ナウでヤングな「学習概念」

 心理学には大きく分けて2つの学習についての考え方がある。  

 ひとつは、ゲシュタルト心理学の「学習とは認識の変容である」と言う考え方であり、もうひとつは現在の心理学界で主流の「学習とは比較的永続的な経験による行動の変容である」と言う考え方である。  

 ところで最近僕は、ものごとを見つけると言うことにおいて、「事象のほころび」と言うものが非常に大事であると痛感している。  

 そのような見地に立つと、「学習」が「事象や心のほころびを結ぶこと」に見えてくるわけである。  

 皆さんはいかがとお思いになるであろうか。

エプスタイン氏のCET(認知-経験理論/抜粋)

Seymour Epstein “The Basic Theory : Two Systems”(Chapter 1 from his “Cognitive-Experiential Theory : An Integrative Theory of Personality”, Oxford University Press, 2014)

※英語版Wikiには「CET」ではなく「CEST」で紹介されています。ググる場合には「Epstein CEST」と検索してください。日本語版Wikiの「認知-経験理論」は僕が執筆しました。

 (訳/西田篤史)

  基礎理論:2つのシステム  

 本書が準拠しているのは「認知-経験理論(CET)」と呼ばれるものである。この理論の最も基本的な仮定は、「経験システム」と言う経験から自動的に学習されるシステムと、「理性システム」と言う言語的な理由付けのシステムの2種の情報処理システムをひとびとは用いている、と言うことである。人間の経験システムと言うのは、人間では顕著に大きな脳によりたぶんより発達した、何百万年を超える進化による環境適応に成功した高等動物のそれと同趣のものである。このシステムの2つの基本的構成要素は、「内容」と「過程」である。経験システムの「内容」は、連合学習から自動的に獲得される暗黙の信念である。私は、単純な認知表象のような図式にみるのと同じやり方でこれらの信念を使う。暗黙の信念と言うのは、隔絶された表象のように存在するわけではないけれども、高等動物や人間が自分自身、他者、そして対個体関係世界をいかに表象するのかを規定する現実の暗黙理論へと組織化されると仮定されている。経験システムは、連合学習のよく確立された原理によって働く。よく我々の知覚の外側で経験システムは、事象・感情・行動、またときに自身の意識的思考についてのひとびとの解釈に影響する。それゆえ、ひとを理解しようと思えば、ひとの経験システムの内容だけでなく、その運用規則や一般的な経験処理の諸属性、つまり「過程」も理解しなくてはならない。  

 経験システムは、過去の経験から自動的に学習することによって獲得された暗黙の信念によって第一次的には行動に影響するが、それだけでなく全く新しい状況での行動にも影響する。例えば、経験からの学習のように特定の機能のために進化した適応過程が、例えば完全に新規な状況への応答のように、本来の目的以外に使用可能であるような「適応の構え」として言及されているような過程に帰されうる。つまり、経験システムは、迅速な、自動的な、一次的に非言語的な、全体的な、最小限の認知資源を要求的で、そしていつもは知覚の外側の作法における経験処理の原理と属性によるところのすべての状況に応答する。それは、全く新しい素材の暗黙の学習や新しいパターンの無意識的な検出にみるような直観の類いを説明しうる。  

 理性システムはひとの論理理解や事象の考量に従って働く。経験システムとの対比で言えば、見える形でのひとの現実についての理論の働きを支配する。経験システムとは異なって、理性システムは文法言語の使用を必要とする人間特有のものである。  

 本章においては、私は経験システムと理性システムの作動原理および属性を比較する。もし読者がこれら異なるシステムに伴う人間の情報処理について腑に落ちないところがあったなら、次章で述べるように、読者がひとは事実そうしているように私の両システムの提案で一貫している諸点に得心が行くように日常生活における証拠を提示したい。  

