注目

日本の素朴でシンプルなプチ永久機関「巡りん(めぐりん)」

僕の一発芸「巡りん」では、以下のように「たらい」のように横(底)面積の広いものが確実に動作する。理由は、水圧を大きくできるからである。水圧(空気圧)は器の横(底)面積を限りなく大きく取れば取るほど無限に大きくできる。実際に動作確認もしている(たらいは任意の方法で水中に固定)。理の上では、ここで「平衡の原理」を持ち出して誤解するひとがいる。言うまでもなく、「巡りん」は「平衡の原理」によるのではなく、「力学(空気銃)の原理」によって動作するのである。ここを見誤ってはならない(そのことに疑問を持つ方はこちらを参照のこと)。

また、これを本当に永久機関にしたければ、この周りをトウモロコシ製プラスチックで囲い込む必要がある。そうすれば、水の蒸発なく空気の水への溶融も飽和したところで止まるからである(水の腐敗防止対策として5パーセント程エチルアルコールを入れること)。

なお、念のため装置全体が水没するまで空気の吹き出し口は指または弁(キャップも可)で閉じておくこと。この知恵で「仕事」を取り出したいときは、空気の排出口の上にスクリューを配置するなりして力を取り出せば良い。

形は工夫次第。日本の知恵のシンプルさをご堪能ください。

※2015年6月30日早朝 着想

※空気の循環が可能な範囲でダウンサイジングが可能/挙動が分かりやすい透明な装置も可(シリカ製を推奨)/コピーライトフリー

※それでもまだ懐疑的な方は、こちらを閲覧のこと。僕のホームページはこちら

 

#輪廻

「いじめ」というマウント行為の背景にあるもの(AI支援あり)

 現代社会における「いじめ」は、単なる子ども同士のトラブルではなく、深い社会的背景を持つ現象です。その一つに、閉鎖核家族化によるコミュニケーション能力の低下が挙げられます。かつては三世代同居や地域とのつながりの中で、子どもたちは多様な価値観や対人関係を自然と学ぶ機会がありました。しかし、現代では家庭が閉じた空間となり、親子間の会話も減少傾向にあります。結果として、他者との距離感や感情のやりとりをうまく築けない子どもが増えているのです。

 また、自尊心を満たすことが難しくなっている点も見逃せません。SNSの普及により、常に他者と比較される環境に置かれ、自己肯定感を持ちづらい状況が続いています。家庭や社会から十分な承認を得られない子どもたちは、学校という閉じた集団の中で、自尊心を満たす手段を探します。

 そこで「いじめ」が登場します。いじめとは、端的に言えば「マウントを取ること」、つまり他者より優位に立つことで自分の価値を確認する行為です。欠落したコミュニケーション能力と満たされない自尊心を抱えた子どもにとって、学校はその両方を補う格好の場となります。集団の中で誰かを標的にすることで、仲間との結束を感じたり、自分の存在意義を見出したりするのです。

 このように、いじめは個人の問題ではなく、社会構造の歪みが生み出す現象です。私たち大人は、子どもたちが安心して自己を表現できる場を家庭や地域に取り戻すとともに、学校が「マウントの取り合い」ではなく、互いを尊重し合える場となるよう支援していく必要があります。

 最後に、かつて筆者は心理学科受験のときの小論文で、「いじめは地域、学校、家庭のいずれから起きると考えられるか」と言うテーマを与えられました。心理学には「そこに心を置くこと」と言う意味で「自我関与」と言う概念があります。したがって筆者の考えでは地域、学校、家庭のいずれに自我関与しているかによってそのいずれを温床としても「いじめ」は起きると思っています。

精神疾患全般について(AI支援あり)

 精神疾患とは、感情・思考・行動・対人関係などに著しい障害をもたらす脳の機能的な不調であり、うつ病や不安障害、統合失調症、PTSDなど多岐にわたる症状を含みます。これらの疾患に共通して見られるのが「恐怖」という感情との深い関係です。恐怖は本来、生存に必要な危険回避のための感情ですが、精神疾患においてはこの恐怖が過剰に、あるいは不適切に働くことで、日常生活に支障をきたすようになります。

