講座 心理学概論 12 臨床心理学 1 脳病変と認識・行為喪失

 言語にかんする脳の病変部位と言語障害(失語症)については先にすでに触れているのでそれは割愛する。  

 ここでは脳の病変とかかわりの深い「失認症」、「失行症」、「無視症候群」について説明する。  

 「失認症」とは、感覚器官に問題はないのに何らかの対象を認知できない疾患で、「物体失認」、「純粋失読(失語症がないのに文字が読めない疾患)」、「相貌失認(誰の顔か分からなくなる疾患)」、「環境失認」、「同時失認(複数のものを同時に認識できない疾患)」などさまざまな事例が報告されている。  

 以上は「視覚性失認」であるが、他に「聴覚性失認」や「触感性失認」も存在する。この中でも最も多く見られるのが「相貌失認」である。重度になると鏡に映った自分の顔すら認識できなくなる。   

 「失行症」とは、運動機能に障害がないのに行動できなくなる疾患のことで、手先などが思うとおりに効かない「肢節運動失行」、他からの働きかけによる習慣的行動ができなくなる「観念運動失行」、一連の系列動作ができなくなる「観念失行」の3タイプに分けられる、とリープマンは指摘している。  

 「失認症」も「失行症」も脳梗塞などの脳血管障害が原因で発症し、障害されている脳半球の反対側に症状が出るのが特徴である。  

 症例数においてそれらよりもはるかに多いのが「無視症候群」である。  

 「無視症候群」とは、存在する外界の事物があたかも存在しないような症状の出る知覚、認知、運動、行為の障害の総称で、「一側性空間無視」、「消去現象」、「病態失認」、「運動無視」などがある。  

 最も一般的なものは「一側性空間無視」であり、大脳右半球の損傷による左側の空間無視が圧倒的に多い。食事を出されても左側のおかずを残すとか、左側の人物とぶつかるとか、着衣の左側を着ないとか、図形を模写させると左側が描かれないなどの症状を示す。診断法として、図形を消してゆく抹消テストや線分の中点に印を付けさせる線分2等分課題その他がある。  

 「消去現象」とは、左右どちら側にも単独で提示された刺激は認知できるのに、左右同時に提示されると一方の刺激が認知されない現象のことを言う。  

 「病態失認」は、身体疾病があるのにそれを認めない疾患のことである。「バビンスキー反射」で有名なパビンスキーが1914年に命名した疾患で、皮質盲を認めようとしない「アントン症候群」が有名である。  

 「運動無視」は、身体に障害がないにもかかわらず拍手するときに片側の手しか叩かないとか歩行時に片側の腕しか振らないとか「かいぐりかいぐり」をさせても片側の手が回らないなどの身体の不使用が症状の疾患である。  

 これらの「無視症候群」の有力な仮説は、メズラムの「皮質回路モデル」と言う「注意障害説」に相当する病態の発生メカニズムにかんする仮説である。  

 この説によれば、帯状回には環境外部の空間に対する期待とか意味づけが、前頭眼野には外界の地図が、頭頂葉下部皮質には外界の感覚表象があって、これらへの網様体賦活系からの投射がなされることによって方向性注意が可能になると仮定され、このどこの部分に異変が生じても「無視症候群」は起こると考えられている。  

 これらの前頭前野の疾患の検出に用いられる有名なテストとして「ストループテスト」と言うテストがある。患者は赤、青、緑、黄の各色がそれらの色とは異なる色の文字のカードを提示され、「何色で書かれていますか」と質問するテストである。この簡易版はいわゆる「後出し負けじゃんけん」である。  

 診断者はこれらの疾患を多重的に診察することによって慎重に疾患名を引き出す能力が必要である。以上の疾患は梗塞巣の溶血などの医学的処置が功を奏することはあっても、臨床心理学的加療によって改善する可能性は低いと言わざるを得ない。

講座 心理学概論 11 人格心理学 9 人格と他の諸変数

 さて、この章もこの節で終わりとなるが、最後に「人格と文化」、「人格と健康」について概観しておきたい。  

 まず、「人格と文化」であるが、先に触れたニスベットの「線分課題」に現れているように、東洋では「相互協調的世界観」を持っているのに対し、西洋は「相互独立志向世界観」を持っている。  

 このように、どのような社会にひとが生まれるかによって、その文化における平均的な世界観を持つ人格は変わってくる。  

 日本文化の特質としては他にも土井健郎がその著書「甘えの構造」で指摘した「甘え」とか「義理人情」などが挙げられる。  

 洋の東西を問わず文化による人格の規定因の中でも特に注目されるべきものは、「ジェンダー」である。どこの地域においてもある程度共通する「ジェンダー」が観察できる。  

 それによれば、男性は「勇猛果敢で決断力に満ち」、女性は「受容的で慈愛に満ち優しくておしとやか」と言う「ジェンダー」が認められる。そのような「ジェンダー」を分化することによって我々の社会が成り立っていると言う側面は大きい。  