 ここで提示する理論は随分以前にその序に着手し(筆者、1973)、その後の20年を超える歳月にさらに展開されたいくつかの論文に述べられている。特にCETに影響を与えたアメリカンサイコロジスト誌の論文(筆者、1994)を参照いただけば分かるとおり、いわばまがいもののCETの横溢が様々な著者によっていずれも同じように2つの手続きを主として使いそれに基づいたそれぞれなりに主張された彼らの理論に、たとえば社会心理学だとか認知心理学だとかの彼らの自前の心理学の学範の内容にこれを誤用していたり、原理を適用しているごとくに見ることができる(たとえばカーネマン、2003、スローマン、1996、スミスとデコスター、2000、ストラックとドイチュ、2004)。それに拘わらず、CETのまがいものは重要な以下の2点において本物と異なっている。1点目の相違点は、CETと較べてその着目点がその理論において偏狭過ぎるか、詳細さを欠いていることである。たとえば、CETの14の属性に比べて他の著者たちの経験処理における属性のリストは著しく小さい。また、CETは総体的な人格理論および経験処理および理性処理における個人差の測度を与える唯一の現代の二重過程理論なのである。2点目のCETとそのまがいものを分ける相違点は、等価なシステムに彼らが付与した名称が示すように、経験システムの最も基礎的な属性が何であるかと言うところにある。例えば、彼らは経験「様」システムを「末梢システム(ペティとカシオッポ、1986、ペティとワグナー、1999)」とか、「連合システム(スローマン、1996、スミスとデコスター、2000)」とか、「暗黙システム(ジョン-レアード、1983)」とか、「衝動システム(ストラックとドイチュ、2004)」とか、「沈黙システム(ホガース、2001)」とか、「当て推量システム(チャイケン、1980、チェンとチャイケン、1999)」とか、完全に非関与の「システム1(カーネマン、2003、スタノビッチとウェスト、2000)」と見做している。誰も経験処理の14属性近似でそれを説明しているCETの自動的・連合的・学習的な仕様での経験システムの本質を捉えてはいない。また、進化論的展望における適用自動的で連合的な学習システムを人間が他の高等動物と共有していると言うアイディアは、CETにおいて意味のあるものになっている。  

 この章では、CETの経験システムと理性システムの作動原理および属性を比較考量する。有用な背景情報として、まず最初に私は2つの異なる無意識的処理システム-フロイトの見解と認知科学者の見解-をお示しする。

フロイト理論における無意識と認知科学における無意識  

 フロイト理論やその系譜におけるガツガツとした男根期の無意識は、認知科学における一般的な認知的無意識とはかなり距離を置かれている。それぞれが利点と欠点を持っているので、それぞれの利点を欠点なしにいかにして統合可能かを提起する。CETでは、意識によってではなく、CETの基本仮定からの推論によってこれがなされている。

 フロイト派無意識の何が正当なのか  

 フロイトの無意識の精神と言う見解は、およそ20世紀中で最も影響力のあるアイディアである。フロイト以前の心理学的疾病や非合理は、生理的欠陥や悪い精神性を持つことによると考えられていた。それゆえ、精神症状と言うのは悪い精神性や特定不能の脳や神経システムの不調にその原因は求められていた。それとは対照的に、フロイトは不適応行動の研究をみな行動科学、もっと突き詰めて言えば心理学の領域に据えた。結果として、別の諸現象を成功裏に当てはまったような科学諸原則と同じ類いのものによって不適応行動は説明され得た。フロイトによれば、彼がそう信じていたような非理性的諸規則によって発動するようなひとびとの無意識的精神の影響で理性的に考えようとする試みが破壊されることで、ひとびとは非理性的になると言う。ひとの非理性の説明に追加で与えられたのは、夢・精神疾患・日常生活での精神病理・宗教・ユーモア・創造性・言い間違い・人間の発達・人格の個人差についての説明だった。これらの業績の視界は最も印象的ではあるが、無論それらの価値は先に示すように、疑うに適した理由があるそれらの妥当性に依存する。  

 フロイトは無意識的精神の重要性を認識していたのみならず、彼の患者とその夢の彼なりの観察により、どのようにそれが働くかの秘密を明らかにしたと信じていた。彼は夢の内容を支配していると信じた、また夢の内容の意味の秘密を解き明かす鍵をもたらした心の作動原理を同定した。彼はその作動原理を含みのある連合・圧縮・置き換え・象徴的表象だと信じた。彼はその長い生産生活の中でなしえたことのうちとりわけ夢の研究でなしえた彼が信じた無意識的精神の秘密を解き明かしたことを最も誇りに思う、と言っている。彼の後版の著書「夢分析(フロイト、1900/1950、序言は1931)」の序言で、彼は夢の研究による無意識的精神のはたらきの理解は、「私の幸運がもたらした発見の中で最も価値があるもので、人生でかつてのこととは違って天運によってもたらされた洞察」だと述べている。さて、それはとても鮮烈であるが、無意識的精神の働きについての彼の理解のような仮定は正しいのか?否か?  

