講座 心理学概論 3 心理学史 18 臨床心理学の誕生と発展

 1896年、ヴントのもとで学位を取得したウィットマーは、アメリカ心理学会ではじめて「臨床心理学」という用語を使用した。この時を以て臨床心理学が誕生したとみなされている。彼は学校生活や学習に問題を抱えたひとびとを心理学の知見を駆使して援助した最初のひとでもある。その後、19世紀初頭のビアーズやヒーリーなどの活躍により、精神障害や非行の問題への心理学的アプローチが発展し、児童指導クリニックが各地に作られ、児童指導運動の流れを作ってゆく。  

 それから時を少しおいた1920年代あたりから、行動主義に基づく動物恐怖症や夜尿症の治療の展開が見られ、その後ウォルピが系統的脱感作法という行動療法の原型を作り、ラザラスの多面的行動療法、スキナーとその弟子たちによる行動理論の臨床的応用などがぞくぞくと登場した。  

 すでに述べたので省くがそれ以前はこの分野の代表的治療法は精神分析だけだった。そこに主に教育・福祉問題に焦点を当てた「指示的カウンセリング」がウィリアムソンらによって提起されるのだが、それは行動主義の怒濤に凌駕されていた。しかし、「カウンセリング」と言う概念を提起した功績は認めなければならない。それはやがて、1940年代のロジャーズによる「非指示的カウンセリング」に取って代わる。彼は「教えるから変わる」のではなくて、「教えないから変わる」という人間性理論によって代表される「臨床心理学の第3潮流(マズロー)」と位置づけられている。彼の弟子に、「既存の心理学理論では、パーソナリティを変化に抵抗するものと位置づけているがゆえに、パーソナリティの変化をうまく扱えないでいる」として、それに変わる「体験過程論」を唱えたジェンドリンがいる。  

 教条主義的な行動療法に冷や水を浴びせたのは、バンデューラである。彼は子どもを対象とする実験を行い、ただ行動を観察するだけで学習は生じうることを示した「モデリング」という概念を提起し、学習には必ず報酬が必要だとする既存の行動理論に異を唱え、モデリングの臨床応用にも積極的だった。  

 そのような点も踏まえて、現代ではベックの唱えた「認知療法」と既存の行動療法が結びついた「認知行動療法」が特に盛んになってきている。  

 以上で「心理学史」は終わりである。いよいよこれから心理学の扱う問題と論争を見てゆくことになる。

講座 心理学概論 3 心理学史 17 行動主義の台頭

 19世紀末のロシアでは、胃酸の分泌の研究をしていた生理学者(彼は「心理学者」と呼ばれることを嫌った)パブロフが、イヌを被験体とした実験の中で、肉粉を盛った皿を皿だけ見せても顕著な胃酸・唾液の分泌が見られることを発見し、これを「精神的分泌」と名付けた。この研究は先述の通り、アメリカに紹介され、これを契機にアメリカでは実体の見えない「心」を研究するのではなくて、観察可能な「行動」を研究すべきだとする学者が1910年頃には多数存在した。  

 そんな中で1913年にワトソンは「行動主義者の見た心理学」と言う論文を発表し、それまでの主観的言語による心理学の追求を、科学の要求する客観性・公共性を損なうものだと厳しく非難し、科学的心理学が研究すべきものは目に見えぬ「心」ではなくて、観察可能な「行動」だけだと主張し、自らの立場を「行動主義」と呼んだ。  

 行動主義の濫觴はデューイやエンジェルのいたシカゴ大学にあった。ワトソンはロックと同じく極端な環境主義者であった。11ヶ月の「アルバート坊や」の実験ではシロネズミを見るたびに不快な金属音を鳴らすことを繰り返すと、アルバート坊やはシロネズミだけではなく白ウサギ、さらにはサンタクロースのひげを見ただけで恐怖から泣くようになることを示した。パブロフの実験も含めてこれらの現象は、後にヤーキスとヒルガードによって「古典的条件付け」と名付けられたものである。  

