
誰もが一度は耳にしたことがあるジョークに次のようなものがあったかと思います。
「隣の家に囲いができたそうだね」「へー」
「隣の家に塀ができたそうだね」「かっこいい」
筆者、このジョークの他のバリエーションを思い付きましたので、それを書きます。
「隣の家に囲いができたそうだね」「こんくりぃ(このくらい)?」
もうふたつどうでもいいようなジョークを。 「陽水、雑炊、たくろう、予備校」
(名古屋弁のひとでないと通じないかも)「そんなことアラスカ、グリーンランド」
お粗末様でした。
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誰もが一度は耳にしたことがあるジョークに次のようなものがあったかと思います。
「隣の家に囲いができたそうだね」「へー」
「隣の家に塀ができたそうだね」「かっこいい」
筆者、このジョークの他のバリエーションを思い付きましたので、それを書きます。
「隣の家に囲いができたそうだね」「こんくりぃ(このくらい)?」
もうふたつどうでもいいようなジョークを。 「陽水、雑炊、たくろう、予備校」
(名古屋弁のひとでないと通じないかも)「そんなことアラスカ、グリーンランド」
お粗末様でした。
地球の彼方から異星人がやってきました。私たちと違って、彼らにとっての音楽における美の源泉は「音感のいびつさ」なんだそうです。
で、私たち地球人にとって歌唱力の素晴らしい歌手と音痴な凡人の歌を異星人に品評してもらった結果、異星人たちにはこぞって音痴な凡人の方が素晴らしい、と評価されました。
地球人には理解しがたいのかも知れませんが、異星人曰く、「音感がいびつな音痴のひとの方が露骨な音のコントラストしか感じられず、その感覚に沿った歌を思い付きやすいので、楽譜も楽器もいらない一度聴いただけで記憶に残る名旋律ができる」のだそうです。
いったい、人間にとっての「美」とか「素晴らしさ」と言うのは「技」なのか「心に残ること」なのか「感動すること」なのか。
いずれにしても、どうやら私たちには、まだ「神様にとっての美」を感じられる耳がないらしいのです。
昔、とある藩のお殿様が家臣たちに言いました、「わしの評判を落としてくれ」と。
家臣たちはお殿様が考えていることをいぶかりながら、言いつけ通り民たちに殿様の悪い噂を競って流しました。
やがてあるひとりの家臣が殿様泣かせの面白いことをして民たちのなかで評判の良い噂話が流れ始めました。民たちはその家臣に競って兵糧を出したのでした。
相変わらず殿様の評判は良くはなかったのに、殿様はそれを喜びました。なぜか。
誰も知らなかったのだけれども、その家臣は殿様の腹心で、民たちが貢いだ兵糧を密かにその手中にしていたからなのでした。
ある日お日様が神様に「陰を見たい。なぜならそこには素敵な宝物があるかも知れないから」と言いました。
それと同じ時に陰が神様に言いました。「お日様を拝みたい。なぜならそこには素敵な光があるから」と。
神様はすべての存在に良いように考えるので、夕暮れと夜明けをお日様と陰のために作ってあげたとさ。
おしまい。
Seymour Epstein “The Basic Theory : Two Systems”(Chapter 1 from his “Cognitive-Experiential Theory : An Integrative Theory of Personality”, Oxford University Press, 2014)
※英語版Wikiには「CET」ではなく「CEST」で紹介されています。ググる場合には「Epstein CEST」と検索してください。日本語版Wikiの「認知-経験理論」は僕が執筆しました。
(訳/西田篤史)
基礎理論:2つのシステム
本書が準拠しているのは「認知-経験理論(CET)」と呼ばれるものである。この理論の最も基本的な仮定は、「経験システム」と言う経験から自動的に学習されるシステムと、「理性システム」と言う言語的な理由付けのシステムの2種の情報処理システムをひとびとは用いている、と言うことである。人間の経験システムと言うのは、人間では顕著に大きな脳によりたぶんより発達した、何百万年を超える進化による環境適応に成功した高等動物のそれと同趣のものである。このシステムの2つの基本的構成要素は、「内容」と「過程」である。経験システムの「内容」は、連合学習から自動的に獲得される暗黙の信念である。私は、単純な認知表象のような図式にみるのと同じやり方でこれらの信念を使う。暗黙の信念と言うのは、隔絶された表象のように存在するわけではないけれども、高等動物や人間が自分自身、他者、そして対個体関係世界をいかに表象するのかを規定する現実の暗黙理論へと組織化されると仮定されている。経験システムは、連合学習のよく確立された原理によって働く。よく我々の知覚の外側で経験システムは、事象・感情・行動、またときに自身の意識的思考についてのひとびとの解釈に影響する。それゆえ、ひとを理解しようと思えば、ひとの経験システムの内容だけでなく、その運用規則や一般的な経験処理の諸属性、つまり「過程」も理解しなくてはならない。
経験システムは、過去の経験から自動的に学習することによって獲得された暗黙の信念によって第一次的には行動に影響するが、それだけでなく全く新しい状況での行動にも影響する。例えば、経験からの学習のように特定の機能のために進化した適応過程が、例えば完全に新規な状況への応答のように、本来の目的以外に使用可能であるような「適応の構え」として言及されているような過程に帰されうる。つまり、経験システムは、迅速な、自動的な、一次的に非言語的な、全体的な、最小限の認知資源を要求的で、そしていつもは知覚の外側の作法における経験処理の原理と属性によるところのすべての状況に応答する。それは、全く新しい素材の暗黙の学習や新しいパターンの無意識的な検出にみるような直観の類いを説明しうる。
