心理学が科学だと言うことへの疑念

 ヴィルヘルム・ヴント以降の心理学は「科学」だと言う。これから「そうかも知れないけど…」的なお話をします。

 心理学における実験デザインの典型的な例は、他の条件が皆同じで(ceteris paribus)ひとつの変数だけが違う場合に、そのひとつの条件が結果に差を与えているのかどうか、のような場合です。

 心理学科で学ばれた方は一度は聴いたことがあると思います、「実験とは因果関係を確かめるものである」と言うことを。

 しかしたとえば、大食をする子と小食な子の体重には違いが見られるか、と言うような問題を考えてみてください。

 もし差が見られたとして、これは「大食か小食か」だけの問題でしょうか?

 もしかしたら、大食と小食を分けるものが食物分解酵素のはたらきだったら、あるいは代謝の活発さだったら、「大食か小食か」が「原因」と言うよりは、単なる「側面変数」に過ぎない、ということになりはしないでしょうか?

 あるいは、「体調が良くなる」と謳われたサプリの効能は、サプリそのものではなく、サプリを飲むことを意識したために「規則正しい食生活」になったためかも知れません。

 こう言う疑問を抱かせるような心理学研究は数限りなくあります。と言うよりかなりの心理学研究がそのようなピンボケに陥っています。

 「科学科学」と偉そうに言っても、本質を突いていないのに騒ぐのは少しどうかしているのではないのかな、と思う次第です。

 僕は思います。変数間の関係について正確な見通しを与えるものは、結局人間の直観や洞察なんだ、と。

 手続きが科学的だからと言って、ものごとの本質を突いている保証などないと言うべきではないでしょうか。我々は「科学」を盲信するのはひととしてどうか、と思う次第です。

学校の授業が退屈なわけ

 従来の学習心理学では学習の規定因を「強化と罰」だとし、レスコーラ=ワグナーモデルでは「意外性」、マッキントッシュ説では「情報価」だとされてきました。  

 しかし、特に人間の学習で学習に対して大きな影響力を行使しているのは、 「意外性」でも「情報価」でもなく、「その気づきに意義を感じられるか」 の問題だと思います。言い換えれば、「欲求があっての理解かどうか」の問題だと思います。  

 実験動物の挙動と我々人間の挙動を混同すべきではなく、人間の学習にとって重要なのは繰り返しますが「その気づきに意義を感じられるか」すなわち「欲求があっての理解かどうか」であり、 そのようなわけで「考えさせる授業」や「教え合い」ほど学習として定着しやすいのだと考えます。

 なのでこう言う逆説が成り立つのではないでしょうか。学校での成績優良児は、「頭が良い子」なのではなくて、「学校の授業に意義を感じやすい子」ではあるまいか、言い換えれば子どもの教科教育への評価(教師の教育への子どもの評価)ではあるまいか、と。

 無論、各人にそれを学ぶかどうかの選択権も必要です。あるひとにとって「取るに足らない」と思われる内容は学ばなくても良く、「これは大事だ」と思ったことは学べる体制が重要だと思います。

 なので、江戸時代のことを徳川家の末裔に話した方が余所家の末裔に話す方より学習の進捗は早いだろう、と考えられるわけです。

記憶の意識説

 コリンズとロフタスの「活性化拡散モデル(講座 心理学概論参照)」はあっけに取られるほど誰でも考えられそうなありきたりの理論だったので、僕はがっかりしました。

 彼らの発想の大元には、「体験的・概念的近似性」が仮定されていますが、さて、我々の日常の会話などを思い出したとき、どうでしょうか。

 我々の会話においては、たとえば見聞や出来事の陳述だったり感想だったり「このひとにはこれを話そう」だったりしますね。それをたぐっていくと、少なくとも「体験的・概念的近似性」だけではないことが明らかです。

 「今朝ちゃんと歯磨いた?」「忘れて寝ていた」、このひとつの会話だけでもその反証には十分です。

 さらに、我々の日常会話では「なぜそう思うの?」と問われることはよくあり、このようなとき我々の頭が思い浮かべるのは「理由」や「根拠」や「例」だったりします。

 では、我々はなぜあることを記憶しているのでしょうか。言い換えると、我々はなぜあることが「気にかかる」のでしょうか。

 僕の考えはこうです。「分かることは分かるので気持ち的に即時にTPO的に趣旨が意識され、分からないことは分からないので気持ち的TPO的な圏界面ができて意識する」。

 こうなるともはや「記憶」だけのお話ではなくて、我々の「意識」の問題なってくることがお分かりいただけると思います。我々の実生活において、ひとり「記憶」だけがものを言う場面と言うのはそうそうめったやたらにないのが現実でしょう。

