こころの証拠

 冒頭にこう述べると恐らく面食らうであろうが、失礼をお許しいただきたい。  

 我々の長年の乳幼児研究から分かってきたことは、「こころ」の本質は「行為の反照性」にあると言うことである。  

 たぶん多くの読者の方はこう言っても「何を言っているのか分からない」と言うに違いない。  

 そこで、その含意について説明してゆくことにする。  

 「自己」と言う意味と「意識」と言う意味を同じだと仮定しよう。  

 赤ちゃんは初めのうち、本能的に限られた行動しかせず、自分で自分の心や行動に縛りをかけることはない。  

 しかし、親の行為による赤ちゃんの行為の行動的ないし言語的な禁止や促進を赤ちゃんはいずれ覚え、内面化する。    

 これが能動的に赤ちゃん自身の心の中で自律的に働くようになること、言い換えると内面化された親の命によって自分をコントロールの対象として見るようになること、それが意識の始まりであり、自己の誕生だと言うことである。言い換えると、「意識」とは「(それだけならアフォーダンスに見るように認知ではなく)認識すること=意図(意思)すること=(たとい見かけ上はそう見えなくても)工夫できること(存在が結節化すること:ピアジェの用語で言うシェマの調節/このことからも分かるように意味の受容と行為は本質的には同じで区別できない(「させられ行為」と「行為」程度の違いしかない。ゆえに頭の回転の速いひとと言うのは、「させられ行為」がその時点ですでに「行為」になっているひとのことを言うのであろう))」と言えよう。  

 要するに、自己とは他人のハンドリングの内在化および自律化のことを言う訳である。このことを一言で言おうとすると、冒頭にある通りの「反照性(内面化された自他の関係性)」と言う言葉になるのである。

 もっと正確に突き詰めると、それは「存在のビルトイン」と言えよう。 

 もっと具体的に理解しやすい言葉で言うと、「物事-受け」の連鎖が意識なり自己の存在証拠になる、と言うことである。  

 この観点から見ると、「動物にもこころはあるのか」とか「自分の子どものこころの発達具合はどうか」と言う問題も対象をよくよく観察していれば分かるだろう、と言うことである。おそらく、「要求行動」のできる存在にはみな心があるのであろう。なぜなら、それは「対他性」を前提する。  

 そう考えると、「人間」と言う言葉の意味の適切さに感服するとともに、マルクスの「言語と意識は同い年」と言うテーゼがいかにピンボケなのかが分かるだろう。

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