現代を読み解くキーワード

 僕は自分の身の丈が原始人くらいだと自覚しているので、せめて縄文時代以前に生まれたかった、産まれる時代を間違えた、といつも思っています。  

 そんな僕の目から見ると、僕の家系は父方が百姓で、母方が士族だったのですが、僕の顔立ちから考えると8割方父方の血を引いているので先祖は代々百姓だったと感じております。  

 そんな昔の身分制度にはほとんど意味なんかないと思っていますが、江戸時代の百姓社会と言うものは、お上には適当に顔色伺いをしておいて、基本相互扶助のヨコ社会だったと思うのです。  

 しかし、西洋と背比べをし始めた明治以降は企業にせよ学校にせよ軍隊にせよ官僚機構にせよすべてが「効率」と「利便」を追求する西洋流のタテ社会で、そうした社会はお金ととても相性がいいので資本主義社会が世界のトレンドになってしまっているのだと思います。日本にとってはまだ150年前まではそんな社会ではなかったし、日本人の常識の中にどこか今の世の中に違和感があるとしたらそこなんじゃないかと思うのです。  

 じゃあ、マルクスの言うような共産主義社会が本当に人間らしい社会かと言うと、僕はそうではないと思っています。なぜなら、資本主義社会にも共産主義社会にも「労働」と言う基本的な価値観に変わりはないからです。そこで問題になるのは「誰が得をするか」だけのことだと思います。世間では「両極端は一致する」とか「似た者同士は喧嘩する」と言われております。僕から見たらそのての思想対立はその程度のものに見えます。と申しますのも、特に日本共産党やその下部組織などで見苦しいのは、ほとんど洗脳と言って良いほどの理詰めと理屈によるとことんまでの弱い者いじめが横行していて、「理屈の武家社会」を形作っている点です。  

 人間の生活は労働だけから成っているわけでもなければ、世の中も然りです。たとえばエジソンのことを思うと、「発明は労働か?」と言う素朴な疑問に行き当たると思うのです。僕の「ダナイード」にしても、単なる偶然の思い付きで、それを労働だと僕は思いません。むしろ、「職業」と言う狭い枠でパフォーマンスをルーティーン化してしまっている現代では、完全な自由よりも劣ったアイディアしか生み出さないように感じています。たまに、アマゾンのCMのように良くできた訴求力のあるメッセージなど、瞠目するような感性に巡り合うことはありますが、あれに匹敵するCMをアマゾンは連発できませんでした。そこが「職業」と言うものの人間的限界だと思うのです。悲しいことながら、「職業」と言う概念が人間の視野の広さとか了見の狭さとか、そう言ったものに縛りをかけているような気がするのです。そもそも人間の測度が「成績」とか「パフォーマンス」と言うのが人間同士を分断するバカバカしいものの考えで、神様はそんな物差しで人間を見てはいないだろうと思います。  

 いま、障害者の問題とか、老人の「老人ホームへの姥捨て山(いわゆる楢山節考)」状態の問題とか、ホームレスの問題とか悲しい問題が多いですが、本当は人間と言うものは誰でも何か光るものを持っているはずなのに、そう言った宝の持ち腐れが多すぎるような気がしているのです。昔は老人の言葉は若者の道しるべだったはずが、そう言う意味で敬老精神もおざなりになっているし、ホームレスなんか僕と同じで生きることに不器用なだけで、彼らの方が人間らしい気もします。障害者も多くはパラリンピックなんかに憧れる向きも多いようですが、神様が彼らに与えたレゾンデートルがそうだとは僕は思いません。と申しますのも、僕のように「人生計画」とか「時間の束縛」とか「処世術」とか「(賭け事や議論なども含めて)戦」が一番嫌いな人間にとっては、僕が胸椎黄色靭帯骨化症と言う国の指定難病で自由を手にするまではこの世の中は世知辛過ぎたからです。  

 まぁ、今は行き掛かりで生きていくような世の中なので、タテ社会とヨコ社会が折衷されたような社会(たとえば、ご近所さんと仲良くしながら会社にも行く等)になることが日本にとっては一番幸福なのではないかと思います(老人の茶飲み話としては僕は一百姓の末裔としては本当はヨコ社会が一番人間にとって幸福だと思っています)。  

 要するに、日本人として現代を紐解くキーワードは、「資本主義か共産主義か」などと言うガチガチのパラダイムなり固定観念なりにあるのではなくて、「ヨコ社会かタテ社会か」、「労働(何かをコツコツと積み上げること)か暮らしの潤い(いわゆる施しや芸事や遊興や趣味)か」の2点に集約されると思うのです(眼力の鋭い読者の方はお気づきであろうが、ピアノを一生懸命練習しても金銭は得られないが、ピアノをリサイタルで弾くことには金銭が与えられるように、「労働」は突き詰めていくと結局測度の取り方から概念を定義する操作的定義、つまり、金銭を得られる人間の活動を「労働」と定義せざるを得なくなるでしょう)。  

 まぁ、僕もいろいろと不思議な体験をしてきた人間なので、宗教は仮面東本願寺ですが、神様も仏様もいて天国もあると信じていますが、「神様が人間に何のために頭を与えたか」の意味をいつも自問自答しながら考え事にそれが生かされるように残りの人生を歩いていきたいと思っています。  

 人生でやるべきこと考えるべきことはすべてやったと感じているので、いつお迎えが来ても未練はないです。ただ、物事は一足飛びではなく現状を直視してどう言う理念を志向して今やるべきことは何かを考えるのが人間の知恵の見せ所だと思うのです。いきなりの変革は混乱しかもたらさないと思いますので。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です