 意識は「気にかかる」だけではなくて、ものごとを造作すると言う側面もあるでしょう。これについては「新たな成り立ちへの気づき」がその本質だと言えるでしょう。

 こうなってくると、認知心理学の「トップダウン処理」や「ボトムアップ処理」だけでは済まないお話になってくることがお分かりでしょう。

「学習」を考える

 心理学関係の人間なら、「学習」と言うのは「強化と罰」によって成り立つものと強く思っている向きも大きいであろう。

 その発想の根源には、いわゆる「心理学は目に見える行動のみを研究すべきである」と言う「行動主義」がある。そう考えると、当然「強化や罰」も可視的ではなくてはならない、と言うお話になる。

 しかし、その発想には我々の「学習」についての大きな見落としが7つはある。

 我々は、「雰囲気」や「ムード」を感じることによって行動を起こしたり抑えたりもする。無論、それらは「強化や罰」でもなければ可視的なものでもない。「雰囲気」や「ムード」と言うのは、惹起する行動との必然的関係にはない。取り敢えず、このタイプの学習を「誘発的学習」とか「閾値超え学習」と呼ぶことにしよう。その手の「学習」は、後々自分を振り返ったとき、「あぁしたことは感心した」と気付いた時点で定着するのであろう。こうした学習は、強化されるか罰せられるか以前に、要不要の判断が先行する。「学校なんか行かなくて良い」と言う親は、子どもが学校で授業を受けること自体に弊害があるのではないか、最低限の生活をする上でそれがどれほどの意味があるのか、と心配しているかも知れない。つまり、我々が意識しようとしまいと、学習の前提として価値観が存在するのである。

 この手の学習で、我々にありがちなお話も指摘できる。ロフタスの「事後情報効果による虚偽の記憶」と言う問題から派生して、我々は何でもない記憶(たとえば、自分の「ウ○コが臭かった」と言う記憶)が、後々テレビなどで医者が「ウ○コが臭いのはがんのサインです」などと言っていると、どんどんそれを気に病むようになってくる、と言うようなお話である。これは、中性刺激が罰子に不安を介して変化してゆく例である。つまり、こう言うことは学習心理学では否定され続けてきた「逆行条件付け」が意識的存在の人間では当然のこととして存在する、と言うことである。この類いのことは、「言われて気付くこと」と言えるであろう。

 「自我のあり方」も「学習」を規定する大きな要因である。大きな括りで言うと、内向的なひとと外向的なひとの「学習」の様相は全く違うだろう。

 「好奇心による学習」もそうであろう。それは「報酬や罰」と言う中間過程を経ずに成立するし、「何が良くて学習したのか」の理由を探しても一意に特定の何かをそうだと断定しきれないし、「好奇心」のせいで何もかも学習するのかも知れない。この場合の学習原理にアリソンとティンバーレイクの「反応制限説」による説明の余地はない。なぜなら学習素材XとYの間に関係があるかどうかは分からないからである。

 「行動のスタンダードさ」も我々の学習を規定する大きな要因であろう。周囲から「君の顔だったらあんな高嶺の花にアタックしても見込みはない」と「暗黙のプレッシャー」をかけられているのを想像すると良い。「プレッシャー」はその成り立ちからして頻回性の原理から生じるもので、「報酬と罰」には分解できない。いわゆる「常識」と言うものもこの中に入ると思うが、これは我々の感性に依存する。これも「是認」や「否認」と言った「強化と罰」以前の問題である。ただ、「ほら見たことか」と言われたくないだけ程度の消極的な理由で維持されている行動は数限りなくある。

 「恋」のように強化子が何かが分からない人間現象も指摘しておくべきだろう。「恋」においては「強化」されなくても維持されるという特質がある。アイドルの追っかけなどもこの範疇に入るだろう。

 ケーラーが見出した「インサイト」もそうであろう。特にヒトの場合、その成立には「欲求」や「強化と罰」ではなく「価値観」や「視点」や「考え方」や「感受性」や「正しさ」と言う「報酬や罰」とは異なる心理的前提がワンクッションとして必要である。「決して強化されることのない」難病治療法を一生追い求めて人生を終わる医学者はいくらでもいる(この場合は無駄口をたたくとすれば「予期」が「報酬」だとこき抜かすことはできる)。