 1930年代になると、科学的概念はそれを測定する手続きによって定義されなければならない、という「操作主義」の考えが、古い行動主義では説明がつかなかった現象の説明のために導入されることとなった。その中でクラーク・ハルは習慣強度、反応ポテンシャル、動因といった仮説的構成概念を導入し、反応が強められるのは反応によって動因が弱められるためである、という「動因低減説」を唱えた。1943年の著書「行動の原理」は世界的に普及した本となったが、それからのハルはどんどん難解で実証不可能な理論の袋小路に入っていった。

 ハルと対照的なのが巨視的目的行動を研究したトールマンである。短い期間だったがケーラーのもとで過ごしたこともあるトールマンは、期待、仮説、信念、認知地図と言った概念をその理論の中核に置き、サイン-ゲシュタルト理論を構築した。  

 これらの理論を不要に複雑な理論だとして、「条件付けは1回の試行で接近していれば成立する」という接近説をブチ挙げたのはガスリーであった。彼の理論が誤りなのは明白だけれども、学習の進展を1試行ごとに考えるという点では学習心理学において強化の規定因を1試行ごとに考える「レスコーラ=ワグナー・モデル」の中にその着想は生きている。  

 今日の学習心理学を語る上で欠かせないのが、何らかの反応(オペラント)をすれば何らかの報酬が得られるようなタイプの学習、すなわち道具的条件付けの研究に生涯を捧げたスキナーの存在である。彼は道具的条件付けを研究するためにバーを押せば餌が出てくるような「スキナー・ボックス」を考案し、条件付けの技法を用いて臨床的問題を解決する「シェイピング」という方法を考案した。  

 しかし、1960年代になって学習理論の限界が徐々に明らかになるにつれて、トールマンのいう「認知」を旗印としてナイサー、アンダーソンらによって「認知心理学」が唱導されるようになり、以前ほどの勢いは今の心理学界では失われている。

講座 心理学概論 3 心理学史 16 発達心理学の誕生

 19世紀半ばのドイツでベーアは人間の発達を「分化と体制化」の過程であるとする発達の一般原理を提唱した。その後ダーウィニストのヘッケルが「個体発生は系統発生を繰り返す」という反復発生説を唱える。後にアメリカのホールが発達原理として仮定したのも、この説である。  

 そういうドイツの雰囲気の中で、1883年にプライヤーが自分の子どもを出生直後から3歳になるまでの間を観察して「児童の精神」という本にまとめた。組織的観察法を用いた彼の手法は、彼の著作を以て児童心理学の誕生とされるだけの信頼性があると認められた。  

 これらの温床は19世紀に欧米における「身分制から職業選択の自由へ」という流れに求められる。標準的な教育としての中等教育の普及は、青年期という新たな発達段階を生み出し、1901年にボストンで始まった職業指導運動に代表される社会運動が青年期という時期に焦点を合わせて勃興し、1904年にはホールが反復発生説を基礎とした「青年期」という著作を書いた。これは青年心理学の始まりに位置すると考えられている。  

 1926年にウェルナーが「発達心理学入門」を著し、大人と子ども、文明人と未開人の比較から発達の一般原理を提出した。それは、「未分化-分化-統合」という定向発達を唱えるものであった。

 ロシアにも発達心理学が20世紀初頭に現れた。マルクスの弁証法的唯物論を発達に当てはめて考えたのはヴィゴツキーであった。彼は児童心理学を発達心理学に取って代わらせる役目を担ったピアジェとは対照的に、こどもの外言はやがて内言へと移行してゆくものと見、内言はやがて不要になるというピアジェと真っ向から対立する形となった。現在ではヴィゴツキーの立場を取る学者が多い。  

 1970年代になると、ライフスパン発達心理学(生涯発達心理学)が産まれ、減退や水準の低下といったこれまで否定的に捉えられていた中高年期以降の「老化」は、生涯発達心理学の重要なテーマとして「エイジング」という発想への転換をした。ここに、「ゆりかごから墓場まで」の心理学としての生涯発達心理学が誕生し、現在まで夥しい数の著作が刊行されるに至っている。その前提して1960年代のベトナム反戦運動とか学生運動が盛んになり、それが黒人の公民権運動や女性や高齢者の権利の主張にまで影響を与え、アメリカの中高年の危機を顕在化させたと言う背景があり、生涯発達心理学は時代の要請だったと言える。 