 さて、次に「人格と健康」であるが、心理学的にひとによって程度の異なる注目すべき諸変数がある。  

 まず、「フラストレーション耐性」が挙げられる。ひとによってフラストレーションを感じても大した精神的ダメージにならないひともいれば、大きく精神が参ってしまうひともいる。  

 次に「曖昧さへの耐性」が存在する。白黒つけなければ我慢できないひともいれば、お茶を濁すのを好むひともいる。  

 特に近年、人格心理学で良く取り上げられる人格の健康さを考えるうえで重要な3つの概念がある。ひとつは「ハーディネス(頑健性)」であり、次に「レジリエンス(回復力)」であり、最後に「センス・オブ・コヒアランス(首尾一貫感覚)」である。  

 ひとつずつ見てゆこう。  

 「ハーディネス」と言うのは、強いストレス下にあっても「心が折れない」ことであり、言い換えると「人格のタフさ」だと言える。  

 「レジリエンス」と言うのは、逆境に置かれたり精神が参ってしまったりしても、「立ち直る力」のことである。コバサによれば、その構成要素として「コミットメント(自我関与)」、「コントロール(統制感)」、「チャレンジ(挑戦)」の「3つのC」が挙げられると言う。  

 「センス・オブ・コヒアランス」についてはアントノフスキーがその構成要素として以下の3側面を指摘している。ひとつ目に「世界を秩序立てて理解する能力」である「把握可能感」、ふたつ目に「問題に人間的資源を十分持って臨める」と言う「対処可能感」、最後に「問題に挑戦すること、挑戦したことには意義が感じられる」と言う「有意味感」である。  

 先にも軽く触れたが、テイラーは「健康なひとほどポジティヴな幻想を抱いている」ことを報告している。これを「ポジティヴイリュージョン」と呼び、「平均以上効果」、「コントロール幻想」、「非現実的な楽観主義」の3要素があると言う。  

 特に「コントロール幻想」と言うのはロッターの「統制の座」と言う考え方の延長上で出てきた概念で、ひとが自分の健康について「自分の健康は自分が統制している」と感じるほどひとは積極的に健康行動を起こし、健康を維持しやすいと言う知見が報告されている。  

 最後に、それらを理解しやすいように要約すると、ひとの健康は「主観的ウェルビーイング(主観的多幸感)」にある程度依存する、と言うことである。ただし、だからと言って暴飲暴食したり不摂生をすれば、当然健康上の奈落の底に突き落とされることは忘れるべきではない。

講座 心理学概論 11 人格心理学 8 さまざまな人格

 読者の皆さんの周りには、やたらと権力とか権威にこだわるひとはいないだろうか。  

 筆者の祖父の時代(明治時代)は、「長幼の序」と言うことがやかましく説かれ、ひとびとの中に「権威主義的パーソナリティ(権威主義人格)」が少なからずいたと筆者はよく祖父から聞かされたものである。  

 特に日本の戦前の軍隊は、規律第一主義で後「権威主義的パーソナリティ」の人間が少なからず現れた。  

 社会心理学の章ではあまり深く考えはしなかったが、物事に対してひとびとがお決まりのように抱いている考えやイメージのことを「ステレオタイプ」と言う。  

 このステレオタイプが否定的なものであるときにそれは「偏見」と呼ばれ、それに加えて選別的な場合には「差別」と言う。こうした問題を解消する一番の特効薬は、さまざまなひとびとが交流できる環境づくりに求められる。  

 「権威主義的パーソナリティ」の人間は権威に盲目的で、偏見や差別に走りやすい。  

 このような人格が形成されてしまう一番の要因は、軍隊の規律にしても増幅要因なのであるが、厳格な人間関係にあると見られている。  

 目先を変えてみよう。  

 子どもが愛情飢餓の状態で育てられるとどうなるのであろうか。大人になったときその補償を求めて自己顕示欲の強い人格になるであろうことは想像に難くない。いわゆる「構ってちゃん」である。  

 また、うわべだけの親子関係は、潔癖症の子どもを育ててしまうであろう。  

 もし子どもが親に虐待されて育つと、情緒不安定で心に余裕のない人間に育ってしまうことも容易に想像できるであろう。普通の子どもは、親が少しまずいことをしながら子どもを育てると、親を反面教師にして育つのであろうが、虐待されて育った子にはそう言った精神的余裕はなく、親が自分にしたように、自分も子どもができると虐待に走りやすい。虐待されて育ったひとの実に30パーセントはそのような「虐待の世代間伝播」に陥ると報告されている。  

 他にも、溺愛されて過保護で育った人間には自己愛の強いギリシャ神話に出てくるナルキッソスのような「ナルシスト」が育ってしまう。  

 また、幼い頃や成人してから心理的に強いショックを経験するとそれがトラウマ(心の傷)となって恐怖症や強迫性障害に罹患するひとになっていく。  

 そもそも人間が育つ過程で、以前にも述べたようにサメロフとチャンドラーの提唱している「気質と養育環境の相乗的相互作用モデル」で述べられているように、人間の性格と言うものは、気質の主体である子どもとそれを取り巻く社会との相互作用によって形成されていく。  

