永久機関はいかに簡単か

   ※この知恵は苦節7年目にしてYahoo!公認になりました(「やじろべえ」や「竹とんぼ」のように日本の民間の知恵として作者不詳のままどんどん広げてください/もちろん著作権フリーです/理由はその方が夢があり僕の性分にも合うからです)  以下に示す「とあるU字管」をご覧頂きたい。
   絞りにはゴム等を活用すれば良い。
 ご想像の通り、これが湖とその底から引いた導管の関係であれば、相当な小水力発電ができる(賢明な方はお気づきでしょうが、何も導管からの水が湖面に着水するより遙かに低い位置であってもこれはできる)。
 これまでの皆さんの頭は固すぎだだけなことはご理解いただけようかと思う。
 多くのひとたちがこの手のことに悉く失敗してきた原因は、「○○の原理や○○現象だけで永久機関を作ろうとしてきた」からである。「熱力学法則」など何の関係もない。
 ついでに最初(2015年6月30日早朝)に思い付いた「巡りん」も載せておきます。
 これを家庭で実現するには、以下のようにすれば良い。
 ただし、これを水面近くで実現しようとしても、1.ストローの中に水が完全になく、2.ストローはあまり長くない、の2条件がたまたま揃うと言うように運が良くないとうまくは動作しません。取り敢えず冷やかしでも動作確認をしたいのなら、水深がそこそこあるところでおやりになってください。
 ※なお、これを本当の永久機関にしたければ、キャビネットで囲って蒸発を防ぎ、水の腐敗を抑えるために10%ほどエチルアルコールを入れれば良い。いずれでも、水や気泡でプロペラを回せば、外部に所作を仕事として取り出すことができる。
 我が国の民間の知恵である「やじろべえ」や「竹とんぼ」が作者不詳であるように、「巡りん」もまた作者不詳の「どこかで聞いた知恵」として普及することを心から願う次第である。もし、その「どこで」を問い詰められて困ったときには、「作者がそう希望しているから」とお答えいただきたい。


追伸
うまく行かない方へ
以下のような明確な装置にし、
 
1.あまり空気溜りを大きくしないで
2.適当な水深のところで
3.空気の返し管を細くする
と、うまく行きます。
あきらめないで!!

 ※しかし、僕の課題関心は永久機関を考えることではなく、このようなことを考えることにあります。僕は仮面心理士なので、心理学を学びたい方はこれ(PDFファイル)でもお読みください。僕のホームページはこちら

時給2円の「生活」

 筆者はスマホを持っていて、ポイントを毎日貯めてはいるのだが、労多くして功少なしで、ポイントを時給換算で2円しか貯めることができない。

 もし自分がパラサイトシングルでなかったら、餓死するかホームレスになるかしかない。

 同じことをやっていても、高等教育機関にいるといないでは、王様と奴隷ほどの差ができる。いや、もっとだ。

 嫌な世の中になってしまったものだ。

“Wundt Studies : A Centennial Collection”閲覧サービス開始のお知らせ

 2022年7月1日より、株式会社西昭(愛知県春日井市鳥居松町4-35-1)にて、以下の書籍の閲覧サービスを開始いたします。

 ”Wundt Studies : A Centennial Collection”

 閲覧は株式会社西昭の事務所にて可能で、閲覧料は1日2000円です。

 著作権法および装丁の崩れ防止の観点から複写(コピー)はできません。

 閲覧を希望される方は、以下の僕のメールアドレスまでご一報ください。

 nishipsycho640912@yahoo.co.jp

 在庫があれば、こちらからご購入いただけます。
 
 以上、告知まで。

心理学難民(パラサイトシングル57歳のぐだめき)

 

嘘は書けないので、率直に書きます。

ハッキリ言います。僕のような心理学の学部卒は、100人に1人も心理学を生業にして生きてゆくことはできません。

僕は人生に不器用なので、そのせいでホームレスも何年か体験しました。末尾に載せてある「講座 心理学概論」をご覧いただければそれが良く分かると思います。

僕が社会で感じることは、心理学の学部卒は実社会ではチンカス扱いだと言うことです。この傾向は、特に一般心理学を学んだひとびとの明日に、目を覆うばかりの惨状を生み出しています。なので、「心理学で飯を食う」と言うことは諦めてください。心理学を学ぶことで、蠅にも劣る人間が増えていく、と理解してください。

高等教育機関で心理学を教えている先生方は、心理学が実社会でどう役立つのかなど考えてはいません。つまり、彼らは我々のような市井の心理士の人生に責任なんて持ってはいません。彼らは、実社会では何の効力もない「心理学検定」とか「認定心理士」とかの資格を作ってボロ儲けしています。要するに、彼らや学会は、自分たちの地位と利益にしか関心がないと言うことです。

昨今は「心理学ブーム」で、非常に多くの高等教育機関に心理学部とか心理学科がありますが、この結果、巷には非常に多くの、と言うより大方の心理学部・心理学科卒業生の「心理学難民」が生まれています。

その原因は、高等教育機関の先生方が差別によって選別されてきた人間であり、この差別をますます明確で強固なものにしようと日々励んでいるところにあります。僕のような在野の心理士ではこのような差別を作ることは無理なのです。

よく、「心理学は就職に不利」と言われますが、それは真実です。ハッキリ言うと、それは就職に際して何の役にも立ちません。かなり社会の底辺の仕事にしか就けないと言うことです。事実僕は自分の学歴で唯一就いた仕事はトイレ清掃の仕事だけでした。そこで、我々のような人間の人生の参考になるように、これも僕のブログの記事「ホームレスの方々の生計を立てるには」も載せておきます。

僕は心理学を学んだことを後悔しています。もっと実学を学べば良かった、と。

社会に学部卒一般心理学の受け皿は存在しない。

「講座 心理学概論」

「ホームレスの方々の生計を立てるには」

知恵の形

 

 「知恵」とは何だろうか?

