森羅万象の動物的認識および意識の正体

 
 19世紀の生理学は即物的過ぎた。

 17世紀、ライプニッツは「モナド論」により物質と精神の関係についての考察である「モナド」と言う中間項を立てることにより、精神と物質の統一を唱えた。

 「モナド」の実在性を巡っては現在でもさまざまな議論がある。

 だが、この「モナド論」は解釈を変えることで、我々の生活を激変させる可能性を秘めている。

 どう言うことかを説明しよう。

 我々の知覚や認識、意識、対象などを説明するのに「モナド」ではなく「イオン性状分布」によっていると考えると、ライプニッツのモナド論を現代的に修正することができる。この「イオン性状分布」自体は物ではなくて、単なる「状態」である。

 逆の言い方をすれば、我々が認識しているすべてのものは、イオン性状の受容に負い、認識の発送も同断のメカニズムによって行われている、と考えられるのである。かかる「イオン性状分布」は、電気ないし磁力を用いて検出できるらしきことも分かってきた。もし我々が狙い通りにイオン制御できるのなら、そこには大きな可能性はある。

 この知見は、我々の生活を安楽なものに変え、盲聾唖者にとって福音となるであろうが、悪しき精神によれば、人類を弄び、破滅させる原因にさえなり得る、と言うことは良心のある人間には容易に分かることであろう。

 かつてアインシュタインが物質に対して定式化したことが原水爆を産み出してしまった「学者を扮した犯罪者」に転落した苦い経験に鑑み、「科学者」そして一般の人間に強い警告を与え、知恵になり得る認識は慎重に検討する必要が必須であることに注意喚起し、この新しい「モナド論」を提起する次第である。

 意識現象も含めて、「森羅万象はイオン的である」と揚言することでこの拙文を締め括りたい。「認識はイオン分布の写りである」。

精神疾患全般について(AI支援あり)

 精神疾患とは、感情・思考・行動・対人関係などに著しい障害をもたらす脳の機能的な不調であり、うつ病や不安障害、統合失調症、PTSDなど多岐にわたる症状を含みます。これらの疾患に共通して見られるのが「恐怖」という感情との深い関係です。恐怖は本来、生存に必要な危険回避のための感情ですが、精神疾患においてはこの恐怖が過剰に、あるいは不適切に働くことで、日常生活に支障をきたすようになります。

 脳内で恐怖の感情を司る中心的な部位が「扁桃体(へんとうたい)」です。扁桃体は外界の刺激を危険かどうか判断し、必要に応じて身体を緊張状態に導きます。この過程において重要な役割を果たすのが、ノルアドレナリンという神経伝達物質です。最近の研究では、扁桃体に存在するノルアドレナリン受容体が過剰に活性化されると、恐怖反応(正確には恐怖の記憶的定着)が過敏になり、精神疾患の発症や持続に関与する可能性が示唆されています。たとえば、PTSDでは些細な刺激にも過剰な恐怖反応が生じ、過去のトラウマが繰り返し再体験されることがあります。

 このような知見は、精神疾患の治療に新たな可能性をもたらしています。従来の治療法は、抗うつ薬や抗不安薬などによる神経伝達物質の調整が中心でしたが、扁桃体のノルアドレナリン受容体の活性を直接的に制御する薬剤の開発や、脳の特定部位に焦点を当てた神経調節技術(例:TMS=経頭蓋磁気刺激法)などが注目されています。また、認知行動療法などの心理療法も、恐怖の認知的な枠組みを再構築することで、扁桃体の過剰反応を鎮める効果があるとされています。

 つまり、精神疾患とは「恐怖」という感情の異常な働きが中心にあり、それを担う脳の扁桃体とノルアドレナリン受容体の関係を理解することで、より根本的な治療への道が開かれつつあるのです。科学的理解の進展は、苦しむ人々にとって希望となるでしょう。

「自閉症」の問題圏

 
 「自閉症」は一般に「対人関係のぎこちなさ」をその主訴とする。

 多くの心理学者は自閉症の原因を「脳の問題」であるが、脳の何が問題であるのかは不明である、と考えている。

 筆者は人間の対人認識と言うものが、他の動物と同様、認知と感情がセットとなってはたらく結果だと見ている。要するに、遺伝的には認知と感情は区別されることなく組み込まれている、と考えている。