 気質と言うのは他の人格特性よりもはるかに遺伝寄与率が高い、つまり遺伝によるところが大きい人間の性格の種のようなものである。  

 行動遺伝学を研究しているクローニンジャーは、刺激探求、罰回避、報酬依存、持続性の4つの人格特性は遺伝からくる気質であり、自己志向、協調性、自己超越の3つのそれは環境によって規定される力が強いと考え、TCI性格検査と言う心理査定のツールを開発している。  

 たとえば気難しい赤ちゃんを母親が授かったとする。気質は頑健でそう簡単には変容しないので、母親は子育てに神経質になるだろう。母親が神経質に振る舞えば振る舞うほど赤ちゃんの気難しさは増幅されていくであろう。無論、乗ったりそったりの人間関係を多く体験してきたひとも気難しくはなるであろうが、それは気質のレベルの話ではない。  

 この節ではさまざまな人間の人格とその環境としての発生母地について考えてみた。

講座 心理学概論 11 人格心理学 7 人格査定

 特性論の節で人格の査定を行う時に用いられる主な質問紙についてはすでに触れたので、ここでは残る人格査定(アセスメント)の方法である投影法と作業検査法について概観する。  

 投影法と言うのは、何らかの曖昧な刺激や問題場面を見て、それを被験者がどう解釈するかと言うことにそのひとの人格が現れると言う考えに基づいた心理査定の方法で、それゆえ投影法と言われている。  

 作業検査法とは、何らかの心理的作業をさせることで作業成績の時系列的変化を見ることによってそのひとの人格を推定するタイプの心理検査である。  

 まずは投影法の心理検査から概観してみたい。

 心理査定に投影法を導入した最初の研究者はロールシャッハである。彼は2つ折りの紙の一方にインクを垂らして模様を付け、それを2つ折りの両者に染み込ませることで左右対称の図版を10枚作った。ただ黒インクを垂らしただけのものからいくつかの色のインクを垂らしたものまである。  

 ロールシャッハ自身、この図版を発表するに当たって彼の考えを述べた書籍を出版しているが、彼は図版を公表してからわずか1年としないうちに夭逝してしまった。したがって彼自身の書物には書いていないところをさまざまな心理学者が補完しようと様々な見解が現れた。ベック法、クロッパー法、ヘルツ法、ピオトロフスキー法、ラバポート・シェイファー法と言ったいわゆる「5大系」が成立し、我が国では「片口法」が普及したが、最近では結果のコンピューター処理も可能な「エクスナー法」がアメリカ・日本でも急速に勢力を伸ばし続けている。なお、この検査で見られるのは個人の知覚や感情の特徴と傾向である。  

 ロールシャッハ法とは異なり、ある程度具体的な場面を提示して反応を見る投影法の検査として、TATとP-Fスタディがある。TATもP-Fスタディも具体的なひとが場面的に描写されている図を見て、TATならその図の表しているストーリーを被験者に考えてもらい、P-Fスタディでは図中の2名の人物のやりとりの空欄になった1名の吹き出しの内容を答えてもらう。前者はロールシャッハテストと同じような内容を測定しようとするもので、後者は個人の「責めのスタイル」を明らかにできる。  

 この他にも有名な投影法として精神鑑定によく用いられる文章完成法(SCT)やコッホの考案したバウムテスト、バックの考案したHTPなどがある。  

 では、作業検査法にはどのような心理テストがあるのであろうか。  代表的なものは、クレペリン検査、ベンダー・ゲシュタルト検査、ベントン視覚記銘力検査、ブルドン抹消検査である。  

 クレペリン検査は一度は受けられた読者も多いであろう。ひたすら隣り合う数字の和を出し、一桁目の数字を書いてゆく検査である。  

 ベンダー・ゲシュタルト検査は同じパターンの図形をいくつも描いてゆく検査である。  

 ベントン視覚記銘力検査は、10枚のカードを提示され、それを思い出すタイプの心理テストである。  

 ブルドン抹消検査は、最初に示された図形と同じカテゴリーに属する図形を次々と抹消していく検査である。  

 クレペリン検査やベンダー・ゲシュタルト検査、ブルドン抹消検査は集中力や持続性を測定することを目的としているが、ベンダー・ゲシュタルト検査やベントン視覚記銘力検査は記憶力を見るためのテストで認知症などの検出に用いられる。  

 クレペリン検査は先述のように、さまざまな学校教育や就職の際の「仕事ぶり」を予測するための適性検査に用いられることが多く、一部知能検査の要素も併せ持っている。  

 その他の作業検査法の諸テストは、心理臨床の場面で用いられることが多い。  

 いずれにせよ、検査の濫用と慢心にだけは陥ってはいけない。

講座 心理学概論 11 人格心理学 6 自己概念

 読者の皆さんは、「自分と言うものはこういうものである」と言う認識を恐らくお持ちではなかろうか。  

 この、自分とはどう言うものかについての認識のことを人格心理学では「自己概念」と呼んでいる。  

 しかし、人格心理学において「自己概念」と言うものはなかなか定義のできない問題であるとエプスタインは指摘している。  

 人間は、どのような自己概念を持っているかによって、さまざまな思考や行動のパターンを規定されている面がある。たとえば自分がシャイだと感じているひとは人前で自分をさらけ出すこと(自己開示・自己提示)に抵抗を感じるであろうし、クラスの人気者と言う自他ともに認める認識を持っている子どもは他人とのかかわりに積極的なアプローチを見せるだろう。

