我々は常に推測しながら生きている。「覚」とは「心が触れること」の謂いである。
したがって、「認識」とは「収まり(対象意味)に触れること」の謂いである。
対象意味は、いつもそれ単体では存在し得ない。
それにはいつもタテとヨコの関係があって、タテを「抽象」、ヨコを「類推」と言う。
「連合」とか「連想」に人間の本質を見た哲学者や心理学者たちは了見が狭すぎる。
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我々は常に推測しながら生きている。「覚」とは「心が触れること」の謂いである。
したがって、「認識」とは「収まり(対象意味)に触れること」の謂いである。
対象意味は、いつもそれ単体では存在し得ない。
それにはいつもタテとヨコの関係があって、タテを「抽象」、ヨコを「類推」と言う。
「連合」とか「連想」に人間の本質を見た哲学者や心理学者たちは了見が狭すぎる。
表題の問題について筆者がよく目にしてきたのは、「それは誰の認識か」とか「どこからものを見るか」の問題だと言う見解である。
ところが、筆者から見えるそれらの問題の所在は、まったく異なったところにある。
現実の「主観ー客観」とか「存在」の問題と言うのは、「それには議論の余地があるか」と言う認識の不可抗力性と言うところに問題の所在があるのであり、上記のような問題の立て方そのものがそこから目を逸らしてしまうはたらきをしているのである。
しかし、それが分かったからと言って、「主観ー客観」、「存在」の問題に適正解を与えているわけではない、と言うことに留意してほしい。
これは日常よくあることだが、ある主観にとって「議論の余地がない」と思われることが、他のある主観にとって「議論の余地がある」かも知れないからである。それらは、個人的主観レベルでも社会的主観レベルでも文化的主観レベルでも起こりうることである。
したがって、筆者が何が「主観的」で何が「客観的」で、また、何が「存在」なのかについては何も語っていないことをご理解いただきたい。
筆者はただ、「主観ー客観」、「存在」の問題の所在が本当はどこにあるのかを指摘したに過ぎない。
範例を物理学に取ってみよう。
現在ではニュートン物理学は否定され、アインシュタイン物理学とか量子力学が盛んに展開されている。もっと遡るとアリストテレスの自然学もあった。
ある文化では、別にわざわざニュートン物理学を否定してアインシュタイン物理学や量子力学をそこに据える必要など実用上はまったくないかも知れない。
もっと言うと、いまから100年後の「最先端物理学」ではアインシュタイン物理学や量子力学でさえ否定されているかも知れない。
さらに言うと、お茶の間に暮らす我々には、そんなことはどうでもいいと言う意見がその主観の正直なところかも知れない。
このように、自然には何が「主観」で何が「客観」で何が「存在」なのかは人類が滅亡しても不明なのかも知れず、一意な解と言うものが本当は存在しえないのかも知れない。
そのようなわけで、筆者は問題の所在がどこにあるかについては指摘したが、それらの問題に適正解を与えたわけではない、と言うことをご理解いただければそれで満足なのである。
最後に、「偶然ー必然」問題の本質は、因果性(事象間の規制関係)を認識主観が伴っているか否かの問題であることを指摘して、結びとする。
「知恵」とは何だろうか?
筆者の考えるところでは、「知恵」とは「アド・ホックにそこにそれを持ってゆくこと(take it to ideal state)」のように思われる。そしてその一番の好例は文法言語であろう。
そして、この「知恵の形」は、文明がいかに進歩しても、決して進化しないと思っている。
かの有名なカール・マルクスは、「ドイツ・イデオロギー」の中で、「意識と言語は同い年」だと言った。
しかし、先に筆者が第30回日本乳幼児医学・心理学会大会にて発表した「絆としての意識」で指摘したように、意識の濫觴は「訴求」と「気遣い」のキャッチボールにあるのであって、「言語」にその源を発するわけではない。
どうしてそんなことが言えるのか、「動物の知恵の柔軟性」と言う観点から考えてみたい。
人間を特徴付ける「言語」は、確かに人間に膨大な知恵の可能性を与えていることには誰も異論はないであろう。
