意識の発生メカニズムについての一考察

 自分の専攻学科である関係上、このような内容の論文発表は過去2回、日本心理学会大会にて行ってきた。

 表題の問題について、簡単に筆者の見解を述べておく。

 基本的に「意識とは何か」については繰り返し指摘してきた通り、「存在感覚」だと言えるように思う。

 筆者なりの意識の発生メカニズムの基本は哺乳類および鳥類、つまり親子関係が出生後重要になる生物に特徴的なもので、親子の関係維持の必要から生じるものと考えている。

 したがって、意識の発生要件には、「依存性をベースとした関係の継続性の必要」が最大のファクターだと考えて良いように思う。

 そして、それを前提としたその存在の内面的継続性・融通性(行為の調節性)が認識できることを以て「ものごころがついた」と認識しうると言えようかと思う。インデックスとしては「行為の自在性」が最たるそれであろう。なぜそのような「制御感」が直接のディフェンス行為がなくても生まれるのかと言えば、「養育-模倣-巣立ち」の過程を経る動物では、そこから「意識」が「迷い-意思決定」を経て給備されると考えるのが自然であろう。

 意識が一番端的に見られる現象は、「自分を庇う」と言う行為のように思われる。なので、同じ動物でも身体障害のある個体の方が身体障害のない個体よりも「意識的になる」であろう。このように、基本「傷つけられることから守ること」に意識のレゾンデートルがあるように思われる。究極にはこの一点に尽きるのではないか。

 では、は虫類、両生類ではどうだろうか?たぶん、彼らには意識が「ない」のではなく、未分化なだけかと思われる。

 傷つかないための意識なのに、人間はなぜ傷つけ合うのか…いまのひとびとは一方的に思うことに慣れすぎている…

 まとめると、「意識」はそれがいかに低次なものであっても「予期せぬ障害-困惑-目論見的対処」により醸成される。なので、おぼろげながらにも自己対象視ができている状態を「意識」と呼ぶのであろう。なぜ人間が「意識的存在」の最右翼なのかと言えば、おそらく出生時に最も未熟な状態で産まれてくるゆえではないだろうか。

 以上、心理学で有名な「モーガンの公準」から一歩出たところで意識を考えてみた。

Key Words : 障害 その背景としての環境多様性

半年前に裏庭に株分けしたドクダミ

 昨年の暮れに裏庭のキンモクセイの根回りに株分けしたドクダミが見事な見頃を迎えています。

 写真からは想像できないかも知れませんが、よほど栄養が良かったのか、葉っぱが大人の手のひら大ほどまでに成長し、いままで見たことがない巨大な葉っぱをつけています。

 昨年暮れに発見した倒れたユリ科の草本の横に、スックと新たな同じ種のユリ科の草本もスクスクと育っています。

 驚きとともに、喜びもひとしおです。ユキノシタなんかもそうですが、僕はドクダミのように生き方というかあり方がシンプルでストレートな植物が好きです。

「コロナ」の今後の目途

 現在世界中で「新型コロナウィルス」の猛威を目の当たりにして、お先真っ暗な方もいらっしゃると思うので、僕なりの「コロナの一段落の展望」について申し上げたい。

 新型コロナウィルスのひとつの「弱点」は、「湿気」だと言うお話をよく耳にする。

 四季に恵まれた我が国の気候風土を考えると、湿気の一番多い時期というのは、「梅雨」の時期と言うことになる。

 つまり、今般の「コロナ禍」のピークは、梅雨の直前までで、そのあたり過ぎから我が国におけるパンデミックは一段落するのではないか、と僕は見ている。

 息の長い話なので即時の終息を期待する向きにはいささか酷なお話かも知れないが、今年の梅雨あたりで山場は乗り切れるのではないか、と展望し、気休め程度のお話を終えようと思う(梅雨のない北海道については見通せない)。

超短編創作童話「心の鏡」

 ウサギさんはカメさんに冷たくされており、カメさんへの愚痴をいつもこぼしていました。

 トカゲさんはそのウサギさんに冷たくされており、ウサギさんへの愚痴をいつもこぼしていました。

 いたたまれなくなったトカゲさんは、自分に冷たいウサギさんに姿見、つまり鏡を贈りました。

 鏡をもらったウサギさんは、自分の姿にさぞ惚れ惚れするだろうと自分の姿を鏡に映しました。

 するとどうでしょう、贈られた鏡に映ったのは、あの自分に冷たいカメさんの姿そのものではありませんか。

 昔から我々は自分と大して変わらない心の持ち主が自分と似ていることにいつも一番気付きにくいようです。

 おそらく、カメさんも他の誰かに冷たくされていたのでしょう。

「なぜ自民党一党独裁なのか」についての一考察

 

