講座 心理学概論 3 心理学史 10 現代心理学への伏線

 19世紀は、ロマン主義と新啓蒙思想、功利主義、連合主義、実証主義、マルクス主義が入り交じった大変複雑な思想状況を呈することになる。  

 ショーペンハウアーに代表されるロマン主義は、後述のダーウィン進化論の否定論者であって、意志や情念の価値を強調した。功利主義においては、J.ベンサムが「政府のすべき仕事は、個々人に快楽を追求させることであって、最大多数の最大幸福を目指すものでなくてはならない」と言い、功利主義の基礎を固めた。J.ミルは連合主義を究極まで推し進めて心を「巨大なあやつり人形」だとし、同時連合と連続連合を区別した。前者はプラトンが指摘したような「竪琴の音を聞くと弾き手の美しい女性が思い出される」ような場合であり、後者は端的に言って因果関係のことである。その息子J.S.ミルははじめベンサムを信奉していたが、やがて否定に回った。父親のJ.ミルほど過激な連合主義者にはならず、ある一定ロマン主義的な傾向も持っているが、主観的で神秘主義的なロマン主義を認めず、功利主義と経験論の改善に熱心であった。ニュートンの成功から、科学万能主義すら生まれ、それらは科学主義と呼ばれる。この傾向は宗教排除という方向に向かった。その第一人者がオーギュスト・コントであった。彼によれば神学の段階、形而上学の段階、科学の段階という風に社会は進歩すると信じられていた。コントは神を認めず、そのために彼の人間学的宗教は多くのものから嫌悪感を持って扱われ、結果、哲学的運動へと変転して行く。この後輩出したクロード・ベルナールとエルンスト・マッハのうちベルナールは客観的な仮説を客観的に厳密な方法でテストすることこそが、本当の知識に辿り着く道だと考えていたし、マッハに至っては科学的認識論を強固なものにするために「感覚の分析」という、心理学的な哲学書を書いた。科学の目的は感覚に経済的秩序を与えることだという(思惟経済説)。時空間の分析にも優れていた彼は、アインシュタインの相対性理論を予想するような物理学的分析までしている。あとマルクス主義が残っているが、マルクス主義からの心理学へのインパクトはほとんどなく(本当は一定あるが心理学の側が相手にしなかった)、ヴィゴツキーが登場するまでは、黙っておくこととしよう。  

 そして、生物にかんする革命的(これはひとりダーウィンが考えていたことではなく、ラマルクなども独自の進化論を提唱していた)見解として進化論が登場した。ダーウィンはイギリスのビーグル号に乗って南アメリカの動物たちを観察する機会に恵まれた。そこでは、共通祖先を持つと思われる種がそれぞれ独特の環境に適応しているという事実が、彼を印象づけた。イギリスに帰って彼は早速思索と観察、人為的な種の改良などの知識の集積を積極的に行い、1859年に「種の起源」を発表した。それにはマルサスの人口論やラマルクの進化論の助けが必要であったが、1859年に発表した内容は、既に1842年に完成をみた彼の観察と思索の結果であった。なお、「適者生存」と言う考えは1852年にスペンサーが先に唱えていた。このように、この時代、巷には進化論の着想を持つものが林立していた。  

