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ギルバート・ライル(Gilbert Ryle)がその著“The Concept of Mind(心の概念)”で「身体」と「心」は概念クラスが別で、いわゆる「心身問題(身体と心の関係についての哲学的見解の問題)」は「カテゴリー・ミステイク(概念の取り違え)」が元で心身二元論(身体と心は別の存在である、と言う哲学説)が提唱されていると言う分析でした。
ではライルはどう考えていたのか?
彼は「状態(state)」を表す概念と傾向(disposition)を表す概念は違うと説く。たとえば「彼は太っている(state)」と言う概念と「彼は賢い(disposition)」と言う概念は、常に観察可能なのかどうかと言う点で認識のカテゴリーが違うと言う。
ライルの言うことの核心は、まぁそう言ったところにある。
本(2021)年1月19日より、新規認定心理士資格取得者のみが心理調査士資格(正式名称:認定心理士(心理調査)資格)を取得可能だったものが、我々のような認定心理士資格のみの既取得者へも心理調査士資格の取得のための受け付けを日本心理学会が開始いたしました。
僕も早速心理調査士資格の申請を行い、4月10日の資格認定委員会にて資格審査を受けることになりました。
詳しくは、日本心理学会の認定心理士(心理調査)資格の案内ページ(こちら)をご覧ください。
3月13日午後1時より、第30回日本乳幼児医学・心理学会大会(Web開催)にて、「絆としての意識~意識の必然性における親子要因と身体防御要因について~」を発表しました。
要旨は以下の通りです。
鳥類・哺乳類には明白に意識があるが、それは養育過程における「訴求(例えば雛がピヨピヨ餌をねだる)と気遣い(親鳥が餌を取ってきて与える)のキャッチボール」の必然的な結果である。
それらの生物の生態学史的ノードノード(個々の結節)において、それが生体防御にとって有効にはたらくために心理学で言う「強化子(意識過程の発達の要因)」として意識と言うものが維持されてきた生物史と言うものに思いを馳せないでいることはできない。
それゆえ、些か端的ではあるが、意識の必然性として親子要因と身体防御要因を指摘した次第である。
大雑把には以上です。
僕はこれを「やじろべえ」や「竹とんぼ」のような作者不詳の我が国の民間伝承にしたいので、僕が着想したことは伏せて普及してください。
※当然のことですが、中央の勾玉(まがたま)状の器は固定台なり固定棒による固定が必要です。また、このままの形状で作っても、空気圧が足りなくて動作しません。動作原理を示したかっただけです。もし現実にこの原理を働かせたければ、以下のようなものを使って家庭で動作確認してみてください。
3極ミニプラグを4極に変換できる商品が世界でもここでしか作られてはいないのでやむを得ず注文しました(ヘッドホン用ならいくらでもありますがマイク用はこれだけです)。深圳を1月17日の発送で、春日井に11日後の1月27日(つい先ほど)届きました。
この製造会社からのメールによると、1月17日午後4時に出荷、それ以降の動きは以下の通り。
LP *** *** *** CN 国際特定記録
状態発生日 (海外発生は現地時間) 配送履歴詳細 取扱局 県名・国名 郵便番号 2021/01/19 15:15 引受 CHINA 2021/01/19 16:30 国際交換局に到着 YIWU A CHINA 2021/01/19 17:35 国際交換局から発送 YIWU D EMS CHINA 2021/01/25 11:23 国際交換局に到着 川崎東郵便局 神奈川県 219-8799 2021/01/25 11:24 通関手続中 川崎東郵便局 神奈川県 219-8799 2021/01/26 01:00 国際交換局から発送川崎東郵便局 神奈川県 219-8799 2021/01/27 07:03 到着 春日井郵便局 愛知県 486-8799 2021/01/27 10:34 お届け済み 春日井郵便局 愛知県 486-8799