理性システムはひとの論理理解や事象の考量に従って働く。経験システムとの対比で言えば、見える形でのひとの現実についての理論の働きを支配する。経験システムとは異なって、理性システムは文法言語の使用を必要とする人間特有のものである。
本章においては、私は経験システムと理性システムの作動原理および属性を比較する。もし読者がこれら異なるシステムに伴う人間の情報処理について腑に落ちないところがあったなら、次章で述べるように、読者がひとは事実そうしているように私の両システムの提案で一貫している諸点に得心が行くように日常生活における証拠を提示したい。
ここで提示する理論は随分以前にその序に着手し(筆者、1973)、その後の20年を超える歳月にさらに展開されたいくつかの論文に述べられている。特にCETに影響を与えたアメリカンサイコロジスト誌の論文(筆者、1994)を参照いただけば分かるとおり、いわばまがいもののCETの横溢が様々な著者によっていずれも同じように2つの手続きを主として使いそれに基づいたそれぞれなりに主張された彼らの理論に、たとえば社会心理学だとか認知心理学だとかの彼らの自前の心理学の学範の内容にこれを誤用していたり、原理を適用しているごとくに見ることができる(たとえばカーネマン、2003、スローマン、1996、スミスとデコスター、2000、ストラックとドイチュ、2004)。それに拘わらず、CETのまがいものは重要な以下の2点において本物と異なっている。1点目の相違点は、CETと較べてその着目点がその理論において偏狭過ぎるか、詳細さを欠いていることである。たとえば、CETの14の属性に比べて他の著者たちの経験処理における属性のリストは著しく小さい。また、CETは総体的な人格理論および経験処理および理性処理における個人差の測度を与える唯一の現代の二重過程理論なのである。2点目のCETとそのまがいものを分ける相違点は、等価なシステムに彼らが付与した名称が示すように、経験システムの最も基礎的な属性が何であるかと言うところにある。例えば、彼らは経験「様」システムを「末梢システム(ペティとカシオッポ、1986、ペティとワグナー、1999)」とか、「連合システム(スローマン、1996、スミスとデコスター、2000)」とか、「暗黙システム(ジョン-レアード、1983)」とか、「衝動システム(ストラックとドイチュ、2004)」とか、「沈黙システム(ホガース、2001)」とか、「当て推量システム(チャイケン、1980、チェンとチャイケン、1999)」とか、完全に非関与の「システム1(カーネマン、2003、スタノビッチとウェスト、2000)」と見做している。誰も経験処理の14属性近似でそれを説明しているCETの自動的・連合的・学習的な仕様での経験システムの本質を捉えてはいない。また、進化論的展望における適用自動的で連合的な学習システムを人間が他の高等動物と共有していると言うアイディアは、CETにおいて意味のあるものになっている。
この章では、CETの経験システムと理性システムの作動原理および属性を比較考量する。有用な背景情報として、まず最初に私は2つの異なる無意識的処理システム-フロイトの見解と認知科学者の見解-をお示しする。
フロイト理論における無意識と認知科学における無意識
フロイト理論やその系譜におけるガツガツとした男根期の無意識は、認知科学における一般的な認知的無意識とはかなり距離を置かれている。それぞれが利点と欠点を持っているので、それぞれの利点を欠点なしにいかにして統合可能かを提起する。CETでは、意識によってではなく、CETの基本仮定からの推論によってこれがなされている。
フロイト派無意識の何が正当なのか
フロイトの無意識の精神と言う見解は、およそ20世紀中で最も影響力のあるアイディアである。フロイト以前の心理学的疾病や非合理は、生理的欠陥や悪い精神性を持つことによると考えられていた。それゆえ、精神症状と言うのは悪い精神性や特定不能の脳や神経システムの不調にその原因は求められていた。それとは対照的に、フロイトは不適応行動の研究をみな行動科学、もっと突き詰めて言えば心理学の領域に据えた。結果として、別の諸現象を成功裏に当てはまったような科学諸原則と同じ類いのものによって不適応行動は説明され得た。フロイトによれば、彼がそう信じていたような非理性的諸規則によって発動するようなひとびとの無意識的精神の影響で理性的に考えようとする試みが破壊されることで、ひとびとは非理性的になると言う。ひとの非理性の説明に追加で与えられたのは、夢・精神疾患・日常生活での精神病理・宗教・ユーモア・創造性・言い間違い・人間の発達・人格の個人差についての説明だった。これらの業績の視界は最も印象的ではあるが、無論それらの価値は先に示すように、疑うに適した理由があるそれらの妥当性に依存する。
フロイトは無意識的精神の重要性を認識していたのみならず、彼の患者とその夢の彼なりの観察により、どのようにそれが働くかの秘密を明らかにしたと信じていた。彼は夢の内容を支配していると信じた、また夢の内容の意味の秘密を解き明かす鍵をもたらした心の作動原理を同定した。彼はその作動原理を含みのある連合・圧縮・置き換え・象徴的表象だと信じた。彼はその長い生産生活の中でなしえたことのうちとりわけ夢の研究でなしえた彼が信じた無意識的精神の秘密を解き明かしたことを最も誇りに思う、と言っている。彼の後版の著書「夢分析(フロイト、1900/1950、序言は1931)」の序言で、彼は夢の研究による無意識的精神のはたらきの理解は、「私の幸運がもたらした発見の中で最も価値があるもので、人生でかつてのこととは違って天運によってもたらされた洞察」だと述べている。さて、それはとても鮮烈であるが、無意識的精神の働きについての彼の理解のような仮定は正しいのか?否か?
