零細企業の経済「学」

 我々は確か学校で、「ものの価格」は「需要と供給のバランスで決まる」と教えられてきた。

 しかし、我々のような零細企業の経営陣にとって、この理屈が完全な嘘っぱちであることはあまりにも明白である。

 マーケティングで市場開拓しようとしている経済戦略家にとっては確かにそうかも知れない、と言うよりそう見えるかも知れない。

 しかし、我々のような零細企業の経営陣にとっての「常識」は以下のようなもので、いわゆる経済学の教えるところとは全く違っている。

 「価格は、それぞれの事情で決まる」。

 結局、「お金の問題」と言うのは、社会と個人の財やサービスを巡る「請求分の信頼度」があるかどうか、そう言う事業が営めるか、ひいてはそこに公共投資をしているかの問題なのであろう。それを「適正」でなく欠く財やサービスは支払いの対象にならないし、信頼度の担保されていない経済はお金を紙くずにするだけだろう。

 財には現在のところ実質性のものと天然性のものがある。

遺伝か環境か

 心理学における「遺伝(nature)か環境(nurture)か」の最新の理論はサメロフとチャンドラーの「相互作用説(遺伝は環境に働きかけ、環境は遺伝に働きかけて行動が発現する、と言う説)」であるが、話を心理学ではなく常識に置き換えてみると何だかバカバカしくなってくる。

 心理面で遺伝が大きいのは「気質」だと言うが、たとえば我々の5感と言う一見障害されていないと当たり前に感じている諸能力も遺伝である。

 僕は若い頃からパソコンをやっている関係で視力が弱いのだが、この一事を取ってもそんなに難しく考える必要はなく、「環境変動値説」、つまり遺伝諸相の発現が環境変数によって規定されると考えれば大した問題ではないのではないか、と言うのが率直な感想である。

 「遺伝か環境か」の問題は差し置くとして、人間の判断はすべて経験値に依存する。    

思考の現象学

 みなさん、こんにちは。

 みなさんは、「思考(考えること)」について考えたことがおありだろうか?

 有名なのは、デカルトによる「演繹法」とベーコンによる「帰納法」であるが、僕なんかは現実に考える上でこれらの分類にはあまりにも現実性も実践性もないので考え直してみた。

 それらの考えになぜ現実性や実践性がないのかと言うと、常に思考を「法則」と関連付けるパラダイムが根底にあるからだ、と言えよう。

 どうしても「2分法」でと言う方のために、自分が普段営んでいる精神活動を分析してみた。

 そうすると、古典的な考えよりは現実的かつ実践的な思考の分析を導くことができた。

 ひとつは「傍証整合思考」で、もうひとつは「オーダー従容思考」と言うことになった。

 可能性の中から原因を探るときに我々は「傍証整合思考」を使う。

 新しい発見や発想をするときには我々は「オーダー従容思考」を使う。

 そしてどちらにも共通しているのは、それらは「探索過程と採否」を含む、と言うことである。

 図式的に書くとこうなる。

「問題・事象切片の検知」→「傍証整合思考/オーダー従容思考」→「結論の採否」

 とまぁ、定型的なことを言ったが、我々の現実の思考においては概ね両者がどちらも用いられていると考えるべきであろう。

 ところで、「ことばとは何か」を煎じ詰めてゆくと、「弾み(アクセント)とノリ(興不興)の体系」だと言うことになる。しかし、「弾み」には「音」も「波長」もある。「ノリ」には「気分」も「意欲」もある。絵画のようにそれがあまり目立たない人間活動もあるが、総じて言えば「ひとの心」もある意味での「弾みとノリの体系」だと言えなくはないだろうか。

 みなさんもいま一度自分なりに「思考」を考えてみませんか。

糖質と空気の不思議な関係

 みなさん冷凍庫にアイスクリームを入れてこんな経験はありませんか?

 「アレッ、アイスクリームの袋がパンパン」…。

 で思うわけですが、糖質が冷えると空気を膨張させているのではないか…、と。

 他にも、水だとそこそこの量がないと髪の毛は整えられないのに、自分の唾(つば)だとごく少量で髪の毛を整えられるとか…。

 ちょっと意外な暮らしのヒントかと思います。

意味の感度

 「哲学」と言う学範と言うか何と言うかには昔から認識を巡って「経験論(人間の心はすべて経験から作られると言う主張)」と「合理論(経験に先立つ器としての人間、言い換えればそもそも人間は経験を消化する様式を持っているので認識ができると言う主張)」に2分されて考えられてきた。

 しかし、「認識」と言うものは基本的に意味で現象を受け止めるものなので、その種別ごと、ひとそれぞれごとでそれなりの違いがあるだろう、と言う指摘は心理学などではたびたびなされてはきたことである。

 我々は、「学問」と言うぎちぎちの器で認識を考えるつもりはない。

 で、そもそもジョン・ロックの主張した「経験論」においては、人間の認識と言うものは「連合(連み)」から成ると言い、イマニュエル・カントの「合理論」においては人間には「先験的認識」があり、それが認識を可能にしていると言う。

