意識と言語の関係

 

 かの有名なカール・マルクスは、「ドイツ・イデオロギー」の中で、「意識と言語は同い年」だと言った。

 しかし、先に筆者が第30回日本乳幼児医学・心理学会大会にて発表した「絆としての意識」で指摘したように、意識の濫觴は「訴求」と「気遣い」のキャッチボールにあるのであって、「言語」にその源を発するわけではない。

 どうしてそんなことが言えるのか、「動物の知恵の柔軟性」と言う観点から考えてみたい。

 人間を特徴付ける「言語」は、確かに人間に膨大な知恵の可能性を与えていることには誰も異論はないであろう。

 しかし、我が家のレンジフードに住み着いたハトさんの微視的な行動をよくよく観察していると、遺伝によって機械的に規定されているならば説明しがたい実に多様で柔軟で細やかな知恵を働かせていることが分かる。

 おそらく多くのひとは、それを「知能」と呼ぶことだろう。

 もちろんハトさんは「言語」によってそれらの知恵を発動しているわけではないことは、誰にでも分かるだろう。

 ゲシュタルト心理学者のケーラーが「チンパンジーの知恵試験」で、チンパンジーのサルタンにいわゆる「洞察学習」ができることを報告しているが、もちろんチンパンジーに「言語」が備わっているわけではない。確かに、チンパンジーに「言語」が学習できることを実証した研究は多いが、それらはそれから数十年後のお話である。

 では、このような動物の「知恵」で肝になっている要素はいったい何であろうか。

 それはおそらく「知覚」であろう。人間はこの「知覚」に名前をつけることができる。それを「言語」と呼んでいるわけであるが、「知覚」はそれに先立つ「一次言語」の役割を担っている、と考えられないであろうか。良く知られているように、「知覚」には「恒常性」とか「プレグナンツの原理」などの不思議な性質があるが、それらが種によって異なるのか同じなのかは定かではない。

 動物に「言語」がなくても「考える」ことができる、つまり「知能」があるのは、おそらくこの「一次言語」のなせる業なのであろう。

 そして、「知能」が「意識活動」の一種であることは誰にも否定しがたい事実であろう。

 それは動物の多くに「意識」がある証左であって、その源に「訴求」と「気遣い」のキャッチボールがあることは先刻述べた通りである。

 マルクスに騙されてはいけない。筆者もそれほどマルクス主義に明るいわけではないが、世間で拾うことができる彼の言説には実に決めつけが多いので警戒しなくてはならない。

 結論として言えるのは、脳幹網様体のはたらきとしての「意識」は「知能」を与え、その「意識」は「言語と同い年」なわけではない、と言うことである。

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