「生成」と「関係」の衷合としての「系」

 廣松哲学では、「もの」は「物象化」されて「独立自存の実在」と「錯認」され、「関係の第一次性」と言う世界の存在性格を「誤認」していると言う。

 そして、たとえばそこに「机」があるときに、我々は「机の自存」を現認するのではなくて、「机と私の関係」、つまり「机と言う事」を現認する、と言う「事的世界観」が正しいと言う。

 しかし、たとえばある惑星系が生じ、別にも他の惑星系が生じたときに、「それらは関係である」と言えるのであろうか。

 またあるいは、我々の年代にもなると同世代のひとびとが「孫ができた」と喜んでいて、認識以前の問題として「生成」があって「関係ができる」のではないか、とも言いたくなる。なぜなら、我々は知人から「孫ができた」と告げられるまでは、その存在を知らないばかりか、以ての外何らの関係もない。

 「生成」と言う事実と「関係」と言う概念は極めて折り合いが悪い。日常会話では我々は「関係」は「作るもの、できるもの」だと言う理解をしているが、殊に自然の「造作」は確かにあるものとあるものを「関係づける」かも知れないが、大方の自然の「造作」は「それぞれ別個に生じるもの」だと我々は理解する。

 「造作」によってできたものを発生論的に識別するために我々は「系」と言う概念でそれらを把握する。なぜかと言えば、少なくとも発生論的にはある「系」とまた別の「系」は半ば独立して生ずると理解しているためである。

 「関係の第一次性」と言う考えをとことんまで垂涎すると、このような我々の「発生論的理解」に危機および疑義を生じかねない。世界事象にはそれにフィットする適正な概念やスキーマが存在するのは我々の世界理解にとって必要かつ有益であり、極論を以て排除すべきとは思わない。

 そればかりではない。我々動物は生得的な感覚というものを持っている。それは「痛い」とか「怖い」とか「面白い」と言った感覚である。これらにはわざわざ我々の「対他的反照規定性」と言う社会的な認識論的手続きなしに起きてくると言う特質がある。要するに、「感情」を排除した概念が「認知」なら、「認識」においては感情的なものを排除できないのである。

 彼が「関係の第一次性」を称揚した目的が、と言うより舞台設定があまりにも身近な事象や出来事なので、なるほど彼の「存在と意味」などを読むとやり込められたように感じはするが、概念と言うものはダテや酔狂で存在するのではなく、我々の認識の内包を伝えんがために存在するのではないだろうか。

 「もの」と言う概念にしても、彼の言う「対他的反照規定性」と言う側面だけではなくて、例えば我々が「頭」と言う身体概念を強固に持っているのは、それには「質量」もあれば「構造ないし造り(これがたぶん“実在”と呼ばれるゆえんであろう)」もあり、まさに「それだ!」と指摘したい迫真性や感覚以外不得性を含意しているので汎用概念になったのではないだろうか。

 で、最後に僕がこのような記事を何のために書いたのかと言うと、それで困る場合は別として日常概念でものごとを理解することに何ら問題はない、と言いたいだけなのである。

パーソナリティの維持要因

 

 大学などで心理学を専攻された方なら誰しも知っていることとは思うが、心理学と言う学範の中では、「パーソナリティの維持要因」を「自己肯定感」だとか「自尊心(self-esteem)」だとか「優越感」だとか考えられているのは周知の事実である。  

 しかし、そのような見方には、「大学」などの「高等教育機関」独特の文化が反映されているのではないか、と思わされることも多い。  

 「大学」は「お受験」をして「合格」と言う「お墨付き」を得たものが通うところである。  

 なので、その了見をそのまま地で行けば、「パーソナリティの維持要因」が何か「特別感」めいたものになることはことの成り行きとしてある意味自然なことなのかも知れない。  

 しかし、我々のような在野の人間から見れば、「みんなはどうして何だかんだ言って人生を生き得ているのか」と思うと、なにもそう言う特別な人間の「心の支え」を仮定する必要など1つもなく、端的な言い方をすると、「勿体がもつから」やってゆけるのではないか、と思うのである。

 この「勿体がもつ」ことの測度は、「自己肯定感」でも「自尊心」でも「優越感」でもなく、単純に「自己大丈夫感」と考えれば良い。 

 「勿体がもつ」のには必ずしも「特別感」めいたものの必然性はなく、実に様々な理由が含意されているのではあるまいか。  

 それは価値観そのものを疑うことなしに我々は真実にはたどり着けない、と思う一例であろう。それは我々が何でも「価値付ける」ことによって生きているのか、と言う人生観における常識の限界を示しているのかも知れない。

 ※この記事は、僕の中学校時代の友人観察を基に書かれました。

理を知ること

 