良く見れば現代の認知科学者の考えにも一貫している見解、つまり無意識的精神の重要性の強調は、疑いの余地なく正しい。しかし、後にお示しするように、フロイトは悪しき無意識と言う究極に重要な点で間違っている。CET(筆者、1999)に従えば、フロイトが見ていた無意識的処理と言うのは、睡眠によって意識が変調した状態において生起する経験処理の堕落した働きなのである。
フロイト派無意識の何が間違っているのか
無意識の心の働きについてのフロイトの見解は、進化論的見地から説明不可能だと言う決定的な問題を残した。フロイトが「一次過程」と呼んだ夢の成り立ちに従って覚醒している個人の行動が精神疾患になったり助けなしに生存不可能になったり、と言った具合に。たとえば、ひとが満たされない欲求の望みの綱を、適応的行動にと言うよりは幻想を満たすことによって経験する。それゆえ餓死していくひとびとは、実際の食べ物を食べる代わりにお気に入りの食べ物を楽しんでいることをイメージすることで、微笑みを浮かべながら死んでゆく。
もちろんフロイトは、彼の頭の中では現実志向の行動を想定する必要を認識していた。この問題の彼の解法は、「二次過程」と彼が呼んだものが働くシステムを取り入れることだった。一次過程との比較をすれば、快楽原則によって始発するそれに対し、「二次過程」は現実原則と言う論理や現実理性による問題解決の促進をもたらすものによって始発する。
現実原則に動機付けられた二次過程と言う解法の問題点は、まずそれは何よりも文法言語の使用を通して働く、と言う点である。なので結局フロイトは、文法言語を持たないヒト以外の動物の適応行動を説明できなかった。特筆すべきなのは、フロイトは適応についての議論の中で動物の行動に言及したことは決してなかった、と言うことである。加えるに、無意識的処理の本質についてのフロイト理論は、別の点においても進化の原則とそりが合わない。フロイトが言うには、無意識の心と言うのはすべての精神活動の基礎だと言う。彼は無意識を、大部分が海の中にある巨大な氷山にたとえ、意識はその可視的な小さな頂点だと考えた。進化論的見地から見れば、ひとの心のまさに基礎が不適応に陥ることについてほとんど意味をなしていない。
無意識の心についてのフロイト理論を支持しかねる3つ目の理由がまだある。会話の獲得後のすべての精神活動は、(たとえば予期不安による阻害のように)抑圧されない限り意識を形成すると彼は信じていた。それはこういうことである、フロイトにとって意識、つまり顕在の情報処理は、会話の獲得後に初めて可能になるのであって、それが自然な状態であって、無意識処理は抑圧によって産出された特定の状態だと言うことである。認知科学者(エリスとハント、1993、レーバー、1993)らの見解は無意識処理は自然な規定値で、それが証拠に意識的理由付けよりもはるかに我々の日常の行動を方向付けるのに十分であるとフロイトに反対している。さらに、論理によるのと同様、考えられた調査によりそのことは支持されている。
要約するに、無意識の心の働きについてのフロイトの概念化の説明力と同時に、それがどう働くかについての彼の見解は、科学的に説明不可能だと言う根本的な問題に我々を悩ませている。それは、無意識の心の重要性に注意を引きつけると言う彼の業績を否定するものではない。無意識の心についてのフロイトの概念化にCETの経験システムが取って代わるとき、フロイト精神分析理論の残像が科学的に得心できる形で維持されるのである。
認知的無意識の何が正しいのか
現代の認知科学における無意識的処理は、フロイトの見解とは異なって知覚外処理のより「類的で穏やかな」形だと見られている。認知科学者にとっての認知とは、抑圧によるのではなくそれが自然でもともとの日常の情報処理なので一次的に無意識的なものである。それが自動的、知覚の必要なしに働くので、意識的理由付けよりも無意識的処理の方がより認知資源が少なくて済む。夢から推論されたフロイト派の不適応的な無意識の性質とは違って、認知的無意識の性質は論理的思考と調査によってもたらされた。適応的な方略において情報は認知的無意識によって処理されるので、進化論との互換性もある。それは日常生活における意思決定をとても良く説明しうるし、膨大な実験研究によって支持されてもいる。
認知的無意識の何が間違っているのか