 最後に、学習の本質が本当に機械的即物的な「強化と罰」にあるのかを振り返ってみる必要がある。多くのひとは「強化と罰」によってより、「結果の知識」とか「動機付け」によって「行為」を決めるのではないだろうか。このあたりは、もしかしたら大きなパラダイム・チェンジを必要とするのかも知れない。

 これらのことから、我々は「行動主義」を「人間の学習の説明」さえ全般的に疑わしい「意識なき心理学(Psychologie ohne Bewusstsein)」と断じざるを得ない。

 バンデューラの「観察学習」も含めて「学習」をめぐる行動主義の視野にはないものが、探せばいくらでも出てくる気がする。どうしてそうなのかと言えば、心理学者というのは「仮説」と言う名の「決め付け」をするのが好きだからである。

 時は無限ではないので、人生には「失敗という名の成功」も「成功という名の失敗」も「答えがあるという答え」もあれば「答えがないという答え」も数限りなくある。たぶんそれは神様でも何がどちらとは分からないであろう。我々には「時代」や「生活様式」と言う極めて境遇的で個別具体的な縛りがあるからだけでそうしていることで埋め尽くされているためである。

 

パーソナリティの維持要因

 

 大学などで心理学を専攻された方なら誰しも知っていることとは思うが、心理学と言う学範の中では、「パーソナリティの維持要因」を「自己肯定感」だとか「自尊心(self-esteem)」だとか「優越感」だとか考えられているのは周知の事実である。  

 しかし、そのような見方には、「大学」などの「高等教育機関」独特の文化が反映されているのではないか、と思わされることも多い。  

 「大学」は「お受験」をして「合格」と言う「お墨付き」を得たものが通うところである。  

 なので、その了見をそのまま地で行けば、「パーソナリティの維持要因」が何か「特別感」めいたものになることはことの成り行きとしてある意味自然なことなのかも知れない。  

 しかし、我々のような在野の人間から見れば、「みんなはどうして何だかんだ言って人生を生き得ているのか」と思うと、なにもそう言う特別な人間の「心の支え」を仮定する必要など1つもなく、端的な言い方をすると、「勿体がもつから」やってゆけるのではないか、と思うのである。

 この「勿体がもつ」ことの測度は、「自己肯定感」でも「自尊心」でも「優越感」でもなく、単純に「自己大丈夫感」と考えれば良い。 

 「勿体がもつ」のには必ずしも「特別感」めいたものの必然性はなく、実に様々な理由が含意されているのではあるまいか。  

 それは価値観そのものを疑うことなしに我々は真実にはたどり着けない、と思う一例であろう。それは我々が何でも「価値付ける」ことによって生きているのか、と言う人生観における常識の限界を示しているのかも知れない。

 ※この記事は、僕の中学校時代の友人観察を基に書かれました。

理を知ること

 

 多くのひとたちは、「理を知る」と言うことは「頭の善し悪しの問題」だと勘違いしているように思う。  

 しかし、僕の人生経験では、「理を知る」と言うことは「頭」や「知能」の問題などではなく、「表情を読み解く力」のように感じている。  

 もちろん、「表情を読み解く力」は、程度の問題はあれど、対人関係や社会関係の豊かさによって涵養されてゆくものだと思う。  

 みなさんは気付かないかとは思うが、この「表情を読む」と言うことは、無機的な見方をすればかなり難度の高い荒技であることにお気づきだろうか。それが生得的に備わっていることにはただ驚嘆の意を覚えずにはいられない。  

 理を用いて何かを「創造」すると言うのは言うまでもなく「建て付け」の才覚であろう。しかし、その本質は「直観」であり、結局「表情を読み解く力」に帰さしめられるように思う。  

 では、「頭」とか「知能」と言ったものの正体は何なのか。  

 それはたぶん、「まったくの傍観者として諸事象を系統的に整理して理解する力(ものごとに都合をつける力)」のことを言うのであろう。一般に知能指数(IQ)と呼ばれているものは、答えが1つしかない課題への正答の多寡の問題であり、ある意味で概念そのものがあまりにも狭い。それは知能と言う仮説的構成概念があたかもひとつのモジュールであるとする見方が強いためである。