いやぁ、国際郵便と言うのは日にちがかかるものなのですねぇ。
筆者が3年ほど前に配信していたメルマガを一挙公開(PDFファイルを読み込める環境が必要です)。
彼がそのミリオンセラー「ノストラダムスの予言」を書いてひとびとを自意識過剰にした事件(その好例はオウム真理教)は記憶に新しいが、そこには「救世主チランの後継はアグリッパ」と書いてあった。
ところが、そのアグリッパと言うのは、ハインリヒ・コルネリウス・アグリッパ(Heinrich Cornelius Agrippa, 1486年9月14日-1535年2月18日)のことを指すと思われる。
ノストラダムスは1503年の生まれなので、アグリッパとほぼ同時代人と言うことになる。
そうなると、「救世主チラン」なる者は、ノストラダムスより遙かに年上の人物と言うことになり、ノストラダムスの書き残したのは、予言集などではなく、回顧録だったと言うことになる。
ノストラダムスも、自分の著著に「諸世紀」と言うタイトルを与えたので、それを予言集と取ったひとびとは彼の言葉に人生を振り回されたことになる。
そもそも、これは筆者の信念であるが、良いことであれ悪いことであれ、人間は自分自身の運命をそれとして生きることそのものに神様の真意があると思っている。なので筆者バイクで転倒して骨折しても「先に教えて欲しかった」などとは微塵も思わず、その信念が揺らいだことはない。
そして、自分がつかむべき本当の知恵は、「先が見えない」と言うご馳走を心の芯が食べることなく出てくることはない、と。自分の信じる神様像(それはひとにより千差万別であろう)からは、それ以外の何も感じない。
↓ 水圧による空気への上昇圧力を用いた勾玉(まがたま)状の「巡りん」(2015年6月30日着想)。
※「巡りん」は固定台なり固定棒による設置が必要です。また、このままの形状で作っても、空気圧が足りなくて動作しません。動作原理を示したかっただけです。もし現実に動作する「巡りん」を体感したければ、以下のようなものを使って家庭で動作確認をすれば良いでしょう(ただし、これを水面近くで実現しようとしても、1.ストローの中に水が完全になく、2.ストローはあまり長くない、の2条件がたまたま揃うと言うように運が良くないとうまくは動作しません。取り敢えず冷やかしでも動作確認をしたいのなら、水深がそこそこあるところでおやりになってください)。
これを着想してみて改めて思ったことは、「成果が出なくても考えることの大切さ」です。実は僕は頭が悪くて、小中高の成績は平均以下でして、「巡りん」を着想するだけで15年呻吟してこの有様です。世間では「桃栗三年柿八年」とか「首振り三年ころ八年」とか申します。なので、「桃栗三年柿八年永久機関十五年」、「首振り三年ころ八年永久機関十五年」と申せましょう。
しかし、こんなことを「熱力学第1・第2法則」を持ち出して否定する狂信的教条主義者しかYahoo!知恵袋にはいないようで、ハッキリ言って彼らはクレイジーです(ちなみに彼らは僕のことを「理論を知らない低知能」だと言っているが、そんなことは言われなくても自覚しとるわ、と言ってやりたい)。見当違いも甚だしく、これらと「熱力学第1・第2法則」のどこが被るのか、きちんと平仄が合うように説明してみろい、と訊きたいです(たとえば、この場合のdUは何でδQは何でδWは何でdU=δQ+δWと言う式は具体的に何の表現なのか等です(言うまでもなく、「熱力学第1・第2法則」の最大の欠陥は、絶対零度をエネルギー収支の原点と考えないところにあります。絶対零度でさえエネルギーがゼロと言うことはあり得ないはずです。なぜなら空間が存在すること自体にエネルギーが必要なはずだからです))。彼らは「道は一つではない」ことを知らないのでしょう。どうか彼らのペテンに騙されないでください。それと同時に、YouTubeなどにアップされている「永久機関」と称する動画は、100%が過去に動作しないことが実証された昔のひとのアイディアで、全部イカサマです。動画の投稿主たちには「なぜ自分で考えないのか?」と疑念を投げかけておきます。永久機関についてのでっち上げられた困難さに対する反論はこちらで見ることができます。