 良く見れば現代の認知科学者の考えにも一貫している見解、つまり無意識的精神の重要性の強調は、疑いの余地なく正しい。しかし、後にお示しするように、フロイトは悪しき無意識と言う究極に重要な点で間違っている。CET(筆者、1999)に従えば、フロイトが見ていた無意識的処理と言うのは、睡眠によって意識が変調した状態において生起する経験処理の堕落した働きなのである。

 フロイト派無意識の何が間違っているのか  

 無意識の心の働きについてのフロイトの見解は、進化論的見地から説明不可能だと言う決定的な問題を残した。フロイトが「一次過程」と呼んだ夢の成り立ちに従って覚醒している個人の行動が精神疾患になったり助けなしに生存不可能になったり、と言った具合に。たとえば、ひとが満たされない欲求の望みの綱を、適応的行動にと言うよりは幻想を満たすことによって経験する。それゆえ餓死していくひとびとは、実際の食べ物を食べる代わりにお気に入りの食べ物を楽しんでいることをイメージすることで、微笑みを浮かべながら死んでゆく。  

 もちろんフロイトは、彼の頭の中では現実志向の行動を想定する必要を認識していた。この問題の彼の解法は、「二次過程」と彼が呼んだものが働くシステムを取り入れることだった。一次過程との比較をすれば、快楽原則によって始発するそれに対し、「二次過程」は現実原則と言う論理や現実理性による問題解決の促進をもたらすものによって始発する。  

 現実原則に動機付けられた二次過程と言う解法の問題点は、まずそれは何よりも文法言語の使用を通して働く、と言う点である。なので結局フロイトは、文法言語を持たないヒト以外の動物の適応行動を説明できなかった。特筆すべきなのは、フロイトは適応についての議論の中で動物の行動に言及したことは決してなかった、と言うことである。加えるに、無意識的処理の本質についてのフロイト理論は、別の点においても進化の原則とそりが合わない。フロイトが言うには、無意識の心と言うのはすべての精神活動の基礎だと言う。彼は無意識を、大部分が海の中にある巨大な氷山にたとえ、意識はその可視的な小さな頂点だと考えた。進化論的見地から見れば、ひとの心のまさに基礎が不適応に陥ることについてほとんど意味をなしていない。  

 無意識の心についてのフロイト理論を支持しかねる3つ目の理由がまだある。会話の獲得後のすべての精神活動は、(たとえば予期不安による阻害のように)抑圧されない限り意識を形成すると彼は信じていた。それはこういうことである、フロイトにとって意識、つまり顕在の情報処理は、会話の獲得後に初めて可能になるのであって、それが自然な状態であって、無意識処理は抑圧によって産出された特定の状態だと言うことである。認知科学者(エリスとハント、1993、レーバー、1993)らの見解は無意識処理は自然な規定値で、それが証拠に意識的理由付けよりもはるかに我々の日常の行動を方向付けるのに十分であるとフロイトに反対している。さらに、論理によるのと同様、考えられた調査によりそのことは支持されている。  

 要約するに、無意識の心の働きについてのフロイトの概念化の説明力と同時に、それがどう働くかについての彼の見解は、科学的に説明不可能だと言う根本的な問題に我々を悩ませている。それは、無意識の心の重要性に注意を引きつけると言う彼の業績を否定するものではない。無意識の心についてのフロイトの概念化にCETの経験システムが取って代わるとき、フロイト精神分析理論の残像が科学的に得心できる形で維持されるのである。

 認知的無意識の何が正しいのか  

 現代の認知科学における無意識的処理は、フロイトの見解とは異なって知覚外処理のより「類的で穏やかな」形だと見られている。認知科学者にとっての認知とは、抑圧によるのではなくそれが自然でもともとの日常の情報処理なので一次的に無意識的なものである。それが自動的、知覚の必要なしに働くので、意識的理由付けよりも無意識的処理の方がより認知資源が少なくて済む。夢から推論されたフロイト派の不適応的な無意識の性質とは違って、認知的無意識の性質は論理的思考と調査によってもたらされた。適応的な方略において情報は認知的無意識によって処理されるので、進化論との互換性もある。それは日常生活における意思決定をとても良く説明しうるし、膨大な実験研究によって支持されてもいる。