 ダーウィンの友人で動物学者のロマーニズは、彼に刺激されて「(動物と人間の)比較心理学」の着想を持ったことは、心理学史的に注目されて良い。

講座 心理学概論 3 心理学史 9 啓蒙主義の時代

 啓蒙思想の原点に位置する学者はニュートンとロックであった。ロックに賛同しながらも信仰を捨てきれなかったバークリーだが、彼の有名な言葉に「存在すると言うことは知覚すると言うことだ」というのがある。バークリーの議論では、カントのように「物自体」を仮定するのではなく、知覚と存在は同一だと見なしていた。バークリーは網膜像が2次元的なものなのに何故3次元的知覚が起こるのかを「学習」によって説明した。その後カントは奥行き知覚が先天的なものであると反論したが、カントの正しさが証明されたのは1960年代であった。そのカントを「独断の眠り」から覚ましたのはヒュームであった。ヒュームは、いかなる科学も人間性と関係していると考えた。彼は形而上学の代わりに心理学をあらゆる学問の基礎としてニュートン的で経験論的な哲学を展開した。彼の心理学においてはロックとは異なり頂点に知覚を位置づけその下に観念と印象を置いた。観念は誤っていることもあるから、彼は観念よりも印象を重視した。そして、複雑な印象は、より単純な印象が複合して成立するという心理的原子論(後にティチェナーが提唱する「構成主義」の先駆け)を展開した。真理は経験的内容を持たないような観念を排除して観察可能な観念にしなければならないと言う。そしてロックが主唱した「観念連合」についてヒュームはその著「人間悟性論」のなかで「その原理には類似、時間的・空間的接近、因果の3種しかないと思われる」と書いている(我々に言わせれば上位・下位概念とか感情媒介的連合とか自問自答における該当とかエピソード記憶の場合に時折見られる突拍子もなく思うとか、他に幾種類もの“原理”を見出せるはずなのだが)。そして「原因から結果を推論し、結果から原因を推論する“自然の知恵”は間違いなしに働く本能あるいは機械的メカニズムとして我々のうちに植え込まれている」と言っている。そして人間の知識は、根本において習慣であるという、現代風に言えばハルのような理論を唱えている。  

 そのヒュームの著作を読んで「独断の眠り」から覚まされたカントは、ヒュームとは違ってあらゆる学問の基礎をなすべきものを哲学だと考え、我々が持っている知識は「現象」だと言った。カントは、心は能動的に経験を体制化して我々が知ることのできる形に構造化する働きがあり、それは産まれ持ってのものだと言った。カントは、科学は数学化できるものに限られるべきだと考え、彼の考えでは心は数学化できないので、心理学は科学にはなりえないと考えていた。ただ、人間性にかんする科学が成立しえないと考えていた訳ではなく、“人間学”がそれに当たると考えていたことを付言しておく必要があるだろう。カントはまた後のヴントと同じような考え方をした部分もあったし、行動主義者のような部分もあった。意識について、意識化できる部分とできない部分があると言う考えはヴントと同じだったし、心を内観によって研究しようとする際には心は特殊な形でしか観察しえないというのは行動主義者と同じだった。カントの考えは20世紀になって量子力学や非ユークリッド幾何学の発展によって、再び危機を迎えている。カントは「心理学」と言う言葉を普及させたヴォルフ、心の働きを「知・情・意」に分けて考えたテーテンスと同時代人である。  

 もう一人カントの心を揺さぶった人物がいる。その著書「エミール」を読みふけるうちにカントの定刻の散歩を遅らせたと言われるルソーである。ルソーの考え方は現代風に言うとロジャーズの考え方に非常に似ている。彼は教育の営みを、子どもに内在する能力の開花を手助けすることだと言い切っている。彼は言う、「子どもが何を学ぶべきかを示唆することはあなたの仕事ではない。大切なのは、子どもが自分で学ぼうと思うようになることなのである」と。  

 後に賢哲の時代がやってくるが、心理学にかんする歴史的地図は以上のような形で19世紀まで維持されることとなる。

講座 心理学概論 3 心理学史 8 イギリス経験論の登場

 デカルトより2年先にイギリスに産まれたのはトマス・ホッブズという名の哲学者であった。デカルトが人間を「完全な機械」とは見なかったのとは対照的に、ホッブズは人間を「完全な機械」と見、すべての知覚は知性的知覚に基づくものだと考えた。彼は形而上学を否定し、神学を無視した。おそらく彼を最も良く特徴付けていることは、思考と言語の同一視であろう。この考え方は後に出てくるヴィゴツキーの考え方のパラダイムと言っていいだろう。ホッブズ自身の最大の関心は、「政治科学」にあった。人間が決定づけられた機械だとすれば、政治に象徴される人間の科学が成立するはずだ、と彼は信じていた。もし無政府状態になれば、彼の有名な格言「万人の万人に対する闘争」が起こるから、安全や産業の成果と言った便益を与えるような、国民にゆだねられた絶対専政政治家が全員の意志を1つに委ね、社会を統制し、保護を与えるような政府がよい、と言う。この自然という機械の中では自然法則が我々が意識しようとしまいと働くはずだが、ホッブズは理性がこの自然法則に同意している間は、と言う留保条件をつける。つまり安全が脅かされたり、飢餓が蔓延するなどした場合には、「万人の万人に対する闘争」が勃発することになる。この点が物理法則と人間法則の違いとなる。  