 理とは何ぞや。理とは自然における事象の規矩性である。  

 多くのひとたちは、「理を知る」と言うことは「頭の善し悪しの問題」だと勘違いしているように思う。  

 しかし、僕の人生経験では、「理を知る」と言うことは「頭」や「知能」の問題などではなく、「表情を読み解く力」のように感じている。  

 もちろん、「表情を読み解く力」は、程度の問題はあれど、対人関係や社会関係の豊かさによって涵養されてゆくものだと思う。  

 みなさんは気付かないかとは思うが、この「表情を読む」と言うことは、無機的な見方をすればかなり難度の高い荒技であることにお気づきだろうか。それが生得的に備わっていることにはただ驚嘆の意を覚えずにはいられない。  

 理を用いて何かを「創造」すると言うのは言うまでもなく「建て付け」の才覚であろう。しかし、その本質は「直観」であり、結局「表情を読み解く力」に帰さしめられるように思う。  

 では、「頭」とか「知能」と言ったものの正体は何なのか。  

 それはたぶん、「知能」派の心理学者に言わせれば、「思考的技巧力」、すなわち「まったくの傍観者として諸事象を系統的に整理して理解する力(ものごとに都合をつける力)」のことを言うのであろう。一般に知能指数(IQ)と呼ばれているものは、答えが1つしかない課題への正答の多寡の問題であり、ある意味で概念そのものが「思考的技巧力」とはまた何か別のものを見ているように思われる。それは知能と言う仮説的構成概念があたかもひとつのモジュールであるとする見方が強いためである。

 敢えて僕なりの「IQ観」を言わせていただけば、「IQ=知能」と言うわけではなくて、「IQ=意欲」だと考えている。なので、「IQ(知能)」と言う概念は、誤った偶像崇拝のような気がしている。

 それをもう少し敷衍して言ってみよう。僕の父方の祖父は尋常小学校の頃、いつも学年で1番の学業成績だった。それは祖父が素人の将棋で最高位の3段だったことからも窺える。僕は遺伝的に祖父の血を継いでいる。それは祖父の系譜はみな脱腸で、僕も脱腸だったので知れることである。しかし、僕の義務教育時代の学校の成績は概ね平均程度に過ぎなかった。それで学業成績とか知能と言うものが「何にでも意欲を持って取り組める力」だと思い至ったわけである。

 要するに、「IQ神話」があるせいで、多くのひとは「高IQ=頭の良さ」だと信じているようであるが、その考えは経験的に見て完全に誤っている。

 そのような意味で、こころと言うものは、我々の見当違いがとても多く含まれているという気がする。

電気の正体と温度

 僕は昔火遊びをして痛い目に遭ったことがあるので、火とは何かがずっと分かりませんでした。  

 この年になって少しづつ分かってきたのは、燃焼と言う現象はものの電荷を失わせる働きで、煙と言うのは失われた電荷物質の表れで、いわゆる「電気」と言うのはイオンバランスの崩れの表れで、「電気の伝導」とは「イオンバランスの崩れの逃げ道」があることではないか、と言うことです。  

 電気学的に「暑さ寒さ」を考えると、それは「フレアによるイオンの方向状態の変化」の問題ではないかと思われるのです。それはただの状態変化なので、電気の偏在そのものに特に変わったところはないと思います。

 電気は絶対零度でない限りものに温存されていると思います。

 いわゆる「風」と言うものは絶えざるフレアによるイオンの極性の変化を表現しており、たとえば「太陽風」などもこの現れであると考えることができます。

 なので実は、簡単なやり方で寒いときも暑いときもイオンバランスを適正にする技術を開発できれば、我々は電気はおろか暑さ寒さ対策にも困らなくなるのかも知れません。

 それには帯電しすぎて困っている生物か空気中の帯電分子を取り入れる物質に蓄電させるのが適切かと思われます。

 そのように自然界では常に通電現象が起こっており、その力価は太陽光パネルのように特段人為的なものでなくても採取可能かと思われます。

 我々の「物体認知」と言うのは、電気光学的状態認知と言うことなのではないでしょうか。したがって、「物」と「私」に距離があるわけではない、と言うのが真相ではないでしょうか。

発話の機構と言語運用

 我々は常日頃からこのように日本語を話しているわけであるが、筆者の母国語である日本語の習得経験をヒントにタイトルのようなことを考えてみたい。  

 筆者は母国語である日本語を自分の祖母に身につけていただいた経験の持ち主である。  

 まだ3歳にも満たない筆者は、日本語の習得が大変難しかったことをよく覚えている。  

 言語の習得というのは、たぶんステップワイズ(逐次的)に進んでゆくものではなくて、いわば「言語ゲシュタルト」とでも言うべき言語の構図を「丸呑み」することで身に付くものだと言うことが何となく筆者には分かっている。  

 それは、「何を言っているのか」が分かると言うことはおぼろげながらできても、自らその言語を運用できるようになるのには完全な言語、ひいては言語機構そのものの「丸呑み」が必要だと言うことである。  