 認知的無意識の何が間違っているのか  

 フロイト派の無意識と顕著な対比において、認知的無意識と言うのは相対的に確立された情報処理の形であり、ともにそれらの認知に付随してその強度としばしば混迷性において情動を経験している血の通った人間存在についての3次元の見解を与えはしない。ただ認知的無意識のみを持つ人間と言うと、行動を方向付けうる感情がなくて、情報を処理するコンピューターを搭載したロボットのように、ハートを持たないオズの魔法使いに出てくるブリキ男のような心をしているだろう。つまり、認知的無意識の問題と言うのは、フロイト派無意識とはまた違って、妥当性がないと言う問題と言うよりその限界の問題があるのである。認知心理学者たちは情動とか認知と行動における気持ちの影響に膨大な注意を払い始めてはいるが、実験研究-これは容認できない一般化を導くが-を受け入れ可能に実施されたとても穏やかな情動や情緒の影響において彼らの強調点と比較したときにひとびとが日常生活において規則的に経験する強力な情動の影響を考慮する範囲では、それらは最小限である。たとえば、現実生活における非常に強い否定的な気持ちを調査したところでは、それらは非現実的で不適応的な思考と関係していると言うことが見出されているが(筆者、2011)、導かれた穏やかな否定的な気持ちの研究に基づけば、否定的な気持ちは現実的思考を促進すると結論づけられている。

 

認知-経験理論の位置付け

 経験システム  

 認知的無意識とフロイト派無意識の統合は、CETの経験システムに伴うそれらの再配置によって得られる。効果的に言うと、認知的無意識は情動的に制御する、と言うことである。ひとたびそう思い至ると、認知科学により相対的に確立された無意識の限界を打破できる。  

 情動的制御の結果として、CETの経験システムは多くの精神分析的無意識の特徴を共有する。いずれの立場でも、無意識の心は快楽的・連合的・衝動的、そして迅速な仕方で働く。さらに、CETの理性システムと精神分析の自我は、一次的に言語的・伝達的・論理的な意識のありようにおいて現実原則が働くと言う点で、類似している。これらの2つの処理システムの類似性は、CETの経験システムと理性システムは、精神分析におけるイドと自我に対応しているのではないかと言う見解に我々を導く。しかし、理性システムと自我が類似で経験システムとイドが類似だと言うのは以下の諸点で違っていて、正しくはない。①自我によるイドの制御に伴う接点においてのみイドは適応的で、経験システムと言うのは自己含有的な適応システムである、②イドは単に表出の試みを発動する本能的煮沸釜であるが、経験システムは刺激・反応、そして結果を結びつける連合学習のよくできた規則によって働く、③イドは何も学習しないが、経験システムは経験からの学習によって適応的に働く、④フロイトの心理療法では不適応な無意識処理に気づくことと自我による制御によるイドを以てしての置き換えを要するが、CETにおける治療改善は究極には経験システムの適応的変化を要する、⑤一次処理は経験システムを説明できないが、フロイトによる無意識処理の働き方と言う意味での一次過程では経験システムを説明できる。CETに従えば、先にも述べたように、フロイトの一次過程思考は、睡眠で産まれる変調した意識状態における経験処理の堕落した形(筆者、1999)に見るように、CETによっては理解可能である。  

 前述のように、経験システムと言うのは自動的・連合的学習システムである。これらには以下の3種ある。古典的条件付け、自発的条件付け、観察学習。これらはすべて同じ原理-随伴性、連合的般化、そして強化-で働き、類似の属性を持つ。それら3種の学習は同じ原理や類似の属性を持つからだけではなく、環境におけるひとの行動について作業モデルを確立することによって適応を促進すると言う一次的な共通目的に用いられるので、システムを含有しているのである。分析の場を含む重要な諸点でそれらの構成要素が異なることを考えると、組織化された経験システムと言う仮定はよく守られるのかと言う疑問が出てくる。このような半ば独立な構成要素は、陸海空の移動システムにたとえられるだろう。違ったやり方で、違った場所で異なる移動手段が用いられてはいるが、いわばあるところからまたあるところへ用いられるという意味では同じ目的のために半構造化されたやり方としてそれらは役立っている。  

 古典的条件付けを通して、ヒトであろうが動物であろうが、刺激その他と結果の関係を学習する。自発的条件付けを通じては、刺激、反応、反応によって生ずる結果の間の関係を学習する。観察学習を通じては、それらが代理的にその他2種の学習のどちらもが成立する。これらの自動学習過程を通して、ヒトであろうがその他の動物であろうが環境における作業モデルを構築する(CETの用語法で言えば、「現実理論」)、そしてそれはヒトその他動物の良い環境適応を許容するのである。