 問題の「連みの認識」については、概ねロックが言うように心理学、就中学習心理学では「連合主義」が支配的であった。

 我々は「学問」と言う狭い器を無視して非常に常識的にこの問題を見ている。

 そもそも人間の認識をそのひとつひとつが「点」であり、理説が「線」であるとすると、どうも「点と点」を結びつける「経験論」なり「合理論」と言う「線」が、連みの認識の問題で引かれるべき「線」とはまったく異次元のお話であるような気がしてならない。

 そこで、我々が「連みの認識」を考えるときには、「意味の感度」と言うワンクッションを入れて考えないと、話がグダグダになってしまうように思っている。

 ひとそれぞれだけではなく、TPOや時代や境遇に応じてひとの「意味の感度」は違い、その違いによってならぬまでも現在の我々の、あるいは社会のあり方が規定されているように感じる。

 でまぁ、そう考えると何が明確になるのかと言うと、赤ちゃんには赤ちゃんなりの「意味の感度」があり、おとなにはおとななりの「意味の感度」はある、つまり、「先天的か後天的か」と言う議論は人間の現実のあり方について何も語らないと言う根本的な誤謬を抱え持っているのではないか、と言うことなのである。

 なお、珍しい、みんなと違う、あるいは印象深い個人的事象のマスコミ・信用筋による伝播は、当該個人の自意識に訴えやすい。ソクラテスでさえそのために多くの有識者の心を傷つけたその行動の元基には、占い師に「ソクラテス以上に賢いひとはいない」と告げられたためであった。この現象を「ソクラテス効果」と呼んでも良いが、それではソクラテスが可哀想なので、「プチ・サリエンシー効果」とでも呼ぼう。発信側がたまたま空想で思い付いたことでも、メディアが一対多である限り必ず誰かは傷つく。そうやって人間の運命は破壊されてゆく。

 今回は、「連みの認識」を考えるときに必要なワンクッションである「個々人の意味の感度」についてお話させていただきました。

寝癖の生態学

 みなさんは、夜眠るときに頭髪に「寝癖」がつくのが気になったことはありませんか。

 少しでもイカしたヘアスタイルをしたいひとにとっては悩ましいお話です。

 しかし、動物の生理現象にはそれぞれなりに何らかの「意味」があると考えると、「寝癖」の意味とは一体何なんでしょうか。

 僕はよく風呂上がりにそのまま眠ってしまい、多くの髪の毛が逆立っているのに後から気付いて、水に濡らして普段の髪型に戻すと言うようなことがままあります。

 しかし、髪がボサボサなことにはそれなりの生理学的、また生態学的な理由があるのではないか、と思い始めました。

 一番思うのは、髪の毛がボサボサだと言うことは、就寝時の髪の静電気量が一番多いときなのでは、と言うことです。そしてそれは、人間が一番無防備になるときなので、せめてもの「生きた振り(擬態)」なのではないか、と言うことです。

 なので、朝起きてからも我々はしばらくはボーッとしているのでその状態は維持されるのではないか、と。

 それは同時に、外見上「コイツはズゲェ」と思わせ、攻撃から身を守るための身体の知恵なのではないか、と。

 異論はあろうが、僕はそう思っている。

小噺「旬の給仕」

 昔、穀物は倉で保存しておりました。

 しかし、旬の野菜は長持ちしません。

 そこであるひとが倉から保存してある穀物を出して、ある野菜と一緒に食膳を出しました。

 それを食べたひとは、「なんて美味しいんだ!!」と飛び上がらんばかりに喜びました。

 そしてそのひとは給仕をしたひとに訊きました、「この美味しさは何なんだ?」と。

 そこで給仕したそのひとはこう言ったのです。

 「おくらいりですから」。

 お後がよろしいようで。

YouTubeアプリアクセスと頻回アクセスで440アクセスロス        ~YouTubeの闇~

 僕の原案で制作された「枯れ木にうんこを咲かせましょう」と言う曲のYouTubeアクセスが1000回を超えました。

 で、喜んでいたら、突然その後あったはずの60アクセスが消えてしまいました。

 なぜかを考えると思い当たることがありました。

 それは、スマホのYouTubeアプリを使って自分の曲を再生したことです。

 本来であれば、すでに1100アクセスに来ても良いだけの再生回数を誇っていたので、これには心折れました。

 これまでもときどき突然アクセス数が減るという現象に遭ってきましたので、こう言うことが有り得ることは心では分かっていても痛いです。

 自分の動画を自分のYouTubeアプリで閲覧するのはやめた方が良いみたいです。

 再生回数が1100を超えたらまたいきなり80アクセス飛びました。これはどうも僕が頻繁に自分のアクセス数を気にして再生したのが原因のようで、がっかりです。

 そしてまた、300アクセスが削除されました。その後100アクセスが。

 YouTubeってのは恐ろしいところだぜ。ひとがいればいるほどひとがいなくなるんだ。