 脳内で恐怖の感情を司る中心的な部位が「扁桃体(へんとうたい)」です。扁桃体は外界の刺激を危険かどうか判断し、必要に応じて身体を緊張状態に導きます。この過程において重要な役割を果たすのが、ノルアドレナリンという神経伝達物質です。最近の研究では、扁桃体に存在するノルアドレナリン受容体が過剰に活性化されると、恐怖反応(正確には恐怖の記憶的定着)が過敏になり、精神疾患の発症や持続に関与する可能性が示唆されています。たとえば、PTSDでは些細な刺激にも過剰な恐怖反応が生じ、過去のトラウマが繰り返し再体験されることがあります。

 このような知見は、精神疾患の治療に新たな可能性をもたらしています。従来の治療法は、抗うつ薬や抗不安薬などによる神経伝達物質の調整が中心でしたが、扁桃体のノルアドレナリン受容体の活性を直接的に制御する薬剤の開発や、脳の特定部位に焦点を当てた神経調節技術(例:TMS=経頭蓋磁気刺激法)などが注目されています。また、認知行動療法などの心理療法も、恐怖の認知的な枠組みを再構築することで、扁桃体の過剰反応を鎮める効果があるとされています。

 つまり、精神疾患とは「恐怖」という感情の異常な働きが中心にあり、それを担う脳の扁桃体とノルアドレナリン受容体の関係を理解することで、より根本的な治療への道が開かれつつあるのです。科学的理解の進展は、苦しむ人々にとって希望となるでしょう。

偶然と必然

 
 「偶然と必然」について考えてみたい。

 哲学的には「対立する2項」と捉えられがちな「偶然と必然」ではあるが、筆者はそのような捉え方はしない。

 そもそも「偶然と必然」は、我々の感知の問題として、何者かの不如意に制御権があるのか、如意に制御権があるのかの問題だと言って良いであろう。

 問題の所在を分かりやすく言うと、自分も含めての何者かにとっての不如意(たとえば気まぐれ)に制御権を取られている状態が「偶然」であり、如意(たとえば目的遂行)が制御権を握っている状態が「必然」だと言える。と言うか、そのように映る。

 これは心理学用語で言うところの「統制の座(ローカス・オブ・コントロール)」の問題に他ならない。

 つまり、「統制の座」が何者かにとっての不如意にあるときには、諸事象は我々に偶然に映り、如意にあるときは必然に映ると言う事情があって「偶然と必然」と言うコントラストが生まれてくるわけである(これだけで偶然と必然の問題を割り切るのは単純化し過ぎと言うことも弁えてはいるが、敢えて分かりやすくした)。

 したがって、我々から見た「偶然と必然」の関係は、対立ではなく「如意と不如意のせめぎ合い」の関係になることが理解できるであろう。

 このような観点で「偶然と必然」の問題を捉えることは、日常生活でも有用ではないかと思う次第である。

美学

 
 「美醜」とは何であろうか。

 簡単に言うと、「美」とは「象徴的感心」を喚び起こす事象のことであり、「醜」とは「象徴的不感心」を喚び起こす事象のことである。

 「美」と「可愛さ」の違いは、事象を等身大以上と見るか、等身大未満と見るかの違いである。

 美醜は内面的なそれと外面的なそれの両者がある。

 美醜が生じるのには条件がある。 

 どう言うことかと言うと、美醜が分化し認識されるためには一定の心理的ないし対人的距離が必要なのである。

 したがって、美醜には「土着的な美醜」と言うものは存在しない。

弁証法および唯物論批判

 