フロイト派の無意識と顕著な対比において、認知的無意識と言うのは相対的に確立された情報処理の形であり、ともにそれらの認知に付随してその強度としばしば混迷性において情動を経験している血の通った人間存在についての3次元の見解を与えはしない。ただ認知的無意識のみを持つ人間と言うと、行動を方向付けうる感情がなくて、情報を処理するコンピューターを搭載したロボットのように、ハートを持たないオズの魔法使いに出てくるブリキ男のような心をしているだろう。つまり、認知的無意識の問題と言うのは、フロイト派無意識とはまた違って、妥当性がないと言う問題と言うよりその限界の問題があるのである。認知心理学者たちは情動とか認知と行動における気持ちの影響に膨大な注意を払い始めてはいるが、実験研究-これは容認できない一般化を導くが-を受け入れ可能に実施されたとても穏やかな情動や情緒の影響において彼らの強調点と比較したときにひとびとが日常生活において規則的に経験する強力な情動の影響を考慮する範囲では、それらは最小限である。たとえば、現実生活における非常に強い否定的な気持ちを調査したところでは、それらは非現実的で不適応的な思考と関係していると言うことが見出されているが(筆者、2011)、導かれた穏やかな否定的な気持ちの研究に基づけば、否定的な気持ちは現実的思考を促進すると結論づけられている。
認知-経験理論の位置付け
経験システム
認知的無意識とフロイト派無意識の統合は、CETの経験システムに伴うそれらの再配置によって得られる。効果的に言うと、認知的無意識は情動的に制御する、と言うことである。ひとたびそう思い至ると、認知科学により相対的に確立された無意識の限界を打破できる。
情動的制御の結果として、CETの経験システムは多くの精神分析的無意識の特徴を共有する。いずれの立場でも、無意識の心は快楽的・連合的・衝動的、そして迅速な仕方で働く。さらに、CETの理性システムと精神分析の自我は、一次的に言語的・伝達的・論理的な意識のありようにおいて現実原則が働くと言う点で、類似している。これらの2つの処理システムの類似性は、CETの経験システムと理性システムは、精神分析におけるイドと自我に対応しているのではないかと言う見解に我々を導く。しかし、理性システムと自我が類似で経験システムとイドが類似だと言うのは以下の諸点で違っていて、正しくはない。①自我によるイドの制御に伴う接点においてのみイドは適応的で、経験システムと言うのは自己含有的な適応システムである、②イドは単に表出の試みを発動する本能的煮沸釜であるが、経験システムは刺激・反応、そして結果を結びつける連合学習のよくできた規則によって働く、③イドは何も学習しないが、経験システムは経験からの学習によって適応的に働く、④フロイトの心理療法では不適応な無意識処理に気づくことと自我による制御によるイドを以てしての置き換えを要するが、CETにおける治療改善は究極には経験システムの適応的変化を要する、⑤一次処理は経験システムを説明できないが、フロイトによる無意識処理の働き方と言う意味での一次過程では経験システムを説明できる。CETに従えば、先にも述べたように、フロイトの一次過程思考は、睡眠で産まれる変調した意識状態における経験処理の堕落した形(筆者、1999)に見るように、CETによっては理解可能である。
前述のように、経験システムと言うのは自動的・連合的学習システムである。これらには以下の3種ある。古典的条件付け、自発的条件付け、観察学習。これらはすべて同じ原理-随伴性、連合的般化、そして強化-で働き、類似の属性を持つ。それら3種の学習は同じ原理や類似の属性を持つからだけではなく、環境におけるひとの行動について作業モデルを確立することによって適応を促進すると言う一次的な共通目的に用いられるので、システムを含有しているのである。分析の場を含む重要な諸点でそれらの構成要素が異なることを考えると、組織化された経験システムと言う仮定はよく守られるのかと言う疑問が出てくる。このような半ば独立な構成要素は、陸海空の移動システムにたとえられるだろう。違ったやり方で、違った場所で異なる移動手段が用いられてはいるが、いわばあるところからまたあるところへ用いられるという意味では同じ目的のために半構造化されたやり方としてそれらは役立っている。
古典的条件付けを通して、ヒトであろうが動物であろうが、刺激その他と結果の関係を学習する。自発的条件付けを通じては、刺激、反応、反応によって生ずる結果の間の関係を学習する。観察学習を通じては、それらが代理的にその他2種の学習のどちらもが成立する。これらの自動学習過程を通して、ヒトであろうがその他の動物であろうが環境における作業モデルを構築する(CETの用語法で言えば、「現実理論」)、そしてそれはヒトその他動物の良い環境適応を許容するのである。
理性システム
理性システムを考察する前に、CETにおける「理性」と言う用語の使用法について序として注意を与えておく。ウェブスターの第3版国際用語辞典(メリアム-ウェブスター編集委員ら、1966)によると、「理性」と言う用語は2つ意味を持っている。ひとつが「感性的・理に適った行動」と言うものであり、もうひとつが「論理原則に従った理由付け」と言うものである。CETでは後者の意味を採用し、特定の状況での情報処理の在り方として理性的理由付けが優れているかどうかについては何の含意もない。論理的理由付けがいつも問題解決の最良の道なわけではない。間違った前提でものを言ったり、析出的分析よりむしろ全体的印象を要する問題にそぐわなかったりして、理由付けというものはスベり得る。さらに、たとい論理的なことを加えて正確であったりしたとしても、伝達処理は様々な状況で実践的であるために不十分過ぎたり認知資源を必要とし過ぎたりすることもある。結局、経験処理よりも理性処理がいつも優れていると考えることはできない。
