先の「工藤忠幸平成ラストライヴ」好評につき、きたる11月18日(月)午後4時45分より僕の自宅の「喫茶・軽食モンブラン」にて「工藤忠幸ライヴ」を再び敢行いたします。
皆さんお誘い合わせの上、是非ご来場ください。
以上、告知まで。

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先の「工藤忠幸平成ラストライヴ」好評につき、きたる11月18日(月)午後4時45分より僕の自宅の「喫茶・軽食モンブラン」にて「工藤忠幸ライヴ」を再び敢行いたします。
皆さんお誘い合わせの上、是非ご来場ください。
以上、告知まで。
僕は百姓の血を引いているはずなのに母親の実家のある桑名で百姓をやったら、蒔いた種はすべて土に帰っていき、自分の身の丈が原始人だと思い知ったことがあると以前書きました。今日はその頃のことで一番辛かったひもじさについて述べたいと思います。
現在はもうありませんが、母の実家があったのは桑名のはずれのムラのようなところで、僕のようなよそ者を周囲のひとびとは良く思っていなかったようで、煙たがられていました。百姓で食べようと思っても、収穫がありませんので貧しさのどん底に突き落とされました。 そこで、泣く泣く自分の愛蔵書を桑名のブックオフまで売りに行ったら、自分が思っていた値段の100分の1以下の値段に買いたたかれました。
そんなわけなので、暮らしはどんどん貧しくなり、食べるのは一日一食のインスタントラーメンと言う日々が2~3ヶ月続きました。他人の畑の作物を取ったら盗みになるので、10キロ近い道のりを歩いて桑名の街中の自動販売機の下に落ちている硬貨を探して暮らしを立てていましたが、警察官に職務質問をされることも度々でした。
それと並行して僕がその間やっていたのは部屋中の一円玉探しでした。よく床を見ると、昔お釣りでもらった一円玉が散乱していて、ひもじさを解消したい一心で一円玉を毎日拾い集め、10枚ずつをテープでまとめ、コンビニでそれを出してカップラーメンを買っていました。
いま聞いた話では一円玉は20枚以上だとコンビニは受け取りを拒否できるそうですが、コンビニの店員と言うのは法に詳しいわけではないので、一円玉の束を全部受け取ってくれて、100枚以上の一円玉を全部数え上げて受け取ってくれました。
貧しさやひもじさがいかに辛いかを思い知るとともに、僕の想像するような生活上の相互扶助の成立していないムラ社会でのよそ者への風当たりの悪さが身に染みた生活でした。要するに当時の僕は乞食同然でした。何度「死んだほうがまし」と思ったことでしょうか。
僕の想像していたムラ社会は「生活上の相互扶助」がある社会だと思っていたのが、現実にはよそ者にきわめて冷たい閉鎖社会でした。恐らく、ムラ全体が貧しければ、もう少しましだったと思います。ムラ社会の現状がこのようなものである限り、都市社会の人間から見たらそれは何の魅力もなく、ますます高齢化と過疎化に悩むようになるだけだと僕は思います。「誰でも暮らせるのがムラ」と言う現実とひとびとの認識を作らない限り、それにはますます拍車がかかるだけだと思います。
皆さんが当時の僕のように飢えているひとをみかけたら、できる範囲で結構ですので、残飯で良いので施してあげてください。それができなければ生活保護制度を教えて差し上げてください。そしてどなたか音楽センスのある方にはそのような内容の啓発ソングを作っていただき社会に流布していただきたいと切に思います。
本書庫を読まれるときに、末尾の方の記事から表示され、目的の記事に辿り着きにくい、と思われる向きもあろうかと思いますので、本記事の章を以下にお示しいたします。
目的の記事に行くために、検索窓でその章の「○○心理学」と検索いただきますと、何かと便利でしょう。
第1章 神経心理学(全13節)
第2章 心理学研究法(全21節)
第3章 心理学史(全18節)
第4章 感覚心理学(全7節)
第5章 学習心理学(全11節)
第6章 知覚心理学(全16節)
第7章 認知心理学(全15節)
第8章 感情心理学(全13節)
第9章 発達心理学(全15節)