しかし、我が家のレンジフードに住み着いたハトさんの微視的な行動をよくよく観察していると、遺伝によって機械的に規定されているならば説明しがたい実に多様で柔軟で細やかな知恵を働かせていることが分かる。
おそらく多くのひとは、それを「知能」と呼ぶことだろう。
もちろんハトさんは「言語」によってそれらの知恵を発動しているわけではないことは、誰にでも分かるだろう。
ゲシュタルト心理学者のケーラーが「チンパンジーの知恵試験」で、チンパンジーのサルタンにいわゆる「洞察学習」ができることを報告しているが、もちろんチンパンジーに「言語」が備わっているわけではない。確かに、チンパンジーに「言語」が学習できることを実証した研究は多いが、それらはそれから数十年後のお話である。
では、このような動物の「知恵」で肝になっている要素はいったい何であろうか。
それはおそらく「知覚」であろう。人間はこの「知覚」に名前をつけることができる。それを「言語」と呼んでいるわけであるが、「知覚」はそれに先立つ「一次言語」の役割を担っている、と考えられないであろうか。良く知られているように、「知覚」には「恒常性」とか「プレグナンツの原理」などの不思議な性質があるが、それらが種によって異なるのか同じなのかは定かではない。
動物に「言語」がなくても「考える」ことができる、つまり「知能」があるのは、おそらくこの「一次言語」のなせる業なのであろう。
そして、「知能」が「意識活動」の一種であることは誰にも否定しがたい事実であろう。
それは動物の多くに「意識」がある証左であって、その源に「訴求」と「気遣い」のキャッチボールがあることは先刻述べた通りである。
マルクスに騙されてはいけない。筆者もそれほどマルクス主義に明るいわけではないが、世間で拾うことができる彼の言説には実に決めつけが多いので警戒しなくてはならない。
結論として言えるのは、脳幹網様体のはたらきとしての「意識」は「知能」を与え、その「意識」は「言語と同い年」なわけではない、と言うことである。
哲学を知っている方ならご存知の方も多いかとは思うが、彼の「物象化」論にただひとつだけ反論を加えておく。
彼はひとは世界事象を「もの化」して理解するのは誤りで、「こと」として理解すべきだと主張している。
彼は人間のひとつの誤謬的端的性を、「こと」を「もの」のように理解することに求めている。
しかし、そこには人間的な世界理解が言語的ないし知覚的であること、つまり、「形媒介的」であることへの言及が一切ない。「もの化」とも映る我々の認識世界が、それ以前的に「形態的」かつ「対象的」であるので「もの」的事象理解が常識的になっている事実を忘れている。そしてこの常識は、知覚形式が命名的な言語環境下で顕著になることは、自然なことだと言わざるを得ない。
したがって、この認識論の本当のプロブレマティックは、「ものVSこと」なのではない。現実、「もの的理解」で成功した化学、「こと的理解」で成功した宇宙論など、いわゆるところの学問的理解にはさまざまなものがある。ある意味、それを「もの」と言おうが「こと」と言おうが同値な場合はあまりにもありふれている。日常ではTPOに応じた言い回しをするのが賢明だろう。
「もの」云々より、我々の認識が「形媒介的」なことが背景にあるので、我々が常識上「もの」と言う言葉をよく使うことを分析なり批判なりするのは自由であるが、我々が「もの」と言う言葉に慣れ親しんでいる背景にそう言う事情があること、また、それゆえ不自然に思わないことを考量していないのは、我々に些か「学問バカ」と言う使い古された言葉を思い出させるのを禁じ得ない。
なお、筆者の独断で言わせてもらえば、世界事象を「もの」として理解しようが、「こと」として理解しようが、上述の理由で我々の世界理解の豊穣性に大差は出ないように思われる。
ギルバート・ライル(Gilbert Ryle)がその著“The Concept of Mind(心の概念)”で「身体」と「心」は概念クラスが別で、いわゆる「心身問題(身体と心の関係についての哲学的見解の問題)」は「カテゴリー・ミステイク(概念の取り違え)」が元で心身二元論(身体と心は別の存在である、と言う哲学説)が提唱されていると言う分析でした。
ではライルはどう考えていたのか?