 敢えて僕なりの「IQ観」を言わせていただけば、「IQ=知能」と言うわけではなくて、「IQ=意欲」だと考えている。なので、「IQ(知能)」と言う概念は、誤った偶像崇拝のような気がしている。

 それをもう少し敷衍して言ってみよう。僕の父方の祖父は尋常小学校の頃、いつも学年で1番の学業成績だった。それは祖父が素人の将棋で最高位の3段だったことからも窺える。僕は遺伝的に祖父の血を継いでいる。それは祖父の系譜はみな脱腸で、僕も脱腸だったので知れることである。しかし、僕の義務教育時代の学校の成績は概ね平均程度に過ぎなかった。それで学業成績とか知能と言うものが「何にでも意欲を持って取り組める力」だと思い至ったわけである。

 要するに、「IQ神話」があるせいで、多くのひとは「高IQ=頭の良さ」だと信じているようであるが、その考えは経験的に見て完全に誤っている。

 そのような意味で、こころと言うものは、我々の見当違いがとても多く含まれているという気がする。

発話の機構と言語運用

 我々は常日頃からこのように日本語を話しているわけであるが、筆者の母国語である日本語の習得経験をヒントにタイトルのようなことを考えてみたい。  

 筆者は母国語である日本語を自分の祖母に身につけていただいた経験の持ち主である。  

 まだ3歳にも満たない筆者は、日本語の習得が大変難しかったことをよく覚えている。  

 言語の習得というのは、たぶんステップワイズ(逐次的)に進んでゆくものではなくて、いわば「言語ゲシュタルト」とでも言うべき言語の構図を「丸呑み」することで身に付くものだと言うことが何となく筆者には分かっている。  

 それは、「何を言っているのか」が分かると言うことはおぼろげながらできても、自らその言語を運用できるようになるのには完全な言語、ひいては言語機構そのものの「丸呑み」が必要だと言うことである。  

 この「ことばの丸呑み」ができて初めてたとえば筆者なら日本語をマスターできるように思われる。  

 動機付けと言う側面から見れば、「分からないのがもどかしい」と言う切迫した心理状態がその後押しをしているように思われる。  

 言語の運用は、少しずつできるようになる類のものではなくて、「ある日突然覚わるもの」であることをご理解いただきたい。

子どものウ○コの心理学

 我が国の小学校などでは子どもが学校のトイレでウ○コをすると、からかわれたり馬鹿にされたりしますよね。それがなぜかについての僕なりの見解を示しておきたいと思います。  

 柳田国男は、人間の生活には「ハレとケ」があると指摘しました。  

 子どもと言うのは大人以上に「ハレとケ」に敏感なので、「ハレ」の場である学校で「ケ」であるウ○コをすることは恥ずべき行為だと認識されるために、学校でウ○コをした子どもがからかわれたり馬鹿にされたりするのだと考えます。  

 これは大人からの影響ではなく、子どもに自生的な規範だと考えます。  

 なので小規模校でマンツーマンのような学校ではこのような現象は見られないと予測されます。

 また、子ども同士だと、こう言うことばを喜んで使うのは、それが子ども同士の親しみを表す符牒のようなものであるとともに、大人に構われる格好の話題だからだと考えます。

 最近ではこの問題に対処すべく、トイレから小便器を撤去するなどの対策が講じられています。その成否は、トイレの防音・防臭施工にかかっていると言えましょう。

心理学に「認識心理学」がないわけ

 現在、心理学では「認知心理学」が盛んで、「認知行動療法」などが心理治療に使われている。   

 いったい、心理学からもともとの母胎の哲学における「認識」概念が消えてしまったのはどのような理由によるのであろうか。  

 それにはまず、「認識とは何ぞや」と言う哲学的な問題に一応の答えを出しておく必要がある。  

 筆者の考えでは、「認識」とは「知を思いにフィットさせる自己説得過程」のことを言うのだと言うことを表明しておきたい。  

 「認知」は「それが何かを知ること」と言う意味で一意な理解がたやすいが、「認識」をそう考えると認知以上に広くて深い活動だと考えざるを得ない。 そこにはこう言う事情がある。「感情」も含む「認識」と言う概念から、理解のしやすさを担保するために「感情」を排除したら「認知」と言う概念に行き着いた。 

