遺伝か環境か

 心理学における「遺伝(nature)か環境(nurture)か」の最新の理論はサメロフとチャンドラーの「相互作用説(遺伝は環境に働きかけ、環境は遺伝に働きかけて行動が発現する、と言う説)」であるが、話を心理学ではなく常識に置き換えてみると何だかバカバカしくなってくる。

 心理面で遺伝が大きいのは「気質」だと言うが、たとえば我々の5感と言う一見障害されていないと当たり前に感じている諸能力も遺伝である。

 僕は若い頃からパソコンをやっている関係で視力が弱いのだが、この一事を取ってもそんなに難しく考える必要はなく、「環境変動値説」、つまり遺伝諸相の発現が環境変数によって規定されると考えれば大した問題ではないのではないか、と言うのが率直な感想である。

 「遺伝か環境か」の問題は差し置くとして、人間の判断はすべて経験値に依存する。    

思考の現象学

 みなさん、こんにちは。

 みなさんは、「思考(考えること)」について考えたことがおありだろうか?

 有名なのは、デカルトによる「演繹法」とベーコンによる「帰納法」であるが、僕なんかは現実に考える上でこれらの分類にはあまりにも現実性も実践性もないので考え直してみた。

 それらの考えになぜ現実性や実践性がないのかと言うと、常に思考を「法則」と関連付けるパラダイムが根底にあるからだ、と言えよう。

 どうしても「2分法」でと言う方のために、自分が普段営んでいる精神活動を分析してみた。

 そうすると、古典的な考えよりは現実的かつ実践的な思考の分析を導くことができた。

 ひとつは「傍証整合思考」で、もうひとつは「オーダー従容思考」と言うことになった。

 可能性の中から原因を探るときに我々は「傍証整合思考」を使う。

 新しい発見や発想をするときには我々は「オーダー従容思考」を使う。

 そしてどちらにも共通しているのは、それらは「探索過程と採否」を含む、と言うことである。

 図式的に書くとこうなる。

「問題・事象切片の検知」→「傍証整合思考/オーダー従容思考」→「結論の採否」

 とまぁ、定型的なことを言ったが、我々の現実の思考においては概ね両者がどちらも用いられていると考えるべきであろう。

 ところで、「ことばとは何か」を煎じ詰めてゆくと、「弾み(アクセント)とノリ(興不興)の体系」だと言うことになる。しかし、「弾み」には「音」も「波長」もある。「ノリ」には「気分」も「意欲」もある。絵画のようにそれがあまり目立たない人間活動もあるが、総じて言えば「ひとの心」もある意味での「弾みとノリの体系」だと言えなくはないだろうか。

 みなさんもいま一度自分なりに「思考」を考えてみませんか。

心理学15の転回点

 1.生産性の規定因を探ったいわゆる「ホーソン研究」をはじめとする産業心理学説には「社会の中の企業」と言う視点が欠落していたため生産性の規定因を特定できなかった

 2.「絵画で心が分かる」と言う発想は、TPO無視の暴論に近い。特にひどいのは臨床心理学においてエビデンスのないほとんど芸術論のようなマズローの「欲求5段階説」などを高等教育機関の教員でさえ訓詁注釈している有様である

 3.心理学が「認識」を捨て「認知」概念にすがるようになったのには、「認識」と言うものが「事象を思いにフィットさせる自己説得過程」であるため、想定するグランドセオリーを築けなさそうだからである。もうひとつの事情として、AI神話があり、「プロダクションシステム」と言う「データ、ルール、インタープリタ」の可能性を過大視している向きがある。しかし、人間をはじめとする高等動物のコミュニケーションの9割がそれを成すような「訴求力」は「プロダクションシステム」によっては定義できないと言う事実を顧みていない

 4.最近よく引き合いに出されるE.L.ディシの動機付け理論において、「コンピテンシー」と「自己決定感」の2要因理解は肝心の「価値観」を除いて論じられている

 5.学習心理学の諸理論は、そもそもが実験動物主体の理論追求であったせいもあってか、「学習の時点」が必ず報酬を得た時点だと考えているが、我々人間の学習というのは、「その意義に気付いた時点(たとえば、「あれは良かった」などと経験を振り返った時点)」にも強化されると言うのが我々人間の常識であるはずが、すっかり忘れ去られている

 6.学習心理学にはそもそもから「残念賞」な部分がある。「科学」を志向しすぎて「行動主義」が生まれたときに、シカゴ学派のひとたちはラットを使って「学習」について研究をスタートしたが、そのとき気付くべき大きな知見があったのである。それは、野生のラットと飼育されたラットでは「気性」が180度違っている、と言う事実である