講座 心理学概論 3 心理学史 15 機能主義心理学

 1854年にスペンサーが書いた「心理学原論」の中で、彼はラマルク的進化論を中心とした適応の心理学について述べている。「進化論が正しいならば、心も進化の観点から理解することができる」と彼は言った。そして「知能は、質的な差ではなく量的な差である」とも述べている。それを受けてダーウィンは「人間はより程度の低い有機体から派生したものである」と言い、「人間の心と動物の心は程度の違いである」ことを強調した。ここに、心理学の基礎としての進化論が出現したのである。そして相関係数や個人差の心理学の基礎を自分の財産だけで研究したダーウィニスト、フランシス・ゴルトンが現れた。同時に彼は負の遺産も残したと言われる。いわゆる「優生学」である。この思想は「ヘッド・スタート計画」をもってしても白人と黒人の知能の差は埋められないとするジェンセンのような心理学者を出現させ、現代でもなお払拭され切れてはいない。ダーウィンの友人で比較心理学者のロマーニズは1883年の彼の著作の中で動物から人間にいたる心の進化の展望を書いたが、それが「逸話法」という方法によっていることがモーガンの「低次の原因で説明できる動物の行動を、より高次の原因で説明してはならない」という「モーガンの公準」と言う形での批判につながり、ソーンダイクらの失笑の的となった。  

 それ以前に入植が始まっていたアメリカでは福音派のプロテスタントが国をまとめあげていった。そのアメリカに心理学を移植したティチナーはイギリスのウォードのような思想、つまり内容ではなく機能を研究すべきとするプラグマティズムの思想に凌駕されつつあった。これは、実業を重視するビジネスの世界から湧き起こって来た思想である。このような土地では社会ダーウィニズムの受けが良かった。このような中でフランスのビネーが開発した知能テストが客観的だとして熱狂的に受け入れられたが、皮肉なことにそのようなひとびとの優生思想に冷や水を浴びせたのがナチスによるホロコーストだった。  

 プラグマティズムの公式な提唱者はパースであった。彼はベインの影響を受け、信念を習慣に還元し、ある信念が真理かどうかは「実際の行為と、どれだけ納得しうる関係にあるか」によると言った。このような現実の行為の認識論へのビルト・インはウィリアム・ジェームズによって遂行された。ジェームズは心を「目的を追求する戦士」だと言い、心身並行論を唱え、「心理学の原理」を書き、「脳という機械に重りをつければ我々はサイコロの4以上の目の出る確率を上げることができる」と言った。彼の「意識の流れ」と言う言葉はあまりにも有名である。彼は哲学と生理学を結びつけたこと、「泣くから悲しい」というジェームズ-ランゲ説を唱えたことでもよく知られている。  同じプラグマティズムの論客デューイは1896年に「心理学における反射孤の概念」という論文を書き、行動は反射孤ではなくて巡回回路であることを主張した。そしてエンジェルが現れ、ティチナーを倒してアメリカの機能主義を決定づける。1885年にはエビングハウスが「記憶について」という実験論文を発表し、その流れはヨーロッパにも取り込まれていく。ティチナーもエンジェルも機能主義者だと認めたブレンターノもヨーロッパで影響力を行使していく。  

 ちょうどその後(1909年)、ヤーキズとモーガリスが「動物心理学におけるパブロフ的方法」という著作をアメリカに紹介し、「行動主義」をアメリカで確実に準備してゆく。

講座 心理学概論 3 心理学史 14 精神分析学

 催眠療法を心理治療に本格的に導入したのはシャルコーであった。彼の弟子の中にはジャネ・ビネー・フロイトなど優秀な学者が多い。  

 パリのシャルコーが催眠によって心理的外傷となった出来事を神経症患者に再体験させると症状が消失することに感銘を受けたフロイトは、ブロイアーとともに「ヒステリーの研究」という書物を著し、同じ本の中でブロイアーとは違った見解を著して以来、彼と他の精神分析家の間には、常に対立があり、競合離散したことは以下に述べるとおりである。  