 ジョン・ロックは人間の実際の心がどのような働きをするかを問題にした。つまり、人間の心が何を知るかではなく、どのように知るかに関心があったと言える。ホッブズ同様ロックも形而上学を切り捨てた。ロックは「心は・・・観念以外に直接の対象を持たないから、我々の知識は観念に近いものに過ぎない」といい、観念は経験からしか湧いてこないと言う。そして、心の働きや知覚や思考や記憶は生得的なものだと指摘した上で、かの有名な「タブラ・ラサ(精神無刻説)」を主張した。ロックにとっての真実とは明白に経験された真理の上に築かれるものであり、それを知識と呼ぶ。ロックはしかし一般に信じられているよりは理性主義者だった。言葉にかんして言えば、ホッブズのように思考を言語と同一視しないで、まず理性が先行すると考えていた。ロックがその著「人間悟性論」を書いた動機の一つはひとが何を知ろうとすれば本当に実りのある疑問だけを追究できるか、にあったとされる。しかし、ロックは肝心なところになるといい加減にごまかすようなところがあり、ロックの言う「観念」というのもロック以降の哲学者たちの間で議論が起こり、現在でも決着はついてない。

講座 心理学概論 3 心理学史 7 大陸の合理論の登場

 16世紀になると、望遠鏡の発明をし、コペルニクス的地動説を発展させ、惑星の観測をしたガリレオ・ガリレイが現れ、天体の軌道がガリレオによって円形だと仮定された仮説を、その友人ケプラーが惑星の軌道は楕円形であることを証明し、修正した。このような新しい世界観を決定づけたのが1687年にアイザック・ニュートンによって著された「自然哲学の数学的原理」であった。  

 このような時潮の中、懐疑主義者であるルネ・デカルトはあらゆるものを疑ってみて、神の存在、自分自身の感覚の妥当性、自分の身体の存在だけは疑うことができないとして演繹法を唯一の真理に到達する方法として用い、事実が理性によって正しく秩序づけられたときに、はじめて意味を持つと主張した。哲学を内省によって行うという。チョコレートとカカオとココアの分量についてチョコレートとカカオが同じでありチョコレートとココアが同じならばカカオとココアも同じ分量であることを知るのは、学習を通さず理性のみで判断できるので、こうした判断は生得的だとデカルトは言う。デカルトは、形相の代わりの明晰判明な観念は感覚から来るものではなく、我々の魂に自然に内在するある種の真理の根源があるという。彼は、神は宇宙という機械を作り、それを作動させたという考えを持っていた。だから、このすべてに「延長」と言う性質を有する機械の法則、すなわち自然の法則を理解し、利用することが哲学の仕事だと考えられていた。身体は機械であり、心はこれとは異なり非物質的なものだが、相互作用するものだというのが彼の見解であった。  

 次いでパスカルが現れた。パスカルは数学に関して神童であった。計算機をつくり、理性を機械に行わせようとした。そしてスピノザは神と自然を同一視した。そして心は物質の一側面であり、機械論的に決定されたものであると考えた。彼はそういっておきながら一方では賢いひとというのは理性に従って行動するひとだと言った。少し遅れてライプニッツが現れ、数学者として微積分学を打ち立て、形而上学としてはモナドという物質の根源を仮定し、精神と身体はちょうど狂いのない時計をあらかじめ合わせておきある時点で両者が合致するのが因果的関係によるものではないように、平行に存在しているに過ぎないと主張した。すなわちモナドは前述の2つの時計のように予定調和されているだけなのだと言う。知覚に関して彼は「微小知覚」と言う考えを述べている。微分学と類比的に小さな雨粒一つ一つの音は知覚できないけれども、その集まりとしての小雨は知覚できる。人間の知覚はこのような「微小知覚」から成っていると彼は考えた。そして知覚が精密化する働きのことを「統覚」と名付けた。この時期にはゴクレニウスが西欧で初めて「心理学」と言う名称を使った「人間学的心理学」と言うタイトルの書物をデカルトが生まれた1590年という極めて早い時期に発表している。彼は「存在論」と言う語の発案者としても知られている。

講座 心理学概論 3 心理学史 6 中世の終焉とイタリア・ルネッサンス

 黒死病の流行によって人口の半分を1400年には失ったヨーロッパであったが、キリスト教会はオッカムの哲学を公式の教義としてその存続を図ろうとしたけれども、1517年に始まった宗教改革でルターは99箇条のテーゼを教会に突きつけ、アウグスティヌス的思想に味方した。紆余曲折を経てルターの立場、すなわちプロテスタンティズムが勝利した。  