 表題の問題は、政治を「政策」と言う観点でその勢力の考察をする人間にはかなり見当違いな問題だと言う気がする。

 野党はいつでもいわゆる「社会正義」に重きを置くので、「人間の欲望」については話を持って行きづらいし、理詰め社会に嫌気の差している民草にとっては、政治家の「人情劇場」を観られることは心のオアシスになっているわけである。

 昔からの自民党の体質として絶対に外せないのは、いつの時代も彼らが下々の「欲望の受け皿」、「人情劇場の役者」になってきたことである。

 誰でもどこをどうにかすれば、自民党の代議士に「利害」と言う名の欲望を満たす話を彼らの耳に届けることができる。要するに、欲望を満たしたい下々の人間にとって、彼らは「話せる人間」なのである。また、代議士が人情味あふれていれば、それに同情する日本人の国民性と言うものがある。

 眼前の利害に汲々としている下々の人間にとって、またそのレゾンデートルの重きがそこにある人間にとって、自民党の代議士はもっとも間口を広く「欲望の話を聞いてくれそうな人間」だから、そのネットワークが全国津々浦々に張り巡らされているから、また、「政治なんて誰がやっても同じ」と言う社会の風潮の中での「政治家の人情劇場」を観ることができるから、自民党の一党独裁は長期にわたって安定的に続いている、と考えるべきである。それに加え、官僚にとって自民党は自分たちの行政を一番よく聴いてくれると言うメリットがある。いつしか安倍首相が「悪夢の民主党政権」と息巻いていたが、民主党が円滑な政権運営をできなかった最大の理由は、官僚と仲が悪かったから、ただそれだけに過ぎない。

 なので、裏を返せば、法治国家としての我が国において、どこからでも「メス」を入れれば至る所に「病巣」があるのは当然である。たとえば、我が国は他のいかなる国にも類例を見ない「反社会的勢力天国(国家予算の1割を動かし、マフィアの1000倍の関係者がいると言われている)」であるが、なぜそうなるのかの一翼は、自民党のかかる「欲望主義と人情劇場体質」に担われている。

 我が国における有権者の投票行動で顕著なのは、大方のサラリーマンは仕事で政治を考える余裕もなくなり、必然的に「理詰め」にウンザリして「人情劇場」になびき、また野党は少数派なのでたとい野党に一票を入れたとしても数の力には及ばないので野党に希望を託すことは現実味がないと言う「民主主義」の運命としての負のスパイラル(その意味で、民主主義なのか多数派主義なのか分からない)である。その意味で、「国民」は「根拠のない自信」の中で漂い、流されている。野党がいかに「政策で勝負」と言っても、大方のサラリーマンにはそんなことを考える余裕もないし、「それで私のしかじかの欲望はどうなるのか」は非常に感じづらい。結果、「目先さえ良ければそれでいい」、「政治は人情劇場の方が面白い」、「“自民党政治は現状を反映しているだろう”バイアス(どうしてその前に「自分」が先立たないのかは謎である)」になってしまうのは無理からぬ部分もある。が、国のありようがこのような異常な姿なのにも拘わらず、「日の本」だの「国歌斉唱」だのとピント外れしたおめでたい「国民」を見るにつけ、「見所のない奴ばかり」と長嘆息するの他はない。「骨のある進歩派」を自負する日本共産党でさえ、「大企業」と言う抽象的表現に溺れ、「財閥」と言う言葉を使ったのを一度たりとも見たことがない。それはスイス銀行にうなるような隠し資産を持つ国際3大財閥からにらまれるのが怖いからであろう。彼らの無理矢理一枚板主張を聴いていると、もはやイデオロギーと言うよりは宗教に見える。何事にも様々な角度があるはずで、それゆえひとの意識はさまざまなはずなのに、なぜごくひとつの見解しかいけないと言うのか。

 しかし何と言っても一番の要因は、国民の99.99%が「金銭主義の轍」を踏んでいることの罪障が自己正当化の「根拠」を求めて自民党に票を投じさせていることが一番強い自民党支持の動機になっているように思われる。それは国民ひとりひとりの心理的な「偏った実益主義」とか「だらしなさ(人間的な緩さに起因する不条理への反抗)」とか「いい加減さ」の投影なのかも知れない。いや、もしかしたら、「周囲に波風を立てたくない」と言う理由だけで国民が自分の精神衛生の良さのために多数派である自民党を支持しているのかとさえも思いたくなる。

 自民党政治の本質を一言でと言われれば、それは「既成事実化」の一言に尽きる。折しも「カジノ法案」が成立していて、これはその自民党の「御用聞き(清濁合わせ呑む善悪の見境のない代官所)体質」をとても良く象徴しているように思う。テレビで「水戸黄門」が打ち切りになったのもうなずける。

