尻福王様遊び(古い遊びの復興:いわゆる「尻取り福笑い」)

 最近の子どもたちはPC・スマホゲームに熱中していて、我々のような貧しい時代の子どもの外遊びが極端に減っている。

 そこで、子どもたちがリアルな外遊びを楽しめるような知育型の遊びを考案してみた。

 その遊びの名は、「尻福王様ゲーム」と言い、何をするのかと言うと、子どもたちに尻取りをさせ、自分が思い付いた尻取りのことばの最後の一文字だけを記憶させ、たとえば何順かすれば何音かを記憶することになる。

 そして、そのことばが予め決められたカテゴリーの何らかのことばであればカテゴリー順に予め決めた点数がもらえるようにする(カテゴリーの例:「政治」、「刑事」、「娯楽(エンターテインメント)」、「スポーツ」、「趣味」、「病気」など)。

 こどもは、ただ尻取りをするだけではなく、点数の高いカテゴリーのことばができるようにも意識して尻取りをするようになり、点数の累計に応じて「王様」とか「大臣」とか「部長」とか「課長」とか「平民」に分かれるようにする。

 音順は決められていてもフリーでも良い。音数が少ない方が単語になりやすいので、年齢相応に音数は設定すれば良い。できれば「記録・判定員」がいて、枯れ枝で地面に各参加者の語尾を記しておくと良い(対象児に障害がある場合などはハンデとして記録を教えても良いなど柔軟に対応のこと)。

 ありきたりそうな遊びではあろうけれども、子どもの知育には資する外遊びになると思っている。

 あと、学校でドロップアウトする生徒が出ないように、すべての教科の「変○○(教科名:たとえば“変音楽”)」も導入すべきと考える。チームの団結力を高める「チーム・オセロ」なども良いであろう。

マズロー理論の読み方

 「マズロー理論」、すなわち「生理」・「安全」・「所属と愛」・「承認と尊敬」・「自己実現」のいわゆる「欲求5段階説」は果たして何のために考えられたのであろうか、と言う疑問に筆者長年思いあぐねていた。

 エビデンスがあってそう言ったのではないとか、あまりにも芸術的だとかの批判も耳を傾けるべきところは多かった。

 もしこれが「人間の心理的成長」にかんする理論だと言われれば、やはり僕の中には強い反発がある。

 しかし、最近気づいたのは、この「マズロー理論」は本来のターゲットが健常者だと考えられてきたのが過ちで、マズローの臨床活動から得られた洞察だと言われれば、ある程度腑に落ちる、と言うことだった。

 そうなのだ。この理論は「成長理論」などではなく、「精神疾病の心理的病因論」だと考えれば良いのである。

 生理的欲求が満たされないならば、人間はただの獣になる。

 安全欲求が満たされないならば、反社会的人格になる。

 所属と愛の欲求が満たされないならば、うつその他や人格障害になる。

 承認と尊敬の欲求が満たされなければ、モンスター人格になる。

 自己実現の欲求が満たされないならば、適応障害になる。

 筆者なりのマズローのリーディングは、かくして精神障害論へと様相を変える。

神経症と自己認識

 神経症(ヒステリー)の最も大きなファクターは、「自分が所定の心理的位置にいない」と言う自己認識と大きくかかわっている。

 したがってその治療原則は、「彼がどの心理的位置にいると感じるとコンフォタブルなのか」を同定するとともに、その心理的位置に再定位させることが基本となる。

 ただ、現実上それが無理な場合は多く、その場合どれだけの「心のコンフォタブル・リスト」が彼にヒットするのかを探ることになる。

 もちろん、「治療場面」に限って「治療」しようとするのには無理がある。制度や人間関係など社会資源を絡めて解決するなり、人生の困難を味わわせて自己認識を変容させるなりのいくつもの選択肢がある。

 ただ、基本は「フィールドワークでの解決」と言うことになる。

「がん」の「利水力欠乏仮説」

 

 筆者は長年にわたり、さまざまな疾病の患者さんと出会う機会が多く、それは心理的な問題を抱えたひとであったり、身体疾患の患者さんであることも多かった。

 我が国においては、死因のトップは「がん」であり、5年生存率は70パーセントに届く勢いで医学も進歩してはいるが、未だに医学界には「がん」の病態の本質を捉えた説は登場してはいない。