 イタリア・ルネッサンスの始まりはペトラルカに始まると言って良い。彼はギリシア古典学、教育学、歴史学の分野でも活躍した詩人である。この時代にはシェークスピアやダ・ヴィンチやマキャベェリなどの芸術家、政治家が輩出した。しかし、哲学的には新しいものは何も産み出されていない。  

 この時代の特質は、一言で言えばギリシア回帰と呼ぶのがふさわしいであろう。ギリシア古典文献の翻読が盛んに行われ、この特質をついた言葉が「ルネッサンス」なのである。  

 イタリア・ルネッサンスを特質づけるもうひとつの傾向は、「ヒューマニズム」であった。神を捨てたわけではなかったけれども、神中心の世界観から人間中心の世界観にひとびとの考えは変化した。  

 それでも見るべき成果としては、ダ・ヴィンチが人間の身体を機械と見、人間や動物の構造について研究し、コペルニクスの影響を受けた学者の中のひとり、ブルーノは、我々の暮らす太陽系の他にも似たようなものがいくつもあり、そこには我々のような存在がいるのではないかと考えたことや、ベーコンが神学を捨て、完全な自然主義的・機械論的視点から自然を研究すべきであり、その方法は帰納法であるとして研究を行ったことにより経験論哲学を誕生させモンテーニュなどの後続を得た、など見過ごすべきではない事例の存在を2、3見ることができる。  

 ただし、イタリア・ルネッサンスの学者の多くはソフィストであって(正確に言えば神の観念から呪縛を受けたソフィスト)、ギリシアの「人間は万物の尺度である」と言う考えのもと人間に関心があるソフィストたちだったに過ぎない。  

 その間哲学は、オッカムからデカルトまで、長い空白期間にさらされた。デカルトの生まれた1590年にはゴクレニウスよって「人間学的心理学」が刊行されている。

講座 心理学概論 3 心理学史 5 アラビア・イスラムにおける科学の誕生

 705年、バグダッドに世界で初めての精神病院が開院した。850年になるとアルキンディが精神療法や音楽療法を用いて精神病者の治療に当たり、900年になるとアルバルキが精神病の原因には精神的なものと生理学的なものとがあることを認め「精神衛生」の概念を提出し、1025年には医者イブン・シナは感情を含んでいる病気の治療において「生理心理学」を認めて、内部の感情と脈拍数の変化を結びつけるためのシステムを開発し、連想語検査、幻覚、不眠症、躁病、悪夢、うつ病、痴呆、癲癇、麻痺、脳卒中、めまいなどを解説した。  

 こうした動きと連動して8世紀後半から9世紀にかけてギリシアの科学書を大量にアラビア訳して始められたアラビア科学は、10~11世紀に最盛期を迎える。アリストテレス哲学についてはアル・ファラビ、物理学においてはイブン・アル・ハイサム、天文学におけるアル・ビールニー、数学におけるウマル・ハイヤーム、世界で最初に正確な世界地図を1154年に作ったイドリースィー(彼は水の運動からみて地球は丸いと言う信念を持っていた)と言った具合に有能な科学者が次々と輩出した。12世紀になるとこれらの業績はラテン語訳され西欧にフィードバックされ始める。  

 特筆されるべき事がここにある。それは上記の人物のうちイブン・アル・ハイサムは視覚、感触の知覚、色の認識、暗闇の認識、月の錯視の精神的な説明と両眼視を調べたということと、アル・ビールニーが実験的手法を用いて反応時間の研究を行ったと言うことである。イブン・シナはアリストテレスをベースとした壮大な心理哲学を展開し、アル・ファラビは「社会心理学」を提唱し、意識を論じた。マルコ・マルニは1530年頃に世界で初めて「人間性的理性心理学」という「心理学」と言う名のついた書物を発表した(アラビア語でnafsとは心という意味である)。  

 世間一般で考えられているように実験心理学の最初の貢献はウェーバーの弁別閾の実験ではなくて、イブン・アル・ハイサムとアル・ビールニーの先駆的研究なのである。  

 冒頭、精神医学的事件について述べたが、850年というきわめて早い時期に心理療法が始められている。1021年にはイブン・アル・ハイサムの、1030年にはアル・ビールニーの研究が発表されているから、ギリシアとの換骨奪胎だとしてもこれらを世界で最初の実験心理学的研究であると認めないわけにはいかない。アル・ビールニーは地球が自転していると唱えたことでも有名である。  