 その前に、彼の理論について述べておく必要があろう。彼は催眠を捨て、自由連想法という方法によって力動的無意識を明らかにしようとした。当初は前意識、意識、無意識という心の領域分けをし、神経系もそれに応じた3種類を仮定していたが、次第にイド・自我・超自我の葛藤・調整から心的生活は成るという、局所論から構造論へのシフトをした。彼の中心的仮定は幼児性欲説にあったが、それが発展して「エディプス・コンプレックス」説になった。乳幼児は異性の親とパートナーに成りたがるが、そこには同性の親という「障害物」がある。この障害物によって去勢されるのではないかという不安からイドを守るために同性の親に同化してその価値観を超自我として発達させることによって保身を図ることでその調整役としての自我が発達する、と言う説である(ヴィクトリア時代には女性にも精液の発射器官があると考えられていた)。フロイトはヴントと同じく心の予測は不可能で、心理学は考古学のようなものだと考えていた。  

 まず、劣等感の理論を唱えたアドラーが離れていった。フロイトはユダヤ人だったから、ユダヤ人ではないユングが仲間の一人になったことはフロイトにとってとりわけ嬉しいことだったが、当初から考えにずれがあり、ユングも分析心理学を唱えて袂を分かった。サリヴァンも有力な弟子の一人だったが、より社会的な理論を提唱し、袂を分かった。  フロイトにはアンナ・フロイトという娘がいた。彼女は現在の高校の教科書に出てくるようなフロイトの防衛機制の詳細な分類をしたことで有名である。それまでのフロイトは「抑圧」と「昇華」の概念を明らかにしていたに過ぎなかった。  

 精神分析のイギリス学派と呼ばれる対象関係論がイギリスでは活発化した。文字通り母親やその乳房、移行対象(忘れ形見)を重視する学派で、主要な人物にクライン・フェアバーン・ウィニコットなどがいる。中でもフェアバーンはフロイトに似た理論を展開し、注目を集めた。

講座 心理学概論 3 心理学史 13 ヴント以降

 ヴントのもとで学位を得た心理学者たちは数多いが、ヴントの理論を継承する心理学者は一人もいなかったと言って良い。その中でも優れた心理学者にキュルペがいる。彼は、ヴントとは異なって、高次精神機能である思考を実験的に研究することができると考えた。そして、さらに「心像のない思考」がある、と指摘した。彼はまた「思考制限法」によって連合主義の弱点が突けるとした。彼の「心像のない思考」にかんしては、1901年にマイヤーとオルトが「非常にしばしば、はっきりした心像とも意志活動とも言えない意識過程を、被験者たちは追想実験において報告したことを述べておかねばならない」と報告している。  

 ミル父子のようなイギリス経験論とヴントのような大陸観念論を折衷させ、アメリカに心理学をもたらした人物がティチェナーである。彼は心はそれ以上には解析できない「要素」が組み合わさってユニークな感覚が生じると唱えた。しかし、晩年の彼は科学の仕事を「相関の記述」だと完全に限定し、こと心に至っては、完全な記述主義者になった。このような極端な心観・科学観が災いして、彼の「構成主義」は、一代で滅びる運命となった。     

 1890年、キュルペのいたヴュルツブルグ大学のエーレンフェルスが「ゲシュタルト質について」と言う論文で、個々の要素である音の物理的性質は異なるのに移調しても同じメロディーが認識される事実を指摘して「部分の総和は全体とは異なる」というゲシュタルト心理学を宣言する。その師マイノングもこれを支持した。マイノングの師は作用心理学で有名なブレンターノであった。ブレンターノの影響を受けたエーレンフェルスは、ゲシュタルト質は「志向的」すなわち能動的な意識の働きによると考えたが、ベルリン学派のヴェルトハイマーやコフカ、ケーラー達はそうは考えなかった。  

 彼らによれば、ゲシュタルトは受動的に認識されるものであると言い、それは脳の電場であたかも「認識の写し」が生じるために認識が生起するという「心理-物理同型説」を唱えた。彼らは、そのような立場から音楽・錯視・洞察などの現象を説明しようとした。  

