巡りんがどうして動作するのかを知りたければ、図のようにしてみると良い。
図のように、空気は単に下から上へと行くのではないことが分かるだろう。これを可能にしているのは、たらいの内部の空気圧である。
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巡りんがどうして動作するのかを知りたければ、図のようにしてみると良い。
図のように、空気は単に下から上へと行くのではないことが分かるだろう。これを可能にしているのは、たらいの内部の空気圧である。
交互に石を投げ、相手と自分の石の間に石を落とし、多く間に石を落とせたひとが勝つゲーム。
石に印(たとえば石の大きさ)を付けどちらの石かが分かるようにし、前から何番目の間に石を落とせたかでその番目を得点とする。体力の弱い方に小さい石、強い方に大きい石と言ったような配慮をするのが良い。
※ルールは任意で良い。
みなさんはアルミホイールを敷いてオーブンの中で何かを焼いても、アルミホイールは熱を持たない経験をお持ちではないだろうか。
星々は大方例外なく銀色に光っている。つまり、銀色と言うのは熱の影響が届かない星の色なのである。
また、産業的には大方の熱機関は銀色である。熱がこもるのを最小限にする工夫である。
これを「熱掃けが良い」と表現しよう。
銀色は、宇宙でも家庭でも最も「熱掃けが良い」色なのである。
僕が金色よりも銀色を尊ぶ理由もそこにある。
日本人にとって美しい色とは何かを突き詰めてゆくと、いわゆる「暖色系」は忌避される傾向にある。
ことのほか赤色は「警告」の意味で用いられることが多い。
なぜなのか?
それらはなぜかお日様や火、樹木の幹の色を感じさせない色なのである。
野生では、お日様の当たるところ、火や樹木の幹の見えるところは危険だからなのかも知れない。
たぶん、我々日本人の祖先たちは洞窟や洞穴などで生き抜いたのであろう。
一言で言うと、それらは「(オーダーとアプローチの)致識」と言い表すことができる。
「ある」と言うことは「ともにある」と言うことである。
意識とは、そう言うことなのである(幼時の「行為の同期性」から考えると良い)。
社会とは、ひとが複数の人間(ないし個体)にわたる概念的天井(例:現代、官僚…)を感じるような他者たち同士を認識したときに持つ世界性格のことである。
そのため、夫婦、親子のことを直接に社会であるとは言わない。近縁であるほどそうなのであり、それらが「社会関係」と呼ばれることがあるのは、そこでそれ以外のひとびとと対照しているためである。
我が国で言う「社会」は、もともと「お社」と言うものがその源流にある概念である。
「家族」を社会に含めて考えるのはそのためである。
したがって社会と言うものはデュルケームが言うような「もの」ではなく、心理的実在である。
認知の初めは違和感である。ズレやキワダチではない。
お金と言うのは、魔性の女のようなもの。執着しないに越したことはない。
正義とは、慈しみの心に反逆することに対して自覚される意識である。
ゆえに、正義と迎合は厳に峻別されなくてはならない。戦争に正義などないのである。餓死するとも戦は避けるべし。
人間というものはそれが心であれ仕事であれ仮面を被るほどに心が浅くて冷酷になってゆく。
そのことは発達によって明確になってくる。