 アラビアの科学は、ほとんどの科学の胎盤である。  

 しかし、12~13世紀になると衰退の一途をたどった。暗黒のヨーロッパもオッカムをはじめとする神学と哲学の分離主義の思想的活躍でやがて黎明期であるイタリア・ルネッサンスを迎えることとなる。

講座 心理学概論 3 心理学史 4 西欧中世

 

 西欧中世は「暗黒の時代」と呼ばれるようにイタリア・ルネッサンスの始まる1400年頃までの時期を言う。ギリシアでの神々は「万物の起源」でもなければ「聖なるもの」でもなかった。それでも神への不敬罪が辛うじてあった。万物を神の所与とし、聖なるものに変えたのは、キリスト教という地方のローカルな宗教であった。それまではミトラ教がローマ公認の宗教であったが、徐々にキリスト教がローマ皇帝の信を得て勢力を拡大し、アウグスティヌスのキリスト教哲学が成立し、その影響は中世を通じて一貫していた。オリジナルなことと言えば、神は聖なるものであって万物の創造主だという考え方であった。彼は霊魂が内省によって知られるものであり、内省は神の照明に等しいから、それによって神を知ることができると考えた。このような考えのもとでは科学はおろか哲学もできなくなってしまう。それらを和解させたのがトマス・アクィナスであった。彼は哲学と信仰をはっきりと区別した。理性は自然の本質を理解することができ、神はその仕業によって間接的に理解できるに過ぎない、とアクィナスは主張した。肉体は魂の牢獄ではなく、魂と肉体の完全な統合態が人間であると考えた。またアクィナスは完全な経験論を主張した。これをさらに進めたのはオッカムであった。オッカムはアクィナスなどとは違って、魂をその能力と区別して考えることはできないと考えた。オッカムの精神観では、概念は学習された習慣であり、彼は形相を否定するから、習慣的概念こそが人間と動物を区別する示差だという。直感的認識によって人間は対象とその性質を知ることができる。彼は信仰と理性ををはっきりと区別した点でアクィナスとは違っている。このようなオッカムの考えは教会がそれを抑えようと躍起になったにもかかわらず、広く教えられ、強い影響力を持った。この頃はじめてヨーロッパ的伝統として個人主義の考え方が現れた。アベラールの倫理学では罪の基準を行為そのものではなく意図に帰す考えが現れた。1348年にヨーロッパで黒死病が流行し、ヨーロッパ人口の3分の1がそれで命を落とした。オッカムも例外ではなかった。しかしオッカムは、人間の知識は現世だけのこととし、神学と分離すると言う態度を取ったため、神学は崩壊した。ニコラウスにしても神の心を知ることよりも、現象を研究することを推奨したという意味で、関心の神から人間への転回点を与え、再び哲学と科学の登場の機会を与えたという意味で、彼らの業績はギリシアと中世と近代をつなぐ役割を果たしたのである。このような雰囲気の中、12~13世紀にかけて、グロッステスト、ロジャー・ベーコン、オレーム、ビュリダンといった神学的科学者が光や錬金術(化学)や物理学といった学問の礎を築いた。ここでもう一つ指摘しておきたいのは、中世がロマンスを生んだということである。それは古い昔にできたものではないのである。中世中期まで女性は欠陥出産の結果産み落とされたものである、という男尊女卑の思想が蔓延していたけれども、地方の女性聖職者の活躍によって、次第にそうした偏見はなくなっていった。  

 以上が概論レベルの中世の概観である。西欧では思想史的に停滞した1000年もの期間ができてしまったがこれと同時期にアラビア・イスラムには西欧に先駆けて科学が発達した。次節では西欧とアラビア・イスラムがイスパニアやシシリーでつながって、一足先にアラビア・イスラムの科学の発生史がもたらされる様を検証することとする。