 理性システム  

 理性システムを考察する前に、CETにおける「理性」と言う用語の使用法について序として注意を与えておく。ウェブスターの第3版国際用語辞典(メリアム-ウェブスター編集委員ら、1966)によると、「理性」と言う用語は2つ意味を持っている。ひとつが「感性的・理に適った行動」と言うものであり、もうひとつが「論理原則に従った理由付け」と言うものである。CETでは後者の意味を採用し、特定の状況での情報処理の在り方として理性的理由付けが優れているかどうかについては何の含意もない。論理的理由付けがいつも問題解決の最良の道なわけではない。間違った前提でものを言ったり、析出的分析よりむしろ全体的印象を要する問題にそぐわなかったりして、理由付けというものはスベり得る。さらに、たとい論理的なことを加えて正確であったりしたとしても、伝達処理は様々な状況で実践的であるために不十分過ぎたり認知資源を必要とし過ぎたりすることもある。結局、経験処理よりも理性処理がいつも優れていると考えることはできない。  

 理性システムは推論システムであり、全体的にと言うよりは広範に文化伝達的なひとの論理的理由付けに従う。複雑な言語、またこれに関係して複雑な論理推論の使用能力は、ヒトの脳に固有の機能である。CETは理性処理について新しいことは何も語らないし、論理的理由付けの規則は良く確立しているので、経験処理との比較でと言う以上に他にほとんど注意を払わないだろう。しかしながら、ひとつだけ例外がある。ひとの論理的理由付けの能力の割にしてはのひとの非論理の主要な源としてCETが見做しているひとびとの論理的理由付けの経験システムからの歪んだ影響についてはCETは大きく扱う、と言うことである。  

 もしあなたが理性システムの発動がいかなものかを理解したいなら、論理を運用し証拠を評価することでひとびとがどのように問題を解こうとしているかなど、いかにひとびとは理性を用いているかを観察すると良い。経験システムがもたらした、またよりひとびとに受け入れられることが分かるような様々な可能性について好んで考えると良い。ひとびとは目の前の事実を超えて論理推論をし、他よりもアイディアを支持する証拠を探しているであろう。そして彼らはまた、相矛盾する証拠よりも内面的に一貫した証拠を探しているであろう。  

 状況と言うものは、経験システムの働きを非常に見えづらくしている。それは自動的に、また通常は知覚の外で働いているからである。ほとんどのひとびとは、経験システムを自分が持っていることにさえ気づかないだろう。じっとその働きを知ろうとするのが良い。

表.経験システムと理性システムの属性

属性の名称    経験システム    理性システム

1.問題解決   自動的     意識的

2.言語性    非言語的    言語的

3.動機付け   快楽原則    現実原則

4.感情価     情動的   感情からフリー

5.脈絡の在り方  連合的    因果的

6.意識性     自動行動   意識的行動

7.存在特性     全体的    分析的

8.努力の必要    なし     あり

9.処理速度     迅速     ゆっくり

10.変化抵抗 繰返しと経験強度いつでも変化可能

11.意味の処理  経験のまま  意図的・意味的

12.人為性    文脈依存    文脈一般的

13.統制の座    受動的     能動的

14.検証性      経験依存     論理検証的

こころの証拠

 冒頭にこう述べると恐らく面食らうであろうが、失礼をお許しいただきたい。  

 我々の長年の乳幼児研究から分かってきたことは、「こころ」の本質は「行為の反照性」にあると言うことである。  

 たぶん多くの読者の方はこう言っても「何を言っているのか分からない」と言うに違いない。  

 そこで、その含意について説明してゆくことにする。  

 「自己」と言う意味と「意識」と言う意味を同じだと仮定しよう。  

 赤ちゃんは初めのうち、本能的に限られた行動しかせず、自分で自分の心や行動に縛りをかけることはない。  

 しかし、親の行為による赤ちゃんの行為の行動的ないし言語的な禁止や促進を赤ちゃんはいずれ覚え、内面化する。    

 これが能動的に赤ちゃん自身の心の中で自律的に働くようになること、言い換えると内面化された親の命によって自分をコントロールの対象として見るようになること、それが意識の始まりであり、自己の誕生だと言うことである。言い換えると、「意識」とは「(それだけならアフォーダンスに見るように認知ではなく)認識すること=意図(意思)すること=(たとい見かけ上はそう見えなくても)工夫できること(存在が結節化すること:ピアジェの用語で言うシェマの調節/このことからも分かるように意味の受容と行為は本質的には同じで区別できない(「させられ行為」と「行為」程度の違いしかない。ゆえに頭の回転の速いひとと言うのは、「させられ行為」がその時点ですでに「行為」になっているひとのことを言うのであろう))」と言えよう。  

 要するに、自己とは他人のハンドリングの内在化および自律化のことを言う訳である。このことを一言で言おうとすると、冒頭にある通りの「反照性(内面化された自他の関係性)」と言う言葉になるのである。