第10章 社会心理学(全15節)
第11章 人格心理学(全9節)
第12章 臨床心理学(全10節)
以上、ご案内まで。
おまけ:講義中の僕
ふとした直観を申し上げることをお許しいただきたい。
ヒトの「噛む力」の弱さと認知症には一定の相関関係があるような気がしている。
また、「肝機能」と頭髪にも関係がある気がしている。
僕は身の丈がショボい原始人なので、それを確かめるつもりはないが、そんな気がしている。
心理学関係の人間なら、「学習」と言うのは「強化と罰」によって成り立つものと強く思っている向きも大きいであろう。
その発想の根源には、いわゆる「心理学は目に見える行動のみを研究すべきである」と言う「行動主義」がある。そう考えると、当然「強化や罰」も可視的ではなくてはならない、と言うお話になる。
しかし、その発想には我々の「学習」についての大きな見落としが7つはある。
我々は、「雰囲気」や「ムード」を感じることによって行動を起こしたり抑えたりもする。無論、それらは「強化や罰」でもなければ可視的なものでもない。「雰囲気」や「ムード」と言うのは、惹起する行動との必然的関係にはない。取り敢えず、このタイプの学習を「誘発的学習」とか「閾値超え学習」と呼ぶことにしよう。その手の「学習」は、後々自分を振り返ったとき、「あぁしたことは感心した」と気付いた時点で定着するのであろう。こうした学習は、強化されるか罰せられるか以前に、要不要の判断が先行する。「学校なんか行かなくて良い」と言う親は、子どもが学校で授業を受けること自体に弊害があるのではないか、最低限の生活をする上でそれがどれほどの意味があるのか、と心配しているかも知れない。つまり、我々が意識しようとしまいと、学習の前提として価値観が存在するのである。
この手の学習で、我々にありがちなお話も指摘できる。ロフタスの「事後情報効果による虚偽の記憶」と言う問題から派生して、我々は何でもない記憶(たとえば、自分の「ウ○コが臭かった」と言う記憶)が、後々テレビなどで医者が「ウ○コが臭いのはがんのサインです」などと言っていると、どんどんそれを気に病むようになってくる、と言うようなお話である。これは、中性刺激が罰子に不安を介して変化してゆく例である。つまり、こう言うことは学習心理学では否定され続けてきた「逆行条件付け」が意識的存在の人間では当然のこととして存在する、と言うことである。この類いのことは、「言われて気付くこと」と言えるであろう。
「自我のあり方」も「学習」を規定する大きな要因である。大きな括りで言うと、内向的なひとと外向的なひとの「学習」の様相は全く違うだろう。
「好奇心による学習」もそうであろう。それは「報酬や罰」と言う中間過程を経ずに成立するし、「何が良くて学習したのか」の理由を探しても一意に特定の何かをそうだと断定しきれないし、「好奇心」のせいで何もかも学習するのかも知れない。この場合の学習原理にアリソンとティンバーレイクの「反応制限説」による説明の余地はない。なぜなら学習素材XとYの間に関係があるかどうかは分からないからである。
「行動のスタンダードさ」も我々の学習を規定する大きな要因であろう。周囲から「君の顔だったらあんな高嶺の花にアタックしても見込みはない」と「暗黙のプレッシャー」をかけられているのを想像すると良い。「プレッシャー」はその成り立ちからして頻回性の原理から生じるもので、「報酬と罰」には分解できない。いわゆる「常識」と言うものもこの中に入ると思うが、これは我々の感性に依存する。これも「是認」や「否認」と言った「強化と罰」以前の問題である。ただ、「ほら見たことか」と言われたくないだけ程度の消極的な理由で維持されている行動は数限りなくある。
「恋」のように強化子が何かが分からない人間現象も指摘しておくべきだろう。「恋」においては「強化」されなくても維持されるという特質がある。アイドルの追っかけなどもこの範疇に入るだろう。