講座 心理学概論 3 心理学史 3 心理哲学の発祥~ギリシア(後編)~

 ソクラテスは「真・善・美」といった倫理的側面で活躍した哲学者であるが、その弟子プラトンはソクラテスが語らなかった多くのことについて言及した。まずパルメニデスと似た心身間の関係を彼は仮定した。堕落した肉体に魂は閉じこめられているのだ、と彼は言う。そして感覚は当てにならないものだと考え、真の知識はイデアであると言った。イデア(形相)は魂が肉体に宿る以前に持っているものであり、その代表格に数学を挙げた。心像は経験を通して得られるが、それがイデアを解発するという。また彼は魂を3つの部分に分けた。1つは不死の理性的魂であって頭の中に位置している。のこり2つの魂、すなわち名誉と栄光を求める魂、性欲や食欲にかんする魂はそれぞれ胸と腹に位置している。快を求め苦痛を避けるのは肉体の仕業であって理性的な魂を卑しくし善を考えるのを妨害する。教育の目的は、理性的な魂が肉体やその他非理性的な部分を制御することができるように手を貸すことだと考えた。  

 プラトンの弟子アリストテレスは、師プラトンの考え方とは正反対であった。アリストテレスは目に見える世界の実在を信じ、感性的知覚の価値を信じていた。アリストテレスは形相の実在の概念を斥け、普遍は自然の中にあると信じていた。自然には形相因、目的因、動力因、質料因という原因があり、魂は人間の形相であり、人間が人間らしく振る舞うのは、人間の魂を持っているからだと考えた。魂は肉体を動かすという言う意味で動力因であり、肉体は魂に奉仕するものであるから目的因でもあり、その本質を定義するものという意味で形相因でもある。そして、肉体は魂の質料因である。そして魂には、栄養、運動、推理というような力があると信じていた。アリストテレスは最初に知覚心理学の原型を作ったひとでもある。5感で知覚されるもののうち運動、数、形、大きさなどの諸性質は複数の感覚(モダリティ=対応刺激特性)によって捉えうるものであるためその統合態は「共通感覚」と呼ばれ、記憶される。記憶されたものは常に心像の形を取るから、それが想起されるさいには必ず想像がともなうと考えていた。  

 アリストテレスはギリシアの哲学の最後の巨人であった。その後の哲学はエピキュロスの幸福哲学、アウグスティヌスのキリスト教哲学へと移ろって行く。  

 ギリシアまでの哲学を見てみると、現代の科学のあらゆるパラダイムをそこに見出すであろう。形相を感覚するときそれは形相の不完全な写しだと言えば、現代心理学の知覚研究を相対化することもできる。物質を要素に分けると言う考えは、心にも妥当すると言えば、構成主義心理学や感覚心理学の源をそこに見出すことも可能である。

講座 心理学概論 3 心理学史 2 批判精神の発生~ギリシア(前編)~

 心理学の長い過去という意味で、その始まりはギリシアのホメロスの「イリアッド」と「オデッセイ」にそれを予想するような人間についての記述が見られる。その中では「プシケ(=生命の息)」は人間が死ねば体から離れてゆくものとして、「ティモス」は動機付けとして、「ヌース」は理性として表現されている。紀元前6世紀、ミレトスのタレスは「これは私の見方です。諸君は私の教えをもとにして、それを改善しなさい」と言った最初の教師であった。これは、学問が批判精神によって進歩するというギリシアの哲学者の、現代でも通用する正しい常識を端的に示している。このようなギリシア的伝統の下、タレスの弟子アナクシマンドロスは普通の要素がどうして他のものに変化するのかを問題にして、目で見ることのできない限定されないもの(アペイロン)の存在をピュシス(もの)とした。そして、後にポルトマンが主張した骨絡に同じく、大昔の人間の赤ん坊は今より頑丈で早く独り立ちできたに違いないと主張し、後にダーウィンが唱えたような進化説を説き、動物の化石をその証拠とした。これに対しアナクシメネスはピュシスは空気であると反論した。  

 紀元前6世紀の後半には、数を使って物理法則を説明した最初のひとであるピタゴラスがサモスに現れた。彼は数に奉仕する秘密の宗教を作り、弦の長さが音の高さに比例することを発見した。彼にとって肉体は魂の牢獄だと考えられた。6世紀末になるとクロトンにアルクマイオンが現れ、感覚や思考の座が脳にあるという仮説を持ち、視神経を解剖によって脳までたどった。  