 もっと正確に突き詰めると、それは「存在のビルトイン」と言えよう。 

 もっと具体的に理解しやすい言葉で言うと、「物事-受け」の連鎖が意識なり自己の存在証拠になる、と言うことである。  

 この観点から見ると、「動物にもこころはあるのか」とか「自分の子どものこころの発達具合はどうか」と言う問題も対象をよくよく観察していれば分かるだろう、と言うことである。おそらく、「要求行動」のできる存在にはみな心があるのであろう。なぜなら、それは「対他性」を前提する。  

 そう考えると、「人間」と言う言葉の意味の適切さに感服するとともに、マルクスの「言語と意識は同い年」と言うテーゼがいかにピンボケなのかが分かるだろう。

犯罪心理学の現状と課題

 今日は改めて「犯罪心理学の現状と課題」についてお話させていただきます。  

 犯罪心理学における主要な問題として、「ひとはなぜ犯罪を犯すのか」と言う根本的な問いがある。  

 その辺については、古典的にはロンブローソの「生来性犯罪者説」と言う考えが最初に提唱された犯罪者理論だと言って良い。彼は犯罪者の風貌などには一定の特徴があり、それは遺伝すると主張した。  

 しかし、その後様々な研究がなされ、彼の説が誤りであることが検証された。  

 次に現れたのは有名な社会学者のデュルケームの犯罪理論である。彼は何が悪かは社会によって相対的で、それぞれの社会ごとに善悪の基準つまり規範は異なると主張した。そして、規範が崩れた状態を「アノミー」と呼び、それが犯罪を誘発すると考えた。  

 しかし、本当にそうなのであろうか。欧米と東洋でも犯罪者の規範的逸脱には犯罪におけるパターンの共通点や家族構造の相似が見られる。これらはどう説明されるのであろうか。  

 人間はストレスを嫌う。特にストレスが高まるのは社会が解体されてゆく過程である。アメリカでも韓国でも大都市の高層ビル群の裏路地に入ると「貧乏長屋」のような世界がある。このような地域をバージェスは「遷移地帯」と呼び、犯罪が多発することを見出した。  

 ショウとマッケイは、このような「遷移地帯」をシカゴ市で調査したところ、実際に犯罪が多発していることを明らかにした。  

 我が国でも問題になっている「格差」がそれをもたらしているとしたのがマートンである。ひとびとが社会を構成し、同じ方向を向いて「成功」を目指し始めると、必ず「ドロップアウト」するひとびとがいる。こうしたひとびとが犯罪を犯すのだと言う。  

 本邦において犯罪心理学で有名な安倍淳吉は、犯罪者も一般市民も同じように「職業的社会化」してゆくと捉え、「犯非行深度」によって犯罪者が4段階に分類できると主張した。逆に「なぜ一般市民は犯罪を犯さないのか」に注目したハーシーは、ひとびとの社会的絆が犯罪を抑えているからだと考えた。  

 しかし、以上に述べたような諸理論から犯罪を抑止すると言う発想はなかなか出ては来ず、目に映る限りではニューヨーク交通局長のデビッド・ガンの実行した地下鉄の「クリーン・カー・プロジェクト」とかジェフリーの公園などにおける「環境設計による犯罪防止(CPTED)」程度の対策しか出てきてはいない。  

 また、なぜそれらの対策が効果を発揮するかについての説明がなされているわけでもない。  

 そもそも、「犯罪心理学」と言っても、どの説や理論も一面的で、なぜ犯罪が生じるのかについての心理的な説明が皆無で、従って犯罪者にどう対処するべきかも社会をどう見直すべきかも考察されてはいない。なぜなら、犯罪の中には「いじめ」も「セクハラ」も「自殺」も「トラ親」もある。  