 さまざまなひととのかかわりの中で、僕はがん患者さんを10人程度見てきたわけであるが、あるときふとがん患者さんに共通の特質ではないかと思う体質に気づいた。

 それは、がん患者さんの全身にわたる細胞内利水力(浸透圧調節機構の正常性)、分けても新鮮な水の代謝力が小さいのではないか、と言う観察上の知見である。

 もちろんそれは、よく化粧品のCMなどで訴求されているような「お肌のハリ、ツヤ」などと言う表面上の利水力のことではなく、人間の全身、あるいは五臓六腑に満ちあふれるような全体的な体細胞の利水力のことである。

 そしてそれは、全身の細胞の利水性浸透圧調節機構の問題なのであろう。それが証拠に「がん」で死ぬ海洋生物は(若干の貝類を除いて)大方いない(海洋のプラスチック片の散乱などにより今後海洋生物が「がん」に罹る可能性は否定できない)。また、多くの魚では浸透圧調節の役割が小さい。それはがんが腔腸動物特有の病気であることを意味する。がんは有機体の他のどの臓器よりもタンパク質合成のために栄養分を消費する。また、この事実はヒト小腸ではなぜ「がん」がほとんどできないかも説明する(言うまでもなくヒト小腸は体内で水分代謝が最も盛んであり、浸透圧調節機構の異常が起きにくい)。

 また、良く俗に「身体を温めるとがんになりにくい」と言う。これは、炎天下で仕事をするのとおなじように、身体を温めると水分代謝が活発化するからであると考えられる。ここにひとつの「がん予防薬」のヒントを見出すことはできないだろうか。筆者のインスピレーションでは石を栄養源とするバクテリアなどががんの予防や治療で有望なように思われる。

 加えて、水分滞留部位以外の水代謝が活発な、脇や股のような常に水代謝を行っている部位には「がん」は発生しない。妊婦や胎児にも「がん」は好発しない。水分再代謝の活発な体部位に「がん」は好発する。

 「がん」になる条件研究は山際勝三郎と市川厚一の先駆的研究から我が国では盛んであるが、「がん」の病態的本質についての究明はこれまでほとんどなされてこなかった。確かに、我が国のがん学会などではタンパク質燃焼物質である「トリプP1」などの発がん性物質の解明には血のにじむような努力がなされてきた。ただ、ひとつ筆者にとって気がかりなのは、それだけですべてのがんが説明できない、と言うところなのである。

 もともと僕は「がん」と聴いたときにひとつのインスピレーションを持った。それは、「(新鮮な水代謝の滞留の結果)生化学的な塩基配列か何か(たとえば、浸透圧調節の異常による酸素代謝機構)がねじれている」と言うものであった。以上に書いた「利水力」に限らずこのインスピレーションで「がん」を見てゆけば、いずれ自ずと「がん」の病態の本質をつかめるだろう。

 この知見が何らかの形でがんの予防や治療のヒントになれば幸いである。

 ※HIVの発生機序と治療のヒントは「腸内フローラ」にあると見ているが、詳しいお話は後日改めて書くことにする。

貨幣の秘密

 マルクスが「ドイツイデオロギー」や「資本論」で追求していた「貨幣の秘密(レゾンデートル)」は、結局彼自身分析できないまま「資本論」で算盤に乗せようのない出来損ないの「搾取率」とか「価格形成のメカニズム」の説得力そのものへの疑問につながり、結局その影響力は限定的であった。なぜかと言えば、結びつく論理必然性のない事象同士を無理矢理関係づけようとしたためである。

 心理学でもミクロ経済学的な「行動経済学」が台頭してきているが、経済活動そのものの説明には無理があると僕は見ている。

 「価格」は「需要と供給のバランス」で決まる、と我々は学校で教えられてきた。

 ところが、我々のような零細企業の経営者にとって、この理説が嘘っぱちであることは身にしみて感じてきたところである。

 貨幣価格の規定因は、大雑把に言えば「それぞれの事情で決まる」、もう少し正確に言うと、「さまざまな資源の社会的限定性で決まる」と言うべきかと思う。したがって貨幣とは「さまざまな自然・人工資源の社会的限定性認知の一意な測度(ものさし)」だと言うことができる。それと、いわゆる「価値」と言うのは社会的限定性と換金可能認識があってはじめて決まり、したがってあるところからそのひとのモラルや人間性を測ることができる。アダム・スミスの言う「希少性のパラドックス」は、価値希少説に立っているから起きるだけのことで、価値の規定因の捉え方としては少し誤っている。

