に強く、女児の方がひと付き合いがうまい、などの知見が見出されている。  

 要するに、人間と言うのは何か課題を課せられると、ひとがらによって得意分野と不得意分野があると言うことである。  

 もしこのような意味で、そのひとの性格に合った課題の性質なり環境と言うものがあるのだとしたら、それはそのひとの「適応」の鍵になるとお考えになる読者も多いことであろう。  

 しかしそもそも、現代のようにひとが作った課題をこなす世の中であって、ある課題にあるひとが得意を感じたとしても、それは本来の意味での「適応」と呼べるのであろうか。  

 人間のできること考えることのわずかな一断片を我々はそこに見ているだけで、そのひとの本当の存在性について「適応」と言うことを考えた時には、ただ単に「うまくやっていけること」と言う近視眼的な定義をすると、人間を箱詰めにしようとしているだけの人間の本来の幸せとは程遠い考えに陥っていくだけなのではないだろうか。つまり、「適応」と言う考え方は人間の一部の切り売りを見ているだけで、人間を全体として見るのには何の役にも立たない概念ではないか、と。  

 有名な心理学者のマズローは、人間の本来あるべき姿を「自己実現したひと」だと言い、ロジャーズは、「十分に機能する人間」だと言った。それらは確かに、「うまくやっていく」ことを「適応」だと考えるよりは良く考えられた人間観ではあるだろう。  

 しかしその根底には西洋流の徹底した合理主義が潜んでいて、そう言う思想に染まっていないとそれらの考えも出てはこないと言うことを読者の皆さんには真剣に受け止めていただきたいのである。  

 筆者にはものごとに成果を認めることに価値を見出す価値観には正直言ってきわめて人間らしくない定規的なものの考えのように思える。乞食には乞食のレゾンデートル(存在意義)があり、障害者にも、その他すべての人間にもレゾンデートルがあると思う。ひとによっては「何も生み出さない」ような「乞食」のようなひとびとにはレゾンデートルなどない、と思われるかも知れない。  

 しかし、よく頭の悪い筆者は思うのである。筆者の考え過ぎの部分も多々あるとは思うが、乞食のようにひとびとが捨てた残飯を食べ、特段の「文明」と言う名の自然の犠牲の上に立つ世の中にもしかしたら彼らがそのようなわけで現代の価値観よりは縄文時代の日本人のものの感じ方に近く、彼らがその中に身を置くことを悲しむ心優しいひとびとだったと想像したとき、彼らは実は優れて人間的ではないのか、と。  

 それは乞食に限ったことではなく、人間がただ才気あるいは素養に任せて世の中を作っていくと、卑弥呼の「魔鏡現象」ではないが、人間は「価値のあるものだけが必要」と言う自分の本当の身の丈を弁えず恐ろしく自然における人間の分を弁えない歪んだ人間観や人生観を持つにいたり、人間を心ではなく「○○に優れている」と言う観点だけで見るきわめて一面的な見方でしかひとを見られないおかしな心の人間で溢れかえってしまうのではないか、と真剣に憂慮する。  

 人間は多面的な存在である。どんな人間にもレゾンデートルがあり、光るべきものそうでないものがあることを弁えながら人間を見られるひとになりたいものである。読者の皆さんには、本当の意味での「適応」について真面目に考えていただきたいし、「これが日本流の適応概念」だと言う合理主義を見直すきっかけを社会問題の中に見ていただきたいと願うものである。

 結局、「適応」とは、「その環境が自分にとって普通になること」を言うのではないだろうか。だからそれだけでは論じきれない心理的問題が百出してくるのではないだろうか。

講座 心理学概論 9 発達心理学 13 発達の査定

 現在我が国では市町村など地方自治体に1歳6ヶ月検診および3歳児検診が法律で義務付けられており、医師及び自治体の心理士などにより実施されている。この検診では心身の健康状態及び発達状態を査定し、状況の如何によっては関係機関において適切な処置を施すことになっている。  

 純医療関係の話は病院の医師に譲るとして、ここでは主に心理学的な発達上の問題と検出のための査定について述べる。  

 我が国では2004年に「発達障害者支援法」が制定され、発達障害を「自閉症、アスペルガー症候群、その他の広汎性発達障害、学習障害、注意欠陥多動性障害その他これに類する脳機能の障害であってその症状が通常低年齢において発現するものとして政令で定めるもの」と定義しているが、専ら発達心理学の専門家の間ではこれに知的障害を含めて考えることが多い。当然この中には脳性麻痺、ダウン症も含まれる。  

 もちろんこの定義から分かる通り、脳画像診断が発達した現代の医療では発見率は飛躍的に高まったが、多くの発達障害は治癒が極めて困難であるものが多く、長期にわたる支援を必要としている発達障害児は少なくなく、心理士だけで対応できるケースは稀である。心理士はコ・メディカル(医療協力)的な役割を担うことが多く、上記の法律で義務付けられた検診の他に、適宜発達検査を実施して、障害児の実情把握に努めることになっている。  

 発達検査では一般に、後の章で言及する知能における「知能指数」と同様に、平均児の指数が100になるように設計された、発達年齢を実年齢で除して100をかけた「発達指数(DQ)」が算出される。  

 検査は様々あり、そこで査定される項目は検査間で大きく異なる。発達心理学者として有名なゲゼルの発達に対する理論をもとに津守らが考案した「乳幼児精神発達診断法」では、乳幼児の発達を「運動、探索および操作、社会、食事および排泄など生活習慣、理解および言語」の5領域の発達状況を把握する検査となっている。  

 京都市児童院が開発した「新版K式発達検査2001」では、「姿勢-運動、認知-適応、言語-社会」の3領域が査定される。  

 以上のような検査においては健常児の発達査定に重点が置かれているのに対し、発達障害を検出するための「発達スクリーニング(濾選)検査」も我が国では多数用いられている。  

 一番有名なのはフランケンバーグとドッヅによる検査の日本版である「日本版デンバー発達スクリーニング検査」で、「対人、微細運動、言語、粗大運動」の4項目について発達の遅れを検出できるようになっている。  

 それと並んでよく用いられるのは「遠城寺式乳幼児分析的発達検査」で、「全運動、社会性、言語」の3大項目をその中の細分化された6領域についてスクリーニングできる。  

 以上2つの発達スクリーニング検査は、養育者などからの聴取項目が多く、主観に偏るので注意が必要である。  

 比較的客観的な発達スクリーニング検査には、「感覚運動、言語的認知能力、非言語的認知能力」をみる「日本版ミラー幼児発達スクリーニング検査」がある。査定結果を子どもの処遇に活かす発達スクリーニング検査として「ポーテージ乳幼児教育プログラム」がある。  

 いずれの検査を施行するに当たっても、乳幼児がリラックスして検査に臨めるよう配慮が必要である。特に見知らぬ心理士が検査を施行するときには導入として時間をかけて子どもとのラポール(信頼)を築き、検査不能に陥らない技量が必要である。