 そこで「犯罪者の心理」についての簡潔な筆者の理論について触れることにする。  

 多くのひとは、なぜ犯罪が起きないのかについて「余所様の目があるから」と言うであろう。また、日本心理学会のお偉様方は「共感性があるから」と口を揃えて言う。  

 そんな具合だから、我が国も中国並みの監視社会になりつつあるが、犯罪者の心理にかんするそうした指摘について僕はそうは思わない。  

 犯罪者の共通した心理は「娑婆社会における安心感(裏を返せば生活社会における影響力のなさから来る諦めと無力感)=社会的追い詰められ感(特に若い頃の「誰も話を聴いてくれない感」)」の問題であると僕は思っている。別の言葉で言い換えれば、「悪とは、人的生活障害感の内在化」だとも言える。その人生における境遇上の矛盾の結果の行為さえことごとく否定され続けた人間ほど凶悪な犯罪者になるのであろう。彼らは我々にこう言うだろう、「誰も娑婆的に自分を守ってくれなかった」と。特に常習的犯罪者においては「罪悪感の欠如」が挙げられるであろう。そしてその背景には、「人間としての対等意識」が育っていないことを見出すであろう。そう考えればどんな対策も刑務所のあり方も導き出せるように思う。心身医学的見地から見て精神疾患の定義というのは「そのことで本人が困るか社会を悩ませるもの」と言うことが必須の要件になっている。ローゼンツヴァイクと言う心理学者が「P-Fスタディ」と言う心理テストの中で主張した「外罰型」の者が犯罪を犯し、「無罰型」の者は「冷淡な傍観者」になり、「内罰型」の者が自殺でこの世を去るのではないだろうか。

 特に強調してし足りないのは、多くの犯罪者も生まれたときには可愛い赤ちゃんであって、誰もその子が将来残虐な殺人者になるとは思わないことであろう。物心がつく3歳齢あたりまでその精神が不安定な子どもたちは、これが人間の重要な心理的特質なのであるが、その精神の不安定さによって「悪いこと」をしがちである。しかし、ここで見落としてはならないのは、彼らにまさに言葉通りの「悪意」があるわけではなくて、我々大人が良く犯罪者の処遇に望む「制裁」の2文字からはじめはそうしているはずだ、と言うことなのである。もしこの事実を見落として我々が彼らに「悪意」しか見出してはいないのであれば、彼らはそこから「理解者喪失」に陥り、ますます孤独な犯罪者の「素質」を強めていくのは当然の道理である。そして彼らにはやがて「人一般への憎悪・色眼鏡」や「通念では理解しがたい変世界」をその心に醸成し、職業的・常習的犯罪者になってゆくのである。そして、それと同じロジックで人間界には「性善説」と「性悪説」が生まれる。  

 加えて、「順倫意識を凌駕する欲望」ゆえの犯罪もあれば、人倫についての無知から起きる「犯罪」、知っていながら弱みにつけいることで露見・発覚を免れているタイプの犯罪もある。  

 特に暴力団の幹部たちの顔相を観察していると、そこに通底する一貫した特質が認められる。それは、「増悪と言う名の憑きものに取り憑かれている」と言うことである。当座はどうしたらその憑きものを罪なく笑わせられるか、が課題であるように思われる(ヒントだけを示唆しておくと、彼らは感情に動かされやすい)。  

 ひとつだけ確からしいと思うことは、たぶん人間は「極論に走りやすい状況や境遇・人格」で犯罪に手を染めるのではないか、と言うことである。

 僕は安倍淳吉の講義を直接受けたひとりである。彼がなぜ犯罪者の分類には熱心であったが、犯罪の未然防止や本来あるべき犯罪者への処遇と言う犯罪心理学の一番の喫緊の課題に一言も触れなかったのかを、同じ人間として疑問に思っている。と言うより「頭が良くて学問に秀でたひととはそんなものなのか」と失望している。花ばかり見てないで水をあげたら、と言いたい。

 具体的には刑務所改革、我々の常日頃でできる反社会的勢力対策としては「我々を家畜呼ばわりしている一部の金持ちたち(国際金融資本※)の思い上がりによる非常識」に学ぶ反社会勢力の常識および社会通念としての「我々による反社会的勢力の家畜視(我々の掌の上で踊ってっている感の写植)」が一銭のお金もかからない良法だと考える。

 また、事実に基づく噂話として、我が国の隅々までに「国際金融資本とかかわると、必ずヤクザとかかわることになる」と言うことも老婆心から広めるべきと思う。 

 今日は「犯罪心理学の現状と課題」について述べさせていただきました。

 ※国際金融資本‥‥モルガン、ロックフェラー、ロスチャイルド、フリーメイソンなどの巨大閨閥金融資本

「生産性の規定因研究」はなぜ不毛に終わったのか

今日は「生産性の規定因研究がなぜ不毛に終わったのか」についてお話させていただきます。

「生産性の規定因」を研究したアメリカのウェスタンエレクトリック社のホーソン工場で1924年から1932年までの8年間にわたって行われた「ホーソン研究」では、メイヨーやレスリスバーガーらの心理学者が労働環境における物理的条件とか人間関係的条件を生産の規定因として仮定してさまざまに条件を変えて生産性との関係を検討しましたが、明確な答えは得られませんでした。

