ひもじさの辛さ

 

 僕は百姓の血を引いているはずなのに母親の実家のある桑名で百姓をやったら、蒔いた種はすべて土に帰っていき、自分の身の丈が原始人だと思い知ったことがあると以前書きました。今日はその頃のことで一番辛かったひもじさについて述べたいと思います。  

 現在はもうありませんが、母の実家があったのは桑名のはずれのムラのようなところで、僕のようなよそ者を周囲のひとびとは良く思っていなかったようで、煙たがられていました。百姓で食べようと思っても、収穫がありませんので貧しさのどん底に突き落とされました。 そこで、泣く泣く自分の愛蔵書を桑名のブックオフまで売りに行ったら、自分が思っていた値段の100分の1以下の値段に買いたたかれました。  

 そんなわけなので、暮らしはどんどん貧しくなり、食べるのは一日一食のインスタントラーメンと言う日々が2~3ヶ月続きました。他人の畑の作物を取ったら盗みになるので、10キロ近い道のりを歩いて桑名の街中の自動販売機の下に落ちている硬貨を探して暮らしを立てていましたが、警察官に職務質問をされることも度々でした。  

 それと並行して僕がその間やっていたのは部屋中の一円玉探しでした。よく床を見ると、昔お釣りでもらった一円玉が散乱していて、ひもじさを解消したい一心で一円玉を毎日拾い集め、10枚ずつをテープでまとめ、コンビニでそれを出してカップラーメンを買っていました。  

 いま聞いた話では一円玉は20枚以上だとコンビニは受け取りを拒否できるそうですが、コンビニの店員と言うのは法に詳しいわけではないので、一円玉の束を全部受け取ってくれて、100枚以上の一円玉を全部数え上げて受け取ってくれました。  

 貧しさやひもじさがいかに辛いかを思い知るとともに、僕の想像するような生活上の相互扶助の成立していないムラ社会でのよそ者への風当たりの悪さが身に染みた生活でした。要するに当時の僕は乞食同然でした。何度「死んだほうがまし」と思ったことでしょうか。  

 僕の想像していたムラ社会は「生活上の相互扶助」がある社会だと思っていたのが、現実にはよそ者にきわめて冷たい閉鎖社会でした。恐らく、ムラ全体が貧しければ、もう少しましだったと思います。ムラ社会の現状がこのようなものである限り、都市社会の人間から見たらそれは何の魅力もなく、ますます高齢化と過疎化に悩むようになるだけだと僕は思います。「誰でも暮らせるのがムラ」と言う現実とひとびとの認識を作らない限り、それにはますます拍車がかかるだけだと思います。  

 皆さんが当時の僕のように飢えているひとをみかけたら、できる範囲で結構ですので、残飯で良いので施してあげてください。それができなければ生活保護制度を教えて差し上げてください。そしてどなたか音楽センスのある方にはそのような内容の啓発ソングを作っていただき社会に流布していただきたいと切に思います。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です