 しかし、同じゲシュタルト心理学であっても、「場の理論」を脳内過程に還元せず、あくまでも心理的なそれに限定するレヴィンのような立場も現れた。

講座 心理学概論 3 心理学史 12 体系的科学的心理学への道

 19世紀も半ばになると、生理学的心理学にかんする業績がちらほらと見られるようになる。G.A.ミュラーは、感覚ごとにそれを媒介する物質は異なる、とする「神経特殊エネルギー説」を唱えた。この追随者にヘルムホルツもいた。彼は1850年というきわめて早い年に、カエルの筋肉に刺激を与えて神経伝導速度を測定した。その結果、刺激の伝導は毎秒26メートルほどであることを突き止めた。これには先達がいた。L.ガルヴァーニ夫妻である。彼らはカエルの脚に雷の電流を流すと、あたかも生きているかのように収縮することを見いだしていた。この頃の計量心理学的研究として重要な発想は、単純な刺激とその反応と、単純な刺激と選択反応の差分が選択時間として測定できる、と言うドンデルスの研究に先駆的に見られるものである。  

 それと前後して、1834年にはウェーバーによって刺激の差分の検出限界、すなわち弁別閾にかんする法則が報告され、カントの「心は数学化できない故に科学の対象にはなり得ない」と言う考えが明白な誤りであることが実証された。そして1860年、テオドール・フェヒナーの「精神物理学要綱」が出版され、刺激の検出限界すなわち絶対閾、感覚量と刺激量の関係にかんする法則も提出された。一定の体系を備えた世界で最初の実証的著作の出版という意味で、1860年を体系的科学的心理学の始まりと見る心理学者も多い。  

 それにヴィルヘルム・ヴントが続く。ヴントはヘーゲルの哲学の発展的継承者だと自認していたが、はじめ(1879年)自分のポケットマネーで、1885年からはライプツィヒ大学の予算から世界最古の心理学実験室を運営したことで有名な人物である。ヴントの関心は「心的総合」にあった。たとえば「しょっぱい」と言う単語は「し」・「ょ」・「っ」・「ぱ」・「い」という5つの記号から成っているが、これらを「総合」することによって「塩辛い」と言う意味になる。このように、総合の働きから心的生活が成り立っているとヴントは見る。ヴントの力点は、このように後のティチナーが力点を置いた「構成」にはなく、「総合」にあった。ヴントの心理学がしばしばガンツハイト心理学と呼ばれるのは、このためである。彼は1870年に「生理学的心理学」と言うタイトルの本を出版しているが、特に有名なのが感情は「興奮-鎮静」・「緊張-弛緩」・「快-不快」の3方向で説明できるとする「感情の3要素説」であるが、最近の因子分析的研究で、その意義が再確認されたりして、古くて新しいヴントというイメージを再び植え付ける結果となっている。ヴントは実験的心理学を離れて、現実の人間を理解するためには、文化固有の物語・童話・神話などを分析して初めて明らかになると言う発想を持っており、それをできる学問を「民族心理学」だと考えていた。彼は彼が死んだ1920年に大著「民族心理学」を完成させており、それは今日の文化心理学の中に生きている。

講座 心理学概論 3 心理学史 11 現代心理学への伏線2

 ここでは、①シャルコーの心理療法の原理となった催眠療法への伏線としてのメスメリズム、②生理学的心理学の端緒となったガルの心理大脳生理学説、③超心理学の基となった心霊研究協会、の3つの消長について説明する。  

 ①について。18世紀に活躍したメスメルは、生命のあるものにはある種の目に見えない流体が働いており、この流れが阻害されると精神疾患がもたらされると考えた。この流れを正常にするには金属磁気に類比される動物磁気を手や魔法の杖で叩くなどして整えることで治療効果が得られると考えた。この考えは学会から冷ややかな目で見られ、彼の「動物磁気説」は否定的に捉えられた。そのため彼は晩年の15年ほどの間、その研究から完全に手を引いた。しかし世俗的には科学主義的合理主義を受け入れきれない多くの人々の間で人気を博した。学術的な進歩の観点からは、ブレードが後にメスメルの引き起こした現象は「動物磁気」などによるものではなく、それは「催眠術」だと指摘したことが、シャルコーのヒステリーの治療の中に取り込まれることとなっていく。  