 7.いわゆる「ファシズム」はラタネとダーリーが説明に使った3つの要因を引かずとも、イソップ童話の「ネズミの相談」で説明できる

 8.誰も指摘しない「こころの証拠」は、「行為の反照性(存在の内在化)」にあり、純心理的ご褒美に反応するか否かでその存在を推定できる

 9.統合失調症治療には、「セロトニン系5HT2Aレセプター修復剤」を開発すれば良く、うつ病では仕事内の人間関係的報酬を仕事に見合うだけ回復することが予防の鍵となる

 10.社会心理学的事象には柳田国男の「ハレとケ」で説明できる事象が多い。例えば、学校のトイレで大便をした子どもがなぜからかわれるのかは、それらで説明できる

 11.「こころの定義」が心理学では慣用的で明確ではない。筆者の見るところ「こころ」とは、「思い(想念)と認識(想念帰着)の構造体」だと考えられる

 12.「理を知ること」において最も大きなファクターは「表情を読み取る力」であり、いわゆる「知能」と言うのは「確信を持って相手の目線を追い適切に対処する力」のことであろう

 13.学校の成績が示しているものは、「頭の良さ」と言うよりも、「学校の授業を意義深く感じやすいか」と考えた方が良い

 14.コリンズとロフタスの「活性化拡散モデル」は我々の日常生活でと受験勉強でと問題意識のあるテーマの思考でと与太話では記憶のあり方そのものが違う気がするが、ちと乱暴な見解ではないか、それなら、「意識は関係許容圏界面の移ろいからなる」と言った方が同じ屁理屈でもましではないか

 15.感情の本質は、「認知的OK-NGメーター」である

苦楽から考える学習心理学

 昔、僕の知人であるエプスタイン博士は言っていた。人間が常に求め続けているのは「最適な苦楽の均衡」だと。

 それなりに重い言葉だとは思っている。

 従来の学習心理学では報酬なら報酬単独、罰なら罰単独で理説が考えられてきたが、「人生」と言う文脈で考えると、むしろ「苦の中の楽」、「楽の中の苦」と言う方が現実に合ったものの考えではないか、と思う。

 その意味で、我々の人生においてベースラインが「中性」と言うことはあり得ない気がする。それはたぶん、ラットの学習でも同じことであろう。

 「苦の中の楽」は「苦」を忍耐させ、「楽の中の苦」は「楽」をより嬉しいものにする。人間が適応的なうちは、「苦」にも「楽」にも意義づけを見出だす。人間においては、苦楽の別なく「それに意義を見出す」ことが一番のモチベーションになる。これからの学習心理学は、「意義を見出せる個別具体的な条件」を探ることがトレンドになってゆくであろう。

 その耐性の限界を個々人境遇的に超えたとき、精神病理に襲われるのであろう。つまり、「学習」と言う現象はそれ単独の意義を持つ概念ではなくて、精神衛生上の一大トピックであると言わねばならない。それは、「どのような状態のとき、どの情報を学び、どの情報を棄てるか」の問題だと言える。また、任意の行動それ自体の精神的コストも視野に入れるべきであろう。

 で、冒頭のエプスタイン博士の言葉を考え直してみると、「苦楽の均衡」と言うのは、「耐性の限界を超えないように」と読み替えることができる。ただ、人間はたぶん基本的には「楽」志向であることは間違いない。そしてまただぶん、その問いには機械的な答えはない。なぜなら、自分がどう感じているひとにどうされると学び、あるいは拒絶されるかの問題のように思われるからである。

 そうなると、問題は「苦楽・境遇・対人関係のデザイン」がどのようであるので、学習を促進し、あるいはやめるのであろうか、と言う話になる。多くのひとは、子ども時代の勉強の思い出などを振り返ってみると、何らかの考えに辿り着くであろう。また、以前指摘したように生産性を考えるときに「社会の中の企業」、つまり企業活動の社会的財産性を視野に入れないことが心理学における生産性研究のネックであるように、現代サラリーマンの仕事を考える上でも、このように考えることは「報酬と罰」の学習心理学よりも説得力があるだろう。そして結局、このような問いへの答えには即物的な「報酬や罰」だけではなく、「そのひとの人生の履歴の産物」としての「価値観」がかかわってくることを痛感するであろう。