彼は「状態(state)」を表す概念と傾向(disposition)を表す概念は違うと説く。たとえば「彼は太っている(state)」と言う概念と「彼は賢い(disposition)」と言う概念は、常に観察可能なのかどうかと言う点で認識のカテゴリーが違うと言う。
ライルの言うことの核心は、まぁそう言ったところにある。
彼がそのミリオンセラー「ノストラダムスの予言」を書いてひとびとを自意識過剰にした事件(その好例はオウム真理教)は記憶に新しいが、そこには「救世主チランの後継はアグリッパ」と書いてあった。
ところが、そのアグリッパと言うのは、ハインリヒ・コルネリウス・アグリッパ(Heinrich Cornelius Agrippa, 1486年9月14日-1535年2月18日)のことを指すと思われる。
ノストラダムスは1503年の生まれなので、アグリッパとほぼ同時代人と言うことになる。
そうなると、「救世主チラン」なる者は、ノストラダムスより遙かに年上の人物と言うことになり、ノストラダムスの書き残したのは、予言集などではなく、回顧録だったと言うことになる。
ノストラダムスも、自分の著著に「諸世紀」と言うタイトルを与えたので、それを予言集と取ったひとびとは彼の言葉に人生を振り回されたことになる。
そもそも、これは筆者の信念であるが、良いことであれ悪いことであれ、人間は自分自身の運命をそれとして生きることそのものに神様の真意があると思っている。なので筆者バイクで転倒して骨折しても「先に教えて欲しかった」などとは微塵も思わず、その信念が揺らいだことはない。
そして、自分がつかむべき本当の知恵は、「先が見えない」と言うご馳走を心の芯が食べることなく出てくることはない、と。自分の信じる神様像(それはひとにより千差万別であろう)からは、それ以外の何も感じない。
自分の専攻学科である関係上、このような内容の論文発表は過去2回、日本心理学会大会にて行ってきた。
表題の問題について、簡単に筆者の見解を述べておく。
基本的に「意識とは何か」については繰り返し指摘してきた通り、「存在感覚」だと言えるように思う。
筆者なりの意識の発生メカニズムの基本は哺乳類および鳥類、つまり親子関係が出生後重要になる生物に特徴的なもので、親子の関係維持の必要から生じるものと考えている。
したがって、意識の発生要件には、「依存性をベースとした関係の継続性の必要」が最大のファクターだと考えて良いように思う。
そして、それを前提としたその存在の内面的継続性・融通性(行為の調節性)が認識できることを以て「ものごころがついた」と認識しうると言えようかと思う。インデックスとしては「行為の自在性」が最たるそれであろう。なぜそのような「制御感」が直接のディフェンス行為がなくても生まれるのかと言えば、「養育-模倣-巣立ち」の過程を経る動物では、そこから「意識」が「迷い-意思決定」を経て給備されると考えるのが自然であろう。
意識が一番端的に見られる現象は、「自分を庇う」と言う行為のように思われる。なので、同じ動物でも身体障害のある個体の方が身体障害のない個体よりも「意識的になる」であろう。このように、基本「傷つけられることから守ること」に意識のレゾンデートルがあるように思われる。究極にはこの一点に尽きるのではないか。
では、は虫類、両生類ではどうだろうか?たぶん、彼らには意識が「ない」のではなく、未分化なだけかと思われる。
傷つかないための意識なのに、人間はなぜ傷つけ合うのか…いまのひとびとは一方的に思うことに慣れすぎている…
まとめると、「意識」はそれがいかに低次なものであっても「予期せぬ障害-困惑-目論見的対処」により醸成される。なので、おぼろげながらにも自己対象視ができている状態を「意識」と呼ぶのであろう。なぜ人間が「意識的存在」の最右翼なのかと言えば、おそらく出生時に最も未熟な状態で産まれてくるゆえではないだろうか。
以上、心理学で有名な「モーガンの公準」から一歩出たところで意識を考えてみた。
Key Words : 障害 その背景としての環境多様性
筆者は身の丈がショボいなりに視聴覚同時障害者のための言語はできないだろうかと、自分なりに散策している。
最近、その要諦が2つに絞れるのではないかと考え始めている。
ことばを哲学してみると、まず何よりことばそのものの性質が「即性の表現」だと言うことを身に染みて感じる。
ことばによる世界認識の本質は「有無」のような存在性の主張なのではなく、認識したありのままの何かの「即不即」、すなわち即性の表現であると言うことに気づかざるを得ない。
で、言葉がややこしくなるのは何かと何かの関係性についても言及しようとするからで、これを一括りにすると「示置性」と言うことになるだろう。
つまり、障害者言語を考えるときに必要なものと言うのは、「即性」と「示置性」の2項が最有力な候補ではないかと思う次第である。そして、言語の本質とは、「知覚・思いへのことばの該当への構成的処理」なのではないか、と。
我々にとって「ことばを覚えることの先生」である子どもたちに、そのようなヒントを元にした「ことばづくり遊び」などをしてもらうと、存外我々も子どもたちから障害者言語についてのヒントをもらえるのかも知れない。
無論それはそのままで良いというわけではなく、障害者の限定的な知覚特性を考慮して改良しなくてはならないであろうが。
冒頭から結論を申し上げると、カテゴリーと意味の関係は、従来の説で仮定されてきた「付加関係」にあるのでも、「等式関係」にあるのでもなく、「即不即関係(A by B関係)」にあるのである。
特に記号論理学(と言うより集合論)ではカテゴリーや意味は「等式関係」から理解すると言う流儀が採られてきたが、現実言語を不要に複雑に理解するためのツールとしては意味があるのかも知れないが、ほとんど現実言語の理解からは浮世離れしている。
たとえば、「ウサギは白い」と言う命題は、「ウサギ」と「白い」が文字通り等価になるなどとは思ってはいないだろう。「ウサギ」と「白い」は概念クラスがまったく異なっている。多くの言語哲学者たちは、シニフィアンとシニフィエの距離を大きく見積もりすぎている。
これは、「ことばの体系は即性表現の体系である」と言うテーゼまでを視程に入れてのことであるが、取り敢えず、このお話は、特に発達言語学的に意味があると思うが、ここではこれ以上の指摘はしないこととする。