ケーラーが見出した「インサイト」もそうであろう。特にヒトの場合、その成立には「欲求」や「強化と罰」ではなく「価値観」や「視点」や「考え方」や「感受性」や「正しさ」と言う「報酬や罰」とは異なる心理的前提がワンクッションとして必要である。「決して強化されることのない」難病治療法を一生追い求めて人生を終わる医学者はいくらでもいる(この場合は無駄口をたたくとすれば「予期」が「報酬」だとこき抜かすことはできる)。
最後に、学習の本質が本当に機械的即物的な「強化と罰」にあるのかを振り返ってみる必要がある。多くのひとは「強化と罰」によってより、「結果の知識」とか「動機付け」によって「行為」を決めるのではないだろうか。このあたりは、もしかしたら大きなパラダイム・チェンジを必要とするのかも知れない。
これらのことから、我々は「行動主義」を「人間の学習の説明」さえ全般的に疑わしい「意識なき心理学(Psychologie ohne Bewusstsein)」と断じざるを得ない。
バンデューラの「観察学習」も含めて「学習」をめぐる行動主義の視野にはないものが、探せばいくらでも出てくる気がする。どうしてそうなのかと言えば、心理学者というのは「仮説」と言う名の「決め付け」をするのが好きだからである。
時は無限ではないので、人生には「失敗という名の成功」も「成功という名の失敗」も「答えがあるという答え」もあれば「答えがないという答え」も数限りなくある。たぶんそれは神様でも何がどちらとは分からないであろう。我々には「時代」や「生活様式」と言う極めて境遇的で個別具体的な縛りがあるからだけでそうしていることで埋め尽くされているためである。
僕は自分の身の丈が原始人くらいだと自覚しているので、せめて縄文時代以前に生まれたかった、産まれる時代を間違えた、といつも思っています。
そんな僕の目から見ると、僕の家系は父方が百姓で、母方が士族だったのですが、僕の顔立ちから考えると8割方父方の血を引いているので先祖は代々百姓だったと感じております。
そんな昔の身分制度にはほとんど意味なんかないと思っていますが、江戸時代の百姓社会と言うものは、お上には適当に顔色伺いをしておいて、基本相互扶助のヨコ社会だったと思うのです。
しかし、西洋と背比べをし始めた明治以降は企業にせよ学校にせよ軍隊にせよ官僚機構にせよすべてが「効率」と「利便」を追求する西洋流のタテ社会で、そうした社会はお金ととても相性がいいので資本主義社会が世界のトレンドになってしまっているのだと思います。日本にとってはまだ150年前まではそんな社会ではなかったし、日本人の常識の中にどこか今の世の中に違和感があるとしたらそこなんじゃないかと思うのです。
じゃあ、マルクスの言うような共産主義社会が本当に人間らしい社会かと言うと、僕はそうではないと思っています。なぜなら、資本主義社会にも共産主義社会にも「労働」と言う基本的な価値観に変わりはないからです。そこで問題になるのは「誰が得をするか」だけのことだと思います。世間では「両極端は一致する」とか「似た者同士は喧嘩する」と言われております。僕から見たらそのての思想対立はその程度のものに見えます。と申しますのも、特に日本共産党やその下部組織などで見苦しいのは、ほとんど洗脳と言って良いほどの理詰めと理屈によるとことんまでの弱い者いじめが横行していて、「理屈の武家社会」を形作っている点です。
人間の生活は労働だけから成っているわけでもなければ、世の中も然りです。たとえばエジソンのことを思うと、「発明は労働か?」と言う素朴な疑問に行き当たると思うのです。僕の「ダナイード」にしても、単なる偶然の思い付きで、それを労働だと僕は思いません。むしろ、「職業」と言う狭い枠でパフォーマンスをルーティーン化してしまっている現代では、完全な自由よりも劣ったアイディアしか生み出さないように感じています。たまに、アマゾンのCMのように良くできた訴求力のあるメッセージなど、瞠目するような感性に巡り合うことはありますが、あれに匹敵するCMをアマゾンは連発できませんでした。そこが「職業」と言うものの人間的限界だと思うのです。悲しいことながら、「職業」と言う概念が人間の視野の広さとか了見の狭さとか、そう言ったものに縛りをかけているような気がするのです。そもそも人間の測度が「成績」とか「パフォーマンス」と言うのが人間同士を分断するバカバカしいものの考えで、神様はそんな物差しで人間を見てはいないだろうと思います。