理性システムは推論システムであり、全体的にと言うよりは広範に文化伝達的なひとの論理的理由付けに従う。複雑な言語、またこれに関係して複雑な論理推論の使用能力は、ヒトの脳に固有の機能である。CETは理性処理について新しいことは何も語らないし、論理的理由付けの規則は良く確立しているので、経験処理との比較でと言う以上に他にほとんど注意を払わないだろう。しかしながら、ひとつだけ例外がある。ひとの論理的理由付けの能力の割にしてはのひとの非論理の主要な源としてCETが見做しているひとびとの論理的理由付けの経験システムからの歪んだ影響についてはCETは大きく扱う、と言うことである。
もしあなたが理性システムの発動がいかなものかを理解したいなら、論理を運用し証拠を評価することでひとびとがどのように問題を解こうとしているかなど、いかにひとびとは理性を用いているかを観察すると良い。経験システムがもたらした、またよりひとびとに受け入れられることが分かるような様々な可能性について好んで考えると良い。ひとびとは目の前の事実を超えて論理推論をし、他よりもアイディアを支持する証拠を探しているであろう。そして彼らはまた、相矛盾する証拠よりも内面的に一貫した証拠を探しているであろう。
状況と言うものは、経験システムの働きを非常に見えづらくしている。それは自動的に、また通常は知覚の外で働いているからである。ほとんどのひとびとは、経験システムを自分が持っていることにさえ気づかないだろう。じっとその働きを知ろうとするのが良い。
表.経験システムと理性システムの属性
属性の名称 経験システム 理性システム
1.問題解決 自動的 意識的
2.言語性 非言語的 言語的
3.動機付け 快楽原則 現実原則
4.感情価 情動的 感情からフリー
5.脈絡の在り方 連合的 因果的
6.意識性 自動行動 意識的行動
7.存在特性 全体的 分析的
8.努力の必要 なし あり
9.処理速度 迅速 ゆっくり
10.変化抵抗 繰返しと経験強度いつでも変化可能
11.意味の処理 経験のまま 意図的・意味的
12.人為性 文脈依存 文脈一般的
13.統制の座 受動的 能動的
14.検証性 経験依存 論理検証的
観察事実としての重力については、ニュートンの「万有引力」と言う考えで大方のものの振る舞いはお分かりであろうと思うが、その機制については誰も明確には話していないようである。
筆者の考えでは、重力の基礎は「物体のフリクション(摩擦)の重畳」にあると思う。
皆さんは「地球をはじめとする惑星のほとんどはなぜ丸いのか」と疑問に思ったことはないだろうか。
また、「もし万有引力が本当なら、なぜ僅かでも地上の剛体同士に何らかの力が働かないのか」と言う疑念をお持ちにならないであろうか。
もし「万有引力説」が正しいとするのであれば、どんなに弱い力であれ、ものとものが関係するだけでエネルギーが得られるはずだ、と考えるのが自然かと思われるが、残念ながら「万有引力」説を信じているくせに永久機関を否定する辻褄の合わない話をする「科学者」でこの世は溢れている。
ものとものは基本的に電気結合していることは学問のいかんを問わず言わずと知れた常識である。
ではなぜ地球が丸いのかは、地球の中心部に行くほど「フリクション=電子放出」が激しいからだと思うのは不自然な考えであろうか。
もう一歩踏み込んで言うと、地球の中心部では最も電子放出が激しいために電子同士の衝突もまた最大であろう、と言うことである。
筆者は、この「電子衝突の大きさ(対体積比電子インフレーションの物的許容限界越え)」が重力の正体だと見ている。つまり行き場を失った電子エネルギーの大きさが重力なのではないか、と。なので、交流電流の周波数を超極速にすると近似的にそのような状態を作ることができようかと思う。
宇宙空間は真空である。真空というのはフリクションがゼロの世界だと言うことである。なのでものも電子も決して止まらない。惑星による電子の放出量は惑星内部に較べると等比級数的に少ない。
そんなことから、「重力とは抗圧力のことである」と言えなくもない。
取り敢えずそんな風にお星様を見ておくことにしたい。
宇宙開闢の可能性は、多くの方が考えるような熱的理由(いわゆる「ビッグ・バン」)によるのではなく、原因不明の不均質な線の発生による、と見ています。したがって、宇宙の終わりは、線の消滅によって起きるのでしょう。そのことは、いままさに量子力学が明らかにする途上にあります。
そして星々に見られる重力は、ガス雲が何らかの状態になって発する(電子の軌道外運動による)連続的な超高周波パルスの反映だと考えています。それがお星様になるのだと思います。
そこで皆さんは宇宙の大部分を占める「真空空間」をどのようなものだと思いますか?
