学習心理学はあまりにも考え方が機械的すぎる。たとえば古典的条件付けだの道具的条件付けだの。
これからの学習心理学には「動機付けと行為」と言う観点が一番中心的な視点になるべきだ。
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学習心理学はあまりにも考え方が機械的すぎる。たとえば古典的条件付けだの道具的条件付けだの。
これからの学習心理学には「動機付けと行為」と言う観点が一番中心的な視点になるべきだ。
Delinquent SubCulture
Desire
Ego
Social Restriction
Stress
筆者はスマホを持っていて、ポイントを毎日貯めてはいるのだが、労多くして功少なしで、ポイントを時給換算で2円しか貯めることができない。
もし自分がパラサイトシングルでなかったら、餓死するかホームレスになるかしかない。
同じことをやっていても、高等教育機関にいるといないでは、王様と奴隷ほどの差ができる。いや、もっとだ。
嫌な世の中になってしまったものだ。
本日、改正教育職員免許法の施行で、更新講習が廃止され、休眠中だった僕の中学校・高等学校職業指導科Ⅰ種教員免許が復活しました。
更新講習とはいったい何だったのでしょうか。
2022年7月1日より、株式会社西昭(愛知県春日井市鳥居松町4-35-1)にて、以下の書籍の閲覧サービスを開始いたします。
”Wundt Studies : A Centennial Collection”
閲覧は株式会社西昭の事務所にて可能で、閲覧料は1日2000円です。
著作権法および装丁の崩れ防止の観点から複写(コピー)はできません。
閲覧を希望される方は、以下の僕のメールアドレスまでご一報ください。
nishipsycho640912@yahoo.co.jp
在庫があれば、こちらからご購入いただけます。
以上、告知まで。
この世は生きているだけ甲斐がない。希望よりも絶望の方が人生の要衝なり。夢とは諦めるためにあるもの。
嘘は書けないので、率直に書きます。
ハッキリ言います。僕のような心理学の学部卒は、100人に1人も心理学を生業にして生きてゆくことはできません。
僕は人生に不器用なので、そのせいでホームレスも何年か体験しました。末尾に載せてある「講座 心理学概論」をご覧いただければそれが良く分かると思います。
僕が社会で感じることは、心理学の学部卒は実社会ではチンカス扱いだと言うことです。この傾向は、特に一般心理学を学んだひとびとの明日に、目を覆うばかりの惨状を生み出しています。なので、「心理学で飯を食う」と言うことは諦めてください。心理学を学ぶことで、蠅にも劣る人間が増えていく、と理解してください。
高等教育機関で心理学を教えている先生方は、心理学が実社会でどう役立つのかなど考えてはいません。つまり、彼らは我々のような市井の心理士の人生に責任なんて持ってはいません。彼らは、実社会では何の効力もない「心理学検定」とか「認定心理士」とかの資格を作ってボロ儲けしています。要するに、彼らや学会は、自分たちの地位と利益にしか関心がないと言うことです。
昨今は「心理学ブーム」で、非常に多くの高等教育機関に心理学部とか心理学科がありますが、この結果、巷には非常に多くの、と言うより大方の心理学部・心理学科卒業生の「心理学難民」が生まれています。
その原因は、高等教育機関の先生方が差別によって選別されてきた人間であり、この差別をますます明確で強固なものにしようと日々励んでいるところにあります。僕のような在野の心理士ではこのような差別を作ることは無理なのです。
よく、「心理学は就職に不利」と言われますが、それは真実です。ハッキリ言うと、それは就職に際して何の役にも立ちません。かなり社会の底辺の仕事にしか就けないと言うことです。事実僕は自分の学歴で唯一就いた仕事はトイレ清掃の仕事だけでした。そこで、我々のような人間の人生の参考になるように、これも僕のブログの記事「ホームレスの方々の生計を立てるには」も載せておきます。
僕は心理学を学んだことを後悔しています。もっと実学を学べば良かった、と。
社会に学部卒一般心理学の受け皿は存在しない。
「知恵」とは何だろうか?
筆者の考えるところでは、「知恵」とは「アド・ホックにそこにそれを持ってゆくこと(take it to ideal state)」のように思われる。そしてその一番の好例は文法言語であろう。
そして、この「知恵の形」は、文明がいかに進歩しても、決して進化しないと思っている。
かの有名なカール・マルクスは、「ドイツ・イデオロギー」の中で、「意識と言語は同い年」だと言った。
しかし、先に筆者が第30回日本乳幼児医学・心理学会大会にて発表した「絆としての意識」で指摘したように、意識の濫觴は「訴求」と「気遣い」のキャッチボールにあるのであって、「言語」にその源を発するわけではない。
どうしてそんなことが言えるのか、「動物の知恵の柔軟性」と言う観点から考えてみたい。
人間を特徴付ける「言語」は、確かに人間に膨大な知恵の可能性を与えていることには誰も異論はないであろう。
しかし、我が家のレンジフードに住み着いたハトさんの微視的な行動をよくよく観察していると、遺伝によって機械的に規定されているならば説明しがたい実に多様で柔軟で細やかな知恵を働かせていることが分かる。
おそらく多くのひとは、それを「知能」と呼ぶことだろう。
もちろんハトさんは「言語」によってそれらの知恵を発動しているわけではないことは、誰にでも分かるだろう。
ゲシュタルト心理学者のケーラーが「チンパンジーの知恵試験」で、チンパンジーのサルタンにいわゆる「洞察学習」ができることを報告しているが、もちろんチンパンジーに「言語」が備わっているわけではない。確かに、チンパンジーに「言語」が学習できることを実証した研究は多いが、それらはそれから数十年後のお話である。
では、このような動物の「知恵」で肝になっている要素はいったい何であろうか。
それはおそらく「知覚」であろう。人間はこの「知覚」に名前をつけることができる。それを「言語」と呼んでいるわけであるが、「知覚」はそれに先立つ「一次言語」の役割を担っている、と考えられないであろうか。良く知られているように、「知覚」には「恒常性」とか「プレグナンツの原理」などの不思議な性質があるが、それらが種によって異なるのか同じなのかは定かではない。
動物に「言語」がなくても「考える」ことができる、つまり「知能」があるのは、おそらくこの「一次言語」のなせる業なのであろう。
そして、「知能」が「意識活動」の一種であることは誰にも否定しがたい事実であろう。
それは動物の多くに「意識」がある証左であって、その源に「訴求」と「気遣い」のキャッチボールがあることは先刻述べた通りである。
マルクスに騙されてはいけない。筆者もそれほどマルクス主義に明るいわけではないが、世間で拾うことができる彼の言説には実に決めつけが多いので警戒しなくてはならない。
結論として言えるのは、脳幹網様体のはたらきとしての「意識」は「知能」を与え、その「意識」は「言語と同い年」なわけではない、と言うことである。