 そうすると、どこから研究を始めれば良いのかも、それを研究して何がプラスなのかと言うことも良く分からなくなってくる。  

 加えて最近の人工知能(AI)に見るようなコンピューターサイエンスを心理学がリードしてゆきたい、と言う心理学者たちの気負いもあるのではないだろうか。  

 結局、筆者が大事にしたい「認識」と言うものも、心理学では置き去りにされたままである。

「行動経済学」とは無縁の「心理経済学」の提唱

 サイモン、カーネマン、トヴェルスキーらによって形成された「行動経済学」では「選択行動の心理学」と言うべき、「損得決断の函数法則の追求」が行われてきた。  

 ひとはそれぞれの場面で個別具体的な認識状況は大きく異なる。そのうえ、多数の選択を知った人間が自分の状況だけを考えて経済的選択をするとも限らないし、有名人や政府要人や権威者の選択の影響はそうでない人間の選択の影響よりも大きいであろう。また背負っている個々人の境遇や貯蓄状況はすべて異なり、よしんば純粋に「リスクテイキングの函数法則」ですべてを説明できるとしても、すべてのひとのそれを考慮しなくてはならず、考えただけでも気が狂いそうである。  

 これでマクロ経済が説明できるであろうか。  

 なぜヒット商品が売れ、スマホゲームや「メルカリ」が流行り、アマゾンが儲かるのかさえ我々には事後分析的にしか分からない現状で、このようなミクロな選択現象の理論が経済全体を説明できるというのは強弁であろう。  

 のちのち詳しく書くが、これらの現象を説明できるキー・ワードとして我々は「民草の境遇ごとのライフ・エージェント・テイキング」と言うことと「民草の財務状況」および「財やサービスの心理生活節約性」、そして「民草の社会的布置の概要」、「国の自然維持的恩恵享受機構の運営」、「貨幣経済のカバーする財やサービスのフィールド」、最後に「商品情報の民草における知悉状況」の7つを挙げておきたい。  

 いつぞやどこかで筆者は「財が財たるゆえんはいわゆる希少性によるのではなく恩恵の社会的限定感にある」と言った。それが何故かと言えば、この世に2つとして全く形状の異なる石は存在せず、かといってこの世の個々の石がすべて高値で売れるわけはないからである。なぜ「限定性」ではなく「限定感」かと言えば、A国とB国では同じものでも値が付くか否かは異なるからである。これにきわめて心理的な要素としての「遠慮」がはたらくとき、「貨幣」は成立する。したがって、ある国の民草がすべて親族や「ムラ志向」だったとしたら「貨幣」は要らない。だから「貨幣」や「礼儀・礼節」と言うのは「都市化と恐れの産物」なのである。だから西洋ではいざ知らず、民草は神社に「お賽銭」を投げ入れるのである。それが無意味だとは言わないが、ただ経済活動を見ていて皮相に現象を概念化しても、たとえば「神の見えざる手」だの何だの訳の分からない概念に社会を放棄してしまうに過ぎなくて、全体をその保証元の国であるゆえ「カネ」で考える政治家などの妄言ぐらいしか見えては来ない。  

 ただ、「社会的限定感を伴う恩恵の遠慮の一律の形」が「お金」になるとは言っても、人間的なモラルの問題として、自然の恩恵のようにもともと限定的に存在しないものを限定的にすると言うことは、犯罪だと心得ていなければいずれ地球は破滅すると言うことは深く心の中に刻んでおくべきことである。例えば筆者の居住地の近くに四日市と言う市があって、「四日市喘息」患者が多数出た悪しき先例がある。もしこの国が「空気を金で買う国」になったら高値の防塵マスク業者と強欲な富豪と自然破壊を省みない悪魔の星に変わり、いずれその者たちもその強欲さのゆえ滅亡するのが自然の道理であろうことなど火を見るよりも明らかであろう。「悪」は観察主観としての政府から見て「困りごとを与えること」しかもたらさないし、逆に言って「困りごとを与えること」しかもたらさないものが「悪」であり、「善」と言うのは生きながらにして「困りごと」をなくしていく行いのことである。「悪」には際限がないが、「善」には「自然」と言う際限がある。たとい「悪」だけが生き残っても、お互い消し合うだけである。無論個別具体的には大いに迷う余地のある問題であり、苦しみを経験することや迷いの深さだけ答えは先細っていくであろう難しい問題であるので、その中で皆さんご自身の判断に委ねたい(しかしこう言うことで皆さんそれぞれなりにぼんやりとはイメージできるであろう:例 「牧草と牛の問題 牛が増えすぎると個体間の距離に牛は嫌悪を抱き殺し合いを始める そのおかげで牛が生きていくのを阻むほど牧草が枯渇することはない だがそこには損もあり悪もある 人間には五感と意識がある 何が善で何が悪なのであろうか?」)けれども、こんなことさえ何も弁えないことなどは人間としての最低のモラルと常識の欠如の問題である。  