 世界事象が弁証法的だと言える根拠はない。

 ただ我々は何らかの違和感を持ち、オーダーとアプローチの「致識」に至るだけである。それが「正−反−合」と言う形を取るのはむしろレアケースである。

 勘と言うことがある。試行錯誤と言うこともある。一回で解ける謎もあれば、何度も誤って最後まで謎が残ることもある。

 つまり、ただ謎のない問題はないと言えるだけである。

 生の始まりは菌類による代謝であるが、我々はこれを精神性抜きに認識することはできない。

 それはこう言うことである。生命の最も原始的な姿でさえ、それは「物質の疼き」、つまり適応的なものだとしか説明することはできない。単なる物質間関係にあっては、「変化」と言う現象は観察できても、「適応」と言う現象は観察されない。もし我々が「適応する物質」を作れたとしても、我々はそれを「生命の模倣」くらいにしか思わないだろう。

 それが転じて我々の生(レーベン)に至ったわけであって、我々は自然、もっと言うと森羅万象は精神的にしか解明しえない。

 いな、生命にとっての自然、つまり森羅万象は須く精神的なのである。物の世界は即物的に認識できても、世界を精神性抜きに語ることは、我々の生活をただ虚ろなものに堕落させるだけである。なぜなら、我々の生活はたとい物であっても、精神との関係において初めて意味を持ち、そして役立つからである。

 この点を唯物論は一顧だにしていない。そのわけは、マルクス主義においては産業しか念頭に置いておらず、生産(産業)関係においてしか人間を見ていないからである。そこには詩(うた)もなければ趣味も遊びも僕のような原始人の存在する余地でさえもない。

 エコロジー(生態学)とコミュニティ(共同体)が鋭く問われる現代に弁証法的唯物論を説くことは、完全にピント外れな認識だと言わざるを得ない。

ゼノンの「矢のパラドックス」の理解法

 
 ゼノンの有名な矢のパラドックスは、次のように考えると氷解する。なお、矢は等速直線運動をすると仮定する。

 「矢は到着点までその半分、そのまた半分、そのまたそのまた半分を通過しなければならないので矢は最終的に到着点に辿り着くことができない」。

 この詭弁は次のように考えるとすんなり理解できる。

 「矢がその半分に到達するのにかかる時間は全体の2分の1、そのまた半分に到着するのにかかる時間は全体の4分の1、そのまたそのまた半分に到着するのに要する時間は8分の1…」…これらの時間の合計は矢が射出点から到着点に達する時間に等しい。

 つまりこの問題の「逆パラドックス」は、次のことを教える。

 「時間を半分点、その半分点、そのまた半分点、そのまたそのまた半分点…と切り刻んでいるうちは、総所要時間に永久に及ばない」。

 まぁ、微分学のようなお話なのであった。

神様がひとを見る目

 
 僕も関根豊松もそうだが、真心を失わない限り、神様は社会に相手にされない人物を可愛がってくださるようだ。ただし、それには人生で並大抵ではない苦労をしたのでなければならない(もちろん苦労は好んでするものではない)。

 まさに僕は永久機関を考えたりして社会からひどく白眼視されているし、関根豊松は幼少期から社会に冷たくされることが多かった。

 いま自分が神様に可愛がられていることは感性的に分かるし、それは何にましてもありがたい。真心を失わなければ、社会から冷たくされた方が神様の庇護の下で生きうるのである。

 そのように、神様はひとをその頭ではなく、境遇を見てその目にかけるかどうかを決めていらっしゃるようだ。

 夢のある話ではないか。

 だからみなさん、どうか僕を相手にしないでください。

 ※関根豊松については熊田(くまた)先生のこちらをご覧ください。

ゲーム「石合戦」

 
 交互に石を投げ、相手と自分の石の間に石を落とし、多く間に石を落とせたひとが勝つゲーム。

 石に印(たとえば石の大きさ)を付けどちらの石かが分かるようにし、前から何番目の間に石を落とせたかでその番目を得点とする。体力の弱い方に小さい石、強い方に大きい石と言ったような配慮をするのが良い。

 ※ルールは任意で良い。