 ②について。今では一般に「骨相学」と呼ばれているが、それはシュプルツハイムによる命名で、その呼称をガル自身は受け入れなかった。ただし一般に紹介されているように、ガルはプラトンのように心の座は脳にあり、脳の部位ごとに受け持つ能力は違っており、優れた能力の背後には、それを担う脳の部位に膨らみが見られ、そのため人の頭の形が異なっているのだと考えたのは事実である。その後この説をめぐって膨大な研究がなされたが、彼の仮説の中で正しかったのは「脳が心の座である」ことだけであることが次々と実証されていった。しかしこの仮説が心理学にとって果たした役割は大きく、大脳生理学の先駆者として彼は位置づけられている。  

 ③について。死への恐怖を科学は慰めてくれないことに大きな不満を持っていたマイヤーズは師シジウィクの激励を受けて心霊研究協会を設立した。この協会の会長を務めたことのある心理学者にウィリアム・ジェームズがいる。その後ジェームズは一般心理学へと向かい、マイヤーズは霊的現象の記録を記した本を書き、世俗では人気を二分した。  

 以上で欧米における科学的心理学への伏線を記した。次節からはいよいよ本格的な科学としての心理学の歴史に触れることとする。ただし、思想史的には大陸の合理論とイギリス経験論の間の右往左往・合算・折衷をそこにみることになるだろうから、意識的にまとめて簡略に触れることとしたい。「心理学検定」を受検しようとする人々のためには今節までの知識は必要ない。

講座 心理学概論 3 心理学史 10 現代心理学への伏線

 19世紀は、ロマン主義と新啓蒙思想、功利主義、連合主義、実証主義、マルクス主義が入り交じった大変複雑な思想状況を呈することになる。  

 ショーペンハウアーに代表されるロマン主義は、後述のダーウィン進化論の否定論者であって、意志や情念の価値を強調した。功利主義においては、J.ベンサムが「政府のすべき仕事は、個々人に快楽を追求させることであって、最大多数の最大幸福を目指すものでなくてはならない」と言い、功利主義の基礎を固めた。J.ミルは連合主義を究極まで推し進めて心を「巨大なあやつり人形」だとし、同時連合と連続連合を区別した。前者はプラトンが指摘したような「竪琴の音を聞くと弾き手の美しい女性が思い出される」ような場合であり、後者は端的に言って因果関係のことである。その息子J.S.ミルははじめベンサムを信奉していたが、やがて否定に回った。父親のJ.ミルほど過激な連合主義者にはならず、ある一定ロマン主義的な傾向も持っているが、主観的で神秘主義的なロマン主義を認めず、功利主義と経験論の改善に熱心であった。ニュートンの成功から、科学万能主義すら生まれ、それらは科学主義と呼ばれる。この傾向は宗教排除という方向に向かった。その第一人者がオーギュスト・コントであった。彼によれば神学の段階、形而上学の段階、科学の段階という風に社会は進歩すると信じられていた。コントは神を認めず、そのために彼の人間学的宗教は多くのものから嫌悪感を持って扱われ、結果、哲学的運動へと変転して行く。この後輩出したクロード・ベルナールとエルンスト・マッハのうちベルナールは客観的な仮説を客観的に厳密な方法でテストすることこそが、本当の知識に辿り着く道だと考えていたし、マッハに至っては科学的認識論を強固なものにするために「感覚の分析」という、心理学的な哲学書を書いた。科学の目的は感覚に経済的秩序を与えることだという(思惟経済説)。時空間の分析にも優れていた彼は、アインシュタインの相対性理論を予想するような物理学的分析までしている。あとマルクス主義が残っているが、マルクス主義からの心理学へのインパクトはほとんどなく(本当は一定あるが心理学の側が相手にしなかった)、ヴィゴツキーが登場するまでは、黙っておくこととしよう。  

 そして、生物にかんする革命的(これはひとりダーウィンが考えていたことではなく、ラマルクなども独自の進化論を提唱していた)見解として進化論が登場した。ダーウィンはイギリスのビーグル号に乗って南アメリカの動物たちを観察する機会に恵まれた。そこでは、共通祖先を持つと思われる種がそれぞれ独特の環境に適応しているという事実が、彼を印象づけた。イギリスに帰って彼は早速思索と観察、人為的な種の改良などの知識の集積を積極的に行い、1859年に「種の起源」を発表した。それにはマルサスの人口論やラマルクの進化論の助けが必要であったが、1859年に発表した内容は、既に1842年に完成をみた彼の観察と思索の結果であった。なお、「適者生存」と言う考えは1852年にスペンサーが先に唱えていた。このように、この時代、巷には進化論の着想を持つものが林立していた。  

