「主観-客観」、「存在」の問題の本質

 
 表題の問題について筆者がよく目にしてきたのは、「それは誰の認識か」とか「どこからものを見るか」の問題だと言う見解である。

 ところが、筆者から見えるそれらの問題の所在は、まったく異なったところにある。

 現実の「主観ー客観」とか「存在」の問題と言うのは、「それには議論の余地があるか」と言う認識の不可抗力性と言うところに問題の所在があるのであり、上記のような問題の立て方そのものがそこから目を逸らしてしまうはたらきをしているのである。

 しかし、それが分かったからと言って、「主観ー客観」、「存在」の問題に適正解を与えているわけではない、と言うことに留意してほしい。

 これは日常よくあることだが、ある主観にとって「議論の余地がない」と思われることが、他のある主観にとって「議論の余地がある」かも知れないからである。それらは、個人的主観レベルでも社会的主観レベルでも文化的主観レベルでも起こりうることである。

 したがって、筆者が何が「主観的」で何が「客観的」で、また、何が「存在」なのかについては何も語っていないことをご理解いただきたい。

 筆者はただ、「主観ー客観」、「存在」の問題の所在が本当はどこにあるのかを指摘したに過ぎない。

 範例を物理学に取ってみよう。

 現在ではニュートン物理学は否定され、アインシュタイン物理学とか量子力学が盛んに展開されている。もっと遡るとアリストテレスの自然学もあった。

 ある文化では、別にわざわざニュートン物理学を否定してアインシュタイン物理学や量子力学をそこに据える必要など実用上はまったくないかも知れない。

 もっと言うと、いまから100年後の「最先端物理学」ではアインシュタイン物理学や量子力学でさえ否定されているかも知れない。

 さらに言うと、お茶の間に暮らす我々には、そんなことはどうでもいいと言う意見がその主観の正直なところかも知れない。

 このように、自然には何が「主観」で何が「客観」で何が「存在」なのかは人類が滅亡しても不明なのかも知れず、一意な解と言うものが本当は存在しえないのかも知れない。

 そのようなわけで、筆者は問題の所在がどこにあるかについては指摘したが、それらの問題に適正解を与えたわけではない、と言うことをご理解いただければそれで満足なのである。

 最後に、「偶然ー必然」問題の本質は、因果性(事象間の規制関係)を認識主観が伴っているか否かの問題であることを指摘して、結びとする。

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