 このように、自己概念にかかわる自己にかんする情報を探し求める過程のことを心理学では「バイアスドスキャニング(biased scanning)」と呼んでいる。 

 そもそも「自己概念」と言う考え方が心理学に出現したのはウィリアム・ジェームズが、「自己」と言うものには3種類あり、それぞれ「物質的自己」、「社会的自己」、「精神的自己」であると言ったことから人格心理学の重要なテーマとして取り上げられるようになったと言う経緯がある。  

 では、どのようにしたらひとの「自己概念」を我々は知り得るのであろうか。

 初期の試みとして有名なのは、ブゲンタルとゼーレンが1950年に発表した「W-A-Y技法(Who are you技法)」であり、この方法では「あなたは何者ですか」と被験者に問いかけ、3つまで答えさせると言うものであった。しかし、この方法で自己のどの側面や個人にとっての重要な自己の特質を把握することは難しく、その限界が指摘されていた。  

 「自己概念」を見る有力な方法として今日でも用いられている方法は2つある。  

 ひとつは、ロジャーズが考案した「Q分類法」と言う方法で、性格語の書いてある54枚のカードを自分にとって重要だと思う順に並べていく、と言う方法である。  

 そしてもうひとつは、ケリーが考案した「レップテスト」であり、この方法では自己概念を個人的構成概念と捉え、様々な自分についての構成概念を組み立ててゆくことが求められる。  

 自己概念と言うものは、自然や人間とのかかわりの中で形成されてゆく。たとえば、家族などで「この子は面白い」と見られると、その内面化が進み、その子の自己概念になるわけである。  

 一般に、自己概念と言うのは個人の中で比較的継続して認識される自分についてのイメージであり、一時的な状態、たとえば「疲れている」とか「酔っている」などの個人の経験は含まれない。  

 自己概念と自我関与(感情的巻き込まれ)には密接な概念定義上の関係がある。ひとは一般に自己と考えているものには感情が生起しやすく、したがって自己概念と言うものは自我関与していることだと考えることもできる。人格心理学のパイオニアであるオールポートは「自我関与していないことによって実験が試行的になることは驚くには値しないこと」だと述べている。  

 たとえば、学校で試験を受けることよりも、ギャグやジョークを飛ばすことに自我関与している子どもは、試験よりジョークを飛ばすことに生きがいを感じることであろう。このように自己概念と自我関与には密接な関係がある。  

 先に出てきたエプスタインは、自己概念は科学哲学で言う理論と同じ働きをすると指摘している。そして、自己概念と言うものの正体は「自己理論」と言うべきものであって、科学哲学で理論が良い理論である条件と同じように、自己理論もそのような条件があると言う。それらは、外拡的か、節約的か、経験的に妥当か、内的に一貫しているか、検証可能か、有用かと言う6つの属性で、それらによって「自己理論」は評価されうる、と主張した。  

 もし自己概念と他人が自分に対して持っているイメージがかけ離れていると、「空気が読めない」とか対人関係における不適応に陥りやすい。  

 タジフェルとターナーは、自己概念について「社会的アイデンティティ理論」を提唱し、自分が属している社会によってひとが自己定義すると主張し、ひとたび自己定義された社会には「内集団びいき」をする傾向を人間は示す、と指摘している。  

 いずれにせよ、主観的な自己概念と社会が自分に感じている印象を常に意識しながら行動することが適応的な社会生活には不可欠であることは間違いのない事実であろう。

講座 心理学概論 11 人格心理学 5 特性論

 類型論はひとをタイプに分けることで思考の節約になるのではあるが、あまりにも杓子定規なため、ひとの心の皺襞までは何も語らない。  

 そこでひとをタイプ分けするのではなくて、ひとのさまざまな側面(特性)の強弱をそれぞれ測定することによってひとの人格を理解しようとする「特性論」と言う考え方が人格心理学では現れた。  

 特性論の始まりまで遡ると、オールポートとオーベルトが「人間理解のための枠組みはさまざまな人格表現語を調べることによって得られる」とする「基本辞書仮説」と言う仮説を立て、性格表現語のピックアップすることにその起源を求められる。  

 この考えを医療現場における人格診断に用いるために、アイゼンクはモーズレイ病院と言う医療機関において2つの基本的な人格特性すなわち「内向-外向」、「神経症的傾向」を測定する「モーズレイ人格検査」と言う心理検査を開発した。  

 この心理検査が成果を上げ出すと、さまざまな人格理論家がさまざまな人格検査を考案し、世間に流布することとなった。  

 代表的なものを挙げると、ハサウェイとマッキンレイがミネソタ大学で作成した550項目の質問からなる「ミネソタ多面人格目録(MMPI)」やゴーフの考案した480項目からなる「カリフォルニア人格検査(CPI)」、キャッテルが人間の16の特性を測定するために作成された「16PF」、ギルフォードが考案し我が国仕様に作られた120項目からなる「矢田部ギルフォード性格検査(Y-G性格検査)」、バーンの交流分析と言う人格診断を基本とした「エゴグラム」などがある。  