 ダーウィンの友人で動物学者のロマーニズは、彼に刺激されて「(動物と人間の)比較心理学」の着想を持ったことは、心理学史的に注目されて良い。

講座 心理学概論 3 心理学史 9 啓蒙主義の時代

 啓蒙思想の原点に位置する学者はニュートンとロックであった。ロックに賛同しながらも信仰を捨てきれなかったバークリーだが、彼の有名な言葉に「存在すると言うことは知覚すると言うことだ」というのがある。バークリーの議論では、カントのように「物自体」を仮定するのではなく、知覚と存在は同一だと見なしていた。バークリーは網膜像が2次元的なものなのに何故3次元的知覚が起こるのかを「学習」によって説明した。その後カントは奥行き知覚が先天的なものであると反論したが、カントの正しさが証明されたのは1960年代であった。そのカントを「独断の眠り」から覚ましたのはヒュームであった。ヒュームは、いかなる科学も人間性と関係していると考えた。彼は形而上学の代わりに心理学をあらゆる学問の基礎としてニュートン的で経験論的な哲学を展開した。彼の心理学においてはロックとは異なり頂点に知覚を位置づけその下に観念と印象を置いた。観念は誤っていることもあるから、彼は観念よりも印象を重視した。そして、複雑な印象は、より単純な印象が複合して成立するという心理的原子論(後にティチェナーが提唱する「構成主義」の先駆け)を展開した。真理は経験的内容を持たないような観念を排除して観察可能な観念にしなければならないと言う。そしてロックが主唱した「観念連合」についてヒュームはその著「人間悟性論」のなかで「その原理には類似、時間的・空間的接近、因果の3種しかないと思われる」と書いている(我々に言わせれば上位・下位概念とか感情媒介的連合とか自問自答における該当とかエピソード記憶の場合に時折見られる突拍子もなく思うとか、他に幾種類もの“原理”を見出せるはずなのだが)。そして「原因から結果を推論し、結果から原因を推論する“自然の知恵”は間違いなしに働く本能あるいは機械的メカニズムとして我々のうちに植え込まれている」と言っている。そして人間の知識は、根本において習慣であるという、現代風に言えばハルのような理論を唱えている。  

 そのヒュームの著作を読んで「独断の眠り」から覚まされたカントは、ヒュームとは違ってあらゆる学問の基礎をなすべきものを哲学だと考え、我々が持っている知識は「現象」だと言った。カントは、心は能動的に経験を体制化して我々が知ることのできる形に構造化する働きがあり、それは産まれ持ってのものだと言った。カントは、科学は数学化できるものに限られるべきだと考え、彼の考えでは心は数学化できないので、心理学は科学にはなりえないと考えていた。ただ、人間性にかんする科学が成立しえないと考えていた訳ではなく、“人間学”がそれに当たると考えていたことを付言しておく必要があるだろう。カントはまた後のヴントと同じような考え方をした部分もあったし、行動主義者のような部分もあった。意識について、意識化できる部分とできない部分があると言う考えはヴントと同じだったし、心を内観によって研究しようとする際には心は特殊な形でしか観察しえないというのは行動主義者と同じだった。カントの考えは20世紀になって量子力学や非ユークリッド幾何学の発展によって、再び危機を迎えている。カントは「心理学」と言う言葉を普及させたヴォルフ、心の働きを「知・情・意」に分けて考えたテーテンスと同時代人である。  

 もう一人カントの心を揺さぶった人物がいる。その著書「エミール」を読みふけるうちにカントの定刻の散歩を遅らせたと言われるルソーである。ルソーの考え方は現代風に言うとロジャーズの考え方に非常に似ている。彼は教育の営みを、子どもに内在する能力の開花を手助けすることだと言い切っている。彼は言う、「子どもが何を学ぶべきかを示唆することはあなたの仕事ではない。大切なのは、子どもが自分で学ぼうと思うようになることなのである」と。  

 後に賢哲の時代がやってくるが、心理学にかんする歴史的地図は以上のような形で19世紀まで維持されることとなる。