偶然と必然

 
 「偶然と必然」について考えてみたい。

 哲学的には「対立する2項」と捉えられがちな「偶然と必然」ではあるが、筆者はそのような捉え方はしない。

 そもそも「偶然と必然」は、我々の感知の問題として、何者かの不如意に制御権があるのか、如意に制御権があるのかの問題だと言って良いであろう。

 問題の所在を分かりやすく言うと、自分も含めての何者かにとっての不如意(たとえば気まぐれ)に制御権を取られている状態が「偶然」であり、如意(たとえば目的遂行)が制御権を握っている状態が「必然」だと言える。と言うか、そのように映る。

 これは心理学用語で言うところの「統制の座(ローカス・オブ・コントロール)」の問題に他ならない。

 つまり、「統制の座」が何者かにとっての不如意にあるときには、諸事象は我々に偶然に映り、如意にあるときは必然に映ると言う事情があって「偶然と必然」と言うコントラストが生まれてくるわけである(これだけで偶然と必然の問題を割り切るのは単純化し過ぎと言うことも弁えてはいるが、敢えて分かりやすくした)。

 したがって、我々から見た「偶然と必然」の関係は、対立ではなく「如意と不如意のせめぎ合い」の関係になることが理解できるであろう。

 このような観点で「偶然と必然」の問題を捉えることは、日常生活でも有用ではないかと思う次第である。

美学

 
 「美醜」とは何であろうか。

 簡単に言うと、「美」とは「象徴的感心」を喚び起こす事象のことであり、「醜」とは「象徴的不感心」を喚び起こす事象のことである。

 「美」と「可愛さ」の違いは、事象を等身大以上と見るか、等身大未満と見るかの違いである。

 美醜は内面的なそれと外面的なそれの両者がある。

 美醜が生じるのには条件がある。 

 どう言うことかと言うと、美醜が分化し認識されるためには一定の心理的ないし対人的距離が必要なのである。

 したがって、美醜には「土着的な美醜」と言うものは存在しない。

弁証法および唯物論批判

 

 世界事象が弁証法的だと言える根拠はない。

 ただ我々は何らかの違和感を持ち、オーダーとアプローチの「致識」に至るだけである。それが「正−反−合」と言う形を取るのはむしろレアケースである。

 勘と言うことがある。試行錯誤と言うこともある。一回で解ける謎もあれば、何度も誤って最後まで謎が残ることもある。

 つまり、ただ謎のない問題はないと言えるだけである。

 生の始まりは菌類による代謝であるが、我々はこれを精神性抜きに認識することはできない。

 それはこう言うことである。生命の最も原始的な姿でさえ、それは「物質の疼き」、つまり適応的なものだとしか説明することはできない。単なる物質間関係にあっては、「変化」と言う現象は観察できても、「適応」と言う現象は観察されない。もし我々が「適応する物質」を作れたとしても、我々はそれを「生命の模倣」くらいにしか思わないだろう。

 それが転じて我々の生(レーベン)に至ったわけであって、我々は自然、もっと言うと森羅万象は精神的にしか解明しえない。

 いな、生命にとっての自然、つまり森羅万象は須く精神的なのである。物の世界は即物的に認識できても、世界を精神性抜きに語ることは、我々の生活をただ虚ろなものに堕落させるだけである。なぜなら、我々の生活はたとい物であっても、精神との関係において初めて意味を持ち、そして役立つからである。

 この点を唯物論は一顧だにしていない。そのわけは、マルクス主義においては産業しか念頭に置いておらず、生産(産業)関係においてしか人間を見ていないからである。そこには詩(うた)もなければ趣味も遊びも僕のような原始人の存在する余地でさえもない。

 エコロジー(生態学)とコミュニティ(共同体)が鋭く問われる現代に弁証法的唯物論を説くことは、完全にピント外れな認識だと言わざるを得ない。

日本の素朴でシンプルなプチ永久機関「巡りん(めぐりん)」

僕の一発芸「巡りん」では、以下のように「たらい」のように横(底)面積の広いものが確実に動作する。理由は、水圧を大きくできるからである。水圧(空気圧)は器の横(底)面積を限りなく大きく取れば取るほど無限に大きくできる。実際に動作確認もしている(たらいは任意の方法で水中に固定)。理の上では、ここで「平衡の原理」を持ち出して誤解するひとがいる。言うまでもなく、「巡りん」は「平衡の原理」によるのではなく、「力学(空気銃)の原理」によって動作するのである。ここを見誤ってはならない(そのことに疑問を持つ方はこちらを参照のこと)。