 非常に大雑把な一般論を言うと、比較的短期の学習には「意義」、長期の学習には「苦楽」の関与が大きい気がする。

 これまでの学習心理学は、「苦」と「楽」を切り離して考えられてきた。しかし、有機体の現実を考えたとき、事態は決して単純ではなく、学習は境遇適応上、もう少し大きな目で見る必要がある。

感覚閾の日内変動

 我々の感覚は、夜と昼、空腹時と満腹時、生理学的状態、環境の知覚などの複数の要因で閾値(threshold=感覚による刺激検出可能な刺激の物理的最小値)が変化していると考えるのはおかしいだろうか。

 たとえば、夜聴く音楽とボリュームは同じでも、昼聴いた方が音量が小さいと感じたりすることは、我々の日常にはよくある話である。もしかするとこれは視覚と聴覚の感覚間相互作用をも示唆する知見なのかも知れない。

 ところで、心理学で感覚を問題にするとき、いつもお決まりで論じられるのは感覚刺激の受容における「合理的理由(たとえば、音楽の例だといわゆるS/N比のようなものの仮定)」であろう。

 しかし、もし我々の感覚と言うものが必ずしも合理的にはたらくわけではない、と言うことも再考の余地のあるところなのではなかろうか。

 一心理士として、今日はそんなことを考えている。

ミューラー=リヤー錯視

 いわゆる「ミューラー=リヤー錯視」の説明理論で最も有名なのは「グレゴリーの3次元仮説」であろう。  

 その説では、矢羽根が180°未満だと鋭ければ鋭いほど「コーナーの行き詰まり」と知覚されるので、線分が近くに寄って見え、180°超だと「オープンスペースの入り口」と知覚されるので線分が「こっちこい、こっちこい」と長く見えるのだ、と説明できよう。

 しかしミューラー=リヤー錯視はポンゾ錯視のように線遠近法的な解釈の余地は小さく、読者の皆さんにはたぶん、二次元的な刺激を三次元的に解釈すると言うこと自体に疑念を抱かれる向きも多いであろう。 

 僕はそんな大した仮説ではなく、矢羽根の角度が線分の「そこまで」を曖昧化して過大視・過小視させるのでこの錯視が起こると考えている。それが証拠に矢羽根の閉じたものと開いたものを平行に上下に並べたときに、ともに線分の終点に垂直のスリットを入れるとこの錯視は消失する。まぁ、「位置誤認説」とでも言えるのではと考える。

 ただ、常識的には「伸張と収納」パターンのお話なのでこの錯視は自然な気がする。

人間の日常とAIの示差

 以前の記事に書いたことだが、「人間はきっかけと気づきの動物である」と指摘した。

 人間の認識の勘所と、人工知能(AI)の勘所の違いをこの記事では述べてみたい。

 AIは簡単に言うと、「すべて定義されたシステム」だと言うことができる。

 しかし人間の「きっかけと気づき」は完全には定義しきれないばかりでなく、かなり気まぐれに成り立つとは言えないだろうか。その上人間社会では何よりも「訴求力」がものを言う。

 コンピューターには「曖昧な認識」は持てない。「曖昧な刺激を識別する」ことはできても。コンピューターには「訴求力」も持てない。「訴求力」はいつの時代でも経験値であり、「訴求力の当て推量」はできても。

うんこが暴く「行動主義」の如何様

 

 こんにちは。  

 「心理学は目に見える行動のみを研究すべきである」と言う「行動主義」による心理学での「学習」概念および知見には常識では得心できない部分があります。それについて短くお話します。  

 まずはじめに述べておきたいのは、「学習」と言うものは、たとい暗黙裏にではあっても、「意義(関係性の訴求力)に気づいた時点に成立する」と言うのが僕の考えです。人間くらい複雑な有機体では、「情報の時点で気にかけることは変わる(=気にかける時点で情報へのアクセスのあり方も決まる)」と言うことです。

 我々は、ある日お医者様がテレビで「ウ○コが臭いのはがんのサインです(=条件罰刺激→これはすでにひとつの対呈示型の条件付けになっている)」などと話しているのを聴き、その後の日常でたとえば「自分のウ○コが臭かった(成立した条件付けにおける罰刺激による強化)」などと言う経験を持つと、次の日からそのことを気に病むようになる(=条件付けの成立)でしょう。この現象を支配しているのは、「関係性の意義(訴求力)を知ること」であって、刺激と強化の先後性ではありません。あるいは何かで逆恨みしたひとが、幾日かして棒を見たら「これであいつらを叩き殺してやる」と思うかも知れません。ありがたいお話をしたひとが話をしてからひとしきりして「コホン」と咳をした。「いい話をするのには喉が大変なんだな」と我々が認識する。船が港にないので「船は出航したんだな」と知る。あることを主張した後に身だしなみが乱れていたのに気づき、その後あることを主張する際には常に身だしなみに気をつける。誰かの話を聴いて事情を察する。どれも刺激と強化の先後性の問題ではないことがお分かりでしょう。