 たとえば違法薬物の売人にバイヤーが確かめるのはいつでも「モノは確かなんだろうな」と言うことであり、金本位制の方が変動相場制よりも物価が安定しやすいのはこの理由による(ただし、経済活動の多様性は犠牲になる)。

 それはサラリーでも同じことである。「財やサービスを巡る支出分の信頼度」でサラリーも決まる。そもそもは、お金と言うものは、王様が奴隷に差を付ける(差分化する)ための恩寵であった。それが一般化してその規定因が少し変化したと考えられる。

 つまり、国を富ませたいと思うのであれば、「財やサービスを巡る請求分の信頼度が確かな財やサービスを国民の皆が豊富に保持していること」だと言うべきである。そうでなければものの価格は下落し、札束はただの紙切れに失墜するだろう。政府のマネーサプライで経済をコントロールできると勘違いしている者もいるが、よほど外国為替市場で自国通貨が高くない限り物価が上がるだけで国民生活にはマイナスだと悟るべきである。最近流行の「MMT理論」などでは、こうした我々の見方に否定的であるが、実体経済のないところでマネーサプライをしてもインフレに陥るだけである。行ってせいぜい「バブル」や「幻想下の経済」の説明理論に止まると思う。

 賢明な読者諸氏は、なぜ現在我が国の「デフレ」が長期化しているのかについての察しがお付きかと思う。それは「過当競争」と「わけの分からない(=信の置けない)商売が巷に溢れている」からだと。これでは財布の紐が固くなってデフレに陥るのは当たり前である。商売に明確な白黒の付く経済的状態が整理・再編されれば現下のデフレから脱却することはそんなに困難ではない。いわゆる「アベノミクス(大胆な金融政策・積極的な財政政策・民間投資を喚起する成長戦略)」がなぜ的外れなのかと言うと、「過当競争の知恵による緩和」と明晰なマーケットの「白黒見える化」に取り組んではいないからである。デフレの問題が、「商売の量」だけではなく「商売の質」の問題だと言う認識が決定的に欠如している。

 また、健全な家計の運用のために、収入に対する消費の割合を決めておくのが良い。

 しかし、そこには一人間としての無理はないのか?我が国は150年前までは大方百姓の社会であり、商業の国ではなかった。それをいきなり国民皆商人にすると言う強引な考えは社会矛盾を増強する。このようなときの急場の知恵としては、その手の知恵者に考えを皆が拝借するよりない。

 マルクスは、これらの内に「政府への信託」あるいは「社会における共通合意」のマジックらしきもの(実はそれは「貨幣の賠償可能性」が与えるものであってマジックなどではないし、「貨幣の賠償可能性」を支えているものは「実体経済活動の豊富さ」に帰着する」)が含まれることなどからそれを「貨幣の秘密」と呼んだと思われる。

 だがマルクスは、たったこれだけのことを理解できなかったばっかりに、諸国民をミスリードするという失態を犯したのである。大きな目で見た場合、「様々な認識主観それぞれにとってその社会にどれだけの光りモノがあるか」に貨幣供給量および預貯金量は依存するのである。このひとつの命題を認識しているだけで、社会経済は適正になしうるのである。なぜならそれは、経済と言うものは、「One for all」も「All for one」もあることを物語っているからである(しかし、少し考えれば「本来の経済」と言うものは自然生態学に反するべきではない)。

 もうひとつ指摘しておきたいのは、経済にかかわる人心がディフェンス(防御)局面にあるときは物価は下落しにくく、オフェンス(攻め)局面にあるときは逆のような状態になりやすい、と言うことである。MMTが有効なのは、人心が長期のディフェンス局面にあるときに過ぎない。何故か。それは人心がディフェンス局面にあるときには財布の紐が固くなるからである。逆にオフェンス局面になるとひとびとの財布の紐は緩み、市場の貨幣供給量が余剰となり、物価は下落しやすい。無論、それは社会における「光りモノ」の量が同じ条件下で、と言う仮定の元でのお話である。これが企業経営者のお話となると、「光りモノの確信」=「先見の明」がその企業の命脈を握ることになる。勿論それらはすべて、ひとびとの経済についての状況認知と言う心理学的過程を前提とする。