 これが何らかの理由で機能不全になった結果が、「自閉症」と言う診断になるのだと思う。したがって、すべての自閉症が遺伝的とは言い切れないかも知れない。

 しかし、もし心理学者の多くが自閉症を「脳の障害」だと言っている前提に立つならば、筆者はその原因解明には、思ったほどの労力をかけずにできてしまうのではないか、と提言させていただきたい。

 もし自閉症が認知機能の問題だとするならば、それは哲学で言う「即自」よりは「対自」認知の問題であろう。だとするならば、その錬成としての「自己概念」の発達に顕著な影を落としているはずである。

 しかし、そこに問題の所在を見つけられなかったとすると、可能性のある認識は、「感情受容(共感性)の障害」一択に絞られてくる。これをみるのには、養育者の感情表出に対する自閉症児の応答性を見ていれば良い。

 しかし、自閉症の症状は多彩なので、個別具体のケースごとに原因を想定しなければならない事態も視野に入れておかねばならない。

 その場合、「環境の欠損(栄養、対人関係の狭さ、そのあり方のゆがみなど)」と言う非遺伝的な要因も含めて、「自己概念」に問題はないか、他者(養育者)の感情受容に問題はないか、と言う3つの視点から自閉症を見て行く必要があるように思われる。

 いずれであるにしても、大勢としてか個別具体としてか、自閉症の原因究明についてのポイントについて述べてみた。

統合失調症の心理的治療

 
 僕は以前書いたように、カウンセラーではない、したがってこの世(在野)に必要ではない心理士である。

 その無価値な心理士として考える「統合失調症の心理的治療」の具体について触れておきたいが、その前にひと言だけ断っておく。

 統合失調症については、心理的治療よりも精神医学的治療、すなわち腹側淡蒼球などの薬物的な代謝異常の是正が優先する。そのドラスティックさにおいては、心理治療よりも薬物治療の方が根本的な治療たりうるからである。

 さて、統合失調症は多くの場合、「意味付けされた幻聴」をその主訴とする。それで僕は統合失調症のことを「囚人症候群(別名アナザーパイロット症候群)」と呼ぶことを提案している。その意味で、統合失調症は「理解不能の病」ではない。

 多くの医師が言うように、統合失調症患者ではこの「意味付けされた幻聴」が「現実」だと認識していることが、「病識の欠落」なのだと問題視しているわけである。

 ならば、統合失調症患者に治療者が手取り足取りして、「それはあなたのおかしなところです」と一々指摘して、「普通はそんな認識は持ちません」と言う明確なメッセージを与え、病識を持たせるところから心理的治療は開始されるべきである。

 そしてその先に進むためには、その症状に意識的に対決・無視させるよう患者を導くことこそが、真の意味での統合失調症の心理的治療になるはずである。

 これは昔からある「ロゴセラピー」と言う手法である。

 果たして、「公認心理師」は、こう言う治療を現実に行っているのであろうか。

親子の情愛と「打たれ弱さ」

 
 エインズワースの「ストレンジ・シチュエーション法」は、発達心理学を学んだ者なら誰でも知っていることだろう。

 今日はその研究がなぜ行き詰まっているのかについてお話したい。

 親子が筆者の場合のように、幼い頃「あれができたから褒美をあげる」と言うような「条件付きの承認」であった場合、筆者がまずそうなのだが、学校に行ってひどいいじめを受けても、「親に話す」と言う発想自体が浮かばない。

 筆者は中学2年生の1年間、ある同級生の奴隷にさせられ、1年間眠りにつく度に布団の中で泣き通したが、ついぞ親に話したことは一度もなかった。

 結論から述べて恐縮ではあるが、筆者のようにスキンシップなどから始まる親の情愛を知らない人間は、その心が打たれ弱く、副交感神経系失調に陥るのである。

 エインズワースの「ストレンジ・シチュエーション法」がその真価を発揮するのは、この人間の「打たれ弱さ」に焦点を当てたときに他ならないことに大方の心理学者は気付いていない。

 「条件付きの承認」と言う言葉を聞いて、心理学を知るものであれば、まず先にロジャースの「来談者中心療法」を思い浮かべるであろう。そこでは「条件付きの承認」が最も忌み嫌われている。

 この「条件付きの承認」をやめて、本当の親子の情愛が成り立っていたならば、子は学校もろもろで味わうネガティヴな経験を親に話すはずである。そして、打たれ弱い子にはならないであろう。