僕はこう思います。「真空空間」とは「線」だけで持ちこたえている空間(=世界)だと。線と言うものは、いままさに量子力学が明らかにしつつある「波動兼粒子」であり、「物」の濫觴です。おそらくは、線の交わりようにより、はじめのうちは高温の水素ガスを大量に産み出し、時間をかけて様々な元素を作り出したものと見ています。このあたりの事情は、いわゆる「錬金術」の教訓として元素が線によって変化すると言う知見などから容易に類推できることです。
したがって、主としてそんな来歴を持つ様々な物質は、それ自身の性質(たとえば光)も交えて複雑な宇宙を構造化したものと思われます。その意味で、宇宙というのはそれぞれ特殊な諸条件構造なのだと思います。地球大気に限ってみれば、ケイ素が大気の透明化過程に深く関与しているように思われます。
そのような意味で、宇宙がはじまる前の(デフォルトの)状態を、僕は「無」ではなく、「線が存在しないこと」だと見ています。
以前にも述べましたように僕が「時間」を何と見ているかですが、僕は「時間とは事象生起の斉即性と言う信念である」と見ています。
「斉即性」とは、言ってみれば場所が異なってもものごとは一時に起こっていると言う観察事実の概念化です。 その信念だと言うのは、言うまでもなく相対論で場所が異なればほんの僅かだけ時間は異なることが分かっているからです。
しかし、時間については光に依存してではなく、燃焼速度に依存して定義すべきと言う考え方もまた成り立ちうるように思います。
まぁ、我々は生活上で「ものごとの斉即性=時間」を約束的に決めても生活に支障は起こりません。それは場所ごとの誤差が無視できるくらい小さいからです。
僕の「時間」観はそんな感じです。
それでこれまた以前、放射能防護について「オゾンやタングステンが有益」と言うお話をさせていただいたかと思いますが、対策はたぶんオゾンだけではなくて、なぜ天然ウランが人畜無害で鉱脈に存在できるのか、もう少し具体的に言うと、放射線の高すぎる周波数をいかにして逓減する(たとえば何らかの物質で囲うとか太陽風のような人畜無害な範囲の宇宙風などによる)かを究明していくこともまた有用かと思います。もしかしたら放射線というのは時間をかけて物質を何ステップかで変容していくなり安定させるなりの自然的な役割を担っていたのかも知れません。しかしそれは星の生成とかかなり大袈裟なレベルのお話であって、生物にとって耐えられるものでないことは確かです。
ひとつの放射線反応抑制の候補として僕が思うのは、「宇宙における核収支」を仔細に観察する中で、ある種のフィルタリングされた太陽風のようなものを思い浮かべるわけです。しかし、自然や人畜に無害であることなど条件がかなりタイトなので、最低でも100年スパンの問題のように思われます。ヒントとしては、「太陽の核反応の裏側で起こっている現象」に着目することは無益ではないかも知れません。 良く巷で話題になる「レーザー・ビーム」のようなものでは「自然と人畜に無害なこと」が担保できません。
また、「ブラックホール」と言うのは就中「光を食べる空間」のことなので、その延長である放射能を封じる何らかのヒントになるのではないかと思います。そんなものを作られたら、益より害が大きいに違いありませんが。
いずれにしても、核爆発の結果に責任の持てる知恵など有り得ないので人類が核を手にしたことは誤りだと思います。いかなる世界中の波動も媒体伝導する振幅なので、放射線にかんしても理屈としてはその振幅を止めるか(たとえば重力などによって)人畜無害な何らかの力に変換できれば放射線反応や爆発は防げるお話になろうかとは思いますが、放射線が一体何の振幅なのか(物理学では光ないし電磁波ないし原子だと言いますが)すら明らかではない現状を考えれば、問題解決にたぶんかなり長い時間が必要になるはずで、現状には現実的ではありません。つまり、結論から言えば、人類にとって原子力はアウトだと言わねばなりなすまい。
で、頭の固い学者さんには分からないと思いますが、冒頭で示唆した通り、そもそも宇宙空間と言うのは宇宙線(電磁気力線など)の伝導率が100パーセントの空間であるわけです(本当は少し違いますが)。
そんなわけなので、たぶん「重力」と言うのは「ものが励振に負けない力を付与すること」だろうと思います。具体的には、ガス雲が何らかの状態になって発する(電子の軌道外運動による)連続的な超高周波パルスのことでしょう。したがって、「重さ」はもののもともとの属性ではなく、重力によって与えられたものであると思います。我々は観察上「重力」それ自体を観察できるわけではなく、「ものの重さの差分」を観察できるに過ぎません。この性質を帯びたもののことを世間では「星」と言うのだと思います。