 しかし、政府たるものは、歴史という経験値をくまなく背負い、検証した上で立たない限りいかなる意味においても進歩しないと考えねばならない。それはどの国においても言えることであろう。  

 そして財やサービスの最も簡素な水路として「貨幣経済市場」が成立しているわけである。「貨幣」とはそこにおける一種の「共通言語」なのであるが、これにレゾンデートルを与えているのが「社会的信用の母体としての政府・国」である。それゆえ対外的に信用されていない政府・国の為替レートは極めて低くなる。それは現在の北朝鮮で輸入物の自国産のない製品を購入しようとするときには極めて法外な値が付く現状を見れば明らかである。  

 もし政府・国が自国民に信用されていれば、逆に貨幣の価値は上昇する。現在の我が国のデフレ(供給過剰)の根底には、市場の多過ぎと貨幣の一人歩き、所得や貯蓄に見合わない支出への直面からくるいびつなフォーシング・サンクスギビング(孤立を逆手に取るありがた迷惑的)な経済構造による貨幣の信用力上昇(ディフェンスとしての貯蓄志向)が根底にある。  

 なので迷惑なセールストークは後を絶たないし、健康商品や通信関係の押し売り的な電話が後を絶たないわけである。読者の皆さんも、何らかの飽くなき利潤の追求に追われる一方でやれ食費だ学費だ光熱費だ通信費だ交際費だ自宅のローンだ保険料だの医療費だのと頭が痛いのではなかろうか。ところが読者諸氏が勤める企業は必ず企業の利益がその当の企業の読者諸氏への利益の配当より高くないと潰れる運命にある。  

 そのまま考えれば当然支払いが収入を越える道理であろう。これをマルクスは「搾取」の一言で片付けようとし、筆者の見るところ彼は「共産主義社会」と言う巨大な「ムラ社会」を作ることにその答えを求めたようであり、また「ひとり屋台」と言う言葉があるように見方によっては消費者もある種の「資本家ないし資産家」と見ることができる場合もあるように非常に社会を大数的・観念的に捉えるものであったように思うが、ことはそんなに簡単ではなくて展望もあると筆者は思う(無論究極的には筆者は共産主義者でも資本主義者でもないただの一原始人であるが、当座の知恵は出さないと無責任の謗りを免れないので考えているだけである)。  

 ではどうしたら収入が支払いを越えられるのであろうか。  

 7つその道しるべを例示したい。  

 まず、企業の活動実績の還元価値を上げることを考えるべきである。たとえば1度しか与らないサービスを2度利用したら、3度目からは無料にする、あるいはたとえば大手信用保証会社によって見積もりが以前よりも上がるようにちょっとした細工を加える(たとえば建物の保温保冷性や専門家やファンの付きそうな外観の良さ・独特性、アミューズメント性を高める)ことにより企業活動の結果で同じものの価値が上昇するようにする、使用されるほど価値の上がる(たとえば、使い込まないと良いしなやかさの出てこない筆のような)商品を開発する、企業間の労働を融通し合い企業双方における保有資産に変動のない「オフセット取引」を盛んにする、と言ったような努力により、任意の資産を未来に見込める見積もりが高まるけれどもその増分ほどの費用を企業は求めないことが重要である。無論そう言う企業は社会から「良識ある企業」として歓迎されるであろう。また、あらゆるシーンで視点のあり方によってどんなことにも使える汎用性の高い商品の開発も考えるべきであろう。「大きな財をなして小さな収入を得る」と言う活動の社会全体での掛け合いが活発に行われていれば、すべての民草は富みその生活は守られるであろう。なぜならそう言う企業の「リーチ(収益活動対象範囲)」は相互に必然的に広くなるはずだからである。それはそれぞれの企業がその存立を防衛しようとするはずだから企業利益が十分出る(つまり、資本が大きくなる)であろうことも意味する。  