いま、障害者の問題とか、老人の「老人ホームへの姥捨て山(いわゆる楢山節考)」状態の問題とか、ホームレスの問題とか悲しい問題が多いですが、本当は人間と言うものは誰でも何か光るものを持っているはずなのに、そう言った宝の持ち腐れが多すぎるような気がしているのです。昔は老人の言葉は若者の道しるべだったはずが、そう言う意味で敬老精神もおざなりになっているし、ホームレスなんか僕と同じで生きることに不器用なだけで、彼らの方が人間らしい気もします。障害者も多くはパラリンピックなんかに憧れる向きも多いようですが、神様が彼らに与えたレゾンデートルがそうだとは僕は思いません。と申しますのも、僕のように「人生計画」とか「時間の束縛」とか「処世術」とか「(賭け事や議論なども含めて)戦」が一番嫌いな人間にとっては、僕が胸椎黄色靭帯骨化症と言う国の指定難病で自由を手にするまではこの世の中は世知辛過ぎたからです。
まぁ、今は行き掛かりで生きていくような世の中なので、タテ社会とヨコ社会が折衷されたような社会(たとえば、ご近所さんと仲良くしながら会社にも行く等)になることが日本にとっては一番幸福なのではないかと思います(老人の茶飲み話としては僕は一百姓の末裔としては本当はヨコ社会が一番人間にとって幸福だと思っています)。
要するに、日本人として現代を紐解くキーワードは、「資本主義か共産主義か」などと言うガチガチのパラダイムなり固定観念なりにあるのではなくて、「ヨコ社会かタテ社会か」、「労働(何かをコツコツと積み上げること)か暮らしの潤い(いわゆる施しや芸事や遊興や趣味)か」の2点に集約されると思うのです(眼力の鋭い読者の方はお気づきであろうが、ピアノを一生懸命練習しても金銭は得られないが、ピアノをリサイタルで弾くことには金銭が与えられるように、「労働」は突き詰めていくと結局測度の取り方から概念を定義する操作的定義、つまり、金銭を得られる人間の活動を「労働」と定義せざるを得なくなるでしょう)。
まぁ、僕もいろいろと不思議な体験をしてきた人間なので、宗教は仮面東本願寺ですが、神様も仏様もいて天国もあると信じていますが、「神様が人間に何のために頭を与えたか」の意味をいつも自問自答しながら考え事にそれが生かされるように残りの人生を歩いていきたいと思っています。
人生でやるべきこと考えるべきことはすべてやったと感じているので、いつお迎えが来ても未練はないです。ただ、物事は一足飛びではなく現状を直視してどう言う理念を志向して今やるべきことは何かを考えるのが人間の知恵の見せ所だと思うのです。いきなりの変革は混乱しかもたらさないと思いますので。
こんにちは。
今日は人間を人間たらしめている「ことば」について考えてみたいと思います。
「ことば」については数多くの哲学者が問題にして考えてきました。特に「ことば」のひな型である「カテゴリー」については、カントが大きく取り上げて以来、ウィトゲンシュタインをはじめとする「日常言語学派」と言う哲学の一派が20世紀の哲学界で中心的な位置を占めるに至りました。
そして、現在も生きており、さまざまな社会問題について発言しているチョムスキーと言う言語学者が「人間は産まれ付き言語獲得装置(LAD)を持って生まれてきており、この世には普遍文法(UG)と言うべきものがあり、どの言語圏に産まれるかによってそれぞれの言語構造の関数的構造が決定されていく」と主張しています。
具体的な英語の関数構造については、読者の皆さんもわけが分からないと思いますが、以下のような関数構造を持つと彼は分析しています(wikiより転載)。
「チョムスキーの著書『文法理論の諸相』(Syntactic Structures、SS、1965年)では、アメリカ構造主義言語学のIC分析と呼ばれる文の分析方法が句構造規則によって改めて捉えなおされた。
