デカルトの問題提起の読み直し

 デカルトの「心身二元論」は原始人の僕から見ると、「心」と「身体」と言う非常に曖昧で漠然とした観念間の問題だと思われる。  

 東洋人の僕から見ると、命題の立て方そのものに明確でないものがあるように思われる。  

 デカルトの命題を僕なりに再解釈すると、「事なのか観なのか」と言う立式にした方がこの問題の本質を捉えているように思うためである。  

 「事」は動かしがたく、「観」は変化する。  この「対象の可変性の無有」がいわゆる「心身二元論」を動かしがたく、また解きがたい問題にしているのではないであろうか。  

 「事」は我々の主観がないと仮定しても存在する世界であるのに対して、「観」は我々の主観であり、物的世界に比して灯のようなものであり、ゆらゆらと揺らめく身体随伴的な有限かつ一定の観点の変化がある。  

 話は少し算術的になるが、「事」にも「観」にも共通しているのは、「距離(点)」の存在である。だが「事」には「点間距離」が正確な数値として測れるが、「観」のそれは「ひとりにつき多様に変化する一点だけ」しかなく、一意で正確な数値と言うものは存在しない。ひとは正確に他人の「観」そのものを体験できるわけではなく、推測で擬似的に近づけるに過ぎない。  

 この「点間距離の確実な存立の有無の問題」こそ「心身問題」の本質だと考える。  

 そのためひとびとは「心の物差し」探しに躍起になってきた。しかし未だ普遍的な「心の物差し」は存在せず、ただ各人多様に存在するだけである。あるひとのハートを射止めたかと思えば実はすれ違いだったりする。  

 そんなわけなので、僕なりの「心身問題」の本質は、「距離の一意で確実な実在」たる「事」にいかにしてただの「多様な変化する一点」でしかない「観」が宿るのか、と言う立式になる。  

 もう少し仔細に見ると、「事(身体)」は常に生化学的変化を生存している限り続け、それとともに「観(心の揺らぎ)」が起こっていることは文明社会で暮らす我々にとって間違いのない経験則であるように思われる。  

 たぶん不可能だし、可能であっても人間の自由、モラルと尊厳の問題として福祉医療的以外にこれ以上追求すべきではないが、「事」と「観」は事観随伴的に「(生化学的-心理的な)一時二重の揺らぎ」が起こるような構制になっていて、そのような関係にあると了解すべきではないだろうか。  

 なので、どちらが先とは言えないように思われる。  

 事観には不思議なくらい同一の概念で理解できる事象があまたあり、神様の存在を考えさせられないわけにはいかない。  

 そう考えると、いわゆる「心霊現象」の説明には、必ずしも「脳が場所のエピソードを覚えている」のではなくて「場所がエピソード(観)を覚えている」と考えるべきなのかも知れない。  

 医術にかんしては、前者の考え方で、超常現象にかんしては後者の考えで理解するのが良いかも知れない。  

 賢明な読者の方にはお気づきだと思われるが、前者であるにせよ後者であるにせよ、「観(心)は事(環境)に包み込まれている」と言うことになる。そうすると、心と環境は例えばウグイスが鳴いた、それが「ホーホケキョと聞こえる」、それで我々は季節を感じると言ったように不可分のワンセットで理解すべきもので、結局「心身二元論とは一体何だったのか、人間としての物事の見方における概念間の距離感の喪失の問題ではなかったか」と言う話になる。  

 たとえばそう言う心身観の理解の仕方の例として、「水(心)は動かない限り認識されず、波紋(感覚)が起こったときだけ動く」と言うような理解とか「ものは円筒で心は空洞」と言うような理解が自然なのではないだろうか。  

 このとき、森羅万象すべてを「象」と捉えることでこの問題は乗り切れるように思っている。「主観」と「客観」の問題は1次的な「外部からのアクセス可能性」の問題として提起されているのだと思う。しかし、我々が一次的には「象在」であると考えると、「心」と「身体」と言う2分法はその鳥かごの中のお話のようにも思えるし、もし「心」を何らかの「響き」や「透過性」と捉えると、それがどれだけ「物質」と違うものなのかにも疑義を生じてくるだろう。  

 別の言い方をすると、心と言うものはある種の「波」で、それを水面上から解する(=もの)か水面下から解する(=心)かが「心身問題」の本質なのではないだろうか。

 それをひとことで表現すると「身体が好きなように心する」と言えよう。人間を本質づけているもの、すなわち「絆」と言うものは心理ではなく物理である。我々がいつも人間を認識するとき、我々が人間に見ているものは「そのひとの性格」ではなくて「そのひとの体質」なのである。  

 人間、売れる方売れる方へと考えていくと、どんどん常識外れになっていく、と言うことをこの一事例から神様から学んだ気がする。

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