 2つ目に、未来への展望を明るくする、つまり未来になるほど価値が上がるもの(たとえば都会化するほどの自然や人口が増加する地域の公共財)を増やし、その活動で見込める価値の増分ほど管理者は利益を取らないことが挙げられる。ただここで注意したいことは、基本的に「お金は現在的」だと言う点である。財政投資がさらなる財政投資を呼ぶとか、確実にヒットしそうな商品を目下開発中の企業の株式をと言ったように、先行情報が後続事態を確実に喚起しそうでもない限り、投資は控えるべきであり、ほとんどの「悪徳商法」はこの手口で実行される。ひとが貯蓄する動機のほとんどは貯蓄そのものではなくて消費を念頭に置くからである。もし消費に相応のキックバックがあるのであれば、貯蓄は一定は守られる。そうした人間心理を考慮した経済への優しい眼差しが必要である。そのためには「経済活動」を「消費のブレーキ分」だけ行えば良いと考えるのは現下の多様消費時代には大切な考えではなかろうか。  

 3つ目に、価値への感受性を下げる、つまり何事も有り難がりすぎないことにより出費を抑制することである。そして、それがクールだという心理的土壌を作ることである(ただ、自然への感謝や申し訳なさは忘れたら人間おしまいである)。(どのみち薄利多売になる)生活必需品の社会的限定感を緩めるとともに、もう一方で誰にでも見つけられるがそう多くはないそれ以外のものの社会的限定感を強めれば良い。このような財の社会的錯綜はいくらでもあるので、企業・政府・国はそれらを条理な仕組みへと落とし込んでいくことも大切である。  

 4つ目に、永劫としなくてはならない価値床(田畑・山林・河川・海洋)を必要以上に消耗しないで維持することも非常に大事であるし、これ(=エコ)こそ国の要と言わねばならない。たとえば白神山地にはこれまでマタギ以外の人間は入らなかった歴史によりお金では買えないほどの国の宝になったと考えるべきである。我が国の民草であれば、休耕田にレンゲを生やすと、あるいは畑のミミズを放っておくと土壌は維持されることは誰でも知っていることであろう。他でも述べたが、赤潮や青潮で死んだプランクトンや土壌中で死んだ菌類を叢にして食べられるものならば、悩み深い坊さん1人くらいの食生活も罪なく成り立つであろう。さらに山羊ではないけれども朽ち木を食料に変える知恵でもあれば良いかもしれないし、不衛生な国ならば様々な生き物の脱皮後の皮も食べるなり、寄生虫や害虫を集めて煮るなり焼くなりして食べれば良いかもしれない。  

 5つ目に、「譲り合い(シェアを含む)・もったいない精神(リサイクル)」を大事にする、またその延長上で超有名人や為政者の作品や遺品の半分ほど、また、彼らのあまり多くないサインなどを無償で社会に投下することが考えられる。交通インフラの耐用年数を安価な新技術の導入によって下げ、保守点検の必要を最低限に抑え、かつ安全も担保できるようなものにして行くことなども重要である。  

 6つ目に、誰にでもできる仕事にそこそこのサラリーを出し、法定範囲を下回る範囲で兼職を認める。利潤の追求と支出・貯蓄のバランスが適正に保てるようにする。ひいては利潤とものの価値の将来の増分への貢献を同時に追求する社会に変革していく。最低でも財の送り手と受取手の取引がイーブンでないと、どちらかのロスが出ることは目に見えている。そのことを「格差」と言うのであろう。もしイーブンで何らかの理由で両者に一定の貯蓄があれば、生活の均衡は守られるであろう。財の送り手と受取手の取引において「格差」があるときには、収入や貯蓄の低い方への支出をまけてあげるなどの配慮があったときにもイーブンにすることは可能であろう。  

 7つ目に、政府・国もその輪の中に加わる。たとえば政府は一定の収入のない者の賭博や娯楽場への出入りを禁ずる。また、民草(たとえば家族単位)の財務状況を把握し、必要なアドバイスを個別具体的に与える。差別に対して税金をかける、悪事で得られた資産を没収し税収とするなどである。世の中、「こんなものに価値があるの?」と思って、また逆に「そこまでしているのに収益がないの?」とハッとさせられることも多い。たとえば「(悪行はさておくとしても)自由や社会疫学上の貢献」である。功労者に賞与を与えるのも一手であろう。  

