「ことば」を考える

 こんにちは。  

 今日は人間を人間たらしめている「ことば」について考えてみたいと思います。  

 「ことば」については数多くの哲学者が問題にして考えてきました。特に「ことば」のひな型である「カテゴリー」については、カントが大きく取り上げて以来、ウィトゲンシュタインをはじめとする「日常言語学派」と言う哲学の一派が20世紀の哲学界で中心的な位置を占めるに至りました。  

 そして、現在も生きており、さまざまな社会問題について発言しているチョムスキーと言う言語学者が「人間は産まれ付き言語獲得装置(LAD)を持って生まれてきており、この世には普遍文法(UG)と言うべきものがあり、どの言語圏に産まれるかによってそれぞれの言語構造の関数的構造が決定されていく」と主張しています。  

 具体的な英語の関数構造については、読者の皆さんもわけが分からないと思いますが、以下のような関数構造を持つと彼は分析しています(wikiより転載)。

 「チョムスキーの著書『文法理論の諸相』(Syntactic Structures、SS、1965年)では、アメリカ構造主義言語学のIC分析と呼ばれる文の分析方法が句構造規則によって改めて捉えなおされた。  

 例えば、 A girl liked a boy. という文には [S[NP[D a][N girl]][VP[V liked][NP[D a][N boy]]]] という分析が与えられ、次のような、連続し順序付けられた構成素に分析していく書き換え規則によって導出される。括弧()で括られた要素は任意要素である。’^’は範疇の結合を表すものとする。句構造規則は順序付けがなされていない。 S → NP^VP VP → V NP → (D^)N V → {liked, …} N → {girl, boy, …} D → {a, the, my, some, every, …} 個別言語はSの集合と見なされる。Sは文(sentence)を示唆しており、句構造の派生の端緒となるため始発記号と呼ばれる。NPは名詞句(noun phrase)、VPは動詞句(verb phrase)、Nは名詞(noun)、Vは動詞(verb)である。Detは限定詞(determiner)と呼ばれ、伝統文法でいう冠詞のほか、my, some, everyなどの要素を含む。終端記号は’a’,’girl’,’boy’,’liked’のような語彙項目である。」  

 僕はこのようなほとんど理解不能の言語関数論を大学時代に読んで、「ことばってそんなに難しく考えないと理解できないのかな」と疑問を持ち反発を感じてきました。  

 それよりももっと分かりやすくて「この認識論は凄い」と思った言語論がありました。  

 それは廣松渉氏のカント以来のカテゴリー論を見事に捉え返した「として等値化的統一」と言う人間の認識やことばについての考え方です。  

 それは、人間と言うのは、「所与を所識として」認識すると言うきわめて分かりやすくて見事な認識論でした。たとえば、「あれを象として」とか「安倍を首相として」認識することで人間の頭脳はその働きができる、と言うとても鋭い理論でした。  

 僕が想像するには、このアイディアの種になっているのはソシュールと言う言語学者が指摘した、「言語はシニフィアン(指示するもの)とシニフィエ(指示されるもの)から成っている」と言う彼の言語説だと思われます。たとえば、「犬」と言う単語(シニフィアン)は「ワンワンと吠える動物」と言う意味(シニフィエ)を指示しているわけで、彼の考えはかなりことばの本質を突いたものだったと思うのです。  

 話を「ことばの獲得」と言う問題に戻してみると、チョムスキーの言う「言語獲得装置」なるものを人間が遺伝的に持っていると言う考えは、心理学の立場から見ると非常にクレイジーに見えます。  

 なぜかと言うと、人間は能動的に環境を探索しない限りことばを獲得できないし、ある時期までにことばを身に付けないと、その後ことばを学習することは不可能になると言う知見があるからです。  

 確かに、ことばのカテゴリー論だけでは現実に運用されていることばと言うものを概念的にはともかく具体的には理解できませんし、そのためにチョムスキーのような人物が現れたと言う論理的必然性はあると思います。  

 僕はそこのところを、チョムスキー理論のようなわけの分からない理解の仕方をするのではなくて、もっと簡単に万国の言語を分かりやすく捉えられる考えを持っています。  

 それによると、人間のことばを構成する要素はたった3つしかない、と考えます。ひとつは「対象」、ひとつは「様態」、そして残りのひとつは「関係」です。  

 これまでひとびとが学校で習った文法論と言うのは、言葉の分類が複雑なわりにはどのような視点からことばを捉えているのかが分からないヌエのようなものだったと思います。いわく、「名詞」、「動詞」、「形容詞」、「助動詞」、「冠詞」、「助詞」、「関係代名詞」、「副詞」、「接続詞」etc.。  

 しかし、僕の捉え方で言語を捉えると、そのような分類では別々に捉えられていたようなことばの要素が、もっと柔軟に捉えられるようになるのです。  

 たとえば、「AとB」の「と(and)」と言うのは「接続詞」、同じ意味でも「と(with)」は「助詞」と言ったように、さしたる理論的根拠もなく別々のカテゴリーとして考えられてきました。  

 しかし、僕の考えではそれらは従来の単語の種別にかかわらず、「関係」と言うひとつの概念で理解できることがお分かりでしょう。  

 同様にして、「動く」と「きれい」、また「ひとつの」と言うのは従来の捉え方では「動詞」、「形容詞」、「数詞」と別々に捉えられてきましたが、僕の考えでは「様態」と言う分類に属することが理解できるように思います。  

 これまでの無味乾燥な文法論でことばを捉えようとするから、ことばについての知識がこれまでの学校教育では「できる子」だけのものでした。しかし、僕のようなことばの捉え方をいまの子どもたちが覚えてくれれば、ドロップアウトの子などいなくなると思います。こう言う問題は暗記型の選良教育がはびこっている現在、学校教育の中に無数にあると僕は思っています。  

 皆さんどうでしたか。ことばについての理解が一歩進んだ気がしませんか。  

 ちなみに僕は「異国語同士の人間の心と心は通わない」と言う「サピア-ウォーフ仮説」の信奉者です。少し長い定義になりますが、「ことば」とは「臆想受容帰担」のことだと思います。  

 今日は「ことば」について考えてみました。

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