 報酬や罰が与えられた後に条件刺激が与えられるタイプの条件付けのことを「痕跡条件付け」と言い、一般に成立しない事象だと考えられています。そうすると先行した報酬や罰の後に呈示された条件刺激を「それには何か報酬や罰にとっての意味はあるのだろうか(たとえば告白された好きな異性の何でもない仕草が(それが自分への愛情のサインだったのだろうかと)気にかかる)」と訝ることはできない相談になります。

 しかし、上に述べましたように現実には人間では普通に見られる学習です。そもそも学習心理学における「中性刺激」と言うものが本当に「中性刺激」と言い切れるのかどうかも疑問で、実は必ず人間を含めた動物たちには環境の一々について生態学的意味があって、もしかしたらラットでも「餌を食べたら天井灯が点き、明るさと言うアメニティが得られるので餌を食べる」と言う学習があり得ないと断言はできません。「中性刺激」が「退屈な刺激」か「魅力的な刺激」かはその有機体しか知り得ぬことです。そんなわけで、「報酬的ないし罰的関係性の理解」さえあれば、どんな条件付けでも成立し得るのです。もしこの手の学習が成立しないと言うことであれば、そのような無数の要素からなる「学校の授業」などの意味伝聞的学習は学習心理学上無意味だと言うお話になってしまいます(そう言う意味からではありませんが、僕は9割の学校の授業は大方のひととは無縁の与太話だと思っています)。  

 要するに、我々はそれが強化子か罰子かは任意の刺激による行動の増減で推察していますが、たとえば適度な刺激を有機体が求めているのであれば、行動の増減が強化子によるものか罰子によるものかは断言できないと思うのです。たとえば空腹な時のご馳走と満腹な時のご馳走は、強化子にもなれば罰子にもなり得ます。その上常に学習は一定の振れ幅で更新され続けてゆきます。心理状態と言うものは、常に揺れ動いています。  

 他にも我々にはこう言うことはあるのではないでしょうか。「俺がさっき話したことは覚えておきな」と言われて我々がそれを覚えておくことがあり得ることを。あるいは「○○でないと気が済まない」と言うことが有り得ることを。パソコンの実用よりも設定に熱心になるように「手段の目的化」が有り得ることを。またあるいは、「あ、あれそう言う意味だったの」と言うような「言われて気付く(いわば「振り返り学習」)」ことがあることを。「きっかけと気づき」の前後関係がどうあろうと、学習における「気づき」は人間の場合いつでも任意の時点です。これらが「報酬と罰」による学習心理学的説明でできるとでも言うのでしょうか。

 たとえば、鳥さんの育児行動を考えてみましょう。鳥さんの育児行動、たとえば餌を与えるとかお尻を舐めるとか、こう言った行動が単に「報酬と罰」で説明できるでしょうか。僕は無理だと思います。なぜなら、鳥さんの育児行動が世代を超えて受け継がれて行くのは、その行動の意図なり意味なりが雛鳥たちに伝わることによってではないでしょうか。親鳥に対する雛の親しみの感情も、そうでないと生じないでしょう。単に「餌」と言う強化子、「尻を舐められる」と言う強化子のみによって雛鳥たちはそれらの行動を学習するでしょうか。情愛を感じるでしょうか。それは無理でしょう。雛鳥たちが親鳥から学ぶのは「報酬」でも「罰」でもなく、「気遣い」なのではないでしょうか。 

 で、なんで我々の学校の授業が大方覚わらないのかと言うと、「自我関与しているか否か」よりむしろ「その気づきは主観的評価を伴っているか否か」、すなわち「欲求があっての理解か否か」の問題だと思うのです。 人間は「境遇の動物」であり、「きっかけと気づきの動物」です。

 要するに、「行動主義」は「意識なき心理学(Psychologie ohne Bewusstsein)」だから人間の学習が「気付いたときに成り立つ」と言う至極当然の常識さえ説明できないと思うのです(無論、無意識的学習もあることは否定しません)。

 言いたいことはこういうことです。これまでの学習心理学は条件付けだのなんだのと言う偏ったパラダイムを追いかけるのではなく、「動機付け」と「行為」と言う観点から有機体の学習活動を考えていかなくてはならないでしょう、と言うことです。