 親の情愛に恵まれなかった子は、ひとの心に気付かせるのに懲罰以外の方法を知らないまま大人になるのである。

 筆者が行動主義を嫌うのは、まずもってこの理由による。そして、「来談者中心療法」の限界が、育まれるべきものが情愛である、と言うところにある。と言うのは、カウンセラーが異性であった場合、そこに情愛が生じることは厳しく戒められているからである。

 心理学で錯綜していてその本質を見定められてはいない大問題について、今日は交通整理をしてお話させて頂いた。

 以上が被験体を僕とした神様の実験のレポートである。

「卵が先か鶏が先か」~精神疾患の本質について~

 
 大方の精神疾患では、「随伴症状」として「不眠」が生ずる。

 このことが意味するところは、大方の精神疾患では副交感神経の失調が生じる、と言うことである。

 したがって、不眠を解消するためには、メラトニン製剤なりレプチン製剤なりオレキシン抑制製剤なりの投与が必要だと言うことになる。

 しかし、それ以上の問題として、果たして「不眠」が本当に「精神疾患の随伴症状」と言えるのか、と言うことを考えてみなくてはいけない。

 もしかしたら、大方の精神疾患の「主症状」が「不眠」で、個々の精神疾患の症状は「不眠」の「随伴症状」なのかも知れない。

 その解明は、そのような問題意識から精神疾患を捉え直すことから始まるのだろう。

 この問題に決着をつけるのは、僕ではなくて読者のみなさんであってほしい。

マズロー理論の読み方

 「マズロー理論」、すなわち「生理」・「安全」・「所属と愛」・「承認と尊敬」・「自己実現」のいわゆる「欲求5段階説」は果たして何のために考えられたのであろうか、と言う疑問に筆者長年思いあぐねていた。

 エビデンスがあってそう言ったのではないとか、あまりにも芸術的だとかの批判も耳を傾けるべきところは多かった。

 もしこれが「人間の心理的成長」にかんする理論だと言われれば、やはり僕の中には強い反発がある。

 しかし、最近気づいたのは、この「マズロー理論」は本来のターゲットが健常者だと考えられてきたのが過ちで、マズローの臨床活動から得られた洞察だと言われれば、ある程度腑に落ちる、と言うことだった。

 そうなのだ。この理論は「成長理論」などではなく、「精神疾病の心理的病因論」だと考えれば良いのである。

 生理的欲求が満たされないならば、人間はただの獣になる。

 安全欲求が満たされないならば、反社会的人格になる。

 所属と愛の欲求が満たされないならば、うつその他や人格障害になる。

 承認と尊敬の欲求が満たされなければ、モンスター人格になる。

 自己実現の欲求が満たされないならば、適応障害になる。

 筆者なりのマズローのリーディングは、かくして精神障害論へと様相を変える。

神経症と自己認識

 神経症(ヒステリー)の最も大きなファクターは、「自分が所定の心理的位置にいない」と言う自己認識と大きくかかわっている。

 したがってその治療原則は、「彼がどの心理的位置にいると感じるとコンフォタブルなのか」を同定するとともに、その心理的位置に再定位させることが基本となる。

 ただ、現実上それが無理な場合は多く、その場合どれだけの「心のコンフォタブル・リスト」が彼にヒットするのかを探ることになる。

 もちろん、「治療場面」に限って「治療」しようとするのには無理がある。制度や人間関係など社会資源を絡めて解決するなり、人生の困難を味わわせて自己認識を変容させるなりのいくつもの選択肢がある。

 ただ、基本は「フィールドワークでの解決」と言うことになる。

ちょっとした洞察

 ふとした直観を申し上げることをお許しいただきたい。

 ヒトの「噛む力」の弱さと認知症には一定の相関関係があるような気がしている。

 また、「肝機能」と頭髪にも関係がある気がしている。

 僕は身の丈がショボい原始人なので、それを確かめるつもりはないが、そんな気がしている。

精神疾患に通底する本質的な問題性

 ひとくちに「精神疾患」と言っても、うつ病、統合失調症、PTSD、パーソナリティ障害、自閉症…と枚挙にいとまがない。

 これらを俯瞰しうる精神疾患の本質についての筆者の見解は、「精神疾患とは、“追い詰められシンドローム”である」というものである。

 そのような認識ができるのだとするならば、精神疾患に通底する大脳生理学的所見もいつか見つけられるのかも知れない。

 つまり、「精神が追い詰められる」と言うゲートウェイのところで何らかの根本的な予防措置が取り得るのではないか、と思うのである。