その後、ハーズバーグの「動機付け-衛生要因」理論とかマクレガーの「X理論Y理論」説とかアージリスの「パーソナリティの成熟・未成熟」説が提唱されましたが、決定打にはなり得ませんでした。

それはなぜか、と言うことを僕なりに考えると、心理学者は「心理」に過剰に注目しすぎることが、「社会の中の企業」と言う視点を欠落させていることにつながってしまっているからではないか、と思うのです。

他にもシャインと言う社会心理学者は、人間を「複雑人」と捉えないとこの問題の答えは出ないだろう、と言っています。

しかし、本当にそうなのでしょうか。

環境要因に心理学者が注目するとき、物理的要因とか人間関係的な要因とか人格的要因とか課題達成的要因(課題の面白さなどの誘因はなぜかすっぽり心理学者の目算から抜け落ちている)とか、どうも是が非でも「企業内心理的要因」探しに陥りがちだとは皆さんはお感じにならないでしょうか。

それらは、きわめてミクロな視点に立って「ひとの心」を見ているだけでしょう。結局、「ホーソン研究」以降のハーズバーグにせよマクレガーにせよアージリスにせよ、「人間の心理的成長」と言うこれまた心理学者的な発想しか出てこなかったので、決定打になり得なかったのではないでしょうか。

常識的に考えたら、たとえばアマゾンのコマーシャルのような訴求力のあるコマーシャルの制作者とか、ヒット商品の開発者は、それが社会の財産になっていることを感じるのでますます頑張ろうと思うはずですよね。あるいは「ネームバリューのある企業の一員」であるとか、「良い仕事ができている」とかの理由にしても同じですね。もちろん「賃金」と言う意味も含めて、「何を背負って仕事しているか」の問題も大きいことでしょう。それは「社会の中の企業」と言う発想がありさえすれば誰にでも考えられることだと思うのです。

たとえばストレス研究にしてもそうですね。人間のそう言う面というのはストレス低減にも大きな役割を果たしているはずが、どうしても心理学者のスコープには映らないようです。

要するに、我々が「生産性の規定因研究の不毛性」について考えるとき、結論として「生産性」と言う非常に社会的な問題に対して、どうして心理学者たちは社会、もっと言うと「社会の中の企業」と言う視点を持ち得ないのかと言えば、そもそもの「ホーソン研究」自体からしてが我々の生きている現実社会と言う前提を排除していたからだ、と考えざるを得ません。

「ホーソン研究」の残像が心理学者たちの注目を一定の規定因の想定にしか導かないことが、心理学者たちの視野狭窄を招いているように僕には見えます。

それともうひとつ心理学者たちは見落としていることがあります。それはミクロからマクロに及ぶ責任の問題です。

どんなことでもそうですが、問題を考えるときには「無知は知の扉」であり、無前提の状態から問題を見ていかないことは、問題の本質から我々を遠ざけてしまいます。

我々はくれぐれも「学問馬鹿」にならないように広い了見を持ちたいものです。そして、この「生産性」研究に見るような課題について、本当にその「生産性」が上がることが善なのか、あるいはどのような「生産性」が上がることが善なのか、ある身の丈の一人間としてのモラルの問題も含めて考えなくてはならないことに思いをいたすべきでしょう。

本日は、「生産性研究における心理学者のピットフォール(落とし穴)」について考えてみました。

精神医学における「常識」の非常識

 精神疾患のそれたるゆえんを「了解不能性」に従来の西洋精神医学はヤスパース以来求めてきた。

 しかし、本当にそうなのであろうか?

 もしそれを真実としてみたならば、「うつ病」を精神科医は理解し得ないという理屈になる。

 そんな風に考えてゆくと、精神疾患が「了解不能」とした「本丸」は統合失調症だと言うお話になるであろう。

 では、統合失調症は本当に「了解不可能」なのであろうか?

 筆者ベイトソンの理論はほとんど妄想レベルで、それこそ「了解不能」であると思うが、心理学的な実務のなかで筆者が万に一つ統合失調症の病態の説明仮説があるとしたら、以下のように「了解可能」だと思っている。

 「統合失調症とは、患者の所作振る舞いのタイミングの喪失を主症状とする精神疾患である」。

 なので、一般に統合失調症患者に不眠を併発するのは当然の道理だと思うのである。

 この「タイミングの喪失」からくる他者の無意識への依存が、統合失調症患者の奇妙な所作振る舞いを引き起こしている、と考えれば、言われているほど「了解不能」ではないのではないだろうか?

 それは、ソンディが指摘しているように「運命の狂い」的なものなのかも知れない。

 以上、精神疾患における「常識」の非常識を指摘しておく。