例えば、 A girl liked a boy. という文には [S[NP[D a][N girl]][VP[V liked][NP[D a][N boy]]]] という分析が与えられ、次のような、連続し順序付けられた構成素に分析していく書き換え規則によって導出される。括弧()で括られた要素は任意要素である。’^’は範疇の結合を表すものとする。句構造規則は順序付けがなされていない。 S → NP^VP VP → V NP → (D^)N V → {liked, …} N → {girl, boy, …} D → {a, the, my, some, every, …} 個別言語はSの集合と見なされる。Sは文(sentence)を示唆しており、句構造の派生の端緒となるため始発記号と呼ばれる。NPは名詞句(noun phrase)、VPは動詞句(verb phrase)、Nは名詞(noun)、Vは動詞(verb)である。Detは限定詞(determiner)と呼ばれ、伝統文法でいう冠詞のほか、my, some, everyなどの要素を含む。終端記号は’a’,’girl’,’boy’,’liked’のような語彙項目である。」
僕はこのようなほとんど理解不能の言語関数論を大学時代に読んで、「ことばってそんなに難しく考えないと理解できないのかな」と疑問を持ち反発を感じてきました。
それよりももっと分かりやすくて「この認識論は凄い」と思った言語論がありました。
それは廣松渉氏のカント以来のカテゴリー論を見事に捉え返した「として等値化的統一」と言う人間の認識やことばについての考え方です。
それは、人間と言うのは、「所与を所識として」認識すると言うきわめて分かりやすくて見事な認識論でした。たとえば、「あれを象として」とか「安倍を首相として」認識することで人間の頭脳はその働きができる、と言うとても鋭い理論でした。
僕が想像するには、このアイディアの種になっているのはソシュールと言う言語学者が指摘した、「言語はシニフィアン(指示するもの)とシニフィエ(指示されるもの)から成っている」と言う彼の言語説だと思われます。たとえば、「犬」と言う単語(シニフィアン)は「ワンワンと吠える動物」と言う意味(シニフィエ)を指示しているわけで、彼の考えはかなりことばの本質を突いたものだったと思うのです。
話を「ことばの獲得」と言う問題に戻してみると、チョムスキーの言う「言語獲得装置」なるものを人間が遺伝的に持っていると言う考えは、心理学の立場から見ると非常にクレイジーに見えます。
なぜかと言うと、人間は能動的に環境を探索しない限りことばを獲得できないし、ある時期までにことばを身に付けないと、その後ことばを学習することは不可能になると言う知見があるからです。
確かに、ことばのカテゴリー論だけでは現実に運用されていることばと言うものを概念的にはともかく具体的には理解できませんし、そのためにチョムスキーのような人物が現れたと言う論理的必然性はあると思います。
僕はそこのところを、チョムスキー理論のようなわけの分からない理解の仕方をするのではなくて、もっと簡単に万国の言語を分かりやすく捉えられる考えを持っています。
それによると、人間のことばを構成する要素はたった3つしかない、と考えます。ひとつは「対象」、ひとつは「様態」、そして残りのひとつは「関係」です。
これまでひとびとが学校で習った文法論と言うのは、言葉の分類が複雑なわりにはどのような視点からことばを捉えているのかが分からないヌエのようなものだったと思います。いわく、「名詞」、「動詞」、「形容詞」、「助動詞」、「冠詞」、「助詞」、「関係代名詞」、「副詞」、「接続詞」etc.。
しかし、僕の捉え方で言語を捉えると、そのような分類では別々に捉えられていたようなことばの要素が、もっと柔軟に捉えられるようになるのです。
たとえば、「AとB」の「と(and)」と言うのは「接続詞」、同じ意味でも「と(with)」は「助詞」と言ったように、さしたる理論的根拠もなく別々のカテゴリーとして考えられてきました。
しかし、僕の考えではそれらは従来の単語の種別にかかわらず、「関係」と言うひとつの概念で理解できることがお分かりでしょう。