 なお、これからの時代は単なる「ものづくり」をひたすら追求するのではなく(それは自然とのミスマッチを増大させる)、各大学に新設の「リサイクル学部」で学んだ実務家・専門家が「ものの輪廻」を志向し富み栄えるような社会へと徐々にシフトチェンジしてゆくべきと考える。

 ※お断り
 僕はマルクス主義とも資本主義とも無関係です(信用は人心でも担保可能/サービスの内には労働も含まれ、労働者と経営者、労働と報酬(=財)を分けて考えるのは間違い/現代では財のウェイトが重すぎるので様々な問題が生じている)。

零細企業の経済「学」

 我々は確か学校で、「ものの価格」は「需要と供給のバランスで決まる」と教えられてきた。

 しかし、我々のような零細企業の経営陣にとって、この理屈が完全な嘘っぱちであることはあまりにも明白である。

 マーケティングで市場開拓しようとしている経済戦略家にとっては確かにそうかも知れない、と言うよりそう見えるかも知れない。

 しかし、我々のような零細企業の経営陣にとっての「常識」は以下のようなもので、いわゆる経済学の教えるところとは全く違っている。

 「価格は、それぞれの事情で決まる」。

 結局、「お金の問題」と言うのは、社会と個人の財やサービスを巡る「請求分の信頼度」があるかどうか、そう言う事業が営めるか、ひいてはそこに公共投資をしているかの問題なのであろう。それを「適正」でなく欠く財やサービスは支払いの対象にならないし、信頼度の担保されていない経済はお金を紙くずにするだけだろう。

 財には現在のところ実質性のものと天然性のものがある。

遺伝か環境か

 心理学における「遺伝(nature)か環境(nurture)か」の最新の理論はサメロフとチャンドラーの「相互作用説(遺伝は環境に働きかけ、環境は遺伝に働きかけて行動が発現する、と言う説)」であるが、話を心理学ではなく常識に置き換えてみると何だかバカバカしくなってくる。

 心理面で遺伝が大きいのは「気質」だと言うが、たとえば我々の5感と言う一見障害されていないと当たり前に感じている諸能力も遺伝である。

 僕は若い頃からパソコンをやっている関係で視力が弱いのだが、この一事を取ってもそんなに難しく考える必要はなく、「環境変動値説」、つまり遺伝諸相の発現が環境変数によって規定されると考えれば大した問題ではないのではないか、と言うのが率直な感想である。

 「遺伝か環境か」の問題は差し置くとして、人間の判断はすべて経験値に依存する。    

思考の現象学

 みなさん、こんにちは。

 みなさんは、「思考(考えること)」について考えたことがおありだろうか?

 有名なのは、デカルトによる「演繹法」とベーコンによる「帰納法」であるが、僕なんかは現実に考える上でこれらの分類にはあまりにも現実性も実践性もないので考え直してみた。

 それらの考えになぜ現実性や実践性がないのかと言うと、常に思考を「法則」と関連付けるパラダイムが根底にあるからだ、と言えよう。

 どうしても「2分法」でと言う方のために、自分が普段営んでいる精神活動を分析してみた。

 そうすると、古典的な考えよりは現実的かつ実践的な思考の分析を導くことができた。

 ひとつは「傍証整合思考」で、もうひとつは「オーダー従容思考」と言うことになった。

 可能性の中から原因を探るときに我々は「傍証整合思考」を使う。

 新しい発見や発想をするときには我々は「オーダー従容思考」を使う。

 そしてどちらにも共通しているのは、それらは「探索過程と採否」を含む、と言うことである。

 図式的に書くとこうなる。

「問題・事象切片の検知」→「傍証整合思考/オーダー従容思考」→「結論の採否」

 とまぁ、定型的なことを言ったが、我々の現実の思考においては概ね両者がどちらも用いられていると考えるべきであろう。

 ところで、「ことばとは何か」を煎じ詰めてゆくと、「弾み(アクセント)とノリ(興不興)の体系」だと言うことになる。しかし、「弾み」には「音」も「波長」もある。「ノリ」には「気分」も「意欲」もある。絵画のようにそれがあまり目立たない人間活動もあるが、総じて言えば「ひとの心」もある意味での「弾みとノリの体系」だと言えなくはないだろうか。

 みなさんもいま一度自分なりに「思考」を考えてみませんか。