 要するに、現在の我が国では、「欲望と情」が「理性」を凌駕している。見ていると、この国の国民は「勢い」と「流行」に流されやすい。それが問題の核心に拍車をかけているように見える。「保守」とか「革新」と言うのは、観念に溺れた誰かに都合の良い事態を固定したいと言う政治的思惑のある偶像に過ぎない。

 で目下、「コロナ禍」の影響で、消費は相変わらずなのに収入は大ダメージを受けている。味噌糞一緒くたで迷惑する諸層にはお詫び申し上げたいが、いま経済に求められているのは皮肉にも安倍総理が看板政策にしてきた「デフレ脱却」なのではなくて、「底を打つまでのデフレ誘導」政策であると申し添えたい。

 枝野氏の言う「実を取る」ことに経済政策の重心を置こうと言うのであれば、国民の人気を取る安倍氏の「30兆円規模の追加予算(これも総理の説明を聴くと「事業主」と「納入業者」の関係性を抜きにして「バランスを欠く」と言う理解不能なロジックがどこから出ているのかが分からない)」などと言う方法ではなく、(もし民草がその事実を認識すれば即インフレになるので)関係者以外オフ・リミット(箝口令を敷く)の「日本銀行券30兆円追加発行」をして、最も貧しいひとびとを経由するようにマネーサプライをすれば、自ずと「デフレ誘導」はできるのではと思う。

 社会における「欲望の分布図」が偏った状態でその社会が危機に瀕するとどう言うことになるか、と言うお話であった。同時に、江戸期の百姓社会のように現在の社会が重層的なコミュニティとして確たるものであったなら、有り得ない話なのでもあった。あまり表沙汰にはならないが、実際の自民党の代議士には、「人情」と表裏の「パワハラ病」、「どことつながっているか分からない病」と言う持病もある。今般の「コロナ禍」は、そのような自民党体質に試練を突き付けている、と言えよう。

 社会における「欲望の分布図」が偏った状態でその社会が危機に瀕するとどう言うことになるか、と言うお話であった。同時に、江戸期の百姓社会のように現在の社会が重層的なコミュニティとして確たるものであったなら、有り得ない話なのでもあった。あまり表沙汰にはならないが、実際の自民党の代議士には、「人情」と表裏の「パワハラ病」、「どことつながっているか分からない病」と言う持病もある。今般の「コロナ禍」は、そのような自民党体質に試練を突き付けている、と言えよう。

 ひとつだけ現在の極東情勢について触れておかなければならないことがある。それは現在の極東情勢の骨格を作ったのは寺崎英成と言うひとりの日本人外交官なのであり、少なくともそれにかんしては「押しつけ」と言う認識は誤りだと言うことである。なぜ彼の「外郭防衛線」構想が現在の我が国のありように決定的な影響を与えたのかと言えば、それはひとえに戦後のアメリカの極東軽視の態度に与するところが大きかったことに負っていると言わねばならない。そして、国民の自民党支持は、この「外郭防衛戦」構想に対してだけ集まったと見ることもできる。

 自民党から立候補した多数の政治家に問うてみたい。「それはなんの防衛反応なのですか?」と。

 で、最後に一言。このような世を見るにつけ、人生のデフォルトは絶望と失望と落胆とわきまえるべし、と。この世で「作品」と呼ばれるもの、また行為のすべての本質的機能はひとの心にであれ行為にであれ、さまざまな「ブラックボックス」たるさまざまなひとおよびさまざまな個々の人心に向けての「意図的な動線のコントロール」に過ぎない。ひとびとの人格頼みにでもしていなければ、一対多の関係性で結果が無茶苦茶になることは誰にでも分かる。僕の見るところ人間は一種の化け物なので、特に「ことば」は怖い。もう戦と博打と品評会はでぇ嫌えだ!!

 

普遍言語に必要な2つの要件

 筆者は身の丈がショボいなりに視聴覚同時障害者のための言語はできないだろうかと、自分なりに散策している。

 最近、その要諦が2つに絞れるのではないかと考え始めている。

 ことばを哲学してみると、まず何よりことばそのものの性質が「即性の表現」だと言うことを身に染みて感じる。

 ことばによる世界認識の本質は「有無」のような存在性の主張なのではなく、認識したありのままの何かの「即不即」、すなわち即性の表現であると言うことに気づかざるを得ない。

 で、言葉がややこしくなるのは何かと何かの関係性についても言及しようとするからで、これを一括りにすると「示置性」と言うことになるだろう。

 つまり、障害者言語を考えるときに必要なものと言うのは、「即性」と「示置性」の2項が最有力な候補ではないかと思う次第である。そして、言語の本質とは、「知覚・思いへのことばの該当への構成的処理」なのではないか、と。