 人格を診断するのに我が国で最もよく用いられるのは「モーズレイ人格検査」と「矢田部ギルフォード性格検査」である。用いられる理由は、質問項目が少ないにもかかわらず得られる人格情報が多いためである。  

 次に我が国で特に医療現場でよく用いられる人格検査として「ミネソタ多面人格目録」が挙げられる。質問項目が多いので実施には時間がかかるが、かなり細かな人格情報が得られるので臨床では活躍している。回答者が意図的作為的に偽った回答をしているかどうかを見る「虚偽尺度(ライ・スケール)」もあるので、質問項目への回答の信頼性が担保できるわけである。  

 近年、人格特性を5つに集約する「特性5因子論」と言う考え方をテュープス、クリスタルとノーマンらが提起し、またたく間に全世界に広がった。それらを測定するための人格検査である「NEO-PI-R」も我が国では普及している。5因子とは、「外向-内向」、「神経症的傾向」、「経験への開放性」、「協調性」、「誠実性」の5つのことで、これらは「ビッグ・ファイブ」と呼ばれている。  

 人格特性の中で就中「不安」に焦点を当てた心理テストも多く開発されている。よく用いられるものに「ハミルトン不安評定尺度(HARS)」、「臨床不安尺度(CAS)」、「状態-特性不安目録(STAI)」があり、その中でもSTAIは最もよく用いられる。  

 STAIは2種類の不安を測定できる。「自尊心(セルフ・エスティーム)」のところで、人格特性としての「特性自尊心」と状況によって変動する「状態自尊心」に分けられると述べたが、それと同じで「特性不安」と「状態不安」の両者を測定できるのである。  

 最後になるが、最近では「野心家ほど心臓冠状動脈疾患にかかりやすい」とか「感情を抑えるほどがんにかかりやすい」と言った知見が報告されており、そのためのチェックリストも作られてる。前者を「タイプA人格」、後者を「タイプC人格」と言う。最初に「タイプA人格」を見出したのはフリードマンで、「タイプC人格」を見出したのはテモショックであった。  

 特性論に基づく人格検査の中には臨床的価値の大きいものも多く、盛んに活用されている。

講座 心理学概論 11 人格心理学 4 類型論

 皆さんは血液型と性格の関係について信じているだろうか。心理学的にここまでは言える、と言う科学的知見としては、血液型と免疫力には関係がある、と言うところまでである。  

 このように、血液型と言う基準で人間をあるタイプだと考え、タイプそれぞれには特徴がある、と言う考えのことを「類型論(タイポロジー)」と言い、その原型を考案した4人の心理学者がいる。それはクレッチマーとシェルドン、ユング、そしてシュプランガーである。  

 そこでこの節ではこれら4人の「類型論」について紹介したいと思う。  

 クレッチマーは彼の著作「体格と性格」で彼の精神医学的な膨大な症例から体格と性格には関係があり、人間を体形で3類型に分けられることを明らかにした。  

 ひとつは「細長型(痩せ型)」で、これらのひとの性格には静かで真面目で控え目な「分裂気質」が多いと言い、次に「肥満型」の人間は社交的で温厚かつ親切だが気分に波がある「循環気質(躁うつ気質)」が多く、筋肉隆々の「闘士型」のひとは頑固だが几帳面でありものごとに熱中して興奮しやすいひとが多いと報告している。  

 ただ、最近の研究では必ずしもそうは言えないと言うことを心理学者たちは報告するようになった。  

 シェルドンもクレッチマーと似た考えを表明している。  

 彼の着眼はなかなか面白いものであった。人間は胎生期に内胚葉(消化器発達型)、中胚葉(筋骨発達型)、外肺葉(神経発達型)の3つの要素を持っているのだが、そのどれが優勢であるかによって性格は決まると考えた。内胚葉型の人間は姿勢と動作がゆったりしていて鈍重であり、肉体的な享楽と儀式的な行動を好み、外向的で人当たりが良いとされている。中胚葉型の人間は姿勢と動作がきりっとしていて機敏であり、リスクのある冒険的な行動を好み、チャンスを掴み取るために攻撃性を見せることもあると言う。外肺葉型の人間は姿勢と動作がぎこちなくて固く社会的活動に対して消極的で感情表現に乏しく、対人恐怖症(社会不安障害)の傾向が見られることがあると言う。  

 以上の2者は体形と言う身体的特徴から人間を類型化しているが、心理的傾向そのものから人間を類型化して考える心理学者もいる。その代表格がユングとシュプランガーである。  

 ユングはフロイトの言うところの盲目的な衝動としてのリビドーがひとによって外に向かうひと(外向型)と内に向かうひと(内向型)の2種類に大別できると考え、それに基本的な精神機能である思考・感情・感覚・直感のどれが優勢かから人間を8つのタイプに分ける類型論を展開した。  