また、これを本当に永久機関にしたければ、この周りをトウモロコシ製プラスチックで囲い込む必要がある。そうすれば、水の蒸発なく空気の水への溶融も飽和したところで止まるからである(水の腐敗防止対策として5パーセント程エチルアルコールを入れること)。

なお、念のため装置全体が水没するまで空気の吹き出し口は指または弁(キャップも可)で閉じておくこと。この知恵で「仕事」を取り出したいときは、空気の排出口の上にスクリューを配置するなりして力を取り出せば良い。

形は工夫次第。日本の知恵のシンプルさをご堪能ください。

※2015年6月30日早朝 着想

※空気の循環が可能な範囲でダウンサイジングが可能/挙動が分かりやすい透明な装置も可(シリカ製を推奨)/コピーライトフリー

※それでもまだ懐疑的な方は、こちらを閲覧のこと。僕のホームページはこちら

 

#輪廻

ゼノンの「矢のパラドックス」の理解法

 
 ゼノンの有名な矢のパラドックスは、次のように考えると氷解する。なお、矢は等速直線運動をすると仮定する。

 「矢は到着点までその半分、そのまた半分、そのまたそのまた半分を通過しなければならないので矢は最終的に到着点に辿り着くことができない」。

 この詭弁は次のように考えるとすんなり理解できる。

 「矢がその半分に到達するのにかかる時間は全体の2分の1、そのまた半分に到着するのにかかる時間は全体の4分の1、そのまたそのまた半分に到着するのに要する時間は8分の1…」…これらの時間の合計は矢が射出点から到着点に達する時間に等しい。

 つまりこの問題の「逆パラドックス」は、次のことを教える。

 「時間を半分点、その半分点、そのまた半分点、そのまたそのまた半分点…と切り刻んでいるうちは、総所要時間に永久に及ばない」。

 まぁ、微分学のようなお話なのであった。

神様がひとを見る目

 
 僕も関根豊松もそうだが、真心を失わない限り、神様は社会に相手にされない人物を可愛がってくださるようだ。ただし、それには人生で並大抵ではない苦労をしたのでなければならない(もちろん苦労は好んでするものではない)。

 まさに僕は永久機関を考えたりして社会からひどく白眼視されているし、関根豊松は幼少期から社会に冷たくされることが多かった。

 いま自分が神様に可愛がられていることは感性的に分かるし、それは何にましてもありがたい。真心を失わなければ、社会から冷たくされた方が神様の庇護の下で生きうるのである。

 そのように、神様はひとをその頭ではなく、境遇を見てその目にかけるかどうかを決めていらっしゃるようだ。

 夢のある話ではないか。

 だからみなさん、どうか僕を相手にしないでください。

 ※関根豊松については熊田(くまた)先生のこちらをご覧ください。

ゲーム「石合戦」

 
 交互に石を投げ、相手と自分の石の間に石を落とし、多く間に石を落とせたひとが勝つゲーム。

 石に印(たとえば石の大きさ)を付けどちらの石かが分かるようにし、前から何番目の間に石を落とせたかでその番目を得点とする。体力の弱い方に小さい石、強い方に大きい石と言ったような配慮をするのが良い。

 ※ルールは任意で良い。

銀色の哲学

 
 みなさんはアルミホイールを敷いてオーブンの中で何かを焼いても、アルミホイールは熱を持たない経験をお持ちではないだろうか。

 星々は大方例外なく銀色に光っている。つまり、銀色と言うのは熱の影響が届かない星の色なのである。

 また、産業的には大方の熱機関は銀色である。熱がこもるのを最小限にする工夫である。

 これを「熱掃けが良い」と表現しよう。

 銀色は、宇宙でも家庭でも最も「熱掃けが良い」色なのである。

 僕が金色よりも銀色を尊ぶ理由もそこにある。

日本人の色彩感覚

 
 日本人にとって美しい色とは何かを突き詰めてゆくと、いわゆる「暖色系」は忌避される傾向にある。

 ことのほか赤色は「警告」の意味で用いられることが多い。

 なぜなのか?

 それらはなぜかお日様や火、樹木の幹の色を感じさせない色なのである。

 野生では、お日様の当たるところ、火や樹木の幹の見えるところは危険だからなのかも知れない。

 たぶん、我々日本人の祖先たちは洞窟や洞穴などで生き抜いたのであろう。