 我々にとって「ことばを覚えることの先生」である子どもたちに、そのようなヒントを元にした「ことばづくり遊び」などをしてもらうと、存外我々も子どもたちから障害者言語についてのヒントをもらえるのかも知れない。

 無論それはそのままで良いというわけではなく、障害者の限定的な知覚特性を考慮して改良しなくてはならないであろうが。

カテゴリーと意味にかんする考察

 冒頭から結論を申し上げると、カテゴリーと意味の関係は、従来の説で仮定されてきた「付加関係」にあるのでも、「等式関係」にあるのでもなく、「即不即関係(A by B関係)」にあるのである。

 特に記号論理学(と言うより集合論)ではカテゴリーや意味は「等式関係」から理解すると言う流儀が採られてきたが、現実言語を不要に複雑に理解するためのツールとしては意味があるのかも知れないが、ほとんど現実言語の理解からは浮世離れしている。

 たとえば、「ウサギは白い」と言う命題は、「ウサギ」と「白い」が文字通り等価になるなどとは思ってはいないだろう。「ウサギ」と「白い」は概念クラスがまったく異なっている。多くの言語哲学者たちは、シニフィアンとシニフィエの距離を大きく見積もりすぎている。

 これは、「ことばの体系は即性表現の体系である」と言うテーゼまでを視程に入れてのことであるが、取り敢えず、このお話は、特に発達言語学的に意味があると思うが、ここではこれ以上の指摘はしないこととする。 

尻福王様遊び(古い遊びの復興:いわゆる「尻取り福笑い」)

 最近の子どもたちはPC・スマホゲームに熱中していて、我々のような貧しい時代の子どもの外遊びが極端に減っている。

 そこで、子どもたちがリアルな外遊びを楽しめるような知育型の遊びを考案してみた。

 その遊びの名は、「尻福王様ゲーム」と言い、何をするのかと言うと、子どもたちに尻取りをさせ、自分が思い付いた尻取りのことばの最後の一文字だけを記憶させ、たとえば何順かすれば何音かを記憶することになる。

 そして、そのことばが予め決められたカテゴリーの何らかのことばであればカテゴリー順に予め決めた点数がもらえるようにする(カテゴリーの例:「政治」、「刑事」、「娯楽(エンターテインメント)」、「スポーツ」、「趣味」、「病気」など)。

 こどもは、ただ尻取りをするだけではなく、点数の高いカテゴリーのことばができるようにも意識して尻取りをするようになり、点数の累計に応じて「王様」とか「大臣」とか「部長」とか「課長」とか「平民」に分かれるようにする。

 音順は決められていてもフリーでも良い。音数が少ない方が単語になりやすいので、年齢相応に音数は設定すれば良い。できれば「記録・判定員」がいて、枯れ枝で地面に各参加者の語尾を記しておくと良い(対象児に障害がある場合などはハンデとして記録を教えても良いなど柔軟に対応のこと)。

 ありきたりそうな遊びではあろうけれども、子どもの知育には資する外遊びになると思っている。

 あと、学校でドロップアウトする生徒が出ないように、すべての教科の「変○○(教科名:たとえば“変音楽”)」も導入すべきと考える。チームの団結力を高める「チーム・オセロ」なども良いであろう。

マズロー理論の読み方

 「マズロー理論」、すなわち「生理」・「安全」・「所属と愛」・「承認と尊敬」・「自己実現」のいわゆる「欲求5段階説」は果たして何のために考えられたのであろうか、と言う疑問に筆者長年思いあぐねていた。

 エビデンスがあってそう言ったのではないとか、あまりにも芸術的だとかの批判も耳を傾けるべきところは多かった。

 もしこれが「人間の心理的成長」にかんする理論だと言われれば、やはり僕の中には強い反発がある。

 しかし、最近気づいたのは、この「マズロー理論」は本来のターゲットが健常者だと考えられてきたのが過ちで、マズローの臨床活動から得られた洞察だと言われれば、ある程度腑に落ちる、と言うことだった。

 そうなのだ。この理論は「成長理論」などではなく、「精神疾病の心理的病因論」だと考えれば良いのである。

 生理的欲求が満たされないならば、人間はただの獣になる。

 安全欲求が満たされないならば、反社会的人格になる。

 所属と愛の欲求が満たされないならば、うつその他や人格障害になる。

 承認と尊敬の欲求が満たされなければ、モンスター人格になる。

 自己実現の欲求が満たされないならば、適応障害になる。

 筆者なりのマズローのリーディングは、かくして精神障害論へと様相を変える。