 この「ことばの丸呑み」ができて初めてたとえば筆者なら日本語をマスターできるように思われる。  

 動機付けと言う側面から見れば、「分からないのがもどかしい」と言う切迫した心理状態がその後押しをしているように思われる。  

 言語の運用は、少しずつできるようになる類のものではなくて、「ある日突然覚わるもの」であることをご理解いただきたい。

僕の心境

 心と言うのはインチキだ。

 誰が何のためにまるでハゲタカのように僕の心を吹聴し、心を押しつけてくるのか。 その理由を見つけることから始めよう。

 そして日本のすべての「国民」はみな誰も口に出さないだけで統合失調症らしい。 統合失調症の本態は何かと言われると、体の角度関係がおかしい心理状態だと言える。

 僕は知っている。「絆」と言うのは心理的なものではなく物理的なもののことを。

 人間、つまり「絆」と言う観点から見れば、心と言うのは身体のオモチャである。言い換えるなら、「身体が好きなように心する」と言えよう。そして心というのは炎のようなものである。炎を物質だというひとはいない。心も同断である。

 なので我々がいつも人間に見るものは「そのひとの性格」ではなくて「そのひとの体質」なのである。

「ダメノミクス」の穴埋め

 民草の財布を肥やすことに失敗した「アベノミクス」は、今となっては「ダメノミクス」と呼ぶべきだろう。  

 日銀の超低金利財政政策のために、経済の浮揚はもはや不可能のようにさえ見える。  

 これは我が国に限ったことではなく、先進国のほとんどが同じような経済状況にある。  

 本当に打つ手は何もないのだろうか。  

 僕はひとつだけ経済浮揚のための提言をしておきたい。  

 金利を昔のように5パーセントぐらいに上げて、世界中の注目を集めて日本が「世界の財布」になるように仕向けたうえで、集まった預金をさまざまな保険商品の運用資金にし、運用益で金利を賄えば、余剰金が出た場合は税収にすればよいので、財政再建は可能だと僕は思っている。  

 もともと僕は公共性と収益性の高い保険事業は国営でやるべきだと言う持論を持っていて、現在の保険会社の社員はすべて公務員にすべきだと考えてきた。  

 リスクが全くないとは言わない。だがそれはそれほど高いと僕は思わない。  

 そしてもうひとつ、僕が長年考えてきた政府の省庁再編案がある。  

 それは「国土保全省」と言う省庁に現在のいくつかの省庁(たとえば外務省・農林水産省・防衛省・国土交通省・環境省・資源エネルギー庁etc.…)を再編すれば、また、「生活文化省」に現在の文部科学省・経済産業省・厚生労働省・郵政省・法務省etc.…を再編すれば、行政手続きが一元化でき、簡素化できるであろう。  

 これら2つの私案は、無論コスト削減、すなわち財政再建を狙ったものである。  

 政治の形態として僕が望むものは、現状を見ているとあと5000年くらいの間は無理であろうが、コミュニティ重層的代表制が理想である。そこから決められた政治のトップは5~6人の「陪審員」が務め、ひとりが乱心しても他が代わるようにしておかないと政治的に危険である。  

 「アベノミクス」に失敗した総理は、自棄にでもなって「サケノミツクス」でもすれば良い。

「動物関係」

 僕のすでに鬼籍に入った2匹の雑種の雌の三毛猫「ボーちゃん」と「サイちゃん」の相関の在り方についての思い出を記しておきたいと思います。  

 「ボーちゃん」はとても神経質で臆病な猫でした。育てた僕は別として、見知らぬひとを見るとすぐに押し入れの中に逃げ込んで息をひそめているような猫でした。なので、僕のようにそんな性格の人間以外からはそんなに好かれると言うタイプの猫ではありませんでした。  

 「サイちゃん」はそれとは対照的に社交的で好奇心が旺盛で、誰からも愛されるタイプの猫でした。  

 しかし、彼女らの日常を見ていると、よく「ボーちゃん」が「サイちゃん」にちょっかいを出して「サイちゃん」を怒らせ、喧嘩が絶えませんでした。それに対して、「サイちゃん」が「ボーちゃん」にちょっかいをかけることはありませんでした。  

 どうしてかなぁ、と自分の人生経験に照らして考えると、僕の中学3年生のときのひとりの同級生のことを思い出すのです。  

 その同級生は、どういうわけか僕にだけイタズラをして喜んでいるように見えました。僕は彼のイタズラに付き合うだけの精神的な余裕はあったので、「あぁ、また来たか」と彼が僕にイタズラするたびに思う程度ではあったのですが、中学校の卒業文集のクラスのみんなからのよくある寄せ書きにこう書いてありました。「君くらいしか構ってくれるひとがいなくて、どうやったら構ってくれるかがわからなくてあぁ言うことしかできなかった」と。  

 それを読んだ僕は目頭が熱くなりました。  

 たぶん、「ボーちゃん」は彼と同じで孤独で寂しかったのだと思います。だから、猫であれひとであれ、心と言うものを考えて接していないと大きな後悔を残すものだと言うことが僕には学べたような気がしています。と同時に、心理学のように猫に何ができるかを実験によって確かめるより、ただそっとそばで見ている方が人間にとってどれだけ豊かな発見をさせてくれるのかも痛感しています。

↓記事中には触れていなかった雑種犬「クロ」

↓雌の雑種の三毛猫「ボーちゃん」

↓雌の雑種の三毛猫「サイちゃん」