理を知ること

 

 多くのひとたちは、「理を知る」と言うことは「頭の善し悪しの問題」だと勘違いしているように思う。  

 しかし、僕の人生経験では、「理を知る」と言うことは「頭」や「知能」の問題などではなく、「表情を読み解く力」のように感じている。  

 もちろん、「表情を読み解く力」は、程度の問題はあれど、対人関係や社会関係の豊かさによって涵養されてゆくものだと思う。  

 みなさんは気付かないかとは思うが、この「表情を読む」と言うことは、無機的な見方をすればかなり難度の高い荒技であることにお気づきだろうか。それが生得的に備わっていることにはただ驚嘆の意を覚えずにはいられない。  

 理を用いて何かを「創造」すると言うのは言うまでもなく「建て付け」の才覚であろう。しかし、その本質は「直観」であり、結局「表情を読み解く力」に帰さしめられるように思う。  

 では、「頭」とか「知能」と言ったものの正体は何なのか。  

 それはたぶん、「まったくの傍観者として諸事象を系統的に整理して理解する力(ものごとに都合をつける力)」のことを言うのであろう。一般に知能指数(IQ)と呼ばれているものは、答えが1つしかない課題への正答の多寡の問題であり、ある意味で概念そのものがあまりにも狭い。それは知能と言う仮説的構成概念があたかもひとつのモジュールであるとする見方が強いためである。

 敢えて僕なりの「IQ観」を言わせていただけば、「IQ=知能」と言うわけではなくて、「IQ=意欲」だと考えている。なので、「IQ(知能)」と言う概念は、誤った偶像崇拝のような気がしている。

 それをもう少し敷衍して言ってみよう。僕の父方の祖父は尋常小学校の頃、いつも学年で1番の学業成績だった。それは祖父が素人の将棋で最高位の3段だったことからも窺える。僕は遺伝的に祖父の血を継いでいる。それは祖父の系譜はみな脱腸で、僕も脱腸だったので知れることである。しかし、僕の義務教育時代の学校の成績は概ね平均程度に過ぎなかった。それで学業成績とか知能と言うものが「何にでも意欲を持って取り組める力」だと思い至ったわけである。

 要するに、「IQ神話」があるせいで、多くのひとは「高IQ=頭の良さ」だと信じているようであるが、その考えは経験的に見て完全に誤っている。

 そのような意味で、こころと言うものは、我々の見当違いがとても多く含まれているという気がする。

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