注1)陶器やガラスで作った場合の廃棄の方法‥‥活火山の火口に投棄のこと
注2)僕はこれを「やじろべえ」や「竹とんぼ」のような作者不詳の我が国の民間伝承にしたいので、僕が着想したことは伏せて語り継がれることを望みます(僕は親から頂戴する志だけで暮らしており、基本的に自分の知恵や考えをお金に換えることはしておりません)。筆者人間の本来の暮らしについての自分なりの課題をたくさん抱えております。静かにそれらを考えるためには、こんなところで大げさに騒がれることが一番迷惑です。お心遣いよろしくお願いします。
親から子へ、子から孫へ
誰にでも赤ちゃんだった頃があり、その可愛い相貌からは誰ひとりとしてその子が凶悪な犯罪者になることを想像できないでしょう。
物心がつく3歳齢あたりまで精神が不安定な境遇で育った子どもが「悪いこと」をしがちなことは我々の経験値として確かなことです。
大方の大人はここで「認識ミス」を犯してしまいます。「この子のすることには悪意がある」、と。
現実には、このような子どもの「悪いこと」と言うのは、大人が犯罪者を裁くのと同じ「制裁」なり「ジャスティス」と言う心理から起きているわけです。ここを大人が見落としていることによって、彼らは「理解者喪失感」を強め、「正義は報われない」と言う誤学習(メタ認知)をさせられ、孤独な犯罪者の「素質」を植え付けられてゆくわけです。本来であれば、たとえば「ママのどこが悪かったのかしら?」と問い返すような、大人が「自分のどの行為に対して制裁されているのか」「子どもはどう言うジャスティスを下しているのか」を、正確に把握している必要があるのです。
この「善悪」自体と「性善説・性悪説」自体の発生メカニズムは同じであることにお気づきにならないでしょうか。
それは、人間が窮したとき、強い「竹を割ったような答えを求める症候群(白黒をつけたがる傾向)」に陥りやすいことによって起きる社会現象だと言う意味でそう思うわけです。
この「制裁心」なり「ジャスティス」と言うのは、それに分があれどなかれど、一種のそのひとなりの「正義の実行」なのは言うまでもありません。同じ「正義の実行」なのに「善」になったり「悪」になったりする事象については、個別具体的に仔細に考慮されなくてはなりません。そして恐らく、本来の「善悪」とは、その判断にどれだけの分があるかの問題なのでしょう。
人間は仏像ではありません。彫ればその通りの仏像になるわけではありません。常習的犯罪者には、「罪悪感」が欠けているのです。それは、人間としての対等意識が育っていないことを意味しています。
子どもの頃にそのような「素質」を植え付けられたとしても、職業的あるいは常習的犯罪者に至るためには、もう1ステップ必要です。それは「人一般への憎悪・色眼鏡」や「通念上理解しがたい変世界」がその者の心に醸成されることです。
したがって、犯罪者の更生を促進するには、自身の反社会的な「メタ認知」に疑念を抱かせ、ステップワイズ(徐々)にこれを消去してゆく地道な取り組みが必要かと思われるのである。
なお、筆者の学部入試の小論文の課題「学校の問題児は家庭、学校、コミュニティのいずれで形成されるのか」と言う問いの現在の筆者なりの答えは、最もその子が自我関与(心のよりどころに)しているのがこれら三者のいずれかであれば、そこで上述のような処遇を受ければいずれであっても問題児になり得る、と言うことである。
(特に社会構造と人格のマッチング、心理的深浅の問題のように)犯罪にはいろいろな水準で起きるものがあり、そのすべてを上記の理屈で説明するのは不可能ですが、これも一種の「犯罪心理学入門」として理解されると良いと思います。