同様にして、「動く」と「きれい」、また「ひとつの」と言うのは従来の捉え方では「動詞」、「形容詞」、「数詞」と別々に捉えられてきましたが、僕の考えでは「様態」と言う分類に属することが理解できるように思います。
これまでの無味乾燥な文法論でことばを捉えようとするから、ことばについての知識がこれまでの学校教育では「できる子」だけのものでした。しかし、僕のようなことばの捉え方をいまの子どもたちが覚えてくれれば、ドロップアウトの子などいなくなると思います。こう言う問題は暗記型の選良教育がはびこっている現在、学校教育の中に無数にあると僕は思っています。
皆さんどうでしたか。ことばについての理解が一歩進んだ気がしませんか。
ちなみに僕は「異国語同士の人間の心と心は通わない」と言う「サピア-ウォーフ仮説」の信奉者です。少し長い定義になりますが、「ことば」とは「臆想受容帰担」のことだと思います。
今日は「ことば」について考えてみました。
廣松哲学では、「もの」は「物象化」されて「独立自存の実在」と「錯認」され、「関係の第一次性」と言う世界の存在性格を「誤認」していると言う。
そして、たとえばそこに「机」があるときに、我々は「机の自存」を現認するのではなくて、「机と私の関係」、つまり「机と言う事」を現認する、と言う「事的世界観」が正しいと言う。
しかし、たとえばある惑星系が生じ、別にも他の惑星系が生じたときに、「それらは関係である」と言えるのであろうか。
またあるいは、我々の年代にもなると同世代のひとびとが「孫ができた」と喜んでいて、認識以前の問題として「生成」があって「関係ができる」のではないか、とも言いたくなる。なぜなら、我々は知人から「孫ができた」と告げられるまでは、その存在を知らないばかりか、以ての外何らの関係もない。
「生成」と言う事実と「関係」と言う概念は極めて折り合いが悪い。日常会話では我々は「関係」は「作るもの、できるもの」だと言う理解をしているが、殊に自然の「造作」は確かにあるものとあるものを「関係づける」かも知れないが、大方の自然の「造作」は「それぞれ別個に生じるもの」だと我々は理解する。
「造作」によってできたものを発生論的に識別するために我々は「系」と言う概念でそれらを把握する。なぜかと言えば、少なくとも発生論的にはある「系」とまた別の「系」は半ば独立して生ずると理解しているためである。
「関係の第一次性」と言う考えをとことんまで垂涎すると、このような我々の「発生論的理解」に危機および疑義を生じかねない。世界事象にはそれにフィットする適正な概念やスキーマが存在するのは我々の世界理解にとって必要かつ有益であり、極論を以て排除すべきとは思わない。
そればかりではない。我々動物は生得的な感覚というものを持っている。それは「痛い」とか「怖い」とか「面白い」と言った感覚である。これらにはわざわざ我々の「対他的反照規定性」と言う社会的な認識論的手続きなしに起きてくると言う特質がある。要するに、「感情」を排除した概念が「認知」なら、「認識」においては感情的なものを排除できないのである。
彼が「関係の第一次性」を称揚した目的が、と言うより舞台設定があまりにも身近な事象や出来事なので、なるほど彼の「存在と意味」などを読むとやり込められたように感じはするが、概念と言うものはダテや酔狂で存在するのではなく、我々の認識の内包を伝えんがために存在するのではないだろうか。
「もの」と言う概念にしても、彼の言う「対他的反照規定性」と言う側面だけではなくて、例えば我々が「頭」と言う身体概念を強固に持っているのは、それには「質量」もあれば「構造ないし造り(これがたぶん“実在”と呼ばれるゆえんであろう)」もあり、まさに「それだ!」と指摘したい迫真性や感覚以外不得性を含意しているので汎用概念になったのではないだろうか。
で、最後に僕がこのような記事を何のために書いたのかと言うと、それで困る場合は別として日常概念でものごとを理解することに何ら問題はない、と言いたいだけなのである。