 このように、自然も民草も社会もウィンウィンの国を作らないと、将来にわたる国の存立は難しいと認識しなければならない。  

 先に述べた7つのキー・ワードから、政府・国が政策上視野に入れて留意すべき諸点について指摘したい。  

 「民草の境遇ごとのライフ・エージェント・テーキング」と言うのは、例えばいわゆる「格差」の解消に向けて、単に企業に所属するだけではなく、自分の国を想ってボランティアででも公務員の仕事を補佐するとかコミュニティの庶務を請け負うなどさまざまな貢献をすることなどにより、名誉職的な民草の活動を増やすなどの諸エージェントにひとりひとりの民草がかかわることの意味や意義を社会が再考することなどを含意している。ひとりひとりの利益はたとい小さくても、「手分けして頑張る」ことの人間的意義は大きいはずである。  

 「民草の財務状況」であるがすでに国などから把握されていてアドバイスを受けられるようでなければならないことはもちろんとして、たといホームレスでも餓死しないように食品ロス・商品ロスなどを目の行き届きづらい彼らに振り向けるなどの活動も重要である。個別に考えるときには、生活費・養育費・人間関係維持費・医療費・資産維持費(税金含む)の5カテゴリーくらいに分けて考えると分かりやすいであろう。  

 「民草の社会的布置の概要」と言うのは、どのようなことが可能で信念的にも許容している民草の活動状況に交通あるいは通信アクセス可能な「掘り起こされていない需要と供給」を喚起して経済活動の幅を広げるとか、職種間の連携を深めることでよりスマートな価値の創造をするなどの「民草の社会的布置」の把握により、たとえば「苦労人」は社会で考えられることに常に配慮して言動するのでヘッドハンティングされるなどの「ジャパニーズドリーム」を作り、経済活動をクロスオーバーしてより良い社会の実現を図るために非常に重要な情報のことである。  

 「財やサービスの心理生活節約性」と言うのは、生活が豊かになる商品を開発することを意味する。無論それは「便利で長持ち」な「安い買い物ができた」と実感できる商品の開発を含んでいる。また、いわゆる「志」とか「施し」のように民草自身の収入・貯蓄に見合った支出をできるような「支出額の任意性」を担保できるような経済活動も望まれる。檀家のない神社が現在に至るまで持ちこたえられているのには、そう言う部分の貢献が大きい。  

 「国の自然維持的恩恵享受機構の運営」と言うのは、自然を値の付けられない財産としてそこから「おこぼれ」としての収穫物を未来永劫にわたって一定程度享受し、あるものが不足しているときにはあるもので代替できるように常に人工的自然的を問わず保全に余念のないようにすることを世代を超えて受け継いでいくことである。放っておいても価値が不変なのは自然だけ、と弁えておくべきである。  

 「貨幣経済のカバーする財やサービスのフィールド」と言うのは、何でもカネではなくて自由意志による施しやお返しの余地を民草ひとりひとりが自分で意思決定できる国にしておくべきだと言うことである。そうしないと国がどんどん世知辛くなって行ってしまい、この国で生きたい、この国に生まれて良かったという民草のモチベーションを下げてしまう。「カネは困窮者や豊かな人間性の持ち主に対して施すもの」と考える富豪が存在しても悪くはないだろう。  

 「商品情報の民草における知悉状況」と言うのは、民草同士での商品についての会話を活発化させることで当該商品の浸透と社会的限定性の緩和、つまり低価格化なり売り上げの拡大を図ると言うこともあれば、逆に「言わないこと」や「夢と思うこと」などによって生活必需品以外の商品の社会的限定性を高めることによって高価格化を図ることが社会の各層で定着し、各層は各層で例えば「品格」が生まれたり、大勢の「常識」が生まれることによってお互いを傷つけ合わない社会の営為を守ることなどを含意している。   

 以上のようなことごとを考えると、残念ながら現状では「余所様のなすことないし商品の貴重さ」が大方の人間の「価値なるもの」を構成し、大局的に経済事象を考える場合には、労働者に取ってみても経営者に取ってみても「仕事の口数」と「消費の口数」のバランスの適正さが健全な社会の財政の鍵であることが分かるであろう。この役割は、無論政府が担うべきものである。  

 取り敢えず筆者の貧脳で考えられる経済活動における知恵としての「心理経済学」の概要を以上にまとめてみたが、読者の皆さんの持っている知恵の限りを駆使すると、この1万倍くらいの知恵が出てきて、社会はより良くなると筆者は信じる。ひとを見る豊かな心とよい夢がその原動力だと思うので、それを第一としてカネだけではない良い国に我が国がなることを望んでこの記事の結びとしたいと思う。