最後に、宇宙論を考える上でひとつだけ知っていれば良いテーゼを書いてこのお話の結びとします。
「光学的にオンセット(点)とオフセット(滅)は速度の有無の点で極端に異なる」。このとき、以下の2点で宇宙における影の役割が現れる。ひとつは温度差による物質の秩序維持、もうひとつは影の即時性による宇宙時間の変則性(宇宙の散りばめ状時差構造)の醸成(影には速度がなく時間的遅延もない)。このように、光には速度があるけれども、影には速度自体が存在しないので、積極的に影になる方途があるのなら、それには速度がなく、したがってどんなに遠い宇宙空間にも瞬間移動できるのでしょう。
このことは、恒星と惑星、そして恒星と惑星の距離に等しい惑星から離れた惑星があったとして、光の輻輳がまったくなく一番端の惑星が中間にある惑星によって恒星の光が消える場合を想像すると良いでしょう。惑星が惑星に完全に隠れる瞬間は、太陽から中間の惑星に光が届く時間と等しいはずです。
※以下着想当時の文章(原文ママ)ゼロベースでものごとを考える僕の姿勢では、宇宙の「ビッグバン説」は取りません。
一時、宇宙の媒質として「エーテル」が仮定されていた時期があります。
「宇宙空間(真空の影性)」とは何でしょうか。
僕はそれを「波長だけで持ちこたえている空間」だと考えます。要するに、「エーテル」の正体は波長に置き換えて考えるのが良いと思うわけです。
したがって、宇宙開闢前の状態を「完全な無波長状態」だと仮定します。
この状態に不均質な波長の発生をみるところから宇宙が始まったのだと思います。理由は分かりません。
現在の物理学では、ようやく波長が物質を作り出すと言うアイディアまでは進みました。
そして、波長が特に輻輳するところにガス雲が産まれ、それで産まれた大方水素とヘリウムガスにさらなる波長のぶつかり合いが起きて諸物質に転成して行ったのだと考えます。
これを「波長空間転成説」とでも呼ぶとすれば、これまで述べてきた僕の宇宙についての屁理屈がなぜ出てくるのかが理解はされなくとも屁理屈くらいには受け止められるでしょう。
それであの重力公式が出てくるわけです。もちろん「光と影の非対称性」はその中で重要なはたらきをします。
その主なところは以下の2点に集約されます。
1.温度規定による「態」の決定
2.波長減速による「系」の決定
影が光学世界で重要なのは、これらのはたらきをするばかりではなく、僕の見上げる夜空が光の消滅においては現在、光の生成にとっては過去を物語ると言う事実に認められます。これを「光の見えない水路説」とでも呼んでおきます。
僕はそんな風に考えています。
…とは言うものの、ほとんど僕の妄想であり、与太話なんですけどね。
正整数nの2乗の導出式
差分
1の2乗 1 1
2の2乗 4 3
3の2乗 9 5
4の2乗 16 7
5の2乗 25 9
………
以上のことからnの2乗は (n-1)²+(n+(n-1)) と表現することができる。
これは、(n-1)²の展開式(n²-2n+1)からn²に持って行けばよいので、例えばn³でもn⁴でもnのr乗でもこれと同様の解を求めることができる。
ただし、そのような論理解を求めるより上記のような直感解を求める癖を付けた方が算術的なセンスは磨けるように思う。
冒頭にこう述べると恐らく面食らうであろうが、失礼をお許しいただきたい。
我々の長年の乳幼児研究から分かってきたことは、「こころ」の本質は「行為の反照性」にあると言うことである。
たぶん多くの読者の方はこう言っても「何を言っているのか分からない」と言うに違いない。
そこで、その含意について説明してゆくことにする。
「自己」と言う意味と「意識」と言う意味を同じだと仮定しよう。
赤ちゃんは初めのうち、本能的に限られた行動しかせず、自分で自分の心や行動に縛りをかけることはない。
しかし、親の行為による赤ちゃんの行為の行動的ないし言語的な禁止や促進を赤ちゃんはいずれ覚え、内面化する。
これが能動的に赤ちゃん自身の心の中で自律的に働くようになること、言い換えると内面化された親の命によって自分をコントロールの対象として見るようになること、それが意識の始まりであり、自己の誕生だと言うことである。言い換えると、「意識」とは「(それだけならアフォーダンスに見るように認知ではなく)認識すること=意図(意思)すること=(たとい見かけ上はそう見えなくても)工夫できること(存在が結節化すること:ピアジェの用語で言うシェマの調節/このことからも分かるように意味の受容と行為は本質的には同じで区別できない(「させられ行為」と「行為」程度の違いしかない。ゆえに頭の回転の速いひとと言うのは、「させられ行為」がその時点ですでに「行為」になっているひとのことを言うのであろう))」と言えよう。