大学などで心理学を専攻された方なら誰しも知っていることとは思うが、心理学と言う学範の中では、「パーソナリティの維持要因」を「自己肯定感」だとか「自尊心(self-esteem)」だとか「優越感」だとか考えられているのは周知の事実である。
しかし、そのような見方には、「大学」などの「高等教育機関」独特の文化が反映されているのではないか、と思わされることも多い。
「大学」は「お受験」をして「合格」と言う「お墨付き」を得たものが通うところである。
なので、その了見をそのまま地で行けば、「パーソナリティの維持要因」が何か「特別感」めいたものになることはことの成り行きとしてある意味自然なことなのかも知れない。
しかし、我々のような在野の人間から見れば、「みんなはどうして何だかんだ言って人生を生き得ているのか」と思うと、なにもそう言う特別な人間の「心の支え」を仮定する必要など1つもなく、端的な言い方をすると、「勿体がもつから」やってゆけるのではないか、と思うのである。
この「勿体がもつ」ことの測度は、「自己肯定感」でも「自尊心」でも「優越感」でもなく、単純に「自己大丈夫感」と考えれば良い。
「勿体がもつ」のには必ずしも「特別感」めいたものの必然性はなく、実に様々な理由が含意されているのではあるまいか。
それは価値観そのものを疑うことなしに我々は真実にはたどり着けない、と思う一例であろう。それは我々が何でも「価値付ける」ことによって生きているのか、と言う人生観における常識の限界を示しているのかも知れない。
※この記事は、僕の中学校時代の友人観察を基に書かれました。
理とは何ぞや。理とは自然における事象の規矩性である。
多くのひとたちは、「理を知る」と言うことは「頭の善し悪しの問題」だと勘違いしているように思う。
しかし、僕の人生経験では、「理を知る」と言うことは「頭」や「知能」の問題などではなく、「表情を読み解く力」のように感じている。
もちろん、「表情を読み解く力」は、程度の問題はあれど、対人関係や社会関係の豊かさによって涵養されてゆくものだと思う。
みなさんは気付かないかとは思うが、この「表情を読む」と言うことは、無機的な見方をすればかなり難度の高い荒技であることにお気づきだろうか。それが生得的に備わっていることにはただ驚嘆の意を覚えずにはいられない。
理を用いて何かを「創造」すると言うのは言うまでもなく「建て付け」の才覚であろう。しかし、その本質は「直観」であり、結局「表情を読み解く力」に帰さしめられるように思う。
では、「頭」とか「知能」と言ったものの正体は何なのか。
それはたぶん、「知能」派の心理学者に言わせれば、「思考的技巧力」、すなわち「まったくの傍観者として諸事象を系統的に整理して理解する力(ものごとに都合をつける力)」のことを言うのであろう。一般に知能指数(IQ)と呼ばれているものは、答えが1つしかない課題への正答の多寡の問題であり、ある意味で概念そのものが「思考的技巧力」とはまた何か別のものを見ているように思われる。それは知能と言う仮説的構成概念があたかもひとつのモジュールであるとする見方が強いためである。
敢えて僕なりの「IQ観」を言わせていただけば、「IQ=知能」と言うわけではなくて、「IQ=意欲」だと考えている。なので、「IQ(知能)」と言う概念は、誤った偶像崇拝のような気がしている。
それをもう少し敷衍して言ってみよう。僕の父方の祖父は尋常小学校の頃、いつも学年で1番の学業成績だった。それは祖父が素人の将棋で最高位の3段だったことからも窺える。僕は遺伝的に祖父の血を継いでいる。それは祖父の系譜はみな脱腸で、僕も脱腸だったので知れることである。しかし、僕の義務教育時代の学校の成績は概ね平均程度に過ぎなかった。それで学業成績とか知能と言うものが「何にでも意欲を持って取り組める力」だと思い至ったわけである。
要するに、「IQ神話」があるせいで、多くのひとは「高IQ=頭の良さ」だと信じているようであるが、その考えは経験的に見て完全に誤っている。
そのような意味で、こころと言うものは、我々の見当違いがとても多く含まれているという気がする。