 それに対しシュプランガーは何に心理的にそのひとの心のありようを重視しているかによって、理論型、経済型、審美型、権力型、宗教型、社会型の6つの類型にひとを分けることができると考えた。  

 いま世間で根強い人気のある「血液型性格診断」には科学的根拠はないが、なぜそう言う考えがひとびとを捉えて離さないかと言えば、それは「人間の理解のしやすさ」の一点に尽きるのではないだろうか。それを考え出させた元のところには、上記4人の精神医学者や心理学者の発想があるわけでである。  

 ただ、これらの考えはかなり大雑把な人間の把握であり、現実には体形や心理の特徴がこうだからと言って直ちに「このひとはこういう性格です」と考えると、実際の人間とかけ離れた人格理解をしてしまうリスクが相当程度あり、あまり軽率に割り切らない方が賢明である。  

 この他には、臨床でよく用いられる投影法(心理テストに現れた反応の特徴はそのひとの性格の表れだと考える人間理解の方法論)の性格検査としてローゼンツヴァイクの「P-Fスタディ」と言うものがあり、それにおいては人間を内罰型(何でも自分のせいだと考えるタイプ)、外罰型(何でも環境のせいにするタイプ)、無罰型(なにも責めないタイプ)の3つの類型に分けて理解すると言う方法が使われている。読者の方にはお気づきの方も多いとは思うが、これは先の章で述べた「帰属」の個人的スタイルをみると言う発想があるのである。  

 人間を理解しようとする試みは、ギリシアのヒポクラテス以来、様々な人間が様々な考え方を提示してきたが、それは裏を返せば現実の我々の生活における人間理解と言うものがいかに難しくて、リスクを伴うものであるかと言うことを物語っている。  

 それゆえ人間を少しでも分かりやすくするために心理学においては人格把握の第1歩を「人間の類型的理解」に求めたのは自然なことであったのであろう。

講座 心理学概論 11 人格心理学 3 人格の形成因

 ひとはどのようにその性格なり個性なりを形成するのであろうか。  

 筆者実を言うと、人格心理学における「氏(nature)か育ち(nurture)か」論争にかんしてちょっとした一家言を持っている。  

 皮肉なことに、行動主義心理学が極端な経験論の立場を補強するために存在したように、動物実験を通してそれを実証しようとしたが、筆者野生のドブネズミの気性がとても荒いのに対して、実験用に飼育されたアルビノラットはみなすべからく気性が非常に穏やかなことにすでにその答えはあるではないか、と思うのである。  

 一方で、3匹ネコが産まれると、1匹はとても社交的で、もう1匹は臆病で、その他の1匹はそれらの中間的性格を有するというお話をみなさんは聞いたことがないであろうか。  

 そんなことから、哺乳類も高等になるに従って気質の遺伝規定性は強まるように思われるが、そのことに確かな保証はないように感じている。人間におけるコホート(時代群比較)研究や産まれ順の気質研究、また境遇と処遇の環境のかなり産まれてから早い段階からの研究に俟つ以外はないと考えられる。  

 フロイトは、子ども時代に盲目的な欲求・衝動としての「イド」が親のしつけなどの親とのかかわりの中で内面化された親の規範である「超自我」と人格的な折り合いをつけるために「自我」が発達すると考えた。  

 ミードは役割理論の立場から、子どもは母親と言う「重要な他者」とのかかわりの中で人格は規定されていくと考えた。これに類似した理論としてサービンの「認識生成論」があり、フロイト理論とミードの役割取得理論を取り入れたユニークな理論になっている。  

 オーズベルはその「衛星理論」で、子どもは親の「衛星(サテライト)」として存在することによって人格が形成されると考えた。  

 ボウルヴィは子どもの性格形成には母親との「愛着(アタッチメント)」が重要で、これが2~3歳の間に剥奪される(マターナル・デプライベーションされる)と後の性格形成に好ましくない結果をもたらすと言った。  

 一体、人間の性格形成とはどのようなプロセスで進むのであろうか。  

 行動遺伝学の創始者であるプロミンは、性格の持つ遺伝寄与率は30~50パーセントであることを報告している。つまり、親に顔立ちが似るように、人格もある程度は親から引き継いだものであると言えよう。  

 筆者が考えられる人格の環境的影響因として、人間関係とライフイベントの大きく分ければ2つのファクターが絡み合うことが考えられる。  

 先ごろ「東日本大震災」と言う甚大な被害の出た巨大地震があった。その中で心理的外傷性ストレス障害(PTSD)に罹患したひとは少なくない。  

 そこまでいかなくても、ポジティヴな意味でもネガティヴな意味でも褒められたり罰せられたりなどして徐々に人格が形成されていくことは誰の想像にも難くはないであろう。  

 特に先述した人格理論家たちが言っている子ども時代の人間関係とライフイベントは人格形成にとって大きな役割を果たす。  

 子ども時代の愛情飢餓や過保護がもたらす心理的問題は多い。愛情飢餓に陥った子どもは「構ってちゃん」とか潔癖症になりやすいし、過保護は権威主義的パーソナリティとか王様気取りに子どもの心を向かわしめる。親は「つかず離れず」の関係で子どもを育てることが重要だと言えよう。  

