僕はカウンセラーではない心理士です

 僕はカウンセラーではない心理士です。

 それを証明するのが僕の執筆した「講座 心理学概論」です。興味のある方は是非ダウンロードしてお好きなところからご一読ください。

 ファイルはPDFで、こちらです。僕のホームページはこちら

 カウンセラーではない心理士が何の役に立つかって?何の役にも立ちません。収入ゼロ。「公認心理師」になるか修士以上を出る以外で心理学を学んでも人生に後悔しか残りません。学部卒は心理屋としてはチンカス扱い。僕のようにならないように。

 58歳にもなってパラサイトシングルだから生きていられるだけ。ベーシックインカム希望。

親子の情愛と「打たれ弱さ」

 
 エインズワースの「ストレンジ・シチュエーション法」は、発達心理学を学んだ者なら誰でも知っていることだろう。

 今日はその研究がなぜ行き詰まっているのかについてお話したい。

 親子が筆者の場合のように、幼い頃「あれができたから褒美をあげる」と言うような「条件付きの承認」であった場合、筆者がまずそうなのだが、学校に行ってひどいいじめを受けても、「親に話す」と言う発想自体が浮かばない。

 筆者は中学2年生の1年間、ある同級生の奴隷にさせられ、1年間眠りにつく度に布団の中で泣き通したが、ついぞ親に話したことは一度もなかった。

 結論から述べて恐縮ではあるが、筆者のようにスキンシップなどから始まる親の情愛を知らない人間は、その心が打たれ弱く、副交感神経系失調に陥るのである。

 エインズワースの「ストレンジ・シチュエーション法」がその真価を発揮するのは、この人間の「打たれ弱さ」に焦点を当てたときに他ならないことに大方の心理学者は気付いていない。

 「条件付きの承認」と言う言葉を聞いて、心理学を知るものであれば、まず先にロジャースの「来談者中心療法」を思い浮かべるであろう。そこでは「条件付きの承認」が最も忌み嫌われている。

 この「条件付きの承認」をやめて、本当の親子の情愛が成り立っていたならば、子は学校もろもろで味わうネガティヴな経験を親に話すはずである。そして、打たれ弱い子にはならないであろう。

 親の情愛に恵まれなかった子は、ひとの心に気付かせるのに懲罰以外の方法を知らないまま大人になるのである。

 筆者が行動主義を嫌うのは、まずもってこの理由による。そして、「来談者中心療法」の限界が、育まれるべきものが情愛である、と言うところにある。と言うのは、カウンセラーが異性であった場合、そこに情愛が生じることは厳しく戒められているからである。

 心理学で錯綜していてその本質を見定められてはいない大問題について、今日は交通整理をしてお話させて頂いた。

 以上が被験体を僕とした神様の実験のレポートである。

多義図形の規定因

 以下の絵をご覧頂きたい。

 

 BugelskiとAlampay(1962)は、上の多義図形を「人」刺激図版を先行して提示する群と、「動物」刺激図版を先行して提示する群で図の見え方が7割5分方同じカテゴリーの図として見えることを実験的に検証した。

 さらに興味深いことに、一度そのように見えた図は、その後に逆(つまり、先行刺激が「人」である場合には「動物」を、「動物」である場合には「人」)のカテゴリーに属する図版を提示しても、9割方の被験者は先行刺激が何であったかが決まっていたら、その解釈(見え方)を変えないことも分かった。

 この実験が我々に教えるところは、「ファーストインプレッション(第一印象)」がイメージレベルばかりではなく、概念レベルでも重要な役割を果たすことであった。いまで言う「プライミング効果」研究の先駆けとなる研究だったと言えよう。

 なお、原題中にある「the role of frequency(頻度の役割)」は確認されなかった。

 【原著論文】
 Bugelski,B.R.& Alampay,D.A. The role of frequency in developping perceptual sets
Canadian Journal of Psychology Vol.15, Pp.205-211, 1962

“Wundt Studies : A Centennial Collection”閲覧サービス開始のお知らせ

 2022年7月1日より、株式会社西昭(愛知県春日井市鳥居松町4-35-1)にて、以下の書籍の閲覧サービスを開始いたします。

 ”Wundt Studies : A Centennial Collection”

 閲覧は株式会社西昭の事務所にて可能で、閲覧料は1日2000円です。

 著作権法および装丁の崩れ防止の観点から複写(コピー)はできません。

 閲覧を希望される方は、以下の僕のメールアドレスまでご一報ください。

 nishipsycho640912@yahoo.co.jp

 在庫があれば、こちらからご購入いただけます。
 
 以上、告知まで。

知恵の形

 

 「知恵」とは何だろうか?

 筆者の考えるところでは、「知恵」とは「アド・ホックにそこにそれを持ってゆくこと(take it to ideal state)」のように思われる。そしてその一番の好例は文法言語であろう。

 そして、この「知恵の形」は、文明がいかに進歩しても、決して進化しないと思っている。

意識と言語の関係

 

 かの有名なカール・マルクスは、「ドイツ・イデオロギー」の中で、「意識と言語は同い年」だと言った。

 しかし、先に筆者が第30回日本乳幼児医学・心理学会大会にて発表した「絆としての意識」で指摘したように、意識の濫觴は「訴求」と「気遣い」のキャッチボールにあるのであって、「言語」にその源を発するわけではない。

 どうしてそんなことが言えるのか、「動物の知恵の柔軟性」と言う観点から考えてみたい。

 人間を特徴付ける「言語」は、確かに人間に膨大な知恵の可能性を与えていることには誰も異論はないであろう。

 しかし、我が家のレンジフードに住み着いたハトさんの微視的な行動をよくよく観察していると、遺伝によって機械的に規定されているならば説明しがたい実に多様で柔軟で細やかな知恵を働かせていることが分かる。

 おそらく多くのひとは、それを「知能」と呼ぶことだろう。

 もちろんハトさんは「言語」によってそれらの知恵を発動しているわけではないことは、誰にでも分かるだろう。

 ゲシュタルト心理学者のケーラーが「チンパンジーの知恵試験」で、チンパンジーのサルタンにいわゆる「洞察学習」ができることを報告しているが、もちろんチンパンジーに「言語」が備わっているわけではない。確かに、チンパンジーに「言語」が学習できることを実証した研究は多いが、それらはそれから数十年後のお話である。

 では、このような動物の「知恵」で肝になっている要素はいったい何であろうか。

 それはおそらく「知覚」であろう。人間はこの「知覚」に名前をつけることができる。それを「言語」と呼んでいるわけであるが、「知覚」はそれに先立つ「一次言語」の役割を担っている、と考えられないであろうか。良く知られているように、「知覚」には「恒常性」とか「プレグナンツの原理」などの不思議な性質があるが、それらが種によって異なるのか同じなのかは定かではない。

 動物に「言語」がなくても「考える」ことができる、つまり「知能」があるのは、おそらくこの「一次言語」のなせる業なのであろう。

 そして、「知能」が「意識活動」の一種であることは誰にも否定しがたい事実であろう。

 それは動物の多くに「意識」がある証左であって、その源に「訴求」と「気遣い」のキャッチボールがあることは先刻述べた通りである。

 マルクスに騙されてはいけない。筆者もそれほどマルクス主義に明るいわけではないが、世間で拾うことができる彼の言説には実に決めつけが多いので警戒しなくてはならない。

 結論として言えるのは、脳幹網様体のはたらきとしての「意識」は「知能」を与え、その「意識」は「言語と同い年」なわけではない、と言うことである。