要するに、自己とは他人のハンドリングの内在化および自律化のことを言う訳である。このことを一言で言おうとすると、冒頭にある通りの「反照性(内面化された自他の関係性)」と言う言葉になるのである。
もっと正確に突き詰めると、それは「存在のビルトイン」と言えよう。
もっと具体的に理解しやすい言葉で言うと、「物事-受け」の連鎖が意識なり自己の存在証拠になる、と言うことである。
この観点から見ると、「動物にもこころはあるのか」とか「自分の子どものこころの発達具合はどうか」と言う問題も対象をよくよく観察していれば分かるだろう、と言うことである。おそらく、「要求行動」のできる存在にはみな心があるのであろう。なぜなら、それは「対他性」を前提する。
そう考えると、「人間」と言う言葉の意味の適切さに感服するとともに、マルクスの「言語と意識は同い年」と言うテーゼがいかにピンボケなのかが分かるだろう。
「中国四千年の歴史から望むもの」の続きのお話になるが、「この世に不老長寿はあり得るか」と問われたとき、僕の貧脳にまず思い浮かぶのは、「芋」である。
確かに同じ土地に相変わらず植物が生え続けるには、それとともに土壌の成分の時間的経過による養分維持とかミミズや細菌による土壌の生化学的変化が必要で、さもなくば少しずつ位置を変えて繁殖するしかないだろう。
そんなわけで、条件がよければ芋はいつまでも繁殖し続けうる不老不死の生命であり得るように僕は思う。
芋には土壌から糖分を生成するものとあまりそうならないもの、様々が存在する。
もし、糖生成のポテンシャルを持ちながら糖を生成しない芋があったとしたら、その糖生成抑制の仕組みの力で糖尿病の治療が可能かも知れないと思われる。
ところで、最近のひとびとの多くはミミズも細菌も流行らないような造成地で暮らしていて、猫の額ほどの狭いベランダでそんなような土を使って植物を栽培しておられる方も多いのではと思う。
そうなると、ひとつの可能性として、ミミズや細菌を悩ますことなくさまざまの植物を育てることが可能なばかりか、その植物の根による土壌の生化学的変化の産物としての「植物のウ○コ」をおこぼれとして頂ける知恵のひとつもひとびとは得ることができるようになる時代が来るかも知れない。
それには、人の手で育てられている植物がしおれてきたら土壌を入れ替え、入れ替え前の土壌から適当なお目当ての生化学物質を濾過するなり、プローブ(捕捉体)やレセプターを使って回収するなりすればよいのではないだろうか。あるいは、植物の根が好んで伸びそうな輸栄管をあしらっておき、そこから代謝的に植物の「ウ○コ」を回収し、その代わりに新しい必要な土壌成分を投下するのも悪くはないのかも知れない。
あるいは、適切な(生)化学物質を土壌に含ませておき、「植物のウ○コ」が結晶化するようであれば、そんなややこしい仕組みを考えなくても良いのかも知れない。
心の深いひとびとは長年、人間の殺生を戒めながら、植物の繁殖力の強さからその植物が繁殖しすぎる植物自体の痛みを感じ取って、そのおこぼれに与ることは罪ではないだろう、と思いながら精進料理しか口にしないお坊さんのような向きも多かっただろうと思われる。
その意味では、山羊や羊や牛馬の消化液を微量採取し、培養することで我々人間にも都会の雑草を食して生活することも無理ではないかも知れない。
あるいは二酸化炭素を吸着固化させる魔法の物質がこの世にあるのなら、自然を害することなくできる紙の知恵が見出されるかも知れない。実際に「炭素固定」と言う技術を使って二酸化炭素と有機物(たとえば、死んだ後の貝殻)を反応させれば本物の「仙人の霞」になるかも知れない。
実は未だ気付かないところで、人間が本来口にすべき「自然のおこぼれ」がいくらもあるかも知れない。人間は頭が巧みかと思えば盲点だらけのようなところもあって、本来出会うべき知恵が自然にどれだけあるかは良く分からないものである。
と言いながら、運命の行きがかりとは言え、ステーキが好きだったりする僕は、牛を殺生している食肉業者さんの当事者の皆さんは社会の需要を人間のひとつの情念として受け止めて、毎日心を鬼にする苦労を絶やさないのであろう、と忖度する他はないのである。
自分の育てた牛や豚とのお別れの日に、心に陰りの落ちない酪農家もおそらくはいないであろう。
(中国語のおできになる方はこのお話を数千年の長きにわたって我が国の文化を支えてくださった中国の民草の皆さんにひとつの観念的な恩返しとして拡散してください。僕のネット上の著作はすべてノーコピーライトです。ひとつだけそのときに気をつけて頂きたいのは、僕としては自分の知恵を水のようにしたいと願っていると言うことです。どう言うことかは読者の皆さんのご想像にお任せいたします)