 ところで、あるアメリカの研究者は、性格の規定因をすべて考えてみたところ、「出生地」とか「名前」などを含む100以上の項目があると述べている。何が子どもの間で問題にされ、どう扱われるかによって子どもの性格が規定すると言う事実は確かに否定できない。  

 しかし、子どもにとって親と言うものが一番大事だと言うことは間違いのない事実であろう。親は子供にとっての社会や文化のエージェント(媒介者)として子どもの社会化を促進する。親が子どもを受容的に接するのと拒否的に接するのでは子どもの心の安定を大きく左右してしまう。  

 それだけではない。親の不仲は子どもの心に暗い影を落とす。親が不仲な子どもには夜尿症が多いと言う報告もあるほどである。  

 現代の閉鎖核家族においては、社会的スキル(技能)が子どもに学習されず、学校におけるいじめの格好の標的にされやすい。  

 子どもに対する親の社会病理もさまざまある。依存症を抱える親や虐待を繰り返す親(いわゆる「モンスターペアレント」)も少なくなく、加えてDVによってPTSDを発症する子どもも決して少なくない。  

 恐らくその根底には社会に蔓延するストレスがあるのであろう。ストレスを上手に発散できる方法を身に付けることや社会的スキルを社会や文化のエージェントが子どもにもたらすことが非常に現代では重要な心理学的問題だと言えよう。

講座 心理学概論 11 人格心理学 2 知能とは何か

 筆者もそうであるが、たとえば筆者の場合のように他人様が「最新科学の賜物」を作ったと言う話を聴いたりすると、自分には百姓の血が流れているはずなのに実際には百姓に失敗して、自分は身の丈が原始人なんだなぁ、とつくづく思い知らされたりする。  

 「最新科学の賜物」を考え出すひとびとの頭と言うものを筆者のような低能人間では理解できないが、心理学者と言うのはよほど優秀なひとたちなのか、それを「知能」と言う概念で20世紀初頭から考え始めた。  

 筆者には「頭の良さ」と言うものは全く分からないが、心理学者たちが「知能」と言うものをどう考えているのかを平身低頭でこの節では紹介することにする。  

 1905年にフランスのビネーと言う心理学者とシモンと言う医学生は、フランス文部当局からの要請を受け世界で最初の知能検査を開発した。この知能検査で測定される項目は、感覚的な能力ではなく、判断力や推理力、記憶力と言う一口で言うと思考能力を思い切って測定できる内容となった。

 聡明な読者の方ならお気づきかとは思うが、これは現代の学校教育で涵養すべきとされている能力にとても似ている。実際、学力と知能検査で測定された知能の間には相関が見られる。心理学では、知能の割に成績の良い子は「オーバー・アチーバー」と呼ばれ、知能の割には成績の低い子どものことを「アンダー・アチーバー」と呼ばれる。  

 しかし、人間の思考と言うモジュールが知能と呼ぶべきものではなく、人間の適応能力のことを知能と言うのだ、と言うゲシュタルト心理学的な発想で知能を考えようとする者も現れた。そうなると、話は大きくなり結果的に適応に成功した者ほど知能が高く、失敗した者ほど知能は低いと言う話になる。  

 知能知能と言っているが、知能研究が知能検査の発達から展開した経緯があるので、ここで言う知能と言うのは操作的定義、つまりどのように測定するかから概念を定義すると言う考えの上に立って、「知能とは知能検査で測定されたものである」と定義しておこう。  

 さて、知能と言うのはどんな項目であっても卒なくこなせるような汎用的な能力なのであろうか、それとも項目ごとに発揮される能力の異なる特殊的なものなのであろうか。  

 スピアマンは、統計の節で述べた因子分析と言う方法を世界で初めて用いて知能の解析をしたところ、汎用能力としての「g因子(一般因子)」を抽出した。これはたびたび知能が研究されるたびに見出される頑健な因子であることから、一定の妥当性があると考えざるを得ない。  

 しかし、サーストンと言う心理学者はこの考えに賛成せず、同じく因子分析を用いて解析を行ったところ、7つの「s因子(特殊因子)」を抽出した。それらは列挙すると、「ことばの流暢さ」、「言語理解」、「空間」、「数」、「記憶」、「推理」、「知覚速度」であった。  

 1912年にシュテルンと言う心理学者は、平均的な子どもの年齢における知能を「生活年齢」、個々の子どもの知能を「精神年齢」とし、「精神年齢」を「生活年齢」で除して100を掛けた「知能指数」と言う考え方を提唱した。この考えはアメリカのターマンが作成した「スタンフォード=ビネー式知能検査」において初めて実現した。

 その後の知能研究は、ウェクスラーの知能検査における「言語性知能」と「動作性知能」と言う考えでの彼の知能検査の開発、スタンバーグの鼎立理論やガードナーの多重知能のように芸術の才覚までを知能と考える理論などの出現をみた。  