 5世紀に入るとエペソスのヘラクレイトスが生成説を唱え、たとい石のようなものでも微粒子のような火の塊からなっており、ピュシスは火であるとし、変化には法則があると唱えた。これに対しエレアのパルメニデスは真理は永久不変のものであり、変化は不完全な感覚に基づいた幻覚だと主張した。紀元前5世紀の半ばになるとアクラガスのエンペドクレスがパルメニデスに反対して物体はそれ自身に特有な写しに相当する放出物を発し、そのために感覚が生じるのであり、そんなに感覚が信頼できないものではないことを示そうとした。  

 ソクラテスと同時代の哲学者にミレトスのレウキッポスとその弟子のアブデラのデモクリトスがいる。2人はともに原子論者であり、一般にデモクリトスの考えはレウキッポスの焼き直しだと言われる。デモクリトスは神や霊魂の存在を否定し、快楽説を説いたが、彼によれば哲学こそ他にあり得ない快楽だとし、哲学的生活を送ることを推奨した。  

 一方で哲学の中心問題をピュシスから人間に変える働きをしたのはソフィストである。その祖プロタゴラスは、端的に「人間は万物の尺度である」との有名な言を残している。ソフィストたちは報酬を得て弁論術の教師として活躍した人たちである。そのため、後世に残るような業績を残さなかった。ピタゴラス・パルメニデスを尊敬した人物はプラトンで、アルクマイオン・エンペドクレスの伝統を踏襲したのはアリストテレスである。次節においてこれら2人の対照的な哲学に触れることにする。

講座 心理学概論 3 心理学史 1 我々の科学観と歴史観

 心理学史を読むに当たって注意を要する点について述べておく。  

 我々は常識的見解よりやや広い科学観を持っている。それは、「科学とはある側面から見た事象の合理性の証明作業および関連諸事象との無矛盾性の追究作業である」という科学の我々なりの定義に由来する。従来科学を説明しようとした心理学研究者の殆どが、科学を定義するさいにブリッジマンの科学哲学が想定しているように「物理学」を意識していたため科学が方法論の確立とともに生まれると確信してきた。我々の定義ではそれよりも広く「数学」および「天文学」を科学の範型と捉え、それを意識して科学を定義してみた。  

 たとえば犯罪心理学を例にしよう。犯行の動機、計画性を例証することは「非科学的」なことだろうか。ポリグラフが測っているものは何かについては現代でも明確になっているわけではない。だが経験的に我々は「ポリグラフで虚偽検出できる」ことを知っている。これらの場合、現場から採取された物証や証言をもとに捜査し、それに基づいてポリグラフにかける質問を決定する。この、事件を捜査する一連の手続きは法則を発見するためと言うよりは事件を解決するために求められる。これは非科学的なことであろうか。我々から見るとこれは「科学的な努力」に見える。  

 統計的手法を殆ど用いないフィールドワーク主体の文化人類学にしても然りである。何故その民族にその文化が根付いたのかの考察を「科学的に」行うことは可能である。それは「進化論」と言うパラダイムが科学規範として広く認められているためでもある。動物行動学でハイイロガンの初期学習(インプリンティング)のローレンツによる発見は統計的分析なしに行われた優れた洞察であった。彼は科学を実践していることを疑わなかった。  

 数式の証明にしてもまた然りである。「真理の探究」というよりは「遊び」に近い。我々は「科学」と言う対象があるわけではなくて「科学的」と言う態度が実在するに過ぎない、と考える。だから、科学は命題の産出と思弁的分析を本旨とする哲学とも異なっている。科学は命題の証明にかかわっているが、それは「合理性の証明」なのである。したがって「科学的」だからと言って「誤っていない」ことを意味しない。公理が誤っている場合があるからである。科学は哲学の末端である。哲学が誤っていれば、いかに科学的であろうとしても、結果は誤りである。ボトムアップに考えた場合でもそれは真理である。だが、こうしたことは今や少数例である。それは、科学的態度が「関連諸事象との無矛盾性の追究」を志向しているためである。  

 したがって、心理学史に出てくる「科学としての心理学」は、このような態度を持った者によってもたらされた心理学のことを言い、通説とは若干異なったものになるだろう。本章を読む者は上記の点に留意して読み進んで欲しい。  

 歴史、特に学史とは、あらゆるものが洗練されて行く過程である。心理学的思想や概念が如何にして何をきっかけに洗練されて行くのかを我々は検証したい。なお本章第11節までは「心理学検定」受検者にとっては不要なので、読み飛ばしていただいて差し支えない。