 筆者の考えるところでは、「知恵」とは「アド・ホックにそこにそれを持ってゆくこと(take it to ideal state)」のように思われる。そしてその一番の好例は文法言語であろう。

 そして、この「知恵の形」は、文明がいかに進歩しても、決して進化しないと思っている。

意識と言語の関係

 

 かの有名なカール・マルクスは、「ドイツ・イデオロギー」の中で、「意識と言語は同い年」だと言った。

 しかし、先に筆者が第30回日本乳幼児医学・心理学会大会にて発表した「絆としての意識」で指摘したように、意識の濫觴は「訴求」と「気遣い」のキャッチボールにあるのであって、「言語」にその源を発するわけではない。

 どうしてそんなことが言えるのか、「動物の知恵の柔軟性」と言う観点から考えてみたい。

 人間を特徴付ける「言語」は、確かに人間に膨大な知恵の可能性を与えていることには誰も異論はないであろう。

 しかし、我が家のレンジフードに住み着いたハトさんの微視的な行動をよくよく観察していると、遺伝によって機械的に規定されているならば説明しがたい実に多様で柔軟で細やかな知恵を働かせていることが分かる。

 おそらく多くのひとは、それを「知能」と呼ぶことだろう。

 もちろんハトさんは「言語」によってそれらの知恵を発動しているわけではないことは、誰にでも分かるだろう。

 ゲシュタルト心理学者のケーラーが「チンパンジーの知恵試験」で、チンパンジーのサルタンにいわゆる「洞察学習」ができることを報告しているが、もちろんチンパンジーに「言語」が備わっているわけではない。確かに、チンパンジーに「言語」が学習できることを実証した研究は多いが、それらはそれから数十年後のお話である。

 では、このような動物の「知恵」で肝になっている要素はいったい何であろうか。

 それはおそらく「知覚」であろう。人間はこの「知覚」に名前をつけることができる。それを「言語」と呼んでいるわけであるが、「知覚」はそれに先立つ「一次言語」の役割を担っている、と考えられないであろうか。良く知られているように、「知覚」には「恒常性」とか「プレグナンツの原理」などの不思議な性質があるが、それらが種によって異なるのか同じなのかは定かではない。

 動物に「言語」がなくても「考える」ことができる、つまり「知能」があるのは、おそらくこの「一次言語」のなせる業なのであろう。

 そして、「知能」が「意識活動」の一種であることは誰にも否定しがたい事実であろう。

 それは動物の多くに「意識」がある証左であって、その源に「訴求」と「気遣い」のキャッチボールがあることは先刻述べた通りである。

 マルクスに騙されてはいけない。筆者もそれほどマルクス主義に明るいわけではないが、世間で拾うことができる彼の言説には実に決めつけが多いので警戒しなくてはならない。

 結論として言えるのは、脳幹網様体のはたらきとしての「意識」は「知能」を与え、その「意識」は「言語と同い年」なわけではない、と言うことである。

廣松「物象化」論へのたったひとつの反論

 

哲学を知っている方ならご存知の方も多いかとは思うが、彼の「物象化」論にただひとつだけ反論を加えておく。

彼はひとは世界事象を「もの化」して理解するのは誤りで、「こと」として理解すべきだと主張している。

彼は人間のひとつの誤謬的端的性を、「こと」を「もの」のように理解することに求めている。

しかし、そこには人間的な世界理解が言語的ないし知覚的であること、つまり、「形媒介的」であることへの言及が一切ない。「もの化」とも映る我々の認識世界が、それ以前的に「形態的」かつ「対象的」であるので「もの」的事象理解が常識的になっている事実を忘れている。そしてこの常識は、知覚形式が命名的な言語環境下で顕著になることは、自然なことだと言わざるを得ない。

したがって、この認識論の本当のプロブレマティックは、「ものVSこと」なのではない。現実、「もの的理解」で成功した化学、「こと的理解」で成功した宇宙論など、いわゆるところの学問的理解にはさまざまなものがある。ある意味、それを「もの」と言おうが「こと」と言おうが同値な場合はあまりにもありふれている。日常ではTPOに応じた言い回しをするのが賢明だろう。

「もの」云々より、我々の認識が「形媒介的」なことが背景にあるので、我々が常識上「もの」と言う言葉をよく使うことを分析なり批判なりするのは自由であるが、我々が「もの」と言う言葉に慣れ親しんでいる背景にそう言う事情があること、また、それゆえ不自然に思わないことを考量していないのは、我々に些か「学問バカ」と言う使い古された言葉を思い出させるのを禁じ得ない。

なお、筆者の独断で言わせてもらえば、世界事象を「もの」として理解しようが、「こと」として理解しようが、上述の理由で我々の世界理解の豊穣性に大差は出ないように思われる。