 また、「生涯発達心理学」の発展に伴って、キャッテルとホーンは「流動性知能(学習能力)」と「結晶性知能(適用能力)」と言う知能の新しい見解を提出し、前者に比べて後者は加齢の影響を受けにくいことを実証した。  

 また、一般にどのような知能検査でも個人内知能指数の生涯における変動が20~30ほどあるようである。これは測定誤差などではなく、実質的な変動である。  

 しかし、知能と言う単一の物差しで人間を見る心のさもしさは持ちたくないものである。

講座 心理学概論 11 人格心理学 1 人格の安定性

 「人格心理学」と言う言葉を聞いて「おや」と思うひともいるかと思う。要するに「パーソナリティの心理学」と言う意味であり、筆者が学生の頃はこの名称で主に研究されていた。この節ではいわゆる「知能」も含めた広い意味での「人格」を問題にする。  

 さて、「人格」と言うと「人格者」のような言葉に現れているように、「人間の出来」を表すと受け取る読者も多いことであろう。  

 しかし、「人格心理学」で言う「人格」とは「性格」の概念と大して異同はない。ニュアンスがわずかに違うが、それは人間の構造的側面を想定しているか否かの問題である。  

 しかし、近年この「人格」と言うものが果たして安定したものなのかそうでないのかについてミシェルと言う心理学者が「ひとー状況論争」と言う問題を提起し、「果たして人格と言うものは実在するのか」と言ったような極端な話になっていることもある。 

 ミシェルがこの論争で「ひとは状況の影響が強い」と主張したのには、彼女が研究した結果、「人格」と言う概念でどれだけの人間の行動が予測できるかについて、人格と行動の間には0.30程度の相関しか見出されず、従って「人格」と言うものは予測的妥当性を持たず、構成概念としても問題があると考えているようである。  

 彼女の「人格」の予測因は、いわゆる「人格検査」であった。  

 我々の常識からすると、ひとの性格と言うものは確かに実在するように思われる。なのになぜ彼女が常識とは正反対の考え方を主張しているのかと言えば、彼女が根拠にしている「人格検査」と行動の予測に弱い関係しか見いだされなかったからである。  

 しかし、筆者の見解では、「人格検査」を同一人物に繰り返し行っても同じような結果が得られるとか、少なくとも「人格の継時的安定性」に疑いの余地はなく、その目的を「行動の予測」に強引に持って行くのは少し論理的に無理があるように思う。と言うのは、人格検査で分かるのはそのひとの内面性であって外面性である行動であるわけではないし、そこで測定されているものは行動そのものと言うよりも行動の中に見出されるように思われるからである。それと、「人格」と言うものを我々は日常ではTPOも考えながら「あのひとらしいよね」とかの話になることは多い。それは延いていえば、「人間の人格は人格検査で捉えきれるものではない」ことを意味しており、極めてデリケートな問題の部分も多いように思う。また、その多くは質問紙と言う問いに答える形式が採られており、それで人格が的確に把握できるのかと言う問題もある。  

 「人格」と言うことは「個性」の問題であるとも考えられる。ひとに「個性」を見出すのは「人間」であって「人格検査」ではない。人間には「個性」の強いひともいれば、あまり目立たないひともいる。  

 豊嶋が考えた「生活空間構造」と言う考え方をする場面によって対応する人格(心のシフト)が違ってくると言う考えが存在するが、筆者はどうしたとしてもそのような人間理解が正しいとは思わない。なお、この考え方はミシェルの問題提起をあたかも予想して考案されたもののように思われる。  

 「人格心理学」と言う分野が発展したその礎には、オールポートと言う心理学者の存在がある。彼はハーバード大学でこのような分野のことを研究していたが、何せパイオニアであるためたびたび孤立感に襲われていたようである。そのようなとき、彼の指導教官であったラングフェルドに慰められ、勇気づけられて彼の才能は開花した。  

 この分野の発展が進んだ一番大きなファクターは、精神医学でひとのこころの異常を検出するツールの必要性が認識され始めたところによるところも大きい。要するに、「心理検査」の必要性が認識されるようになったと言うことである。その意味では、理論よりもスクリーニングの必要性が人格心理学発展の原動力にもなっていると言える。この章で含めて考える「知能」にかんしてもそれが言える。  

 「人格」については様々な定義がある。しかし、それらを渉猟して見てみると「持続的かつ一貫的な人間の個性」と言う考え方に集約できるように思われる。  

 この節の後の方で詳しく触れるが、「人格」の理論には大きな2つの考え方が存在する。1つは「類型論(人間はいくつかのタイプに分類できると言う考え方)」であり、1つは「特性論(さまざまな人間の心理的側面についてそれぞれその強弱から考えて行こうとする考え方)」である。  

 しかし、実際のところはことほど左様に単純に割り切れるものではない。たとえば「人格とはさまざまな構成概念の統合されたフィギュアである」と考えたケリーとか、ミードのように「役割」から人格を考える心理学者まで様々な人格心理学の理論家が存在し、「類型論」とか「特性論」とかに収まり切れない人格理論も少なくない。