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「文化発生の環境条件の研究」
我々が夜見る夢については、さまざまに考えられてきたが、筆者なりの見解が固まったのでここに開陳しておく。
エプスタイン氏(Epstein,S.,2014)によると、夜夢と言うのは「睡眠によって意識が変調した状態において生起する経験処理の堕落した働き」だと言う。
少し具体性に欠ける表現であるので、僕なりに気付いたところを言うと、夜夢と言うのは心に「対して」現れるものであり、自分の事象コントロール能についてのものだと見ることができる。これは現在の社会の一般的な価値観であり、ある意味夜夢と言うのは「呑まれた価値観の反映」なのであり、そうでない社会でも夜夢の特質がそうなるのかについては確言できない。では、そのような大脳生理が働いているのは一体どこなのか。
もちろんそれは、フロイトが言っていたような「妄想」なのではない。
臨床心理学では夜夢と言うのは必ず「隠れた欲求の表れ」とか「インプレスされた(強く印象に残った)経験の象徴」だと考えられ、大学院の試験に出るほどであるが、これはまったくのデタラメで、頭学問がいかにいい加減なものかを物語る好例と言えよう。
長年良く分からなかった夜夢の本質について、ようやく見解を持つことができた。
4年前に中京大学心理学部に(科目等履修生として)52歳の学生として通って、ようやく日本心理学会心理調査士(正式名称:日本心理学会認定心理士(心理調査))資格を取得できました。
心理調査士の活動領域は広いです。心理検査から意識調査、実験結果の分析検討まで、と。
本(2021)年1月19日より、新規認定心理士資格取得者のみが心理調査士資格(正式名称:認定心理士(心理調査)資格)を取得可能だったものが、我々のような認定心理士資格のみの既取得者へも心理調査士資格の取得のための受け付けを日本心理学会が開始いたしました。
僕も早速心理調査士資格の申請を行い、4月10日の資格認定委員会にて資格審査を受けることになりました。
詳しくは、日本心理学会の認定心理士(心理調査)資格の案内ページ(こちら)をご覧ください。
3月13日午後1時より、第30回日本乳幼児医学・心理学会大会(Web開催)にて、「絆としての意識~意識の必然性における親子要因と身体防御要因について~」を発表しました。
要旨は以下の通りです。
鳥類・哺乳類には明白に意識があるが、それは養育過程における「訴求(例えば雛がピヨピヨ餌をねだる)と気遣い(親鳥が餌を取ってきて与える)のキャッチボール」の必然的な結果である。
それらの生物の生態学史的ノードノード(個々の結節)において、それが生体防御にとって有効にはたらくために心理学で言う「強化子(意識過程の発達の要因)」として意識と言うものが維持されてきた生物史と言うものに思いを馳せないでいることはできない。
それゆえ、些か端的ではあるが、意識の必然性として親子要因と身体防御要因を指摘した次第である。
大雑把には以上です。
誰にでも赤ちゃんだった頃があり、その可愛い相貌からは誰ひとりとしてその子が凶悪な犯罪者になることを想像できないでしょう。
物心がつく3歳齢あたりまで精神が不安定な境遇で育った子どもが「悪いこと」をしがちなことは我々の経験値として確かなことです。
大方の大人はここで「認識ミス」を犯してしまいます。「この子のすることには悪意がある」、と。
現実には、このような子どもの「悪いこと」と言うのは、大人が犯罪者を裁くのと同じ「制裁」なり「ジャスティス」と言う心理から起きているわけです。ここを大人が見落としていることによって、彼らは「理解者喪失感」を強め、「正義は報われない」と言う誤学習(メタ認知)をさせられ、孤独な犯罪者の「素質」を植え付けられてゆくわけです。本来であれば、たとえば「ママのどこが悪かったのかしら?」と問い返すような、大人が「自分のどの行為に対して制裁されているのか」「子どもはどう言うジャスティスを下しているのか」を、正確に把握している必要があるのです。
この「善悪」自体と「性善説・性悪説」自体の発生メカニズムは同じであることにお気づきにならないでしょうか。
それは、人間が窮したとき、強い「竹を割ったような答えを求める症候群(白黒をつけたがる傾向)」に陥りやすいことによって起きる社会現象だと言う意味でそう思うわけです。
この「制裁心」なり「ジャスティス」と言うのは、それに分があれどなかれど、一種のそのひとなりの「正義の実行」なのは言うまでもありません。同じ「正義の実行」なのに「善」になったり「悪」になったりする事象については、個別具体的に仔細に考慮されなくてはなりません。そして恐らく、本来の「善悪」とは、その判断にどれだけの分があるかの問題なのでしょう。
