エインズワースの「ストレンジ・シチュエーション法」は、発達心理学を学んだ者なら誰でも知っていることだろう。
今日はその研究がなぜ行き詰まっているのかについてお話したい。
親子が筆者の場合のように、幼い頃「あれができたから褒美をあげる」と言うような「条件付きの承認」であった場合、筆者がまずそうなのだが、学校に行ってひどいいじめを受けても、「親に話す」と言う発想自体が浮かばない。
筆者は中学2年生の1年間、ある同級生の奴隷にさせられ、1年間眠りにつく度に布団の中で泣き通したが、ついぞ親に話したことは一度もなかった。
結論から述べて恐縮ではあるが、筆者のようにスキンシップなどから始まる親の情愛を知らない人間は、その心が打たれ弱く、副交感神経系失調に陥るのである。
エインズワースの「ストレンジ・シチュエーション法」がその真価を発揮するのは、この人間の「打たれ弱さ」に焦点を当てたときに他ならないことに大方の心理学者は気付いていない。
「条件付きの承認」と言う言葉を聞いて、心理学を知るものであれば、まず先にロジャースの「来談者中心療法」を思い浮かべるであろう。そこでは「条件付きの承認」が最も忌み嫌われている。
この「条件付きの承認」をやめて、本当の親子の情愛が成り立っていたならば、子は学校もろもろで味わうネガティヴな経験を親に話すはずである。そして、打たれ弱い子にはならないであろう。
親の情愛に恵まれなかった子は、ひとの心に気付かせるのに懲罰以外の方法を知らないまま大人になるのである。
筆者が行動主義を嫌うのは、まずもってこの理由による。そして、「来談者中心療法」の限界が、育まれるべきものが情愛である、と言うところにある。と言うのは、カウンセラーが異性であった場合、そこに情愛が生じることは厳しく戒められているからである。
心理学で錯綜していてその本質を見定められてはいない大問題について、今日は交通整理をしてお話させて頂いた。
以上が被験体を僕とした神様の実験のレポートである。