人間は仏像ではありません。彫ればその通りの仏像になるわけではありません。常習的犯罪者には、「罪悪感」が欠けているのです。それは、人間としての対等意識が育っていないことを意味しています。
子どもの頃にそのような「素質」を植え付けられたとしても、職業的あるいは常習的犯罪者に至るためには、もう1ステップ必要です。それは「人一般への憎悪・色眼鏡」や「通念上理解しがたい変世界」がその者の心に醸成されることです。
したがって、犯罪者の更生を促進するには、自身の反社会的な「メタ認知」に疑念を抱かせ、ステップワイズ(徐々)にこれを消去してゆく地道な取り組みが必要かと思われるのである。
なお、筆者の学部入試の小論文の課題「学校の問題児は家庭、学校、コミュニティのいずれで形成されるのか」と言う問いの現在の筆者なりの答えは、最もその子が自我関与(心のよりどころに)しているのがこれら三者のいずれかであれば、そこで上述のような処遇を受ければいずれであっても問題児になり得る、と言うことである。
(特に社会構造と人格のマッチング、心理的深浅の問題のように)犯罪にはいろいろな水準で起きるものがあり、そのすべてを上記の理屈で説明するのは不可能ですが、これも一種の「犯罪心理学入門」として理解されると良いと思います。
自分の専攻学科である関係上、このような内容の論文発表は過去2回、日本心理学会大会にて行ってきた。
表題の問題について、簡単に筆者の見解を述べておく。
基本的に「意識とは何か」については繰り返し指摘してきた通り、「存在感覚」だと言えるように思う。
筆者なりの意識の発生メカニズムの基本は哺乳類および鳥類、つまり親子関係が出生後重要になる生物に特徴的なもので、親子の関係維持の必要から生じるものと考えている。
したがって、意識の発生要件には、「依存性をベースとした関係の継続性の必要」が最大のファクターだと考えて良いように思う。
そして、それを前提としたその存在の内面的継続性・融通性(行為の調節性)が認識できることを以て「ものごころがついた」と認識しうると言えようかと思う。インデックスとしては「行為の自在性」が最たるそれであろう。なぜそのような「制御感」が直接のディフェンス行為がなくても生まれるのかと言えば、「養育-模倣-巣立ち」の過程を経る動物では、そこから「意識」が「迷い-意思決定」を経て給備されると考えるのが自然であろう。
意識が一番端的に見られる現象は、「自分を庇う」と言う行為のように思われる。なので、同じ動物でも身体障害のある個体の方が身体障害のない個体よりも「意識的になる」であろう。このように、基本「傷つけられることから守ること」に意識のレゾンデートルがあるように思われる。究極にはこの一点に尽きるのではないか。
では、は虫類、両生類ではどうだろうか?たぶん、彼らには意識が「ない」のではなく、未分化なだけかと思われる。
傷つかないための意識なのに、人間はなぜ傷つけ合うのか…いまのひとびとは一方的に思うことに慣れすぎている…
まとめると、「意識」はそれがいかに低次なものであっても「予期せぬ障害-困惑-目論見的対処」により醸成される。なので、おぼろげながらにも自己対象視ができている状態を「意識」と呼ぶのであろう。なぜ人間が「意識的存在」の最右翼なのかと言えば、おそらく出生時に最も未熟な状態で産まれてくるゆえではないだろうか。
以上、心理学で有名な「モーガンの公準」から一歩出たところで意識を考えてみた。
Key Words : 障害 その背景としての環境多様性
「マズロー理論」、すなわち「生理」・「安全」・「所属と愛」・「承認と尊敬」・「自己実現」のいわゆる「欲求5段階説」は果たして何のために考えられたのであろうか、と言う疑問に筆者長年思いあぐねていた。
エビデンスがあってそう言ったのではないとか、あまりにも芸術的だとかの批判も耳を傾けるべきところは多かった。
もしこれが「人間の心理的成長」にかんする理論だと言われれば、やはり僕の中には強い反発がある。
しかし、最近気づいたのは、この「マズロー理論」は本来のターゲットが健常者だと考えられてきたのが過ちで、マズローの臨床活動から得られた洞察だと言われれば、ある程度腑に落ちる、と言うことだった。
そうなのだ。この理論は「成長理論」などではなく、「精神疾病の心理的病因論」だと考えれば良いのである。
生理的欲求が満たされないならば、人間はただの獣になる。
安全欲求が満たされないならば、反社会的人格になる。
所属と愛の欲求が満たされないならば、うつその他や人格障害になる。
承認と尊敬の欲求が満たされなければ、モンスター人格になる。
自己実現の欲求が満たされないならば、適応障害になる。
筆者なりのマズローのリーディングは、かくして精神障害論へと様相を変える。